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軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。

東南海地震震度

内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。
「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/

三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、近畿から中部までの広範囲で震度5を記録したのだが、Wikipediaに都道府県別の被害が纏められている。
それによると死亡・行方不明者は全国で1223名で、愛知県438名、三重県406名、静岡県295名の3県で全体の93%を越えている。また、住居の全壊は静岡県が6970軒、愛知県が6411軒、三重県が3776軒で、この3県が全体の95%を越えている。

これだけ大きな被害が出たというのだが、この大地震に関してはあまり記録が残されていないようなのだ。その理由についてWikipediaにはこう解説されている。

「当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。また翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。地震についての情報は、(1面ではない)紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも『被害は大したことはない』『すぐに復旧できる』といった主旨のこと、つまり実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容が書かれたにとどまる。
また、被害を受けた各地の住民は、被害について話さないように、とする戦時統制に基づく通達が行政側からまわった。例えば学徒動員され、半田市の中島飛行機の工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を『決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい』などと、教師から指示されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87


ここで、この時期に日本軍はどのような戦況にあったかを簡単に振り返っておこう。
昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てと出撃潜水艦の多くを失う壊滅的敗北を喫し、西太平洋の制海権と制空権を喪失。7月にはサイパン島で3万人が玉砕し、11月24日以降米軍は、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から新型爆撃機B-29で、日本本土への戦略爆撃を開始している。
ネットで東京が米軍に空襲された日を調べると、11月24日、27日、29日、30日、12月3日、6日と、随分高い頻度で繰り返し攻撃されているのだが、そんな最中に「昭和東南海地震」が発生しているのである。

昭和の動乱

この地震に関する記録はあまり多くないことを先ほど記したが、当時の小磯内閣で外務大臣を務めた重光葵(まもる)が、著書『昭和の動乱』に少しだけこの地震のことを記している。

重光葵

「…かくして、日本は国を挙げて日々焦土と化して行った。この惨状に直面しながら、食糧品を探し求める人々の声は悲痛であった。それにも拘らず、当時軍の主張した玉砕説は、当然のことのように考えられて、天皇の命ずるところとあらば、火の中にも飛び込む気持ちは、全国民にあった。
 空襲は、初期においては、名古屋一帯の工業地域に集中せられたため、同地域における軍需生産は多大の損害を受けたが、恰(あた)かもその際に起こったこの地方の大地震による損害は、空襲によるものよりも遥かに大で、豊橋地区は全滅し、ある種の精密工業は、恢復不可能の程度に破壊されるに至った。連日の空襲に加うるに、大地震の天災は、日本人にとってはまことに不吉のものであった。
 空襲と地震とによって、我が軍需工業は再び立つ能わざる致命的損害を受けた。にも拘わらず、軍需大臣以下の政府機関は勿論、工業経営者も労働者も、戦場における勇士の如くに、その職場に踏みとどまって災厄と闘った。飛行機工場の地下移転も考案され、幾分実現されたが、これは既に遅過ぎた。
 血と汗の奮闘で製作した飛行機及び船舶を初め多くの軍需品が、工場より送り出されたが、その少なからざる部分は、戦場に到着する前に海中に沈むか、また空襲により破壊された。」(中公文庫『昭和の動乱 下』p.270-271)
と名古屋一帯の工業地域が、「地震」で大損害を受けたと記されている。「津波」という言葉が用いられていないのだが、「軍需品が…海中に沈む」という言葉で伝えようとしたのだろう。

総務省のホームページに名古屋市における空爆の状況が纏められているが、名古屋市が本格的に空襲されたのは地震の後のことである。
「東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。
 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_06.html

そのような軍需工場に対する爆撃だけでなく、住宅地にも焼夷弾が投下されて多くの被害が出た記録は残されているのだが、重光葵は空襲による被害よりも地震による被害の方がはるかに大きかったと書いていることに注目すべきだろう。

