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なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか

このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。
『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。
しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。

シベリア抑留

たとえば、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』では、太平洋戦争を総括してこう記されている。

「こうして6年にわたって、全世界に史上空前の惨害をもたらした第二次世界大戦は、枢軸陣営の敗北によっておわりをつげた。第二次世界大戦における日本の死者・行方不明者の正確な数字はわからないが、軍人と民間人あわせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後、ソ連軍に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルなどに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.314)

「連行」とか「強制労働」という言葉は使っているものの、歴史用語としての『シベリア抑留』がなくなってしまっては、いずれ日本人の記憶からこの史実が消え去ってしまうことになりかねない。

シベリア抑留』された人数と死者の数について、Minade Mamoruさんが詳しく調査されていて、以下のURLで豊富な資料とともに読むことが出来る。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

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連行された日本人は「ラーゲリ」という強制収容所に送られ、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられて多くの日本人が死に至ったのだが、終戦直後のソ連の昭和20年9月12日にプラウダ紙に掲載されたソ連情報局の発表数字は、捕虜が約60万で、戦死者8万、負傷者2万で、連行途上や収容所での死者や行方不明者については何も書かれていない。そしてその後のソ連は長い間、日本人捕虜の合計を60万人という数字を変えなかったという。

一方、昭和20~25年の復員庁/引揚援護庁の数字、およびGHQ/SCAP(連合軍総司令部)の数字はいずれも70万人であった。そして昭和24~25年頃の日本共産党は「抑留者数は70万人というのは反ソ感情を煽るためのGHQ/SCAPと日本政府がでっちあげた虚構の数字である」と連合軍司令部と日本政府を厳しく非難していたという。

しかるに昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和会議でわが国が主権を回復し、連合軍総司令部によるわが国の占領が終わった後は、日本政府はなぜかシベリア抑留の実態解明調査を行なわないまま、昭和56年(1981)にはシベリア抑留者の数を57.5万人に減らしてしまっている
ソ連にとっては、当初の抑留者数を減らすことによって、死亡・行方不明者を実態より少なくすることができることになるのだが、日本政府が70万人を一気に12.5万人も減らしたのは、ソ連や国内の左翼勢力の圧力に屈したと考えるしかない。

東京新聞 76万人の新資料発見

ところがソ連が崩壊して18年後の平成21年(2009)に、ロシアの国立軍事公文書館で第2次大戦後に旧ソ連で抑留された軍人や民間人が、最大で76万人との新資料が発見されたことがわが国の新聞に報道されたのである

読売新聞 31万余の氏名判明

そもそもわが国は、昭和25年(1950)12月11日に37万人がソ連から未帰還であることを外務省が公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べていたのだ
しかしながら、それからのちにわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だそうで、それから後は、外務省もマスコミも未帰還者がどうなったかについて何も語っていないというのである。

日本に帰らずにソ連に残って生活をすることを決意した日本人がいたとしても、それは少数であろう。
普通に考えればソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたと考えざるを得ず、死亡者が6万人という教科書の記述はありえない数字なのだが、こんな数字が教科書に出ていたらそのまま鵜呑みにする人が大半だと思われる。
『シベリア抑留』の問題に限らず、わが国の戦後の歴史教科書の記述において戦勝国に対する外交的配慮を優先させることはよくある話なのだが、なぜわが国の政府は、ソ連が崩壊した後も、『シベリア抑留』の被害者に対して冷淡でありつづけたのか。

シベリア抑留分布

『シベリア抑留』という言葉を聞くと、日本人が極寒のシベリアに連行され強制労働に従事させられたと理解してしまうところだが、実際にはシベリアだけでなくモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなど広範囲に及ぶ地域に送られて、その地域の労働に従事させられたようだ。
この『抑留』を経験した人々は、今ではほとんどが90歳を超えており生存者はかなり少なくなっているのだが、40万人以上の同胞が悲惨な体験をした出来事にしては、本人が綴った記録が思いのほか少ないことが気になるのである。

ネットで公開されている体験記の中に秀逸なものがいくつかあるが、第百二十六師団司令部の陸軍准尉であった伊藤常一氏の記録は某ローカル新聞に連載中に途中で圧力がかかり、死者が続出した描写のところで中断されてしまった。「あとがき」に、連載の中断理由について、本人の文章でこう記されている。
ソ連の実情をそのまま発表することを好ましく思わない読者か、或いは政治的左翼分子の人からか良く分からないが、筆者に対する嫌がらせや遂には脅迫的な文書が舞い込むようになり、家族の者の意見もあり、遂に一時ペンを置くこととなり、昭和三十六年六月二十五日の発行を最後に中断のやむなきに至りました。」
http://yokuryuki.raku-rakudou.com/index.php?%E3%81%82%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%8D

