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妙満寺、圓光寺、金福寺の秋を楽しんで

圓通寺の借景を楽しんだのち、近くの妙満寺(みょうまんじ:075-791-7171)を訪ねる。

妙満寺 門

この寺を創建した日汁大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もとは玄妙(げんみょう)という天台宗の僧であったが、故郷の会津で日蓮上人の教えに触れて、康暦2年(1380) 67歳の時に日蓮宗に改宗し名を改め、都に上って康応元年(1389)に六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙満寺を建立し根本道場としたという。
その後何度か寺が焼失し移転を繰り返したが、天正11年(1583)豊臣秀吉による天正町割の再編で寺町二条に移転したという。

妙満寺 都名所図会

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会 巻之一』に、寺町二条にあった頃の妙満寺の絵図が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_039.html

幕末京都地図

また、『”超検索”幕末京都絵図』というサイトで幕末の京都の地図を確認することが出来る。これによると、妙満寺は本能寺の北隣にあり、本能寺の寺領は現在よりもはるかに大きかったようである。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

本能寺

しかしこの場所は近年都市化が進んで環境が悪化してきたために、昭和43年(1968)にこの岩倉の地に移転し今日に至っているのだが、この決断は正解であったのかもしれない。上の画像は、以前訪問した本能寺の本堂だが、周囲はビルに囲まれており、河原町通りを走る車の騒音を逃れることは困難である。

妙満寺の紅葉

妙満寺は決して紅葉で有名な寺ではないので観光客はわずかしかいなかったが、紅葉もそれなりに楽しめた。あと10年もすればもっと枝ぶりが良くなっていることだろう。

妙満寺 雪の庭

本坊の庭園は、昭和43年に子院の成就院の庭を移したもので、もとの庭は江戸時代の俳諧師・松永貞徳(まつながていとく)が造園した「雪の庭」だという。
この庭は、時の成就院住職が俳句の門人であった縁から、師の松永貞徳が造営したのだそうだが、貞徳は造園についても著名な人物であったようで、清水寺成就院の「月の庭」、北野あたりにあったという「花の庭」とこの「雪の庭」が、松永貞徳の造園による成就院「雪月花三名園」と並び称されていたのだそうだ。
この庭も比叡山を借景の中に取りいれているのだが、山容の大部分が近くの樹木に隠れてしまって、圓通寺の様に美しい比叡山を部屋の中から見ることは叶わなかった。

妙満寺の次に一乗寺小谷町にある圓光寺(075-781-8025)に向かう。
まだ行ったことのない寺なので旅程に入れたのだが、この近くには圓光寺のほか、詩仙堂、狸谷(たぬきだに)不動院、曼殊院など紅葉で有名な寺が近くにいくつもあるので、駐車できるかどうかが心配だった。たまたま詩仙堂近くの駐車場から出ていく車があったので、入れ違いに車を預けることが出来たのはラッキーだった。

圓光寺

『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行された『拾遺都名所図会』の巻之二にこの寺の図会が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_416.html

慶長6年(1601)徳川家康は、下野(しもつけ)足利学校第9代学頭の三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としたという。圓光寺学校は僧俗を問わず入学が許され、多数の書物が刊行されたそうだが、当時出版に用いられた活字(伏見版木活字)が5万個も残されていて、国の重要文化財に指定されている。
その後圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)にこの地に移転したのだそうだ。

圓光寺伝来の木活字

宝物殿瑞雲閣に入ると、その活字の現物の一部が展示されていた。パンフレットによると慶長4年(1599)に家康公に贈られた、日本最古の木活字だという。

圓光寺 円山応挙

ほかにも圓光寺の寺宝が展示されているが、円山応挙の紙本墨画『雨竹風竹図』(国重文)は必見である。墨と筆だけでどうしてこんなに見事な絵が描けるのかと感心してしまう。

