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石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。

徳川家康
徳川家康

「彼(家康)が予期した証拠は、6月17日伏見城に於いて鳥居元忠と語り、いざとなれば貯蔵の金銀塊を弾丸に使用せよと言ったのでわかる。6月18日大津城にて京極高次と、事変勃発に際して、密かに約するところあったのでわかる。6月20日伊勢白子にて松平康重が、三成謀反の企てありと告げたるに際し、予はつとに之を知っていると答えたのでわかる。6月23日堀尾吉晴を浜松から越前国府に帰らしめ、上方の形勢を監視せよと命じたのでわかる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/157

徳川家康が、ゆっくりと東海道を進み、会津に向かうのにも随分時間をかけたのは、京都と大阪の守りを手薄にしておけば、石田三成ら反徳川勢が何時挙兵してもおかしくないと考えていたことを知れば納得できる。

石田三成
石田三成

そして家康が予想した通りに、石田三成が動き出した。三成は大谷吉継を味方に引き込んだのち、7月17日に毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布し、7月18日には西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守っていた伏見城に、毛利輝元の名で開城を勧告している。元忠は開城を拒否したために19日から伏見城の戦いが始まったのだが、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に包囲されながらも元忠はわずか1800の兵で奮戦し、8月1日に討死して伏見城は落城している。

鳥居元忠
【鳥居元忠】

その後、三成は家康に味方する細川幽斎の居城・田辺城を制圧するため丹波国に1万5千の兵を差し向け、伊勢国平定に3万の軍勢を送り込み、三成自身は美濃方面を抑えるため8月10日に大垣城に入り、さらに岐阜城の織田秀信を西軍に引き入れることに成功している。

このような三成らの動きは、1週間遅れではあるが着々と家康のもとに伝えられ、会津征伐は急遽中止されることとなる。家康は7月25日に会津征伐に従軍した諸大名を招集し、今後の方針について軍議 (小山評定)の結果、三成迎撃で評定が決定すると諸大名は、7月26日以降福島正則の居城である尾張清洲城を目指したのである。
ところが家康は清州には向かわず8月6日に江戸に戻ってしまい、8月中は江戸に留まったのである。これはなぜだったのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は諸客将の態度については、当初より多少の懸念をした。その証拠には、彼が福島正則を途中より呼び返しその心底を確かめたことにてわかる [慶長年中卜斎記] 。あるいは一説には、黒田長政を呼び返し、彼に向かって正則の心底を質し、長政の保障にて、やや安心したりとある[黒田家記]。いずれにしても家康の心配は一通りのことではなかったことがわかる。
 それもそのはずだ。石田が張本人とは言えど、向こう方では秀頼公の名を以てし、内府(家康)の誓詞蹂躙を理由としている。而してさらに啗(くら)わしむるに、大封をもってしている。もし開戦の名義を論ぜば、西軍が言正名順(げんせいめいじゅん)である。東軍はただ主将と仰ぐ家康が有力者という以外、而して西軍の石田が、諸客将の怨府であるという以外、何らの理由はないのだ。家康が自重したのも、決して偶然ではあるまい。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/200

福島正則
福島正則

会津攻めに集まった武将の中には、福島正則、黒田長政、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、寺沢広高ほか、かつて秀吉に仕えた者が少なからずいたのだが、家康にとってみれば、家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状が交付された状況下で、彼らが徳川の為に働いてくれるという確信が持てなかったと考えるしかないだろう。
そこで家康は、使者として家臣の村越茂助を清州城に送り込んだのだが、豊臣系の諸将は憤激して「内府(家康)は何故出陣しないのか」と詰め寄ってきたという。
そこで茂助が何と言ったかについて、家康の侍医であった板坂卜斎の記録にこう書かれている。
「茂助申し候(そうろう)は、(家康公の)御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島(正則)扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/198

意訳すると、茂助は、「家康様が出陣されないのは、各々方が未だに出陣なされないからであり、各々方が敵と戦い、家康様の味方であることを明らかにされれば、出陣なさるでしょう」と述べたのだが、福島正則らが即座にその言葉に納得して美濃への進撃を確約したという。

家康は、1か月間も江戸に留まっていた間に、諸将宛に毎日何通もの書状を書いていた。Wikipediaにその間に出した100通を超えるその書状のリストがあるが、自ら豊臣系武将の繋ぎ止めや西軍への調略による切り崩しを図っていたことが見えてくる。豊臣系諸将に出陣を促すために清州城に村瀬茂助を送り込んだときに、福島正則が即座に村瀬の言葉に反応して進撃を確約したのも、家康が正則宛に出した多数の書状が効いていたのではないだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

