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関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか

関ヶ原を東西に東山道*が貫通し、中央より西北に向かって北国街道、南東に向かって伊勢街道があり、関ヶ原の東には東山道と伊勢街道に挟まれて南宮山があり、東山道の南に松尾山が聳え、また北国街道の北には伊吹山から続く相川山があり、その山の麓に笹尾山と称する小山がある。
*東山道:江戸時代に五街道が整備されて、東山道は、中山道、奥州街道などに再編された


西軍の主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったのは9月14日午後7時以降のことで、石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の順に、東軍に気付かれぬよう馬舌を縛り、松明を使わずに、大雨の中を南宮山を南に迂回して進んだという。
石田三成の隊が関ヶ原に着いたのは15日の午前1時頃、島津義弘の隊は午前4時頃で、その後に小西隊、宇喜多隊が到着し、関ヶ原駅の西に陣を構えている。

関ヶ原陣形と街道

すでに松尾山には小早川秀秋が、南宮山には毛利秀元、長曾我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊がいたのだが彼らは、従来の位置を改めることはなかったという。

一方、東軍は14日に敵の夜襲があることを警戒し、篝火を焼き巡邏を厳しくし、斥候を遠くに派遣して不測の事態に備えていたようだ。そして14日の夜半に、敵兵は概ね大垣城を出ているとの情報を掴み、午前3時より東軍諸隊は中山道より行進を開始し関ヶ原に向かっている

東軍の先鋒の福島正則、黒田長政が関ヶ原に到着したのは15日の早朝であったが、この日は近くも良く見えないほど霧が深かったようだ。

しばらく徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』を引用する。

東軍の先鋒諸隊は、黎明に漸く関ヶ原に達した。されど夜来の秋雨は未だ晴れず、加うるに山間の濃霧は晦冥(かいめい)にして、呎尺(しせき)も弁じ難くある。福島隊の先頭は、宇喜多隊の後尾と、駅中の衢路(くろ)にて相(あい)混乱し、敵か、味方か彼我ともに驚くばかりであった。福島の兵は、宇喜多兵の小荷駄を擾乱して、斥候3名を出し、前面に赴かしめた。宇喜多隊もまた、斥候2名を発して来たらしめ、端(はし)なく斥候の衝突が起った。
かくて東軍は、既に西軍の前路を扼(やく)するを知り、其の行軍を中止して、いよいよその陣地に就いた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/242

家康の侍医であった板坂卜斎が著した『慶長年中卜斎記』には、この日の天候についてこう記されている。
十五日小雨降。山間なれば霧深くして五十間*先は見えず。霧上がれば百間も百五十間先も、わずかに見ゆるかと思へば、その儘霧下りて、敵の旗少し計り見ゆることもあるかと思えば、その儘みえず。…」
*間(けん):間=6尺=1.818m。五十間は90.9m

メッケル

このような悪天候のなかで、東西両陣営が陣取った布陣について、Wikipediaにはこう記されている。
「東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼(かくよく)の陣を敷くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えた。 明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

関ヶ原の両軍の陣形に関してはこのメッケル少佐の逸話がよく出て来るのだが、この話は司馬遼太郎が『日本史探訪』の中でそう語ったことが広まったものであるらしい。
しかしながら、司馬の語るこの話の出典は不明で、メッケルが本当にそのように発言したということが確認されていないのだそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20130301/1362124787

陣形

鶴翼の陣」とは、自軍の軍隊を左右に長く広げた隊形に配置する陣形だが、前進してくる敵軍を包囲して攻撃を加えるのに適していると解説されることが多い。
もしメッケル少佐が西軍有利と発言したのが真実なら、西軍が「鶴翼の陣」の陣形で待ち構えていたことからそう判断したのだろうが、実際には家康による東軍の切り崩し工作によりこの陣形の南側の翼は全く機能しなかったばかりか、最後に西軍を裏切ったのである。

