HOME   »  江戸時代   »  田沼時代  »  田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、その8日後に死亡している。
田沼意知は天明3年(1783)に若年寄に抜擢され、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、34歳という若さで命を奪われてしまった。

イサーク・ティチング

Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。
「江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、『田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである』と書き残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E7%9F%A5

オランダ商館長が田沼意次・意知による政策を高く評価していたことがこの一文からもわかるのだが、この人物が、田沼意知の暗殺に関してさらに驚くべきことを書いていることを最近知った。

田沼意次の時代

日本近世史の権威・大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』にイサーク・ティチングの記録が一部紹介されている。大石氏の文章をしばらく引用したい。文中の「佐野善左衛門」は「佐野政言」のことである。

日本風俗図誌

「…佐野善左衛門はまったく自分の私怨からの行為と申し立てているのだが、世間はそうはとらなったようである。たとえばオランダの長崎商館長であるチチングは、その著『日本風俗図誌』のなかで、この事件についてつぎのように書いている。
『この殺人事件に伴ういろいろの事情から推察するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾(しそう)*しているように思われる。』もちろんその高官の1人が、自分が若いとき、懐に剣を忍ばせて田沼意次を刺そうと機会を窺ったことがあるという松平定信である。チチングの記述はさらにつぎのように続いている。
もともとこの暗殺の意図は、田沼主殿頭と息子の山城守(意知)の改革を妨げるために、その父親の方を殺すことにあったとさえいわれる。…しかしながら、父親の方はもう年をとっているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある。のみならず、父親から、たった一人の息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はありえないはずだ、ということである。こういうわけで、息子を殺すことが決定したのである』というのである。」(『田沼意次の時代』p.87)
*使嗾:指図してそそのかすこと。けしかけること。

島津重豪

では、イサーク・ティチングはどのような交流があり、このような情報をどこから得ていたのだろうか。Wikipediaによると
「…日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著『ベンガル航海記』に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

もしティチングが、島津重豪から田沼意次暗殺事件には松平定信らが関わっていることを知らされていたのであるなら、その情報は真実に近いと考えるべきではないか。
なにしろ松平定信は江戸幕府の老中として11代将軍家斉を支えた人物であり、家斉の岳父である島津重豪には幕府の裏情報が耳に入っていてもおかしくない立場であるし、ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後1820年にパリで出版されており、真実を歪める動機は存在しないのだ。

そもそも、松平定信らが田沼意知を暗殺してでもやめさせようとした「改革」とは、どのような内容のものであったのか。次に田沼父子の「改革」について見てみたい。

諸藩が年貢収入のみに財政を依存していたのに対し、江戸幕府は鉱山収入と貿易収入などがあって財政状態は良かったのだが、元禄の末年頃になると次第に厳しくなり、八代将軍吉宗の頃には、旗本の給与が遅配するような状態に陥ったという。
そこで、財政再建策として年貢の増徴と新田開発を積極的に行った(享保の改革)のだが、年貢率の引き上げに農民の不満が高まり、各地で百姓一揆が頻発することとなる。

百姓一揆

九代将軍家重の時代になるとさらに百姓一揆が激しくな
り、寛延3年(1750)の伊予大洲藩、宝暦4年(1754)の越後久留米藩、郡上八幡藩などでは大規模な一揆が起り、いずれも農民側が勝利するに至っている。

以前このブログで郡上八幡の一揆のことを書いたが、この郡上一揆で領主金森頼錦は領地没収、お家断絶となり、ほかにも多くの幕府や藩の役人が処罰され、一揆を行なった農民も14人が死罪となったのだが、この評定に田沼意次が列座していたという。

郡上踊り

有名な「郡上踊り」の10の曲目の中に「ヤッチク」という歌があり、この歌詞を読むと「郡上一揆義民伝」になっている。
今も郡上八幡の人々は毎年郡上踊りで「ヤッチク」を踊りながら、257年も前のこの一揆で犠牲になった人々に今も感謝し、その霊を慰めているのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