氷雪の門パンフ

以前このブログで記したのだが、昭和天皇の『終戦の詔勅』の後にソ連軍が樺太の真岡の町を攻撃して、直前まで電話交換の業務についていた「九人の乙女」の自決を描いた『氷雪の門』という映画が昭和49年に完成したものの、公開直前にソ連の圧力により葬り去られた事件があった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミや出版界に対して同様な圧力をかけ続けた勢力が国内外に存在し、そのために『シベリア抑留』の真実がほとんど戦後のわが国でほとんど伝えられなくなってしまったと考えているのだが、ネットで様々な情報が入手できる世の中になって、ここ数年でいろんな方が情報発信するようになってきたことは良い兆しである。

棄民のあしあと

昨年末に、夏梅誠一という「シベリア抑留」を経験された方が『“棄民”のあしあと』という手記を出版され、最近その本を入手した。
夏梅誠一氏は大正10年(1921)に京都で出まれ、昭和17年(1942)に陸軍に入隊し、満州国境守備隊要員として爆弾を抱えて戦車に体当たりする『挺身奇襲』の命令を受けて出征したが、昭和20年(1945)の8月15日の終戦をソ連国境近い黒河省孫呉で迎えることとなる。
その後ソ連軍に捕えられて捕虜となり、シベリア南部のアムール川沿いにあるブラゴエチェンスクで船の荷揚げの重労働を命じられたのだが、日々の食事はわずかの高粱粥だったという。

ブラゴエチェンスク

夏梅氏は、収容所の環境についてこう記しておられる。
俘虜たちが寝起きし、唯一のくつろげる場は板の間に敷いた肩幅だけの空間にすぎない。しかしその湿っぽい空間はホコリを吸い込み、蚤や虱やダニたちの格好の巣窟なってしまい、人間たちが爪先で押しつぶすくらいでは間尺にあわず、首筋や胸元や腕の内側に赤い発疹をつくる者が増えてきた。高熱にうなされる者も増えてきた。そんな症状が虱やダニの媒介による発疹チフスや回帰熱という伝染病だということを衛生兵から聞かされていたが、その伝染病患者と雑魚寝をした者が相変わらず労役にかり出されていたのだ。おまけに全員がひどい飢餓状態に陥り、胃腸は機能を失い栄養失調になっていた。…
 高熱を出して呻いている連中も、一人残らず氷点下30度の屋外点呼に引っ張り出されて以来『アレから間なしに何人かが死んだらしいぞ』という噂が流れてきた。それから数日後、労役を終えて帰ってきた私は、数人の仲間と一緒に亡くなった連中の遺体が置かれている別館へ行った。別館といっても屋根も窓枠も床もない煉瓦造りの廃屋であったが、その一区画の土間に十人ほどの死体が積み重ねられていた。彼等の軍衣は生きている連中が頂戴したとみえ、シャツとズボン下のまま、めいめいが思い思いの姿で硬直して絡み合っていた。…」(『“棄民”のあしあと』p.52-54)

それ以来何人もの死者を送り、死体置き場の死体は三重、四重にも重ねられるようになり、ある日三人がかりでこれらの亡骸を馬車に乗せて運んで、白樺林に掘られた大きな穴に放り込んだことが記されている。

その後夏梅氏は中国東山の炭鉱での堀進作業を経験したのち、最終的には中国医科大「教材課」で人体の絵を描く仕事に従事した後、昭和28年(1953)5月にようやく帰国となる。
日本に戻ってからは全日本損害保険労組の書記を勤めた後、昭和53年(1978)会社を設立して、昭和63年(1988)には社長をリタイアされたのだが、その5年後に報道された『シベリア抑留』についての新聞記事を読んで強い衝撃を受けることとなる。
著書のプロローグをしばらく引用させていただく。