ではこの地震による被害は具体的にどのようなものであったのか。
山下文雄氏の著書『津波てんでんこ』にやや詳しく書かれているので紹介したい。

津波てんでんこ

「この地震のため5万7千戸以上の住宅が全半壊、流失し、1200余の人々が死亡行方不明になっていたのである。…それどころか、日本航空産業の心臓部であった東海地方、特に愛知県で、飛行機工場の密集する名古屋の南部が大被害を受け、海軍の主力戦闘機、いわゆるゼロ戦を製作している三菱航空の道徳工場や、海軍の攻撃機などを制作していた半田市の中島飛行機山方工場などが倒壊し、動員されていた少年、少女たちが多数圧死する大惨事にもなっていた
 もっとも、これらの工場被害は、地震のためとはいえ、多分に人災の要素をもっていた。右の中島飛行機山方工場など、もともと明治時代に、軟弱な埋め立て地に建設した鋸形の紡績工場を接収し、飛行機工場にてんようしたものであった。しかも飛行機を製作するためには一定の広さを必要することから、転用に当たって、無謀にも中にあった柱を取り除いたりしていた。山方工場の当時の関係者から直接聞いた話によると、鋸で挽いて柱を切り取ったのだという。むろん、建物の耐震性に厳しい地震学者などには一切タッチさせなかった。こんな建物が震度6~7の地震に耐えられるはずがない。あっという間に倒壊して、右の山方工場だけでも97人の中学生や女学生(勤労学徒)を含む150人が圧死したのであった。」(『津波てんでんこ』p.110-111)

東南海大地震新聞報道

ところがわが国は、地震でこんなに大きな被害が出たことを国民に伝えようとはしなかったのである。山下氏は同じ著書でこう書いている。

「その12月8日。当日は米英に宣戦布告した『開戦記念日』、当時の言葉で言うと『大詔奉戴日』、つまりは宣戦布告についての天皇の詔勅が下った日とあって、新聞各紙は一面トップに天皇の大きな写真を掲載、それを飾るように特攻隊の出陣式の模様や、レイテ島に於ける斬込隊の武勇談などを満載していた。その裏の、ほんの片隅にあった『きのふの地震』(毎日新聞)、『昨日の地震―震源は遠州灘』(東京朝日新聞)などという小さな記事に、果たしてどれだけの読者が気付き、関心を持ったろう?いずれにしろ、これが戦時報道管制下でわずかに許された、前日12月7日に起こった東海大地震に関する記事であった。」

静岡新聞がこの地震に関する特集を2002年に連載していて、誰でもその記事をネットで読むことが出来る。地震被害の大きかった静岡県に本社を置く新聞ですら、僅か数行の記事しか書かれていないのは驚きだ。

「『昨日縣下に強震』『罹災者救助、復舊に萬全期す』。見出しも新聞の段数で縦二段、と目立たない扱い。県内の被害状況は短くまとめられている。
 それによると、『縣下一体にわたり道路の亀裂、堤防の崩壊等あつたが人的並びに家屋の損害は清水市以西に多く、発震と同時に数カ所に火災を発生した。いずれも即時消火し火災の被害は極めて軽微であつた。西遠地方の国民学校中には被害を生んだ処もあり学童も多少負傷した』となっている。」
http://www.at-s.com/news/article/others/36.html

しかしながら、この新聞記事が嘘であることは、当時の地元の読者は分かっていたはずだ。なにしろ静岡県では295名の死亡・行方不明者があり、6,970軒の住居が全壊したのだが、肝腎の津波のことを一言も報じていないのである。

情報統制はこの日以降も続き、山下氏の著書によると、地震被害の実態を新聞記者に伝えた人物が憲兵隊に連行されて拷問された話や、工場の休憩時間中に地震の怖さを話した女工が「敵に有利にデマを飛ばしたということになり」憲兵の取締りを受けたことなどが記されている。

東南海大地震調査概報

では、報道機関への情報の発信元となる中央気象台(現気象庁)はどのような記録を残しているのだろうか。
昭和20年2月20日発行の「東南海大地震調査概報」の表紙には「厳重注意」の但し書きがあり、肩には『極秘』の文字がある上、本文にもこう書かれていた。
『本報告ハ極秘事項ヲ含ムヲ以テ之ヲ厳重ニ保管シ其ノ保管状態ニ変動ヲ生ジタル場合ハ遅滞ナク発行者ニ報告シ用済後不用トナリタル場合ハ直チニ発行者ニ返却スベキモノトス』
http://www.at-s.com/news/article/others/38.html