郡上一揆の評定を経験した田沼意次は、年貢の増徴のような直接税の引上げではなく、商品の流通に課税して税不足を補おうと考えた。すなわち、同業者組合である株仲間を奨励して商人に専売制などの特権を与えて保護し、運上金*、冥加金**を税として徴収することで税収を増やそうとしたのである。
*運上金:農業以外の各種産業の従事者に対して、一定の税率を定めて課税したもの
**冥加金:営業などの免許の代償として支払う税。初年度は多額で以降は少額となる。


ついで意次は通貨の一元化にも取り組んでいる。
この点については大石慎三郎氏の著書による解説がわかりやすい。
「そもそも江戸時代の通貨制度は、三貨体制といって、金・銀・銭といったおのおの独立した貨幣より成り立っていた。金は両・分・朱の4進法による鋳造定量係数貨幣で、その主成分は金であった。銀は銀の塊そそのものを重量の単位である貫匁ではかられる秤量貨幣で、その主成分は銀であった。銭は貫・文という十進法単位でよばれる鋳造定量の計数貨幣で銅が主成分であった。…
ところでこの三貨のうち金と銀とは、日本経済の基幹活動に利用される高額貨幣であり、…金は江戸を中心とする関東、および東国、中部地方、銀は京・大坂を中心とする畿内、および西国・日本海地域で通用するといった、通用区域にちがいがあった。」(同上書 p.113-114)

高額通貨の通用区域が異なるということは経済圏が異なることを意味し、したがって金・銀の交換比率は時々刻々変動し、それにつれて銭の相場も変動していたことになる。

kahie-page_4_54.png

通貨の一元化のために田沼意次は「明和五匁銀」「南鐐二朱判」という銀を素材としながら通貨金の計算値である「朱」で表示した通貨を作り、南鐐100両に対し、金125両の相場が建てられたのだが、両替商から猛烈な抵抗を受けたという。田沼意次失脚後、松平定信によって新通貨の鋳造は中止されたのだが、田沼のやろうとしたことは時代の要求に沿うものであり、松平定信が解任された後に、鋳造が再開されたのだそうだ。

大石氏はこう述べておられる。
田沼政権は巨大商人資本と結託しているということがよくいわれるが、通貨政策で見るかぎり、巨大商人資本の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる。」(同上書p.120)
また、
宝暦―天明期は、天明の飢饉以降を除けば、江戸時代でもっとも物価の安定した時期をなしている。したがって、この時期は庶民生活も安定した時期ということになるが、ただ一つ気になることがある。それは金銀銭三貨のなかで、庶民大衆の通貨というべき、銭の相場が下がるということである。…
 寛文から元禄にかけて、庶民経済が大きく拡大(したため)…銭の需要がとみに増し、元禄以降は不足気味となり、金一両に錢四貫文という幕府の希望公定相場に対し、銭高が目立つことが多かった。そこで幕府は明和2年(1765)頃から、江戸の亀戸、武蔵の川口、京都の伏見、肥前の長崎など広い範囲で鋳銭を続け…た。また明和の銭の増鋳は、従来のように銅が主材ではなくて、鉄銭であったことも相場を下落させる要因であった。」(同上書 p.120-121)


田沼意次

田沼意次が第9代将軍家重によって1万石の大名に取り立てられたのが宝暦8年(1755)。第10代将軍家治に重用され側用人に出世したのが明和4年(1767)、老中首座の松平武元が死去し、幕閣において政権を握ったのは安永8年(1779)で、重商主義的な政策を採ったのは天明元年(1781)からのことである。
幕政を主導していた時代を「田沼時代」と呼び、「宝暦―天明期」がその時代であると理解されているのだが、銭の相場の低下の問題は江戸幕府の通貨政策だけで議論することは公平ではない。水戸藩が農民を扶助する名目で、明和5年(1768)以降、大量の「太田鋳銭」(鉄銭)を製造したことも考慮に入れる必要があるだろう。水戸藩の農民が、銭安の原因がこの通貨にあると判断して鋳銭工場を焼き払った事件があったそうだが、その後も水戸藩は鋳造を続けたという。幕府はこの「太田鋳銭」が錢の通貨安に繋がっていると判断し、明和9年(1772)に鋳銭禁止令を出しているのだが、そもそも幕府が通貨供給量を統制できずして、銭通貨の価値を維持することは困難であろう。