「…1993年(平成5)8月13日付の各紙は、『旧満州などの民間人・将兵捕虜180万人の“棄民”化計画が『大本営報告書』によって判明した』ことを大きくとりあげていた。
『最近ロシア公文書施設で発見されたもので、同報告によると、捕虜となった180万人についてソ連指令下に移し、国籍離脱まで想定、病人を除き、現地に土着させ、事実上“棄民”化する方針を固めていた』
『旧満州で関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出た昭和20年8月29日文書も最近明るみに出たが、それには、大本営報告書に『全面的に同意』した関東軍参謀長の『所見』も発見された』
それらは『結果的に60万シベリア抑留の伏線となった関東軍の使役申し出は、日本の国家意志であった可能性が極めて強くなった』
(毎日新聞)」(同上書p.11-12)

上記の『毎日新聞』の記事には、なぜ大本営や関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出たのかについて書かれていないが、わが国の国体を守るためだとか、北海道を守るためだったなどとか諸説がある。

当時の史料を確認しよう。大本営高級参謀の朝枝繁春陸軍中佐は昭和20年8月26日付で『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いている。
この人物は戦後、瀬島龍三、種村佐孝、志位正二らとともに「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者
で、昭和24年(1949)帰国後ソ連のスパイとして活動していたが、昭和29年(1954)にKGBのラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命した際に日本人エージェントとして自分の名前が明かされたために、警視庁に自首したという経歴がある。

報告朝枝繁春 関東軍方面停戦状況に関する実視

朝枝中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』にはこう書かれている。

「一 一般方針 
内地における食糧および思想経済事情より考えるに、既定方針通り大陸方面においては在留邦人および武装解除後の軍人は『ソ』連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如く、『ソ』連側に依頼するを可とす。」
 二 方法
  1.患者および内地帰還希望者を除くほかは、速やかに『ソ』連の指令により各々各自技能に応ずる定職に就かしむ
  2.満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす
  3.以上満鮮に於ける土着不可能なる場合においては、今入冬季前に少なくも先ず軍隊400,000、傷病兵 30,000、在留邦人 300,000 計730,000を内地向け輸送せざるべからず。而してこれを輸送は船舶、鉄道の運用輸送間の給養等厖大なる仕事にして、一つに『ソ』側を通して連合側に依頼せざれば不可能なる問題なり。」(『シベリアの挽歌』)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

この報告から大本営は、終戦直後にソ連に残った日本人を73万人と認識していたことが明らかだが、朝枝は73万人もの邦人を国内に戻すことは困難であり、ソ連の庇護下において定職に就かせて土着化させ日本国籍を離れさせても良いとまで書いている。これでは多くの日本国民を「棄てる」と表明したことと同じではないか。
ソ連からすれば、死者・行方不明の邦人が多数出たとしても、すでに「国籍を離れ」たことにしてしまえば、いくらでも「日本」の犠牲者の数を減らすことができることになるのだ。

朝枝はこの報告の中で、在留邦人や軍人たちをソ連に差し出すことが「既定方針」であったと明記しているが、ではこのような方針はいつ頃決まったのであろうか。

産経0811

以前にこのブログで書いたが、1945年6月に中国国民政府の陸軍武官が、日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルン*に汚染されており、他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたことを、重慶に機密電報で打電した電文が米国に傍受されて、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されている。
*コミンテルン:モスクワに創設され世界の共産主義革命を目指した国際組織。第三インターとも呼ばれる。

この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ね、その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書『対ソ外交交渉要綱』は、参謀本部第二十班(戦争指導班)班長の種村佐孝大佐が書いたものだが、このような厳秘資料が『アジア歴史研究センター』にアクセスすれば誰でもPCで読むことが出来る。この人物も朝枝繁春と同じく「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者である。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293900?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E5%AF%BE%E3%82%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E4%BA%A4%E6%B8%89%E8%A6%81%E7%B6%B1&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

種村は、対米戦争継続には日ソ戦争を絶対に回避すべきであり、そのために日ソ同盟を結ぶべきと主張し、そのためにソ連に提示すべき条件として次のように記している。

対ソ外交交渉要綱

「…換言すれば『ソ』側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ち換ったならば、今日日本が満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て、飽くまで日『ソ』戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない。…
…帝国としては、この肚を以て、日『ソ』戦争を絶対に回避すべきであって、そこまで肚を極めて対『ソ』交渉に移るべきである。移った以上『ソ』側の言い分を待って之に応ずるという態度に出づるべきである。我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交駈引上から言っても当然考慮せられるべき点である。」

