HOME   »  忘れ難き人々  »  吉野の山村から明治という時代を動かした、森林王・土倉庄三郎を振り返る

吉野の山村から明治という時代を動かした、森林王・土倉庄三郎を振り返る

明治40年(1907)に大阪朝日新聞社から出版された『人物画伝』という本があり、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、ネット上で誰でも読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156

この本は、明治時代に活躍した国内外の政治家や実業家や文化人など97人の事績をまとめたもので、その当時の国民はほとんど知っている名前ばかりなのだろうが、今ではほとんど知られていない人物の名前が少なからず存在する。

土倉庄三郎像

以前にこのブログで「吉野の森林王」・土倉庄三郎を紹介したことがあるが、この人物の事績がこの『人物画伝』に掲載されている。私は、3年前に土倉庄三郎のことを調べて奈良を旅行するまでは、この人物のことを全く知らなかった。

土倉翁没後100年記念事業

今年は土倉庄三郎が亡くなって100回忌にあたり、翁が生まれ育った奈良県吉野郡川上村では『土倉庄三郎翁 没後100周年記念事業』が企画され、先日、菩提寺である川上村の龍泉寺で100回忌法要が行われ、川上村総合センターやまぶきホールで記念式典が行われて両方の行事に参加してきたのだが、式典ではホールの通路にまで多くの人が座るほどの大盛況であった。
没後100年も経ったにもかかわらず、今も地元の人々からかくも敬愛され続けている土倉庄三郎はどのような人物なのか。

土倉翁100回忌
冒頭に紹介した『人物画伝』では、土倉庄三郎について以下のように記されている。

富豪(かねもち)が公共に尽くすということは、今日でこそ随分思い切ってやるものもあるが、つい先だってまではなかなかこういう人物は少なかった。その時分から大和の土倉、伊勢の諸戸と言えば有名なもので、殊にこの点では近畿の双璧と称(とな)えられていた。…彼つねに人に語って言う、予の希望は全財産を三分し、一部を子孫に、一部を国家の有用事業に、一部を教育事業のために、最も完全に使用するにあると。…彼は、この言を着々として事実に著しつつあるは見上げたものである。彼はこの主義から、これまで少なからず人材のために資を擲(なげう)ったのである。人もし大和大台ケ原山の付近に行って見よ。こんな山奥によくこんな立派なと思うくらいの小学校が、あちこちにあるのを見るだろう。これみな彼が、彼の事業の為に衣食しつつある樵夫(しょうふ:きこり)らを教育するために建てたる学校である。なおまた彼は古くから女子教育の必要を認め、女子教育のために金を出したことは少なくない。成瀬仁蔵君が女子大学を創設する時、その遊説費を負担したのは即ち彼であった。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156/86

この文章によると、明治の時代には、天下国家の為に私財を投じるような人物は何人かいたようだが、その点において土倉翁は特に有名な人物であったようだ。
昨今のわが国では、政治や企業などでしかるべき地位にありながら、公私混同して無駄な税金の使い方をしたり、蓄財に走ったり、節税の為に資産を海外に移すような話ばかりが目立っているのだが、少なくとも明治・大正時代においては、私財の大半を世の中の為に惜しみもなく使う土倉翁のような人物が何人もいたことを知るべきである。

成瀬仁蔵はわが国における女子高等教育の開拓者の一人で日本女子大学の創設者であるが、当時は「女性に学問は要らない」「女性に高等教育を授けると害になる」と考えられていた時代であり、女子大学設立のための寄付金を集めるということは大変なことであったことは想像に難くない。
『人物画伝』では成瀬の「遊説費を負担した」と控えめに記されているが、記念式典で来賓の挨拶をされた日本女子大学の佐藤和人学長は「土倉庄三郎の支援がなければ日本女子大学は創立できなかった」と述べられた。具体的にはどのような貢献をして成瀬仁蔵を援けたのだろうか。

土倉翁リレー対談

式典会場で販売されていた『日本の山林王 土倉庄三郎抄伝』にはこう記されている。
「成瀬は…(明治)29年に(梅花高等女学校の校長を)辞し、女子大学創設案を発表した。そのとき、庄三郎はただちに賛同し、大阪の広岡浅子とともに最初の発起人となった。このため30万円という巨額の基本金つくりを計画し、各地に寄付金を募りはじめた。しかし、日清戦争後の不況期で、ことが容易にすすまず、もし失敗すれば出資者には元金を戻し、これまでの入費は庄三郎と広岡浅子で決済するという条件をつけている。こうした決断は、後の万金の寄付よりも力強く、募金にハズミがかかり、同30年には貴衆両議院を帝国ホテルに招待し、庄三郎自らが座長となり、女子大学創立の趣旨を発表し世論の喚起につとめ、その後も長く同校の発展につくしている。」(『日本の山林王 土倉庄三郎抄伝』p.14)