大石氏は続けて、こう記しておられる。
「安永3年(1774)、田沼意次は老中と側用人を兼ねるが、この年幕府は錢相場下落による庶民の難儀を救うため、幕府が行なっていた鋳銭を中止するとともに、真鍮錢の鋳造量を半減するなど、銭安相場を直すために、あれこれ努力するが成功せず、銭の異常安のもと庶民の怨嗟の声につつまれて田沼政権は崩壊している。しかしその後に出てくる松平定信時代にも一時若干改善されるが、それも再度おそってくる銭安相場のなかで退陣している。錢安相場は江戸時代後半期の宿痾(しゅくあ)であった。」(同上書 p.121-122)

また、印旛沼・手賀沼を開拓したことは教科書にも記されていたのだが、田沼はその開拓資金を江戸幕府からではなく、殖産興業として町人資本の出資によって実施したことも画期的なことだと思う。

前回の記事にも書いたのだが、明和7年(1770)には幕府の備蓄金が171万7529両となって5代将軍綱吉以来の最高値となるまでに江戸幕府の財政は改善したのであるが、彼は年貢を増やすことはしなかった。

天明の大飢饉

田沼意次にとって運が悪かったのは、明和9年(1772)の明和の大火で江戸の中心部が焼けて多額の出費を余儀なくされ、さらに天明3年(1783)に浅間山の大噴火したのち凶作が続き、天明の大飢饉(1782-1788)と呼ばれる食糧難の時代が続いたことを考慮に入れる必要がある。田沼意次が失脚したのは飢饉の最中である天明4年(1784)なのだが、相次ぐ大災害にかこつけて妄言を撒き散らす政敵に足元をすくわれたと考えている。

大石氏の著書に田沼意次の遺書が紹介されている。その最後の部分を紹介したい。

「借金がたとえば千両できたとすると、その金利はたいてい10%は必要だから、翌年は知行地が100両分減ったことになる。もし借金が大きければその割合に減る分はふえるものであるが、たとえ領地高が半分になってもその理が弁えず、大借金になって建て直す方法がなくなるものである。このことをよく心得て常々心を用い、いささかの奢りもなく、無益の支出ははぶき倹約を怠らぬように。もしやむを得ない儀で少しでもやりくりが悪くなったら、そのことを深く心にとめてとりしきり、役人たちにも厳重に申し付け、余裕金が相応にできるよう、少しの油断もなく心掛けること。
もっともそうかといって、領地の百姓に年貢など無体に強く申し付け、それで財政の不足を補おうなどと筋違いのことは決してしてはならない。すべて百姓町人に無慈悲なことをするのは、御家の害、これにすぎるものはないのだから、いくえにも正道をもってすべてのことに臨むべきである。」(同上書p.248-249)

法人減税を進めながら大衆課税を強化し、本来やるべき歳出カットの努力をしないどこかの国の政治家や官僚に、是非読んで戴きたいような文章である。
田沼意次は「賄賂政治家」と描かれることが多いのだが、調べていくと極めて全うな考えを持った政治家であり、真の悪人は、息子の意知を暗殺したうえ、嘘のプロパガンダで意次を政界から葬り去った松平定信の一派の方ではなかったか。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】
田沼意次が生きていた時代に、郡上八幡の大規模な農民一揆や、天明の大飢饉がありました。
昨年の夏に郡上八幡を訪ねてきましたが、落ち着いた美しい街並みが良かったです。郡上踊りの「ヤッチク」の歌詞は是非読んで頂きたいと思います。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-117.html




