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織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した戦略を考える

戦国時代の英雄といえば、わが国が統一される足がかりを作った武将として織田信長の名前を挙げる人が多いだろう。信長は主要な戦いのほとんどで勝利を収め、なかでも、東海道の覇者・今川義元をわずかな兵でうち破った永禄3年(1560)の『桶狭間の戦い』は、信長の主要な戦果の一つとしてほとんどの教科書に記されている。

織田信長

この戦いについては「『上洛』を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が迂回路を通って『奇襲』して倒した」と戦記物などで記されて、それが長い間日本人の常識とされてきたのだが、その『上洛戦』『迂回奇襲戦』であったとする説とは異なる説が最近では有力視されているという。

今川義元

今川義元は駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める大大名で、背後にある甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と相互に婚姻関係を結んで相互不可侵を約し、いよいよ上洛を目指して動き出したとなどという内容が書かれている書物が多いのだが、最近では、義元が上洛の準備を行なった形跡がないとし、上洛説を否定している研究者が多いようだ。

たとえば静岡大学教授の小和田哲男氏は著書でこう解説しておられる。
「永禄3年5月という時点を考えると、京都には将軍足利義輝がいて、義元が義輝にとって代わろうなどと考えたとは思えない。永禄8年に義輝が松永久秀らによって殺され、将軍空位の状態ならまただしも、永禄3年に、足利一門である義元が将軍にとって代わろうと考えるはずはないのである。
 それと、もう一つ、この時期、義元が、尾張より先の戦国大名である美濃の斎藤義龍、近江の六角義賢らと連絡をとっている痕跡が全くないというのも奇妙である。上洛するなら、その道筋にあたる斎藤氏や六角氏との間に事前の折衝があって当然であろう。それがないということは、義元は、尾張より先のことは視野になかったものと思われる。」(青春文庫『戦国時代はうらから読むとおもしろい!』p.75-76)
小和田氏は、そう述べたあと、北条氏の目的はズバリ尾張奪取にあったとしておられる。

少し補足しておくと、今川家は室町幕府の足利将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる名門である。その今川義元が、上洛して将軍家を助けるという動機があったとしても、京に至るまでには有力大名が目白押しであり、その根回しなしに、この程度の陣容で上洛することが可能とは思えないし、そもそも足利将軍家との書簡のやり取りも存在しないというのである。
今川義元は三国同盟を背景に三河進出に力を注ぎ、弱体化した三河国の松平氏を従属させたほか、同じく尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などを戦い、三河から織田氏を締め出して鎮圧してからまだ日も浅かった。普通に考えれば、次に征服すべき国は尾張であろう。
将来的に上洛の意志はあったにせよ、永禄3年(1560)の時点で今川義元が一気に上洛しようとしたとする説は、真実を伝えているとは思えないのである。
義元の上洛が目的であったなどと書いている書物を辿って行くと小瀬甫庵の『信長記』(慶長16年[1611])、『改正三河後風土記』(天保8年[1837])など軍記物に辿りつくのだそうだが、いずれも桶狭間の戦いからかなり日数が経過して記されたものであり、かなり創作がなされていることは読めばわかるのだが、わが国の歴史叙述が軍記物の内容に基づいて記述されることはよくある話なのである。

では次に、桶狭間の戦いにおける両軍の動きを追ってみよう。

桶狭間地図

今川義元は永禄3年(1560)の5月12日に自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日夜に松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせている。

そして5月19日の早朝に沓掛城を出発した今川軍は大高城を目指して進軍し、丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。
清州城にいた信長は、その情報を得るや「敦盛」の舞を舞い、鎧兜をつけて出陣したと伝えられている。

沓掛城を出立した今川義元の本隊は、午の刻(正午頃)、桶狭間山に着陣して人馬に休息を与えていたという。ここで丸根・鷲津両砦の陥落の報告を受けた義元は謡に興じるなどし、一方、丸根砦、鷲津砦を攻め落とした松平元康(徳川家康)は、大高山で人馬に休息を取らせていた
今川軍の戦力については諸説あり、兵の数は2万5千とも4万5千とも言われているが、義元の本隊は5千程度であったと考えられている。
桶狭間に向かった信長の兵は2千に満たなかったようだが、信長は、今川義元の兵が桶狭間山で休息している今が好機と踏んだようである。そのために信長は中島砦方向に向かい、そこから桶狭間山に向かおうとする。

信長公記

信長の旧臣のであった太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』にはこう記されている。
「信長は戦況を見て、中島へ移動しようとしたところ、『中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きが取れず、一騎ずつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます』と、家老衆が信長の轡(くつわ)に取りついて、口々に言った。しかし信長は、これを振り切って中島へ移動した。この時、信長は二千に満たない兵数であったという」(新人物文庫『現代語訳 信長公記』p.100)

信長はこのタイミングを待っていたのである。そしてこのような檄を飛ばしている。

皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛抱して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵がかかってきたら引け、敵が退いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、負い崩す。たやすいことだ。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め。」(同上書p.101)

義元が布陣していた桶狭間山の際まで軍勢を寄せた時に激しいにわか雨が降りだしたことは幸運だった。そのおかげで信長軍は今川軍に気付かれずに接近することが出来たのだ。そして、豪雨がやんだ頃合に織田方の急襲がはじまる。

桶狭間の戦い 2

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて『それ、掛かれ、掛かれ』と叫ぶ。黒煙を建てて打ち掛るのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟(のぼり)・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。
『義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ』と信長の下知。未(ひつじ)の刻(午後2時頃)、東へ向かって攻めかかる
。敵は、初めは三百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と引き換えし、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。
 信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。頭に血がのぼった若武者ども、乱れ掛って鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り火花を散らし、火焔を降らす。乱戦だが、敵味方の区別は、旗指物の色で知れた。ここで、信長の御馬廻り・お小姓衆の歴々、負傷・討死にした者、数も知れない。
 服部春安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元を切り伏せて首を取った。…
 今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは狭く入り組んで、深田に足を取られ、草木が高く・低く茂り、この上もない難所であった。深い泥田へ逃げ込んだ敵は、そこを抜け出せずに這いずりまわるのを、若武者どもが追いかけ追い着き、二つ、三つと手に手に首を取り持って、信長の前へ持参した。『首はどれも清州で検分する』と信長は言い、義元の首だけはここで見て、満足この上もなかった。」(同上書p.101~103)

太田牛一の著した『信長公記』は軍事的に正確で史料性が高いと評価されている書物だが、これを読むと信長は、中島砦から東に進んで義元の本隊を正面から攻撃したことになる
従来の説では、義元は桶狭間付近で酒宴を開いていて、信長は間道を通って山中を迂回して義元の本陣の背後に回ったことになっているのだが、普通に考えれば、信長軍がいつ攻めて来るかわからない状況で今川軍が酒宴を開くことはあり得ないだろうし、酒宴を開いていないのであれば義元の本隊は休息が終えればいずれ西に向かうことになる。迂回して義元の背後を衝こうとすれば、時間がかかりすぎて先を越されてしまうリスクがある。
中島砦から桶狭間までの距離は直線で3キロメートル程度であり、今川義元本隊に戦いを挑むのであれば、信長が最短コースを採ることは当然ではないか。

しかしながら、兵力では織田軍は今川軍の十分の一程度で圧倒的に不利な状況にあった。
にもかかわらず兵力の劣る信長軍が正面から今川の本隊に挑んで勝利することができたのだが、信長が勝利したポイントはどこにあったのか。
その点について、私にとって一番納得のいく説明をしているのは『本能寺の変 431年目の真実』で一躍有名になった明智憲三郎氏の論考である。

明智憲三郎

明智氏によると、信長のとった行動はきわめて理に適っているという。この戦いにおける信長の戦術について明智氏は、孫武・呉起の兵法とともにこう解説しておられる。

「『敵が多勢でも、それを封じ込めばよい』のです。…『平坦な場所は多勢の側が有利です。このような場所で戦うことは避け、少人数で戦うのに有利な狭い場所で迎え撃つのです。昔から「一つの力で十の敵を討つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うことである」といいます。かりに少人数だとしても、狭い地形を選び、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数であっても驚きあわてざるを得ません。』…沓掛城から鳴海城に至るまでは両側が小山で狭間(谷間)の道が続く、少し開けた場所も深い田になっていて道は狭い。千で万を討つには最適だ。」(明智憲三郎織田信長 四三三年目の真実』p.55-56)

織田信長四三三年目の真実

そればかりではない。信長はさらに勝ちを確実なものとするために、今川軍を分断させたのである。

「『先頭と後尾とが分断された敵は攻めやすく』なります。『敵が進みやすく、退却しにくい地形にいるときに誘い出す』ことにより敵を分断することができます。…後軍が桶狭間にいる間に、先陣を鳴海城や大高城のある海岸近くの平坦地まで誘い出す。…当然、(敵は)大高城・鳴海城の付近の砦を落としにかかるだろう。こちらが砦を守るために先に布陣してしまうのではなく、砦を攻撃させて敵を引き込んでから出陣する。…
敵は…駿府から40里を6日がかりで行軍してくれば、それだけでかなり疲れている。…
敵はこちらが鳴海城を攻めると考えるだろう。そう見せておいて、鳴海城を素通りして、桶狭間の義元本隊を攻める…。兵をかき集めて数を合わせようとするのではなく、むしろ精鋭を厳選し、死地に追い込み、激励し、速攻を加える…。4万5千のうち、桶狭間に陣取る義元本隊は2万とみて、わが方はその十分の1あればよいということだ。」(同上書 p.56-59)

信長はこの戦略の通りに今川軍先陣を誘い出し、松平元康に丸根砦、鷲津砦を攻め落とさせる。6日間も行軍した後に砦を奪い取ったあとは、大高山で人馬に休息を取ることとなるが、兵士たちは相当疲れていた。そのとき義元の本陣は桶狭間の高台にいて、先陣とは6キロ近く離れてしまっていた。
しかも桶狭間は西に進むにも東に戻るにも狭い道が続き、しかも少し開けた場所も深い田になっていて、いくら義元の兵の数が多くても軍列が長く伸びてしまうことになる。ということは、実際に織田軍と干戈を交えることができるのは列の前の方にいる一部の兵士だけなのだ。しかも、大将の今川義元は陣の比較的前方にいた。
だからこそ、軍の精鋭を集めた信長は、少ない兵の数でありながら、今川軍の本隊を正面から攻め、義元の首級を挙げて勝利することが出来たのである。

桶狭間の戦い

こうしてみてくると、今川義元の敗因はこのような狭隘な地形の桶狭間に着陣したことが大きいことになるのだが、ではなぜ義元がこのような危険な場所に陣取ったのであろうか

明智氏は「名将として知られる太源崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)に幼いころから訓育を受けた義元が兵法を知らないわけがない」と前置きした上で、次のように記しておられる。
「おそらく、義元は二つの理由で桶狭間で本隊を駐留させたのであろう。ひとつは兵の休息地として夏の日差しを避けられる日陰のある桶狭間が適当と考えたこと。もうひとつは高根山周辺の高地から戦況を一望のもとに見て、次の作戦を考えようとしたこと。孫子の兵法にも次のように説かれている。『起伏に富んだ地形では、先に視界良好で戦場を支配する高地を占領して、敵を待て』。義元の行動はこれに適っていた。また『隘路は先に占領し、隘路口を封鎖して敵を待て』とも説かれている。桶狭間の隘路を先に占領したが、桶狭間からの出口の封鎖が不十分だったのだ。そのため信長軍の突撃に対して、前陣がひるんで後退して一挙に全軍が崩れてしまった。こうして突き詰めてみると、桶狭間へ向かって進軍して来る織田軍の動きを把握できていなかったことと、隘路口の封鎖が弱かったことが義元の真の敗因といえよう。」(同上書 p.80-81)

義元は、孫子の兵法の教えの通りに見晴らしの良い場所に着陣したのは良かったが、谷間の細い道が長く続いていることの認識が乏しかった。尾張の地理に疎かったために、その認識が持てなかったのだろう。
一方の信長は、義元の本陣を桶狭間に駐留しているタイミングを虎視眈々と狙っていた。信長にとっては、今川軍の先陣ができるだけ本陣から離れることが望ましかった。丸根砦、鷲津砦を今川軍に勝利させて、18日に彼らが兵糧を運び込んでいた大高城にて休憩をさせることがベストであったはずだ。
信長の期待した通りに、桶狭間に義元の本陣が残された。そこを信長軍の精鋭が衝いたわけだが、わずかな兵で今川の大軍に勝利した信長の戦略、恐るべしである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-237.html


関連記事
Comment
考察お疲れ様です。雨の中、奇襲して攻撃云々というイメージがあったのですが、これも資料を読み解くと通説とはだいぶ違う事実が記録されてるのに不思議な感じがしました。
厚かましいお願いごとではありますが、織田と上杉との間であったかどうか諸説分かれている手取川の戦いの真実、上杉謙信が織田信長と直接戦う計画があったのか、脳溢血あるいは信長による暗殺説のある上杉謙信の最後についてなど時間のある時に考察していただけないでしょうか?よろしくお願いします。
Re: タイトルなし
としさん、いつもよく読んで頂きありがとうございます。

あたっているかどうかはわかりませんが、高度な兵法を用いた戦いの真実を隠そうとする為政者側の意図を私は感じています。
このような高等戦術を、反幕府勢力の戦いに用いられては為政者としては簡単に鎮圧できなくなしまいます。日本全国、山や谷はいやというほどありますから、このような場所は探せばいくらでもあることでしょう。

今川義元が愚かな武将だったという単純な物語を描いて読者を納得させるような書物が広められたのは、高度な兵法を広く学ばせたくなかったのではないでしょうか。

戦国時代は知らないことだらけなので、としさんの期待に応えることができるかは分かりませんが、自分なりに調べてみることにします。




こんばんは。いつもお世話になっております。

現在は鳴海も大高も名古屋市の内陸部。地図、とても参考になります。面白いです。

熱田神宮南部、大高の南まで伊勢湾でしたものね。近世にあゆち潟を含め大きく干拓されましたが、伊勢湾台風の浸水被害が激しく、近年でも豪雨被害が顕著です。

埋め立てにより大きく地図が変わったのは大阪湾と同じですね。古地図を見る大切さを実感します。

小学校の社会で海抜0m地帯の分布と歴史、輪中(わじゅう)の暮らし等を学びました。桶狭間の地図を眺めているうちに懐かしくなってつらつらと失礼しました。

桶狭間の3D地図がありましたよー。

http://www.gsi.go.jp/chubu/tokusetsu-minichishiki3-4.html
国土地理院中部地方測量部「測量に関するミニ知識」
Re: タイトルなし
つねまるさん、こんばんは。

名古屋のことはよく知らずに書きましたが、昔は熱田神宮南部、大高の南まで伊勢湾だったのですか。随分干拓されたのですね。

私も小学校時代に「輪中」を学びました。週に1回テレビ学習があって、泥深い田んぼで田植えをしておられるお百姓さんの映像を見たのを今も覚えています。

3D地図ありがとうございます。いろんな方が桶狭間の戦いを調べておられることが良く分かります。
何度も失礼致します。
東海道の宿が東から鳴海、熱田(宮宿)、桑名となっておりまして、熱田宿から桑名は東海道唯一の海路(七里の渡し)でした。

義元が尾張を目指した狙いに言及した記事を最近見まして。

信長の祖父が築いた勝幡城下には当時伊勢湾交易の拠点だった津島があり、興味津々。伊勢湾交易、調べてみたいなぁと思っております。

http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20160409-OYTAT50036.html

「新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相」(学研新書 2008.9/橋場日月)←積んだままです。
Re: タイトルなし
海運のことは私もあまり知らないので、これから勉強したいと思っています。日本人は神話の時代から、この国が島で成り立っていることを知っていたのですから、かなり古くから海運が発達していたはずですね。

紹介いただいた、読売新聞の記事は面白いですね。家康はどうやって逃げたのかということまで考えていませんでしたが、織田軍が撤収したあとの桶狭間を通って帰ったとは知りませんでした。
面白い^^
近年は過去の通説が変化してる過渡期なのでウカウカしてられませんね。
確かに上洛を目指すのに周辺諸国、将軍家に交渉してないのは不自然で、そうなると尾張平定が目的というのは納得できる説です。
大軍である守護or戦国大名が国衆鎮圧にてこずるときって、大名にとってアゥエーな場合・・・つまり国衆側に地の利がある場合が殆どです。
九州の話ですが鉄砲のない戦国初期だと完全鎮圧に三年かかった例もあります。

信長は徹底的に地形を利用したんですね^^
とても面白かったです。拍手と村クリ
Re: 面白い^^
ハイレベルの歴女である時乃★栞 さんに、「面白い」と言っていただいて嬉しいです。

私も長い間「通説」に洗脳されてきた一人ですが、新説はまだまだ一般には広まっていないようですね。

いくら鉄砲や弓矢を用意していても、それが役に立たないような地理的要因がありうることが、今回調べてよく分かりました。
仰る通り、信長は徹底的に地形を利用して勝利したことを確信しました。
ごぶさた~です
 毎回楽しく読ませてもらってます。ありがとうございます。
 今回の桶狭間の御説ですが、「余湖くんのホームページ」に「論考らしきもののお部屋」というコーナーがありまして、「『信長公記」に見る桶狭間の真実とは」という論が展開されております。
 http://yogokun.my.coocan.jp/okehazama.htm
 本郷和人先生も、著書「戦いの日本史」で、紹介されています。ご覧いただきたく、紹介させていただきました。
 


Re: ごぶさた~です
まつかぜさん、いつも読んでいただきありがとうございます。

また、情報まで頂いて感謝です。

「余湖くんのホームページ」を読ませていただきましたが、明智憲三郎氏の指摘する「沓掛城から鳴海城に至るまでは両側が小山で狭間(谷間)の道が続く、少し開けた場所も深い田になっていて道は狭い。千で万を討つには最適だ」という地形を最大限に活かした信長の戦術には着目しておられないようですね。このような地形だと戦えるのは双方の先頭付近にいる少数の兵だけになるので、兵士の数の差はあまり大きな問題ではなくなってしまいます。

本郷先生の著書は未読でが、また本屋で探してみます。ご教示いただきありがとうございました。
私はまぐれで勝ったと思います。信長はそこまで作戦は考えてなかった。あちこち駆けずり回ってるうちに今川義元の陣地にたどり着いたのでは?松平元康には最悪の一日でしたね。
Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。

いろんな見方があってよいとは思いますが、信長の家老衆は『中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きが取れず、一騎ずつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます』と主張していました。もし家老衆の言いなりに動いていればこの桶狭間の勝利は無かったのではないでしょうか。

信長は狭い道で戦う選択をしたからこそ、少人数で勝利したのだと私は考えます。信長にとってラッキーだったのは、今川軍の列のかなり前方に義元がいたということでしょう。
桶狭間の合戦
この7月、ここに気が付き、非常に興味深く読まさせていただいています。
まだ全部読んでいませんが、どのページも説得力が有り、読み応え十分です。

ただし桶狭間の合戦については、疑問が残りました。

古くは迂回奇襲説、新しくは直進突破説が主流となっています。
しかしどちらも腑に落ちませんでした。

そこで出会ったのが、「桶狭間合戦の真相」(渡辺文雄)です。

それは、信長公記と幾つかの文献を基に、二方面奇襲説を展開しています。

部隊を二つに分け、一方の直進部隊で注意を引き付け、
もう一方の部隊が、迂回して今川本隊に奇襲を掛けたという説です。

奇襲成功のカギは、どのようにして直進部隊に注意を引き付けたかですが、
最良の策は、その中に織田信長が居ることです。

そこから先は、これを読んでみてください。

Re: 桶狭間の合戦
パナパナさん、コメントありがとうございます。多くの記事を読んで頂いてとてもうれしいです。

ご紹介いただいた本は、Amazonの読者レヴューはすごく評価が高いですね。
ちょっと高いですが、あまり評判が高いのでいずれ購入することになると思いますが、しばらく別の話題が続きますのですぐに読むことが難しいことを伝えざるを得ません。

しかし、二方面奇襲説となると『信長公記』の記述とは合わなくなってしまいますね。渡辺氏が『信長公記』以外のどの史料に論拠を置いておられるか、興味のあるところです。
Re: 桶狭間の合戦
アマゾンの著書では、「なか見!検索」を使うと、
多少わかります。
気長に待ちます。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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