種村は、『今後の対ソ施策に対する意見』でも、「(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ」と書いており、わかりやすく言えば、ソ連に戦争で疲弊したわが国を包囲させて、ソ連主導でわが国に共産主義革命を起こそうとしたのである。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293800?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&

松谷大佐

また鈴木貫太郎首相の秘書官を務め「終戦処理案」をまとめた松谷誠大佐も4月に『終戦処理案』をまとめ、その中で「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」とし、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書いているようだ。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

左傾学生の続出に文部省全く弱る

ではなぜ、日本の大本営の中枢に共産主義者が多かったのか。
このブログで何度か書いてきたが、昭和初期に学生の左傾化が社会問題になるほどに若い世代がマルクス主義思想に傾倒し、マルクスやレーニンの著作が飛ぶように売れた。
そして昭和3年(1928)にモスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、そこで採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」にはこう書かれていた。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

共産党の一味が重要なる某連隊に
【昭和3年(1928)4月14日付 神戸又新日報】

このような考え方は最初にレーニンが主張し、『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、わが国の軍隊の中には、この第6回コミンテルン大会の決議通りにわが国で革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力となり、自国政府の敗北を導こうと動いた連中が少なからずいたと考えればよくわかる。
だから大本営はソ連が8月9日に対日宣戦布告した時に、関東軍に対し朝鮮国境まで退却させ、関東軍は満州と日本人居留民を放置してソ連に差し出し、終戦の日にはアメリカ主導の終戦に反対し、ソ連がわが国を包囲するまで戦争を長引かせるために昭和天皇の『終戦の詔勅(玉音放送)』を吹き込んだレコードを奪い取ろうとしたのである。

ワシレフスキー元帥

極東ソ連軍の最高司令官であったワシレフスキー元帥がモスクワに打った、8月20日付の電文にはこう記されている。
関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。」
関東軍は満州にいる日本人居留民を護ることなく撤兵し、すべてをソ連に委ねたのである。

また関東軍の参謀が「ワシレフスキー元帥に対する報告」という文書を8月29日にソ連側に提出している。文書作成の責任者は関東軍作戦班長陸軍大佐の草地貞吾で、筆跡は関東軍参謀陸軍中佐の瀬島龍三のものだという。
以前はネットで掲載していた人がいたのだが、今ではリンクが切れてしまっている。
ごく一部しか読めないのは残念だが、「シベリア抑留裁判」を戦っている方のHP『老いたる蟷螂の言い分』にポイントとなる部分が引用されている。
「…次は軍人の処置であります。これにつきましても当然、貴軍においてご計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家族を有するもの並に希望者は満州に留まって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地に帰還せしめられたいと存じます。右帰還までの間におきましては、極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います。」
http://i-support.main.jp/k00/20000110v2.html

『シベリア抑留』の問題は、日本人の多くを死に至らしめたソ連の責任が大きいことは言うまでもないが、大量の日本人をソ連に委ねた大本営や関東軍の責任を問わないわけにはいかないではないか。しかしながら彼らは誰一人として処罰されることなく、戦後の世界を生き続けたのである。

彼等の誰もが処罰されなかったということは、わが国で革命がおこることを夢見てソ連に協力してきたメンバーが、終戦直後のわが国の中枢部で深く根を張っていたと考えるしかない。わが国の政府はシベリア抑留の事実調査をまったく行わなかったのだが、この問題に関係する5つの省庁の高級官僚たちが調査を拒否し、特に外務省が強く反対したことが次のURLで記されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Sengoshori.html

わが国に対するソ連の工作がその後も続いてそれに協力した連中がかなりいたのだろう。そして1991年のソ連崩壊後は、彼等自信の保身のために従来からの主張を変えなかったとでも考えなければ、戦後の長きにわたってソ連にとって都合の悪い多くの真実が隠蔽され、政府機関による「シベリア抑留」の実態解明調査が今もなされていない謎が解けないのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

関連記事
Comment
こんにちは

これは北方領土問題と共に考えて行かなければならない問題だと思います。
日ロ友好の美名で「なぁなぁ」にしてはいけないことですよね。

ブログ村&拍手☆彡
Re: タイトルなし
時乃栞 さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

北方領土問題も、戦後は4島だけに限定されているかのように報じられていてそれが日本人の常識になっていますが、戦前は千島列島全てと南樺太がわが国の領土でした。

1951年のサンフランシスコ平和条約で、わが国は南樺太と千島のすべての権利、権原及び請求権を放棄しましたが、その最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっており、それまでは、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定です。(国後、択捉、歯舞、色丹の4島は「千島列島」としてではなく、わが国固有の領土と位置付けられています。)