圓光寺庭園

宝物殿瑞雲閣の座敷に進むと、縁側から十牛(じゅうぎゅう)の庭の紅葉を楽しむ観光客が大勢おられた。庭を散策される観光客も多いので、部屋の中から額縁のような紅葉を写すことをあきらめるしかなく、庭を歩いて散策する方針に変更したのだが、今年の紅葉は赤くなり切れずに散る葉もあれば、色づきが遅れている葉もかなりある。
圓光寺庭園2

書院の縁側にも観光客が多くて、こんな写真しか撮れなかった。もちろん、画像の下には多くの観光客の頭があって、庭を散策する人が途切れた瞬間にシャッターを切ったものである。

圓光寺 東照宮墓

再び庭を散策し、紅葉と竹林の中に山手に延びる遊歩道を進んで、鐘堂を過ぎて石段を登ると、この寺を開基した徳川家康の墓がある。この中に徳川家康の歯が埋葬されているのだそうだ。

圓光寺 裏山からの眺望

この墓の近辺からは洛北の眺望を楽しむことができるほか、上からの「十牛之庭」が一望できる。

圓光寺の墓地には舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか女の墓がある。
村山たか女は文化6年(1809)に近江国犬上郡多賀町で多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮(いいなおあき)の侍女となったが、その後彦根を離れ京にのぼって芸者となっている。そして子供を産むのだが、私生児だったために自らが引き取って彦根に戻り、その後彦根城下で井伊直弼(いいなおすけ)と出会って情交を結び、また数年後にその直弼を通じて出会った長野主膳(ながのしゅぜん)とも深い関係になったとされている。
京都市東山区にある井伊美術館には、天保13年 (1842) 頃に井伊直弼がたか女に宛てた恋文が残されているそうだ。たか女が直弼の子を身籠り出産した説もあるようだが、詳しいことはわからない。

安政5年(1858)に井伊直弼が江戸幕府の大老に就任し、一方、たか女は京都で幕府の隠密(スパイ)となって、薩摩・長州・水戸藩の浪人や公家などの攘夷論者達の動向を探り、その情報を長野主膳を通じて幕府に伝えることで安政の大獄に加担したのだそうだ。そのことが、攘夷派の恨みを買うこととなる。

村山たか

安政7年(1860)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、文久2年(1862)8月には長野主膳も彦根藩により斬首され、その後たか女にも追求の手が伸びて、11月に彼女と息子の多田帯刀は、土佐と長州の尊王攘夷派に捕えられてしまう。
息子は惨殺されて首を晒されたが、たか女は真冬の三条河原に3日3晩晒されたのち殺害は免れたという。

助けられたたか女は剃髪して妙寿尼と号し、その後は圓光寺に近い金福寺という寺で井伊直弼、長野主膳および息子の菩提を弔う日々を過ごして、明治9年(1876)に68歳で亡くなっている。

圓光寺にあるたか女の墓に手を合わせてから、すぐ近くにある金福寺に向かう。歩いて5分もすれば辿りつくことが出来る。

金福寺 芭蕉庵

金福寺は貞観6年(864)に創建された古い寺だが、元禄のころに圓光寺の鉄舟によって再興され、その後圓光寺の末寺となったようだ。
鉄舟は松尾芭蕉と親しかったことから、芭蕉がこの寺の草庵を何度か訪れて互いに風流を語り合ったとされ、周辺の住民によってその草庵を「芭蕉庵」と呼ばれるようになったのだが、建物が相当傷んでいたのに心を痛めた与謝野蕪村とその一門が安永5年(1776)この庵を再興したという。上の画像の茅葺屋根の建物が「芭蕉庵」である。

この庵が落成した日にこの寺で蕪村が詠んだ句が
「耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻く 芭蕉庵」なのだそうだ。
案内板に、この句の簡単な解説があった。
「耳目肺腸は司馬温公の『独楽園記』の中の成語で、この句には芭蕉の俳諧精神復興を目指す蕪村の強い決意が込められている。
 彼は晩年当寺に於いて『写経社』という俳句結社をむすび、4月と9月に一門の句会を催した。」

金福寺

金福寺と芭蕉庵は『拾遺都名所図会』の巻之二にも描かれている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_411.html

