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関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。

この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用したい。

石田三成像 龍潭寺
石田三成像 龍潭寺】

「『一 (毛利)輝元御出馬これなき事、拙子体は尤もと存じ候。家康上られざるには入らざるかと存じ候へども、下々は、この儀も不審にて申す事に候事。』
三成は9月12日まで、未だ家康の出馬を知らなかったであろうか。さりとは余りに敵情偵察が遅鈍であると言わねばならぬ。しかし三成の言葉は、輝元の出馬せざるを回護するが如くして、その真意は、輝元の出馬せざるについて、少なからざる不満を漏らすにあった。三成の所謂『下々の申す事』は、西軍中の世論とも言うべき意味合いである。彼は下々の申す事に託して、自己の思惑を陳べたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226

復習をかねて少し補足すると、慶長5年(1600)の6月に、謀反の噂があった上杉景勝を征伐するために徳川家康は大坂城を発ち、7月21日に江戸から会津に向かっていた。
家康が予想していた通り石田三成が挙兵を決意し、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させるとともに前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布したのち、西軍は兵を東に進めて8月1日に宇喜多秀家らが伏見城を落城させている。

石田三成挙兵の情報は約1週間で家康に伝わり、東軍の軍議の結果石田三成を迎撃することが決定して上杉征伐が中止されるに至る。

石田三成の計算では、その東軍の西進を送らせるために上杉景勝が東軍の背後を襲撃する手はずだったのだが、そうさせないために家康は出羽国山形の最上義光を動かして上杉と戦わせ、東軍が上杉景勝から背後を狙われることがないように手を打っていた。
そして東軍は西に向かって先に清州城に入城してその拠点とし、一方家康は江戸に戻って東軍への指示や西軍への調略による切り崩しを図っていた
のだった。
一方西軍の大将である毛利輝元は、大坂城中で増田長盛に東軍との内通の噂が立った*ために大坂に留まることとなり、関ヶ原には毛利秀元と吉川広家を出陣させている。
*毛利輝元が大坂にとどまったのは淀殿に出馬を拒否されたとの説もある。

石田三成の増田長盛宛書状の引用部分は、「家康が西に向かうことが出来ないので、西軍の大将である毛利輝元が来なくても(バランス上は)問題ない」と三成が認識していたことを示唆しているのだが、とすると石田三成は未だに家康は上杉景勝から背後を攻められて戦っており、到底関ヶ原には間に合わないと踏んでいたのか、家康が東京から西に向かっているという事実を知らなかったのかのいずれかということであれば、蘇峰の指摘する通り西軍は「余りに敵情偵察が遅鈍である」と言わざるを得ないのだが、別の解釈もありうるだろう。
もしかすると三成が、東軍と内通しているとの噂があった長盛に対して、わざと嘘を書いたのかも知れないのだ。増田長盛が家康と繋がっていたことはどうやら真実のようで、Wikipediaには家康に三成の挙兵を内通し、三成への資金援助要請も渋って対東軍への保身工作も講じていたことが記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B

三成が上記の書状を書いた2日後の9月14日に、家康が美濃の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)にある安楽寺に設営された本陣に到着し、赤坂が随分賑やかとなった。

日本外史

江戸時代後期に成立した頼山陽の『日本外史』ではこう記されている。
「西軍の偵騎、走って大垣に報じて曰く『赤坂に白旗多し。内府(家康)来たるに非ざるを得んや』と。秀家・三成ら、陽に大言して曰く、『彼方に上杉・佐竹を憂へ、䠖跙(しそ)として進まず。焉(いずく)んぞ遽(にわ)かにここに来るを得んや。』」(岩波文庫『日本外史(下)』p.358)

頼山陽
【頼山陽】

このように著者の頼山陽は、西軍の諸将は、「(上杉や佐竹を警戒して)家康がこんなに早くここに来れるはずがない」と考えていたことを記している。

ところが、しばらくして西軍の斥候から家康が到着したことは確実との情報が届いて、もともと烏合の衆である西軍に動揺が走ったことは言うまでもない。事態を憂慮した石田三成の家老・島左近は戦勝による士気の回復をはかるため、東軍に奇襲攻撃をかけることを三成に進言したという。

徳富蘇峰は同上書で『関東軍記大成』という書物を引用している。その書物にはこう記されているという。
島左近この時石田に向かって、味方の兵士かように騒ぎ立ちては、合戦の勝敗測り難し。某(それがし)人数を出して敵をひっかけ、一手二手切り崩さんに、手間は入るべからず。敵内府(家康)を後ろ盾にして、足長に働き申さんは、必定なりと言いけるに。(宇喜多)秀家、(石田)三成両人ともに、左近が計(はかりごと)を許容あるによって、左近此の時稲葉兵衛、伊東頼母らを下知して、柵外に兵を進めけるに。蒲生備中も、左近に次ぎて、馳せ赴く。秀家の家人明石掃部、長船吉兵衛らは、西口より笠縫堤へかかりて、兵士を進め、木戸村、一色村に伏兵を残し、其の余隊は、三成が先鋒と一手になりて、馳せかかれり」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/230