本来北方領土問題はこれらすべての領土を確定させる交渉でなければなりません。


今回のテーマとは乖離しますが、ごめんなさい
中外日報のが、徳川家の末裔にインタービュした記事があります。
http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/hot/20151216-001.html

良い記事ですので、しばやん様のサイトを訪問される方々の共感を得ると思われますので、拡散させていただきたく存じます。
日本は正々堂々胸を張って次の十カ条をクレムリン当局に要求すべきだ。
失礼します
トラックバックが入らないようなので、トラックバックのつもりです。
http://blog.goo.ne.jp/namedfuture/e/20eb9744ed87271f9c50338ce65ea983
時間よ戻れ
こんにちは。日差しが強く暑い連休でしたが、しばやん様はいかがお過ごしでしょうか。

シベリア抑留から帰還した大伯父は、それを感謝こそすれ、体験したことも当時の政府への思いも決して語りませんでした。
身内に戦死者や空襲で他界した者が多く、皆への遠慮かと思っておりましたが、なるほど、こんな事情があったのかと。
時間は戻りませんが、黙って大伯父の言葉を静かに聞いてあげたくなりました。

舞鶴の引揚船の帰港地に示された、ロシア各地の方向と距離を見たときの衝撃は忘れられません。
中核都市が丸ごと残されたようなものだったのですね。

11日が沖縄で戦死した伯父の命日なので、朝一番に霊山観音さんで法要して参りました。あと数ヵ月だったのに、とぼそりと呟いた祖母の姿が思い出されます。

しばやん様のおかげで、大伯父の心中が少し察せられました。
ありがとうございました。(駄文、ごめんなさい。)
Re: 今回のテーマとは乖離しますが、ごめんなさい
年金生活者さん、コメントありがとうございます。

いい文章を紹介いただきありがとうございました。徳川氏のおっしゃる通りですね。

私も日本の伝統文化の素晴らしさは、歳を経るにつれて理解するようになりました。
今日息子2人の家族全員引き連れて私の父の墓参りをしてきました。
みんなで掃除をし、墓前に手を合わせてくれたのが嬉しかったです。




Re: 時間よ戻れ
つねまるさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。
今日は私の息子2人の家族を連れて、京都の実家に行ってきました。意外と高速道路の渋滞が少なくて助かりました。

つねまるさんの大伯父さんは大変な経験をされたのですね。
私も若い頃から学校やマスコミで垂れ流されてきた戦後的歴史観にどっぷり浸かっていたので、シベリア抑留者に限らず戦争の体験者の話を長い間聞く気になれず、ようやく歴史に関心を持つようになると、身近に戦争のことを話してくれる人が誰もいなくなってしまいました。私も今は「時間よ戻れ」と言いたい気分です。

戦争やシベリア抑留を体験された方には、御存命中にネットなどで少しでも多くの情報発信をしていただきたいと願っています。
Re: 日本は正々堂々胸を張って次の十カ条をクレムリン当局に要求すべきだ。
Bruxelles さん、いつもありがとうございます。

トラックバックは承認制なのですぐに表示されませんでした。
今は、きちんと表示されています。

しかし、外務省やマスコミは今も左翼勢力が幅を利かしているので潰しにくる可能性が高そうですね。
きちんと、実態解明しようとすると、邪魔する連中もいるんだよ。 
日本は悪い国なのにってさ。
Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。

「日本が悪い国でなければ成り立たない歴史観」を奉ずる左翼連中が組織的にその歴史観を固定化させるために活動していましたが、ネットで自由に発言できる世の中になって、彼等もこれ以上の抵抗がしづらくなってきたと思います。
ネットを通じて真実を伝えれば、いずれ、真実に基づかない「自虐史観」は崩壊するはずです。すこしでも多くの人に、真実が伝わればと願っています。
よく読んでいます。
しばやん様。今は亡き祖父母や先祖を想いながら、興味深く読んでいます。応援しています。