関連記事
Comment
ブログ、いつも読ませて頂いています。田沼意次に関して賄賂政治云々というイメージも政敵によって作られていたんですね。明智光秀、吉良上野介、蘇我入鹿、今の日本、みんなそうですが、自己の正当化のために敗者を悪人であったというプロパガンダにつくづくうんざりさせられます。
Re: タイトルなし
としさん、いつも読んで頂きありがとうございます。

出典は良く分かりませんが、松平定信のWikipediaの解説では
「田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされた。白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。
一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である。」と書かれています。

いつの時代も勝者が編纂して、歴史を都合良く書き換えるものと考えて、「通史」を読む必要があるのでしょうね。「勝者にとって都合の良い歴史」を読み返すだけでは、真実は見えてこない様な気がします。
こんばんは~
自分も松平の背後には一ツ橋がいたと思う。
将軍の後ろ盾を得ていた田沼を失脚させるには、他の老中や大奥とかに政治工作しなきゃならない。
老中になる前の松平単独では、そこまで影響力はないんじゃないかな^^

郡上一揆と田沼の所縁は知らなかった^^;
でもって銭は銅だと思ってた~~鉄だったんだ^^;

田沼は今で言うところの重商主義みたいな感じ。
最終的には開国して貿易立国を目指してたんじゃないかと。
賄賂とか悪徳商人とかよりも、寧ろ健全な商業活動を育てようとしてた感じ。
実際、日本の経済活動は凄い高度。
利潤追求だけでなく、社会貢献や公益性に対する感覚も育ってた。
明治後に米国に留学(遊学?)した人が、米国の株取引の単純さに笑ったらしい(誰の逸話かド忘れ)

北海道開拓?だか防衛だったかの為に探検隊を派遣してるのも田沼時代。
田沼時代に北海道は一時幕府御預かりだったような・・・
吉宗公時代に蘭書を学ぶのが解禁(聖書とかはダメの限定付)になったのもあって蘭方医学も発達した。

田沼息子暗殺パパ失脚で、ぜ~んぶパア!
もったいない~~~が正直な感想なんです。
だから政治家としての松平定知は好きじゃない。
でも飢饉のときに白河藩から餓死者を出してないとか努力してるし、
彼なりのポリシーみたいなのはあったらしい事までは、否定しないですけどね^^

さら~とした曖昧知識ですいません^^;
一時期、田沼親子に興味あって、ウィキペディアとか漫画とかで読んだだけなんです^^

やっぱり、ちゃんと調べてる方の記事は違いますね^^
拍手・村クリック
Re: タイトルなし
時乃★栞 さん、コメントありがとうございます。

良く歴史を勉強しておられる方のコメントは違いますね。多くの方は常識的な「賄賂政治家」のイメージのままでおられるのですが、専門外の分野とは言え、自分なりに調べてそのような観点からこの時代を見ておられるのが凄いです。

確かに蝦夷地開拓を行なったのも田沼時代ですね。財政を立て直しながら、国家として必要な施策もしっかりやっています。

「明治後に米国に留学(遊学?)した人が、米国の株取引の単純さに笑った」という話は興味深いですね。江戸時代の商取引の仕組みはよく出来ていると感心したことがありますが、海外よりも先進的であったのかもしれませんね。

