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豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、
「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康をしりぞけようと兵をおこしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。」(『もういちど読む 山川日本史』p.150)と簡単に記されているのだが、秀吉の死から関ヶ原までの2年数か月のことをもう少し詳しく記している本を探してみた。

近世日本国民史家康時代 上巻

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、徳富蘇峰の『近世日本国民史家康時代 上巻』が公開されている。蘇峰は秀吉を取り巻く諸将の関係について、こう解説している。
秀吉自らが、織田氏の諸将の不統一を利用したのみでなく、その統一を攪乱せしめて、更にこれを利用した。家康はただ秀吉の故智を襲いたるまでだ。…
如何なる場合にも、党派は発生するものだ。殊に秀吉の天下は、にわかに製造したものであったから、なおさら党派が生じやすかった。しかも秀吉の生存中は、如何なる党派も、秀吉という一大看板、一大勢力のもとに掩(おお)われていたが、一たび秀吉去れば、あたかも雪融けて、群草萌え生じる如く、あらゆる徒党が発生した。…
徳川党とか、前田党とか、その個人的勢力を基本とする以外に、秀吉の治下には概して文吏党と武将党とがあった。文吏党といえば、五奉行を中心とする党派だ。武将党といえば、非五奉行を旗幟とする党派だ。しかし誤解するなかれ、文吏党と言うたとて、必ずしも文弱党ではなく、武将党と言うたとて、必ずしも武愚党ではない。双方にも文武の名将は少なからずいた。而して文吏党は、淀殿に近く、武将党は、北政所に近く、その結果は更にまた、正室党と側室党とを生ずるに至った。
秀吉は萬機を親(みずか)らした。五奉行は、その秘書官が、然らざれば秘書官の毛の生えたものに過ぎなかった。しかも天下の政務は、五奉行をとおして行われた。殆んどすべての利権はここに集まった。利権の集まる所は権力の集まるところだ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/37

五奉行とは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指し、浅野、石田、増田の3名が一般政務の処理に当たり、長束が財務、前田が御所・朝廷・公家・寺社といった特別部門を担当していたとされる。

五奉行中にて、最も秀吉に近きは、言うまでもなく浅野長政だ。彼は秀吉と尾州以来の関係で、しかも北政所と義理上の兄妹だ。彼が如何に他人の企て及ぶべからざる特殊の位置を占めつつあったかは、以て知るべしだ。しかるに、五奉行中少なくとも石田は、彼の下風に立つを、いさぎよしとしなかった。而して増田は概して石田と提携し、互いに比周して、以て浅野に対抗した。ここに於いて五奉行中に、浅野派と石田派との両派が自然に対立した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/39

前田利家

では武将党はどうであったか。
武将党の首領は…前田利家であった。彼は、秀吉夫婦は、微賎時代からの友人であれば、彼は北政所と良好の関係であったことは勿論のことだ。しかのみならず、利家は石田、増田等に対して、頗(すこぶ)る不快を感じていた。…
武将派と文吏派との確執は、朝鮮役において、いな朝鮮役のために、一層の刺戟を与え来たった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/42

一方徳川家康は諸将間の対立のなかで、当初は中立の立場を取り、特定の党派に加担することなく、またいずれかの党派からも輿に担がれることを許さなかったという。

豊臣秀次

そして文禄2年(1593)に豊臣秀吉に秀頼が誕生し、その2年後の文禄4年(1595)に、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで粛清される事件が起こっている。
秀次に謀反の意志があると報告したのは、奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以らであったとされるが、その時秀次は謀反の意志がない旨の誓紙を提出している。しかし秀吉はそれでは納得せず、秀次は高野山に送られて切腹を命じられ側近と共に自害させられたのだが、後に秀次の眷属までもが斬首されたという。
この事件の原因については諸説があるが、秀吉が秀頼を後継者とするために、秀次の一族を粛清しようとしたとする説が一番すっきり理解できる。
石田三成らはこの事件の後に加増されたのだが、一方で多くの敵を作ることとなり、そのような大名達をのちに徳川家康が取りこんでいくことになるのだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm

この秀次事件の後の政治危機を克服するために、秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ろうとした。
その内容は大名間の無届婚姻・誓紙の交換停止などであったが、この連署を行なった六人の有力大名(徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が、豊臣政権における「大老」であると、後世みなされることになる。

そして慶長3年(1598)の5月頃から秀吉は病に伏せるようになり、5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。また、7月4日に伏見城に諸大名を呼び寄せて、徳川家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼し、そして8月18日に秀吉はその生涯を終えている

石田三成

石田三成ら文吏党にとって秀吉の死がどのような意味を持っていたかについて、徳富蘇峰の解説を引用しておく。
「…文吏党から見れば、秀吉の生存中こそ、秀吉という巨頭を戴き、ローラーを転ずる如く、一切の障碍を排除して進むを得たが、秀吉を喪った以後は、これを個人的に打算しても、これを総体的に打算しても、家康、利家の力に敵すべくもあらぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/46