杭瀬川の戦い
【「関ケ原合戦図屏風」】

杭瀬(くいせ)川は大垣城と美濃赤坂の中間部に流れる川であり、当時は周辺に森林が生い茂っていて、島左近は森林の中に伏兵を忍ばせ、残る部隊で対岸を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発すると小競り合いが始まる。間もなく有馬豊氏隊も加わって乱戦となり、島左近はある程度戦った後、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣出すことに成功する。そこで島左近が忍ばせていた伏兵が中村・有馬両隊を襲撃し、さらに宇喜多隊の明石掃部が参戦して東軍の40人ほどを討ち取ったという。(杭瀬川の戦い)

杭瀬川の戦い地図
藤井治左衛門 著『関原戦史』p.105
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020199/61

かくして関ヶ原の戦いの前哨戦では西軍が大勝したのだが、この小さな戦いが行なわれた場所については、この川の川筋がその後変化しているために特定されておらず、古戦場を示す立札などはどこにもないのだそうだ。

この戦いの翌日に関ヶ原の本戦が行なわれたのだが、なぜ西軍が野戦で東軍と戦うことになったのかが昔からの疑問だった。少なくとも大垣城で東軍を迎え撃てば、西軍が簡単に負けることはなかったはずなのである。

大垣城
【大垣城】

三成は8月10日に西軍の拠点である大垣城に入った。しかし関ケ原本戦の前日の9月14日に大垣城を出て関ヶ原に向かっている。その理由は、家康が美濃赤坂を出て大垣城に向かうのではなく、さらに西へ向かう動きを見せたからだという。

この点については徳富蘇峰の解説がわかりやすい。
「…彼らは家康が到着をしたのを見、而して万障を排して前進するを聴き、いずれとも其の対策を定むべき一時となった。
佐和山城は、石田の本拠だ。大垣城を守りて、佐和山城を失うは、石田としてはあたかも手を保たんがために、首を失うの類だ。石田その人としては、是非とも途中に於いて、家康の西上軍を食い止めねばならぬ。石田既に然り、その他の宇喜多、小西の諸将が、この議を賛したのも、決して不思議はない。蓋し家康は、その行動を秘密にせず、むしろ西軍をして、これを知らしむべく努めたようだ。そはこの野戦において、西軍の首脳に大打撃を加え、彼らをして一敗地に塗(まみ)れしむるは、東軍として、最も得策であるからだ。即ち家康としては、西軍が城を出づれば、尤も妙、しからざればこれに頓着なく前進すべく、いわば両途(ふたみち)かけたのだ。
この際に於いて、西軍には籠城説がなかったが、夜襲説はあった。そは島津義弘が、その姪・島津豊久を使いとして、三成に勧めたのだ。今は赤坂の敵営を偵察せしめたるに、敵兵は疲労のあまり、甲冑を枕として眠る者がある。もしこの際家康の本営を斫(き)らば、必ず奇功を奏するであろう。もし之を可とせば、吾請う先鋒たらんと。しかも三成は既に関ヶ原退却の議を決していたから、その議に賛成するを躊躇した。その側らにあった島左近は曰く、夜襲は寡兵が多兵を相手とする際のことだ。我が軍は多く、敵は少ない。よろしく正々堂々の大野戦にて、勝ちを期すべしと。豊久は、不快満腹にて辞し去った。[落穂集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/234

かくして西軍は9月14日の午後7時に大垣城を出て関ヶ原に向かった。東軍に気付かれないよう、松明を点さずに雨の中を進軍したという。途中長束正家、安国寺恵瓊に翌日の戦略を告げ、烽火を合図に東軍の背後を衝くことを指示した後、大谷吉継とも協議したと記録されている。

果たして西軍が夜襲をかけて勝機があったかどうかはわからない。西軍の動きは東軍の斥候によって逐次家康に報告されていた。家康は西軍が大垣城を出たことの報告を受け、即座に関ヶ原への進軍を命じている。

徳川家康

頼山陽の『日本外史』に、その報告を受けた時の家康の反応が描かれている。
「…内大臣哂(わら)って曰く、『敵、我が術中に堕つ』と。乃ち令を軍中に下し、諸将を部署す。…」(同上書p.362)

家康は城で戦うよりも、野戦で戦うことを強く欲していたようだ。そうするために東軍は佐和山に向かう動きを見せて、西軍をうまく大垣城から関ヶ原に誘き出すことに成功したのである。

かくして両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、いよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明暦3年1月18日(1657)から1月20日にかけての「明暦の大火」で、江戸市街の約6割が焼失した。この大火の火元は本妙寺とされているのだが、本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。この大火は江戸幕府はどう関わっていたのか。

「『明暦の大火』の火元の謎を追う」
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また慶応2(1866)年1月24日未明、伏見奉行所の役人に坂本竜馬が襲撃された事件(「寺田屋事件」)が起っている。
伏見には、今も「寺田屋」という宿が存在するのだが…。

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分
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楽しみに拝見しています。
  ありがとう。
Re: タイトルなし
goenさん、コメントありがとうございます。
いろんな方に読んでいただいていることが、とても励みになっています。
これからも時々覗いてみてください。
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