では、関ヶ原の戦いの本戦はどのように推移したのであろうか。

9月15日の午前8時ごろ、濃霧の中で東軍の井伊直政隊と西軍の宇喜多秀家隊との偶発的な遭遇戦が起こる。それから東西両軍の戦いが一気に本格化したようだ。

徳富蘇峰の前掲書を再び引用する。
「福島隊は…銃卒八百人を指揮して、中山道の左に進み、宇喜多隊を射撃した。秀家は前隊本隊を五段に展開して、これを防いだ。
 この時、朝霧なお未だ晴れなかった。自余の東軍は、福島隊の銃声を聞くや否や、藤堂、京極の二隊は進んで大谷の隊を攻撃し、寺澤廣高もまたこれに向うた。織田有楽、およびその子長孝、古田重勝、猪子一時、佐久間安政、同勝之兄弟、船越景直らは小西の隊を衝き、田中、細川、加藤、金森父子、および黒田、竹中の隊は石田の陣地を目がけて進撃した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/244

石田三成隊は木柵、鉄砲、大筒などを用いて必死に東軍部隊を抑えていたが、黒田長政隊の狙撃兵が石田隊先陣の島左近を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、石田隊は大砲の発射で黒田・細川隊に応戦したという。
大谷吉継隊には藤堂高虎隊、京極高知隊が襲いかかるも、大谷隊は3倍近い兵力の藤堂隊・京極隊を何度も押し返し、また小西行長隊には織田長益隊、古田重勝隊が攻撃した


関ヶ原の戦い

この激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』でこう記している。

敵身方押し分けて、鉄砲放ち、矢さけびの声、天をひびかし、地をうごかし、黒烟(けむり)立ちて、日中(にっちゅう)もくらやみと成り。敵も身方も入り合い、こを傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う。切先より火焔をふらし。日本国二つに分けて、ここを詮度と生便敷(きびしく)戦い、数ヶ度の働き此の節也。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/246

Wikipediaによると開戦直後に激突した主な武将は次の通りである。わかりやすいように兵の数をカッコ書きしておく。
東軍・福島正則(6,000)対西軍・宇喜多秀家(17,220)
東軍・藤堂高虎(2,500)・京極高知(3,000)対西軍・大谷吉継(600)
東軍・織田長益(450)・古田重勝(1,200)対西軍・小西行長(4,000)
東軍・松平(3,000)、井伊(3,600)、本多忠勝(500)対西軍・島津義弘(1,588)
東軍・黒田長政(5,400)、細川忠興(5,000)対西軍・島清興(石田三成隊(6,900)先陣)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

兵の数だけを見れば東軍の方がやや多いようだが、地形的に有利な場所に陣を構えていたこともあって当初は西軍が優位に戦っていたようだ。もし松尾山の小早川秀秋隊1万5千と南宮山の毛利秀元隊1万5千、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6千6百ら、計4万7千の兵が東軍の側面と背後を攻撃していれば、西軍が勝利する可能性は充分にあったと思うのだが、小早川隊以下松尾山の諸隊は午前中には動くことなく、毛利・長宗我部・長束・安国寺らは徳川家に内応していた吉川広家に道を阻まれて参戦しなかったという。

小早川秀秋は、一旦は家康に味方をする決意であったというが、三成からは関白への叙任と上方2ヶ国の加増を持ちかけられ決心が揺らいでいたらしく、開戦以降は両軍から戦闘参加の催促の使者が訪れていたがぎりぎりまで戦況を見極めようとしていたようだ。しかし正午ごろに東軍から松尾山に向かって威嚇射撃を加えられてようやく秀秋は旗幟を鮮明にすることとなる。
秀秋より裏切りの命令が下されて小早川隊は山を降り、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃しはじめたのである。

大谷吉継

大谷吉継は小早川隊の裏切りを予め想定していて、温存していた6百の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返したのだが、そのタイミングでそれまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4千2百の西軍諸隊が、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いたために戦局が一変することとなる。大谷吉継は、秀秋を牽制するべき脇坂らが西軍を裏切ることは想定しておらず、敗北を悟って自刃して果てたと伝えられている。

宇喜多秀家

小早川、脇坂らの寝返りは西軍に大きな衝撃を与え、小西隊が崩れて、小西行長が敗走。次いで宇喜多隊も総崩れとなり、東北に向かって敗走したという。

石田三成

石田三成の隊は東軍を相手に粘り続けたが、小西・宇喜多の敗走を見るに及んで壊滅状態となり、三成も西北の山間に逃走したという。

最後まで戦場に踏みとどまったのは島津義弘隊で、1千5百の兵が一斉に鉄砲を放って、正面に展開していた福島隊の中央突破をはかっている。西軍の諸隊が悉く潰滅する中でまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、島津隊は強行突破に成功。松平・井伊・本多の徳川諸隊は執拗に追撃したが島津隊将兵の抵抗は凄まじく、井伊直政や松平忠吉らが相次いで撃たれたことから、家康から追撃中止の命令が出て深追いを避けたという。