太閤の遺命により朝鮮に出兵した軍隊が引き揚げを終えるまで、喪を極秘にすることになっていたという。

「…慶長3年8月18日に於ける、秀吉の死は、一時家康等に対してさえも、喪を秘した。而してその表向きの発表は、在朝鮮の諸将の帰朝後で、慶長4年2月29日に、初めて正式の葬儀を行なった。しかもそれは表向きのことで、秀吉の遺命を受けたる執政者は、何れも左の通りなる、誓詞の連判をした。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/48

秘密であったはずの秀吉の死を誰が家康に知らせたかというと、意外なことに、石田三成が家臣の八十島道與に秀吉の死を密告させたようだ。三成は、重要情報をいちはやく家康に知らせることで恩を売ろうとしたと理解するしかないだろう。

秀吉は五大老と五奉行の合議制で幼い秀頼を支えることを望んでいたのだが、それぞれが「誓紙」の連判を押したところで、「誓った」相手である秀吉はもうすでにこの世にはいない
そもそも家康は、秀吉の遺命に従って秀頼の後見役に収まるような人物ではなかった。
秀吉の死後、家康は掟を破って秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めている
徳富蘇峰はこう記している。
「彼は秀吉の御法度を無視して、恣(ほしいまま)に伊達政宗の女(むすめ)を、その第6子忠輝に娶り、姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養いて、蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束した。
『諸大名縁組の儀、御意を以て、相定むべきこと』とは文禄4年8月2日付、家康、利家等の名にて、天下に発布せられた秀吉の法度である。而して秀吉百歳の後も、之を遵守すべきは、慶長3年8月5日の家康等の誓紙によりて、保障せられたものである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

当然の事ながらこのような家康の動きを警戒して慶長4年(1559)1月19日に家康を詰問している。
その際の家康の対応が興味深い。
「…家康は、已(すで)に媒酌人よりその旨を届け出で、公許を得たものであろうと速了したと答えた。ここに於いて奉行等は、徳川・伊達結婚の仲介者、今井宗薫を召して糺問したが、自分は町人で、武家の法度などは存ぜぬと申し訳した。政宗は、宗薫の才覚にて、予は関知せずと言うた。福島正則は『我等儀太閤御爪の端にて候う間、内府公*と縁辺取組、万端御意を得候はば、以来秀頼公御為にも然るべき儀と存じ、かくの如くに候なり。』と答えた。[関原記]蜂須賀は、家康より仰せ掛けられたから、それに応じたまでの事と答えた。かくの如く三将分疏、ついにその要領を得なかった。」
*内府公:家康のこと
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

徳川家康

家康を五大老から除名すべきだとする議論が他の大老や奉行等から起るのだが、それに対し家康は謝罪するどころかこう逆襲したという。
「…予が婚約を告げずして結んだのは、手落ちであったにせよ、これを以て予に逆心ありとするは、誰を証人としての弾劾か。またこれを理由として、予を十人衆―即ち五大老・五奉行―より除くべしとは、これ秀頼公を補佐せしめんとの、太閤の遺命に背反するではないかと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/56

このような家康の動きに対して前田利家は家康との一戦を覚悟し、双方兵を集めたのだが、調停が入って最悪の事態は回避できたものの、この時すでに池田輝政、福島正則、黒田如水、黒田長政、藤堂高虎等、豊臣系の大名の多くが家康側に集まったという。

しばらくして前田利家は病に伏すこととなり、家康が利家を見舞うために大坂を訪れ、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊したという。三成はこのタイミングで家康を襲撃する計画を立てていたが、家康の元には三成らと対立する武将が集まっており、夜襲を思いとどまったという。
http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2014/12/17309-3d22.html
慶長4年(1599)閏3月3日に前田利家は63歳でこの世を去ると、今度は福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が石田三成襲撃を企て、大坂で決起した。
三成はこの企てを察知して大坂を脱出し、家康のいる伏見城に身を投じている。
家康は七将を宥め、10日には三成を居城の佐和山へ謹慎を申し渡している。

伏見城

利家と三成がいなくなれば、伏見も大坂もいよいよ徳川家康の一人舞台となる。
「而して石田ありてこそ奉行であったが、石田去って後の奉行等は、まことに腑甲斐(ふがい)なきものであった。彼らは唯だ家康のために駆使鞭撻せらるる吏僚に過ぎなかった
権現様、向島へ御移りなされ候うてから、ご威光弥増し、毛利、島津、景勝、佐竹、その他縁引きにて申込、毎日大名衆、御礼に参られ候う。[酒井河内守日記]
向島移転、かくの如し。いわんや伏見城に入りたる後においてをや。世人が家康を称して、天下殿と言うたのも、決して偶然ではない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/75

その後上杉景勝、前田利家を引き継いだ前田利長、毛利輝元らが帰国して五大老制は崩れ、名実ともに家康の独断専行に移行していく。
北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、西の丸を自分の居所として居座り、今度は五奉行の実力者であった大野治長と浅野長政を謀反の疑いで排除するなどやりたい放題だ。

家康は、大老の筆頭として豊臣政権の政務を執行するのだが、その権限を用いて政敵を追い落とし、屈服させては恩を売るなどして、将来の覇権確立に向けて着々と準備を進めていったのである。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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