この絵の上部には、松尾芭蕉がこの寺で詠んだ句が紹介されている。
「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥  芭蕉」

『拾遺都名所図会』には、金福寺について随分長い解説が記されているので読んでみると、この寺にある芭蕉碑の碑文の全文と、与謝野蕪村が『写経社集』の序文でこの寺のことを記している部分が文章のほとんどを占めている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_411.html
江戸時代は芭蕉や蕪村の俳句が人口に膾炙していて、この金福寺は江戸時代においても俳諧の聖地のような場所であったと理解すればよいのだろうか。

与謝野蕪村は「芭蕉庵」を再興させただけでなく、この寺で句会を開いて、ここで多くの作品を残している。パンフレットにはこの寺で詠まれた4つの句が紹介されていた。
「畑打つや 動かぬ雲も なくなりぬ」
「夏山や 通ひなれにし 若狭人」
「三度(みたび)啼きて 聞こえずなりぬ 鹿の声」
「冬近し 時雨の雲も ここよりぞ」

金福寺 与謝野蕪村の墓

芭蕉庵から続く山道を少し行くと、与謝野蕪村や彼の弟子たちの墓がある。多くの墓が今も掃き清められ、生花が活けられていることはすごい事だと思う。

再び芭蕉庵に戻り、最後に本堂に向かう。
与謝蕪村は絵画でもすぐれた作品を残していて、『夜色楼台図』や『十便十宜図』が国宝に指定されているほか、多くの作品が重要文化財指定を受けている。
本堂には蕪村の『江山清遊の図』、『奥の細道画巻(複製)』や、村山たか女の遺品などが展示されていた。

金福寺 村山たか密書

上の画像は村山たか女が長野主膳宛に書いた密書なのだそうだ。内容はよくわからないが、あまりに流麗な筆致に驚いてしまった。井伊直弼や長野主膳から重んじられたのは彼女の美貌もあったのだろうが、教養の高さがあったからこそ思想をともにすることができたのだと思う。
愛する人を失い、我が子を失ったたか女はこの寺で14年を過ごしたのだが、この小さな寺が、すべてを失った彼女が余生を過ごすには相応しい場所であったのかも知れない。

一乗寺にある古刹は曼殊院、圓光寺、詩仙堂を巡る観光客が大半で、金福寺を訪れる人は紅葉時期でも決して多くない。その他の季節ではもっと少ないことと思われる。

金福寺

学生時代に1度だけこの寺を訪れたことがあるのだが、昔の頃と変わらない景観を残して頂いていることは嬉しかった。そのことは、観光客からすればあたりまえのことのように思われるかもしれないが、それは決して簡単なことではないのである。

文化的・歴史的価値があることがわかっているからこそ、そのままの姿で後世に残すために不便な生活を余儀なくされることも少なからずあるだろうし、建物の改修が必要になれば昔ながらの用材を用いた割高な修復を行ない、文化財を守るためのセキュリティ費用や、毎年の植木代なども欠かせない。観光客が少なくても、観光客の為に毎日清掃し、拝観の窓口の為に毎日人を置く必要があるし、文化財や建物を守り、現状を維持するためのコストは結構高くつくものなのだ。

観光客が毎日大勢集まる有名な寺社は、これから先、経済的に行き詰る可能性は少ないと思うのだが、観光客の少ない寺社の中には収入が乏しいために、文化的・歴史的価値を未来に残せないところが少なからず出てくるのではないか。
我々の先祖が何世代にもわたり大切なものとして守って来た文化財や景観を、その価値を減じることなく将来世代に引き継ぐことは、現在を生きる世代の責務であると私は考えるのだが、そのためには、貴重なものを残しながらもあまり有名でないお寺や神社を、訪れる観光客がもっと増えて欲しいところである。
私のできることは、そんな寺社を訪ねてレポートするぐらいのことなのだが、これからもいろんな場所を巡りながら、このブログで時々紹介していきたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-259.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-258.html

松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-356.html

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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