私もWikipediaには結構お世話になっています。
漫画はほとんど読まないので、どんな作品があるのか知りませんが、最近では良く調べて書く人がいるのですね。
気候変動も
 何時も関心を持って読んでおります。
今回の本文の趣旨とは離れますが。
ご存知の様に、正平年間(1350)から寛政年間(1800) は小氷河期に当たり、享保天明天保の飢餓は此の寒冷期に起こっています。此の時期に起こった一揆も幕府各藩の圧制によると一律に解釈せずに、気候変動の観点からの考察も必要と思われます。
日本経済新聞 2008年11月7日 朝刊の文化欄
「アイヌ蜂起遠因は厳寒」
北海道開拓記念館学芸員 添田雄二氏研究文
 又、郡上市では戊辰戦争での凌霜隊に関す本、
凌霜隊戦記「心苦雑記」と郡上の明治維新
高橋教雄著 八幡町教育委員会発行
を出す等、明治政府に無視された郷土志士の歴史を発掘しているのも、郡上踊りの中に郷土の義士を忘れずに伝えている心を持っているからでしょう。
Re: 気候変動も
一色正人さん、コメントありがとうございます。
通説ではなんでも江戸時代に圧政があったことにしたがるようですが、「気候変動の観点からの考察も必要」との見解は私も同意見です。

しかし一色さんは相当勉強しておられますね。私は郡上八幡には行きましたが、地元でそんな本が出ていることは知りませんでした。
凌霜隊は小藩であった郡上藩が生き残るために取った苦渋の選択でした。300名の藩士を薩長を主力とする新政府軍に服属させながら、もう一方では45名の藩士を「無届脱藩」という形ながら旧幕府側への応援部隊として出兵させるという両面作戦をとり、凌霜隊は白虎隊などとともに戦って敗れ、郡上の国元に戻ると今度は罪人扱いされてしまいます。この凌霜隊の人々に対する藩の非人道的な扱いに憤り、彼らを救ったのが慈恩寺等の領内の僧侶たちだったそうです。郡上八幡の人々は、地域のために犠牲になった人々に対して暖かいですね。
田沼政権と経済
こんにちは、
 日本史にはあまり詳しくない小生ですが、今回のお話は興味深かった。銅銭の他に鉄銭もあったとは。金銀貨と銭の間の交換率が銭の放漫な鋳造体制で、銭が常に弱かったとか、江戸時代の経済が、これほどわかっているというのは素晴らしいですね。
 日本史関係では、経済史も相当研究が進んでいるのですね。すばらしい。
 
Re: 田沼政権と経済
室長様、いつも読んで頂きありがとうございます。とても励みになります。

大石氏の著作を読んで初めて知ったことが多かったのですが、江戸時代の経済については実証的な研究が結構進んでいるようです。

室長様のブログは良く調べておられていますね。時事問題についてあれだけの文章を残しておられるのは凄いことです。
歴史をテーマに記事を書くのとは違う苦労がありそうですね。
島津重豪
うわぁ、日本の機密情報を外国へ流していたなんて、ものすごくやばいですね。幕末の薩摩藩も将軍家も、次々と得体の知れない女が側室として送り込まれ、いろんな疑獄事件が起きている。
維新の後に外国ありというけれど、その前哨戦はもう始まっていたのですね。
Re: 島津重豪
一読者さん、コメントありがとうございます。

イサーク・ティチングだけでなく、江戸時代に長崎出島のオランダ商館にいた外国人は、わが国の重要情報を母国に持ち帰っています。わが国はこの時代から、相当情報管理に甘い国ですね。

シーボルトに関して4本の記事を書いていますので、良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html
シーボルトに関するリンク読ませていただきました。ありがとうございます。

「ベンガル航海記」はどうにも見つけることができませんでしたが、ティチングの本は手に入りそうです。

シーボルトはう~む、どうでしょうね。出島のオランダ商館へ来る人間は基本的に東インド会社の人間ですからね。だから彼らは国籍はさまざまなのですよね。

まあ彼らが情報収集していたのは当然と思いますが、ただ日本側で、藩主までが情報を流す張本人だったのは意外でした。クワバラクワバラ!
Re: タイトルなし
早速読んで頂きありがとうございます。

日本側も外国の知識が欲しかったわけで、そのためにわが国の情報と交換取引をしたということなのでしょうね。結果としてわが国は植民地化を免れることが出来たわけですから、全面否定するほどのことはありません。
しかし、昨今のわが国は官僚も政治家もマスコミも、危険な発言が多くて心配です。
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル