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誇り高き十津川村の歴史を訪ねて

温泉地(とうせんじ)温泉まで来れば熊野本宮大社もすぐ近くなので訪れる観光客が多いと思うのだが、熊野三山めぐりは別の機会にすることとして、今回の旅行の2日目に旅程に入れていたのは、熊野三山の奥の院と位置付けられ世界遺産にも登録されている玉置(たまき)神社である。

野猿 地図

神社に行く前に、十津川温泉近くにある野猿(やえん)を見に行く旅程を組んでいた。
温泉地温泉から国道168号線を新宮方面に進み、十津川温泉に入ると途中で分岐があり右折して国道425号に入りすぐに左折して県道735号の上湯川沿いを走ると野猿が見えてくる。

十津川 野猿

上の画像が野猿で、吊り下げられた「屋形」に乗って自力で引き綱を手繰り寄せて進んで対岸を渡る人力ロープウェイなのだが、対岸までは優に50mはありそうだ。昔の人々は、吊り橋がかかるまではこれに乗って対岸に渡っていたのである。

この歳になって野猿に乗るわけにもいかず、次の目的地である玉置神社(奈良県吉野郡十津川村玉置川1 0746-64-0500)に向かう。

野猿から玉置神社は距離にすれば15km程度なのだがカーブの多い山道は結構時間がかかる。駐車場につくと本来ならば素晴らしい紀伊山地の山々が眺めることができ、運が良ければ雲海を観ることもできる場所のようだが、この日は霧と雨で何も見えなかった。

玉置神社鳥居

上の画像は、駐車場のすぐ近くにある鳥居である。ここから本殿までは結構な距離がある。

玉置神社の由来について、山川出版社の『奈良県の歴史散歩 下』にはこう記されている。

「神社の由来によれば、『神武天皇熊野上陸後、この宮で兵を休めたと伝え、崇神天皇、王城火防鎮護と悪神退散のため早玉神社を奉祀され、以後玉置と名付けられた』という。その後858(天安2)年、天台宗智将大師が那智の滝にこもった後、当山で修法加持をして本地仏をまつり、神仏混淆となった。平安時代には大峯修験道の本拠となり、熊野三社権現の奥之院として繁栄し、花山院・白河院・後白河院・後鳥羽院・後嵯峨院らが登拝している。
1727(享保12)年に京都聖護院(しょうごいん)門跡派に属し、高牟婁(たかむろ)院を中心に7坊15ヵ寺が境内に点在し、社僧数百人を擁したが、神仏分離令に先駆けて神社復活の請願を行ない、玉置三所大神(さんじょおおかみ)となり、さらに現在の玉置神社と改称したと伝える。」(『奈良県の歴史散歩 下』p.224)」

十津川郷で、明治の神仏分離令に先駆けて神社復活の請願が行なわれたとの記録は確認できなかったが、修験道の本拠地であった玉置三所権現が江戸時代に地元民の支持を失っていったことは確かなようだ。
その経緯については『日下古文書研究会』のブログに『玉置山始末書写』という書物の解説記事がわかりやすい。
http://kusaka-od.blogspot.jp/2012/08/blog-post_2645.html
この記事を読むと、全国各地で激しく行われた廃仏毀釈のうち、特に修験道にかかわる寺院が破壊されたケースは、玉置山と同様な背景があったのではないかと考えさせられる。しばらく引用させていただく。

「聖護院は玉置山に寺院を建立し、高牟婁(たかむろ)院と号し玉置山領分山林まで支配下に置いた。修験集団としての聖護院の末寺となったことで、僧兵らが実力行使で収納物を横領し、十津川郷の領主のごとき専横となった。
社家は京都役所へ高牟婁院の横暴を訴えるが、門跡寺院の権威のもとでは成すすべもなく社家の敗訴となった。これ以後社家は衰え、高牟婁院の強権支配は激しさを増した。地頭代官へ訴えるも、強大な権威を持つ宮支配ゆえに力が及ばず、玉置山は僧徒の巣窟となりはて、郷中とは隔絶状態となった。郷民は自分たちの神でありながら、神祭りにも参加できず、神事も仏式で行われるに至った
。」