池田輝政
池田輝政

8月22日に東軍の池田輝政軍と福島正則軍は木曽川を渡り、織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城を攻撃し、翌23日にこれを落城させ、続いて犬山城も落としている。その知らせを聞いた徳川家康は9月1日に、ようやく3万2千の兵を率いて江戸を出発し、東海道を西に向かいだしたという。

地図

一方の石田三成はどういう戦略で臨んでいたのか。『近世日本国民史家康時代. 上巻』に8月6日付で三成が真田昌幸宛に出した書状が引用されている。
「…上方勢壱萬ばかり語らい上り候(そうろう)とも、尾三(尾張・三河)の間にて、討ち取るべき儀、誠に天の与えに候。しかれば、会津、佐竹、貴殿は、関東へ袴著て乱入あるべくと存じ候。…[古今消息集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/194

石田三成は尾張と三河国境付近で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と東軍を挟撃する目算であったようなのだが、そのためには早急に美濃・伊勢を平定し尾張に達していなければならなかった。もしそのプラン通りに尾張を先に押さえていれば、清州城には30万石の備蓄米が有事の為に用意されていた。この清州城を最前線の要としていれば、西軍は有利な戦いが出来たと考えられる。

美濃・三河の城

しかしながら、西軍は圧倒的に戦力で優っていたにもかかわらず伏見城を落すのに10日以上かかり、それに続く伊勢攻略においても安濃津城は落城させたが、長島城で強力な抵抗に遭い、伊勢攻略半ばで東軍の襲来に合わせて美濃へ向かわざるを得なくなった。
背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、軍勢を徳川軍に対してではなく山形方面の最上義光領へと向けていたし、佐竹義宣は重臣たちの猛反対により少数の兵を織田秀忠軍に派遣したにとどまった。
先ほどの家康の書状リストを見ると、最上義光宛には家康は今井宗薫らを使者として10通、佐竹義宣の弟・蘆名盛重にも本多正信が使者となって1通の手紙を送っており、上杉軍、佐竹軍を関東に向かわせない工作をしていたことは確実だ。

上杉軍、佐竹軍から背後を狙われて挟撃される危険が去り、東軍は先に清州城に入城しその拠点とし、さらに木曽川を越えて岐阜城、犬山城をわずか1日で落してさらに西に進んでいる。

緒戦で防御の要となる拠点を失った西軍は、8月11日に入城していた大垣城にからさらに防衛ラインを下げて美濃の関ケ原付近とし、各地に散っていた武将たちに関ヶ原への集結を呼びかけることとなるのだが、そもそも石田三成が描いていた戦略はどのようなものであり、勝機はあったのだろうか。

真実の日本戦史

鞍掛五郎氏は長期戦になれば西軍が有利であったと述べておられる。
「…関東・東北方面に目を転じてみたい。西軍の中心は上杉景勝。さらには佐竹義宣、岩城貞隆、多賀谷重経、相馬義胤、蘆名義広、秋田実季、小野寺義道ら20万石を越える勢力となっている。
これに対する東軍の備えはというと、伊達政宗、最上義光、南部利直、戸沢政盛、六郷正乗らで百万石ほど、宇都宮を拠点に、結城秀康、蒲生秀行、里見義康、小笠原秀政らと、家康家臣で50万石ほど、その他、小大名多数が、備えとして残された。
長期戦となり、佐竹家が積極的に動き出した場合は、東北・関東での主導権は西軍に握られるものと推測でき、戦いが長期化すればするほど、西軍に有利となる。
総合的に考えて、毛利家を引っ張り出したことで徳川を凌駕する兵力を揃え、なおかつ朝廷と秀頼を手にしていることで政治的有利な立場にある西軍は、不敗の状態にあった。あとはどこかのタイミングで講和を結び、家康を政治的に無力化すればそれで終わりである
。」(宝島SUGOI文庫:家村和幸監修『真実の「日本戦史」』p.150-151)

石田三成は太閤検地においては検地尺を定めるなど大きな実績を残し、豊臣秀吉もその行政能力を高く評価した人物だった。家康との戦いに於いては西軍の勝機は充分にあり、確実に勝利できるだけの戦略をしっかり練っていたのだが、彼の思惑通りには味方の武将が動かなかった。
徳川家康は、西軍の武将にも内応を呼びかける多数の書状を送り届けて西軍の切り崩しをはかったのだが、その効果は小さなものではなかったのである。

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