尾鷲市津波の後

こんな具合に、軍はこの地震被害の情報を隠蔽しようとしたのだが、肝腎のアメリカでは日本の中部で関東大震災よりも強大な地震があり、津波が発生して軍需工場に壊滅的打撃を与えたことがニューヨーマタイムズ紙などでトップ記事で報じられたという。どうやらこの地震による津波がハワイやアメリカの太平洋岸に達して、これらの解析で震源地や地震の大きさを掴んでいたようなのである。
またアメリカは地震の3日目に偵察機を飛ばして、高度1万メートルから被害状況を調査していたようだ。その時に撮影した写真が米国公文書館に残されている。

三重県尾鷲市

上の画像は米軍偵察機が12月10日に撮影した三重県尾鷲の写真だが、○印の部分に津波で陸に打ち上げられた船が写っていることがわかる。記録によると尾鷲の津波の高さは5m~10mにも及び、そのために平地の家屋はほとんど全滅したのだそうだ。

ところで、この地震についてネットでいろいろ調べていくと、地震がアメリカによって人工的に起こされたのではないかという議論があることを知った。
その論拠としている資料はいくつかあるが、たとえば2005年4月に米国で公開された『地震を使った対日心理戦争計画』と題する米軍機密文書(1945年、CIAの前身である米戦略事務局OSSによって作成)で、それによれば第二次大戦末期の1944年にカリフォルニア大学のバイヤリー教授を中心とする地震学者たちが総動員され、 「日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるかシュミレーションを繰り返した」と書かれている。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247223

この地震がわが国にとって戦意を高揚させるべき「開戦記念日」の前日に起こったことや、アメリカが直ちに偵察飛行機を飛ばして被害を調査していることや、地震の数日後にB29から撒かれたビラに「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」と毛筆で書かれていたとする情報も確かに気になるし、1945年1月9日の読売東京の朝刊には「日本本土沿岸の軍海域に天文学的数量の炸薬を設置して一挙にこれを爆発させることによって人工地震をおこさせよう」とする研究が行われていることが報じられているのも気になるところである。

人工地震記事

その1月9日付読売東京の記事にはこう書かれている。
「ランネーの計算によれば、大阪沿岸の海底約4千平方呎(フィート)に仕掛けて相当の地震を発生させるには五億トンの爆薬が必要であり、多数の潜水艦がこの爆薬を約六百万トン鋼鉄の筒に入れて、爆雷と同様三千呎の海底に沈下させなければならぬという。
しかもこんな苦労をして地震を起こしたとしても果たしてどの程度の地震が起こるか測定することは不可のだという結論が出てご破算、さすがのヤンキーもフームと唸っているという。」
アメリカに人工地震という構想があったことは確かだとしても、当時は原爆も完成しておらず、津波を起こすのに5億トンもの爆薬が必要であったというのである。ちなみに広島の原爆はTNT火薬に換算して20キロトンで、2万トンのTNT爆薬を一瞬に爆破した時の破壊力であったというが、その2万5千倍の火薬が必要だという計算になる。

それほどの量の火薬がアメリカにあったかどうかはともかくとして、潜水艦にそんな大量の爆薬を積み込んで海底深く沈める作業にアメリカが膨大な日数と労力をかけるとはとても思えないし、しかも津波実験が成功するかどうかもわからない。普通に考えれば、大量の火薬をそんな使い方で費やすよりも、空襲で用いることのほうがはるかに自然ではないか。
「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」というビラが撒かれたことが真実であったとしても、それはアメリカが仕掛けた「情報戦」とも呼ぶべきもので、自然災害をわが国民に対する恫喝の格好の手段として利用したのではないかと考えるのが妥当だと思う。

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【ご参考】このブログで地震についていろんな記事を書いてきました。
地震の被害は、観光地などでは死活問題となるため、多くの情報が握り潰されています。