一方、西軍が壊滅するさまを見ていた南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始し、浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、毛利、安国寺隊は伊勢街道から大坂方面へ、長宗我部、長束隊はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡している。

午後4時頃に全ての戦闘が終り、かくして関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わったのである。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は前掲書で、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北についてこう評している。
「西軍の敗北は、必ずしも単一の原因ではない。たとえ小早川秀秋の裏切りなきも、もとより遂に敗北すべき運命であったろう。西軍には主将が無かった。西軍には統一がなかった。西軍には熱心なる戦闘的精神が無かった。彼等の大半は、家康の名を聴いて、未だ戦わざるに気死していた。しかして偶々戦闘につとめた者までも、互いに同心戮力するの協同心、及び協同作用が欠乏していた。例せば石田隊の苦戦に際しても、島津隊は傍観していた。すなわち西軍は首尾相済(すく)い、前後相相扶(たす)くる運動なく、ただ各隊各個の動作に止まった
かかる多大の欠点を具有したにかかわらず、公平に観察すれば、西軍は善く戦うた。関ヶ原の戦争は、西軍にとりては、決して恥辱ではなかった。石田隊、宇喜多隊、島津隊、大谷隊の如き、何れも東軍をして、辟易せしむるに足る程の手並みを示した。午前8時に開始したる戦闘が、正午を過ぎて未だ勝敗を決しかねたるを見れば、如何に西軍の抵抗が、頑強であったかがわかるであろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/259

蘇峰の指摘の通り、確かに西軍にはリーダーが不在でチームワークにも欠けていたのだが、その原因を探ると、西軍の武将に対する家康の切り崩し工作が随分効いていたことを指摘せざるを得ないだろう。西軍の中は東軍と内通して、西軍を裏切ったり、東軍に協力する兵士が多かったのだが、それにもかかわらず、石田、宇喜多、島津、大谷らの各隊は粘り強く戦いよく持ちこたえたことはもっと知られて良いのではないか。
8万と言われる西軍の諸兵のうち、東軍と戦ったのはたかだか3万3千程度に過ぎなかったというが、東西両軍を天秤に掛けて強い側につこうとしていた小早川秀秋が、正午を過ぎて東軍から挑発されるまでどちらが勝利するか見極めきれなかったほど、西軍が善戦していたということなのだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
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島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
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家康の死後の主導権争いと日光東照宮
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家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
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Comment
日和見の軍勢が多いですよね。
「勝負は時の運」としか言いようのない気がします。
三成は良くやった、天晴れだと思います。
Re: タイトルなし
大伴細人さん、コメントありがとうございます。

どちらが勝つかわからないような戦いにおいては、どちらが勝っても家名と領地を守ろうとする自己防衛本能がそれぞれ働くのでしょうね。

しかし、家康はそのような武将を信用しなかったのでしょう。日和見していた西軍の諸将を厳しく処罰しています。
考察お疲れ様です。西軍全体では足並みが乱れていたのにも関わらず一部の部隊だけで東軍相手に戦えたのは、凄いです。西軍に対する切り崩し工作振りを見ると、効果の大きさが見てとれました。
結果的に負けてしまったものの個人的には戦国時代、もっとも勇気があった人物は石田三成だと思っています。どうしても綺麗事だけで世渡りできない、そんな状況であっても主君の遺言を守ろうとした石田三成の生き方は今の時代の日本人に忘れかけている何かを訴えているような気がしてなりません。
Re: タイトルなし
としさん、コメントありがとうございます。

勝者は敵対した者を悪しざまに記すのが普通なのですが、「正史」などで描かれている内容を丸呑みしてしまうと真実から遠ざかってしまうことが往々にしてあります。
家康の人物像は綺麗事で描きすぎている分、もう少し割り引いてみる必要があるような気がしますね。

いつの時代もどこの国でも、正しいことを主張する勢力が勝利するとは限らず、特に権力闘争には極めてドロドロした側面があることを、今の日本人はもっと知るべきではないでしょうか。


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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