Re: よく読んでいます。
茨木童子さん、嬉しいコメントをいただきありがとうございます。
とても励みになります。

これからもがんばりますので、時々覗いてみて下さい。
大変面白い指摘だと思います
我々はなんとなく、左翼といえば
戦前戦中は政府に逆らう内容のことを思うさま正直に公言してはワルイ特高に捕まってゴーモンされ、
戦後は九条万歳万歳と往来でタイコ叩いて踊ってるようなマヌケ連中のことだとのみイメージしがちだが、
ガチンコで革命=国家転覆を考えるような分子は当然、戦前戦中も戦後も、軍や政府の中枢に食い込もうとしただろう。
また今日の俗なイメージでは旧軍は夜郎自大の日本バンザイ集団ということになっているが、2.26事件を起こした青年将校の主張などを見ても、先鋭化した救民志向ということでは「左」の革命思想に極めて親和性が高い。

大東亜戦争そのもの、また戦後処理の手続き、それらの成り行きには必ず工作員の見えざる手が関わっているはず。
ただし各論においてはややもすれば単純素朴な陰謀論に回収されてしまいやすいという意味で、むずかしい話。
Re: 大変面白い指摘だと思います
コメントいただき、ありがとうございます。

私自身の左翼のイメージと重なるところが多いです。学生時代から何となく疑問を持ちながら、受験対策で教科書や参考書の内容を丸呑みしてきたのですが、数年前に廃仏毀釈を自分で調べてから、学校やマスコミなどで広められている歴史は必ずしも真実を伝えていない事を知り、ほかの時代も同様ではないかと調べることで私の歴史探究が始まりました。
所謂「軍国主義」は、「『左』の革命思想に極めて親和性が高い」とはその通りだと思います。

「コミンテルンの工作があった」などと言うと、左の連中は『陰謀論』という言葉を多用して煙に巻こうとするのですが、彼らは陰謀を実際に行っていたからこそ周囲を思考停止にするためにその言葉を使ってきたのだと考えています。
ネットなどを通じて多くの人が真実を知るようになって、少しずつ歴史観が是正されていくことを祈っています。
はじめまして。

関東軍は、よく上陸出来たなと言う疑問。

また、731細菌部隊石井四郎は成田空港辺りの出身→空港利権

石井四郎は朝鮮人では?

朝鮮天皇日赤財閥一族の金のためだ。

Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。

大本営はソ連に繋がるメンバーが主導権を握っていたので、情報操作で何とでもなったのでしょうね。

石井四郎の件はWikipediaにありますが、思想的なことや出自については何も知りませんので悪しからず。
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Re: しばやんさん。失礼をお許しください。ネットで拾ったこの意見、どう思われますか?
茨木○○さん、コメントありがとうございます。

私は、コメントの内容の詳細を断言できるほどの知識は持ち合わせていませんが、戦後に生まれた日本人は「V新聞出版エンタメ、学校教育全てで洗脳され続けて、まさに愚民化政策の真っ只中にある」という結論はその通りだと思います。
しかし、洗脳されている人に対しては、その言い方を繰り返すことは「お前は愚民だ」と言っているのと同じで、反発を食らうことになるだけです。

大切なことは、当時の記録等をしらべながら、マスコミや学校が広めてきた歴史が誤りだらけであることを、多くの人に気付かせることです。

ここ数年でネット等を通じて、様々な真実が知られるようになったおかげで、これまで洗脳機関として機能してきたマスコミや学校で広められた歴史叙述に疑問を持つ国民が増えています。この傾向はますます強まると私は予想しています。
多くの国民がこのような歴史叙述が明らかに嘘であることが分かるようになれば、プロパガンダはいずれ国民に通用しなくなるでしょう。

悲観しないで、希望を持ちましょう。是非多くの知り合いに、様々な歴史の見方があることを伝えていきましょう。
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日本は正々堂々胸を張って次の十カ条をクレムリン当局に要求すべきだ。(何故こういう発想・着眼がいつまでたっても日本人には出来なのだろうか) 一.関東軍は天皇の詔勅と政府の声明に従い自発的に武器をおいた。ロシア国会はこの関東軍を捕虜にした事実を非難する決議...
読売新聞は、昨年夏あたりからシベリア抑留者関係の特集報道をするようになった。名簿を探し当て、その名簿を報道しているのである。その種の報道に付随することだが、厚生労働省が、その種の情報開示に協力的でなかった、すなわち、名簿の存在を知っていたのに、公表しなかったことが指摘されてきた。つまり、厚生労働省は、ソ連の協力者の役割を果たしてきたことになる。歴史ブログ「しばやんの日々」のなぜわが国は『シベ...
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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