聖護院門跡

少し補足すると、門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院を意味し、なかでも聖護院(京都市左京区)は皇室と関係が深く特に位が高い門跡寺院であった。
その聖護院門跡の威光を借りた社僧が玉置山神領の山林だけでなく、近隣諸村の山林をも横領して聖護院領としたため、十津川郷との関係は疎遠なものとなっていったのだが、そもそも玉置神社は、古来より十津川郷の鎮守社であったのだ

ところが徳川幕府が倒れて新政府が誕生し、慶応4年4月に神仏判然令が出てさらに同年閏4月4日の太政官通達で神仏混淆が廃止とされ、別当・社僧は還俗し、神道を以て勤めることが命じられることになる
再び『日下古文書研究会』の解説を引用させていただく。

この通達を受けて郷民はすばやく動いた。同月二十七日には十津川郷中より願書を差し出す。その冒頭に、
  玉置山復古之義は積年之志願ニ候
とある、十津川郷中の祖神、三柱鎮座の神社が中古以来仏教寺院勢力に席巻され、神事祭禮も僧の扱いとなり、郷民の手の届かない状態となった玉置山復古の願いは郷民すべての積年の志願であった。この度の御一新により、僧徒は隠居寺へ住居させ、神事祭禮は社家一統立会の上勤めたき旨の嘆願を出した。神祇官事務局からは『玉置三所大神』と称すことを許され、郷民の願いの通り、十津川郷中一統にて奉仕することを命じられた。郷民の志願は聞き届けられたのである。」

高牟婁院を立退かせるのに山林田畑買受料として二百五十両を差出したそうだが、位の高い門跡寺院ではあっても太政官通達に対しそれ以上の抵抗はできなかったようだ。

廃寺となったのは高牟婁院だけではない。十津川郷にはあわせて51もの寺があったのだそうだが、明治4年から6年にかけてすべての寺が廃寺となり、跡地は田畑や集会所や学校などになり、その後再興された寺はないという。

なぜ、十津川郷において廃寺が容易に行われたかについて、『日下古文書研究会』の上記の記事にはこう記されている。
「…その背景には、郷内五一ヶ寺がすべて禅宗であったことが大きい。禅宗は檀家との精神的繋がりが淡泊であり、村民の中に宗教的欲求がそれほど強烈ではなかったことが作用している。しかも明治維新の理想とする王政復古の精神こそが十津川郷民の理想とする勤皇思想そのものであったことも、彼らをして必然的に維新の先駆者として改革へと駆り立てたのである。しかも玉置山のいち早い廃仏毀釈も彼らの行動に拍車をかけることとなった。」

玉置神社をはじめとする十津川郷の廃仏毀釈を敢行した中心メンバーは、丸田藤左衛門、松實富之進、更谷喜延らであったが、この丸田藤左衛門は尊王攘夷思想に傾倒し、坂本龍馬や大村益次郎、西郷隆盛らの志士達と親交があり、ともに国事を議論した人物だという。
藤左衛門は天誅組の乱の時には京都にいて御所を警衛していたが、8月18日の政変によって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となって天誅組は挙兵の大義名分を失ってしまう。藤左衛門は十津川郷の立場の変化を憂慮して上平主税(かみだいらちから)らとともに郷里に戻り、天誅組の伴林光平、乾十郎らと会見し、十津川郷士たちを天誅組から退陣させることを決めて帰京したという。
http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/person/pn_022.htm

旧丸田家住宅

大阪豊中市の「日本民家集落博物館」に、丸田藤左衛門が十津川で居住していた住宅が移築されて大阪府の指定文化財となっている。上の画像は以前ブログで紹介した旧丸田家住宅である。
十津川やその周辺は杉の産地として知られ、屋根には杉材を薄く削いで厚さ5mm、30cmのソギ板を作ってそれを少しずつずらして重ねて竹釘で固定するソギ葺きという方法で建てられている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

玉置神社 参道の杉

話を玉置神社に戻そう。
玉置神社の参道には天然記念物に指定されている杉の巨樹が多数林立し、本殿に近づくにつれ荘厳な雰囲気が伝わってくる。雨が降るなかを20分近く歩いて、ようやく神社の本殿の前に到着した。

玉置神社 本殿

雨が気になって良いアングルで写真を撮ることが出来なかったのだが、霧の中の本殿は思ったよりも美しく撮れた。

玉置神社 神代杉

本殿の参拝を済ませて少し境内を歩くと、樹齢3千年と伝わる神代杉を間近に見ることが出来る。幹回りは8.3m、高さ20mと書かれていたが、観ているだけでパワーが湧いてくるようなすごい巨木だ。他にも樹高20mを越える巨木が何本もあり見所満点である。

社務所及び台所は高牟婁院の建物を改修した建物で国の重要文化財に指定されている。
拝観の案内表示が無かったので中には入らなかったのだが、内部には狩野派の絵師が戸襖に描いた素晴らしい絵があり、拝観可能で写真撮影もできたようなのに随分残念なことをした。襖絵は例えば次のURLで見ることが出来る。
http://mobili.exblog.jp/m2010-04-01/

玉置神社 鐘

社務所のすぐ近くに、かつてはここが寺院であったことを示す鐘楼が残されていた。
玉置神社の保有文化財の中に応保3年(1163)に佐々木高綱が寄進した梵鐘があり、国の重要文化財に指定されているのだが、この鐘は別のもので本物は十津川村歴史民俗資料館に寄託されている。

十津川歴史民俗資料館

玉置山を下りて温泉地温泉に戻り、十津川村歴史民俗資料館に入る。駐車場は道の駅十津川郷か十津川村役場を利用すればよい。

1階には坂本龍馬と交流のあった中井庄五郎の刀や、龍馬から庄五郎に宛てた手紙などが展示されている。庄五郎は、坂本龍馬らを暗殺した刺客が十津川郷士を騙ったとの情報から、必死になって犯人を捜したのだが、新選組に斬りつけられて討死したという。
他には、明治22年の大水害の記録や、世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道のパネル展示などがある。
二階には、十津川郷の廃仏毀釈に関する資料が展示されていて、そこに玉置神社の梵鐘(国重文)のほか、秘かに守られてきた仏像・仏具などを見ることが出来る。他にも南朝ゆかりの資料や天誅組の史料など、小さな施設ではあるが、結構中身が濃くて楽しめる資料館である。

資料館の近くに道の駅十津川郷がありそこでお土産や、地元産の野菜やヨモギ餅等を買う。
昼食を2階にある『行仙』という蕎麦屋で頂いたが、ここの蕎麦は旨かった。

食事を終えて、最後の目的地である谷瀬(たにぜ)の吊橋に向かう。十津川村役場から22km程度走れば到着する。

天誅組 上野地本陣址

吊橋の駐車場に、『天誅組上野地(うえのじ)本陣跡』と書かれた碑がある。
江戸幕末にはこの場所に東雲寺という寺があり、天誅組の本陣が一時ここに置かれたのだが、丸田藤左衛門らが京都から到着して、郷士達はこの時初めて、天誅組が「勅命」と言っていたのが偽りであり、このままでは、十津川郷が朝敵にされてしまいかねないことを知る事となる。
そこで郷士達は、十津川郷はこれ以上天誅組に協力できないことと、全員十津川郷から退去することを願う書状を提出している。天誅組主将の中山忠光は京都出発時からのメンバーで協議し、上野地村に滞陣中の隊士全員に解散を宣言して十津川郷士たちは天誅組から離反し、天誅組が郷外に脱出できるよう道案内をしたという。
天誅組の残党は北山郷へ出る山越えの道を進み伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅することとなる。

一方十津川郷士たちはその後大総督官直属の朝廷御親兵として、越後から会津の倒幕戦争に参加し、明治4年(1871)には全員士族に列せられ、宮廷警護については薩摩、長州、土佐の三藩以外では十津川郷士のみが任ぜられたという。

谷瀬の吊り橋

十津川村上野地と谷瀬を結ぶ谷瀬の吊橋は昭和29年(1954)に架橋され、長さ294m、高さ54mあり、鉄線の吊橋としては日本最長なのだそうだ。
対岸の谷瀬の人々が、教員の初任給が7800円の時代に一戸当たり20~30万円もの大金を出し合い、村の協力を得て総工費800万円で完成した橋とのことだが、それ以前は川に丸木橋を架けて往来していたという。この橋は地元の人にとっては生活道路であり、通行料は無料である。地元の学校の通学路にもなっているのだそうだ。
中央部に板が敷いてありその上を歩くのだが、中央部分は結構揺れる。スリルが味わえるとでも書きたいところだが、橋を渡っている間はカメラを構える気になれなかったというのが正直なところだ。

黒木御所跡

橋を渡って右に行くと、黒木御所跡碑がある。黒木御所の「黒木」というのは、「白木」の反意語で、「皮を削っていない木材」という意味である。ここに急造された仮の御所があったと理解すれば良いと思う。

大塔宮
【『大和名所図会 巻六』の挿絵 竹原八郎の名が書かれている】

前回の記事で後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)が、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと、討幕の戦いに加わったことを書いた。

元弘の変で後醍醐天皇は捕えられ隠岐の島に流罪となったが、護良親王は同年の11月下旬頃には十津川に入り、この地帯を統括する豪族である竹原八郎に迎え入れられたという。八郎らはこの場所に仮宮殿を建てて、親王をお守りしたと伝えられている。
以前はこの場所に、親王や従臣が弓術や馬術を練習した場所や竹原八郎の墳墓と言われる五輪塔が存在したそうだが、明治22年の大水害で水没してしまったのは残念なことである。

十津川村はこんな山奥の僻地にありながら日本史の大きな舞台に何度も登場し、それぞれの時代でこの地域の人々が「事が起これば国事に尽くす」という気概をもって歴史に残る働きをしてきたことを、代々この地域の誇りとしてきた経緯にある。

しかしながらこの十津川村も、御多分に漏れず急速に過疎化・高齢化が進行している。
かつては15千人あった村の人口が、1970年には8,502人となり、今年の4月1日現在で3,504人まで減少してしまっているようだ。
面積の96%が森林であるこの村の主要産業であった林業が衰退してしまったために、多くの村民が収入源を断たれて人口流出が止まらないのだが、この村には誇るべき歴史と伝統があり、素晴らしい温泉があり自然がある。この素晴らしい観光資源を今まで以上に活かすことによって、なんとか人口減少に歯止めをかけて欲しいものである。
そんなことを考えながら、この村の魅力が末永く失われないことを祈って、2日間の奈良の旅を終えることにした。

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この度の熊本県を中心とする地震で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
被災を受けた地域が、一日も早く復旧・復興することをお祈り申し上げます。

地震の多いわが国では同様な地震がいつどこで起きても不思議ではありませんが、大正12年(1923)に発生した関東大震災では、東京が大火災になったことはある程度知られているものの、横浜も火災になったことや、神奈川県・静岡県で津波や土砂崩れで多くの犠牲者が出た史実は伏せられているのか、ほとんど知られていません。実際に何が起こったかを知らずして、どのような危険があるかを認識することは困難であり、地震に対する備えも不十分にならざるをえないと思います。

このブログで地震に関する記事をいくつか書いてきましたが、よかったら覗いてみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-20.html

「稲むらの火」の物語と安政南海地震の津波の真実
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-19.html

軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html


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Comment
素晴らしいです
こんにちは。いつもお世話になっております。
まぁ!玉置神社へ行かれたのですね!!羨ましいです!
道、大変だったのではないでしょうか。
霧の中の社殿も木々も神秘的でいいですね。
玉置神社の歴史、とてもよく理解出来ました。ありがとうございます。後は運転技術が問題です。
谷瀬の吊り橋は、あらゆる方向に揺れて怖いですね。
対岸に着いた時は足がガクガクしました。
十津川村、今年はゆっくりしたいです。資料館も好きです。
Re: 素晴らしいです
つねまるさん、コメントありがとうございます。

天辻峠の本陣のスイッチバックを経験されたなら、玉置神社は問題なく行けると思います。
道路は所々細いですが、綺麗に舗装されています。あちこちに「落石注意」の標識がありますが、それは「神頼み」で突き進んでいくしかありません。たまたまかわかりませんが、ほとんど対向車が無くて、予想していたより早めに到着しました。もし行かれたらぜひ社務所の襖絵をレポートしてくださいね。

谷瀬の吊橋はよく揺れて正直怖かったです。十津川の流域に桜も綺麗に咲いていたのが見えたのですが、カメラを取りだして構えることが出来ませんでした。私の横を、走るようにして渡る子供がいたのには驚きました。
こんにちは~

野猿って本当のニホンザルが見れるのかと早とちり^^
十津川村の廃仏毀釈がサクサク進んだのは勤王思想の背景だけじゃなかったんですね

霧の中の本殿が とっても幻想的で素敵す。
ブログ村&拍手
Re: タイトルなし
時乃栞さん、コメントありがとうございます。

玉置神社はなかなかいいところでした。今度来ることがあれば、社務所と雲海が見たいです。
玉置神社の廃仏毀釈の背景がよくわかる史料を記事を書いている途中で見つけましたが、ラッキーでした。
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏が失職したことにもつながる話ですね。

「野猿」という字は普通は「ノザル」と読みますから、誰でも猿を連想してしまいますね。
途中までは滑車を滑らせればよいのでしょうが、最後は腕力が要りそうですね。
門跡寺院について
門跡寺院の経本には、必ず、祈願文の頁に「今上天皇 玉体安穏」という記載があり、朝夕の勤行のおり、僧侶が仏前で、これを唱えるそうです。皇族が門主を務められていた関係上、当然です。また、盆と年末には、宮内庁京都事務所長を通じて、金一封を賜るとのことです。しかし、最近、門跡寺院の管長の中には、共産党と行動を共にしたり、妾宅から寺に通ったり、北朝鮮に頻繁に渡航する者がいます。固有名詞はいわずもがな。堕落した僧侶が、仏罰を受けず、わが世を謳歌しているのを、お不動様は、なぜ、放置されるのでしょうか?
Re: 門跡寺院について
年金生活者様、興味深い情報ありがとうございます。

確かにネットで調べると、共産党と行動を共にしているような人物がいるようですね。妾宅から通う人物や北朝鮮と繫がる人物のことは良く分かりませんでしたが、そのような仏教の堕落が幕末から明治にかけて爆発し、修験道は禁止されるに至りました。
門跡寺院はおそらく世襲なのでしょうから、堕落しやすい性格が遺伝しているのでしょうか。
自分が海外の情報工作員なら人脈金脈ステイタスを考えて、宮門跡を狙います。

幕末の雄藩も宮門跡に「派遣社員」ならぬ「派遣家来」を送っておりまして、八・一八政変の折の薩摩藩士高崎佐太郎も青蓮院(中川宮朝彦親王が門主)に派遣されてましたし、その後は会津藩士が派遣されて宮に正規雇用されたりと。。。のちに小松宮となる仁和寺門跡には越前松平家の福井藩がべったりしてました。
こちらの角度から見る幕末維新の宮廷政争もなかなか面白いです。


十津川の人は郷土に対する誇り高く、また奈良県で十津川はブランドですから、林業が廃れたくらいで人口減が加速するようなことはなかったのですが(おそらく吉野郡内の村で一番、減少カーブが緩やかだった記憶が)。

あの、東日本大震災がココでも影響しています。

2011年夏、十津川は大水害で山崩れを起こし、道路は寸断され、陸の孤島と化してしまいました。しかし、東北復興の大号令を前に山村の復興はかき消され、義捐金や寄附金の集まりも悪く、復興が大幅に遅れた経緯があります。誰を恨むわけにもいかない哀しいお話です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9023%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC12%E5%8F%B7
Re: タイトルなし
なかなか面白い視点ですね。たしかに宮門跡は皇室に近いので、本当にターゲットにされていたかもしれませんね。それを立証するような史料がでてきたら面白いのですが…。

十津川の大水害のことは知りませんでした。あの頃は東北が気の毒すぎて、奈良県の水害被害がかき消されてしまったのですね。



門跡寺院について(補足)
先に投稿させていただいた、「宮内庁京都事務所長を通じて金一封」云々は、龍谷大学の図書館に所蔵されている、雑誌「本山修験」の寺門日誌のところを読めば記載があります。聖護院の現管長が、龍谷大学出身だから、この雑誌が、龍谷の図書館に寄贈されているのでしょうね。この管長、異論な反日・反皇活動の集会に参加する一方、天皇陛下の上洛の折には、送迎に参列している。
Re: 門跡寺院について(補足)
コメントありがとうございます。

皇室と血が繋がっているのかどうかは良く分かりませんが、聖護院の現管長が共産党を支援しているというのはがっかりです。
反日。反皇活動の集会に参加していながら、宮内庁から金を受け取っているというのは許し難いですね。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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