よかったら関東大震災の事例を読んでみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html



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Comment
こんばんは。しばやんさまの記事でこの地震の事を拝見できとてもありがたく存じます。名古屋出身なので。
母は名古屋市東区の第三高等女学校在学時にこの地震と空襲に遭っております。
地震発生時には、勤労動員で半田の辺りの三菱航空機の工場におり、たまたま昼休みで外にいて、皆で、あれ?揺れてる揺れてる、っと体を揺らして過ごし、振り返ったら建物が潰れて何もなくなっていたと。
その後の事は語りたがらず、あの地震は戦時中だったから、今の人は知らないけどとにかく怖かった、とだけは繰り返して申しておりました。
北区と東区にまたがる大曽根に三菱航空機の工場があり、翌年の一月にやはり勤労動員で行っていた同女学校の生徒が42名爆死しております。
この時は逃げるのに必死で、男性の先生の顔を見て初めて泣いたそうです。
母の実家にはまだ防空壕が残っていて、そこへ避難させた琴を、縁が腐っていても大切にしておりました。
母の年代では、さらに伊勢湾台風も体験しています。
遺品の中に地震の時や空襲の時の日記がありますが、「戦争なんか早く終わればいいのに」と書いて、先生に「そんなことを言ってはいけません」と赤字でたしなめられています。
同級生の体験談の文集などもありますが、母の事を思い出すのでまだ開いておりません。
明治には濃尾地震もあったので、名古屋市は昔の面影を残す地域がとても限られています。
長々と思い出話をしてごめんなさい。でも、母の事を思い出す事ができて、今夜はとてもいい夜になりました。
ありがとうございました。
Re: タイトルなし
つねまるさん、こんばんは。お母さんは名古屋の出身だったのですね。

お母さんはたまたま外にいたので九死に一生を得たのでしょうが、多くの仲間を地震で一瞬に失った心の傷は簡単には癒えるものではなかったと思います。お母さんの青春時代は、地震や空襲や台風やらで暗いことが続いて、過去のことを語りたがらなかったことは分かります。戦争を経験していない戦後に生まれた世代は、戦争を経験した世代よりもはるかに恵まれていることを知らないといけませんね。

私の父母も戦争のことをあまり話したがらず、私も学校やマスコミでわが国が「侵略戦争」をしたように教わって、あまり歴史に興味を持たないまま過ごしてきましたが、40代の後半になった頃から、真実の歴史はそんな単純なものではないことが少しずつ分かってきた次第です。
これからも、教科書やマスコミで流布された歴史とは違う視点で、できるだけ当時の記録などを紐解いて、ネタと気力が続くかぎり、自分なりに真実を追い続けていこうと思っています。

これからもがんばりますので、時々覗いてみてください。




赤いオーケストラ荒木
はじめまして いつも面白い話題を提供ありがとうございます。
今の視点で「当時の政府・軍部は残酷だったんだ」と
左派的視点で見るかもしれませんが、当時の「戦勝状況」の中で、地震の際に「敵国の攻撃を喰らったら」という想定がやはりあって、救助というものがし難かった
というのが現状だったのではなかったか、
あと極秘的に「旧日本軍」も救助等したのではと思いたい、ただ戦争は流動的で、いつ何がおきるかわからない
という中で、軍部や一般人を救うという観念はなかったかもしれない、あと「軍部が共産主義に傾倒」していたというならば、人を救うというのではなく、「国家を変える」という肝炎に「傾倒し過ぎたということも考えられる、いずれにせよ、当時の社会状況や軍の構想はどうだったのかを知りたいと思う。
これからもよろしくお願いします。
Re: 赤いオーケストラ荒木
コメントありがとうございます。

軍による復旧支援は記録が残されているようです。たとえば次のURLのp.53に、現刈谷市小垣江町の事例がでています。
その町では、「豊橋部隊」が来援し、小垣江及びその周辺集落の復旧活動にあたったことが記されていますし、静岡県でも軍が応援したことがp.64に書かれています。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/pdf/6_chap2.pdf

軍の中枢は、航空機工場などが地震や津波で大被害を受けたことを米軍に知らせないために情報統制はしましたが、現場に対する支援をしなかったわけではないようです。


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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