庄三郎のこのような努力が実を結び、明治33年(1900)になって日本女子大学が誕生したのだが、庄三郎自身も同大学の設立のために5千円の寄付をしたという。
明治30年頃の1円の現在価値は今の2万円程度という説を採用すると、今日の貨幣価値にして1億円にも相当する大金である。(次のURLによると当時の小学校教員やお巡りさんの初任給は月8~9円、一人前の大工さんやベテラン技術者で月20円ぐらいだったという)
http://manabow.com/zatsugaku/column06/

土倉リレー対談 同志社

また庄三郎は明治15年(1882)に、同志社大学の設立にも深く関わっている。
息子たちの進学の相談で新島襄と出会い、民間大学設立の夢を語る新島に賛同して5千円を寄付したという。

庄三郎が巨額の支援をしたのは教育分野だけではなかった。

.板垣退助

板垣退助が明治11年(1878)に『愛国社』を再編し、全国的に国会開設の運動を展開していた時に、庄三郎は愛国社の中枢部にいて経理担当の実力者となり、その活動を支援したという。当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたのだそうだが、それほど庄三郎は多くの資金をこの自由民権運動に支援したようである。明治15年(1882)に板垣退助が洋行しているが、そのために2万円余りを寄付したことが記録されている
ほかにも山縣有朋、井上馨、伊藤博文ら、多くの政治家や社会活動家が「土倉詣で」を行ない、庄三郎は彼らを資金面で支えたとされる。

吉野の桜

ほかにもいろいろあるのだが、記念式典の基調講演で森林ジャーナリスト・田中淳夫氏が最初に紹介されたのは吉野の桜の話である。

以前このブログで、吉野山の廃仏毀釈のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

吉野山勝景絵図

上の図は江戸時代後期に描かれた『吉野山勝景絵図』だが、かつて吉野山は修験道の聖地であり、数多くの寺や宿坊が存在していたことがわかる。
しかしながら、明治4年(1871)から6年(1873)にかけて、吉野山の神仏分離を徹底して山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治7年(1874)には吉野一山は、金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められて仏像仏具は除去されてしまったという。すなわち、現在国宝に指定されている金峯山寺の蔵王堂までもが神社にされてしまったのである。
しかしながら蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができなかったのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたて、僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したという。
こんなことをしたために訪れる観光客が激減してしまい、吉野山の人々が生活に困っていたところに、大阪の商人が吉野山の木を買い取る話を持ち込んできたので人々はそれを了承し、その跡地に植えるスギ、ヒノキの苗を購入するために吉野山の総代が庄三郎を訪ねてきたのだが、話を聞いて庄三郎は、土倉家が全部買い取るから、商人に直ぐに返金するよう進言したという。かくして吉野の桜は守られたと伝えられている
また庄三郎は、明治35年(1902)に吉野山にある如意輪寺にある後醍醐天皇の御霊殿と幽香殿などの修理が行われた時にも、2万円の寄付をしたことが記録されているという。

庄三郎がこのように巨額の資金を寄付した記録には枚挙にいとまがないのだが、庄三郎はこのような巨額の資金を自ら稼いで捻出し、その収入源のほとんどが林業によるものであった。当時、林業の収入が大きかったのは、庄三郎の様々な工夫があったようだ。

記念式典で基調講演をされた田中淳夫氏は著書でこう解説されておられる。

土倉翁イベント田中淳夫基調講演

「林業にとって、もっとも重要な作業は何だろうか。
すぐに頭に浮かぶのは、樹木の伐採だろう。だがそれ以上に重要なのは木材の搬出である。伐採だけなら、オノやノコギリがあれば個人でも可能だ。しかし倒した大木を人里まで運ばなければ木材として利用しようがない。しかし木材は重くてかさばる。動力機のない時代、木材を運ぶには多くの人力と斜面や川の流れを利用した大がかりなシステムが必要だった。だから林業の要は、木材の搬出にあるのだ。」(田中淳夫『樹喜王 土倉庄三郎』p.78)

吉野川掘削

庄三郎は、木材の搬出の合理化に徹底的に取り組んだのである。例えば吉野川の水路を開削して川幅を広げ、大きな筏を組んで大量に木材を流せるようにしたという。上の画像は、以前川上村を旅行した際に撮影したものだが、矢印の部分が庄三郎が岩を削らせた部分である。当時はダイナマイトも重機も存在せず、ノミとゲンノウだけで岩を削っていったのだからすごいことである。

また庄三郎は道路建設にも力を尽くしている。
現在の国道169号線にあたる東熊野街道を、荷車の通れる道にするために資産の3分の1をつぎ込んだと噂され、山林をかなり処分したらしいのだが、詳しいことはわからない。
道路の完成後、木材の運搬だけでなく、人々の往来や物資の運送が増加し、川上村の生活が一変したという。

土倉リレー対談かわかみ社中

ピーク時には大財閥の三井家にも匹敵する財力を持っていたという庄三郎だが、林業で大きな富をもたらしたのは、木材搬出コストの削減だけではなく、高品質の杉を育てる技術が大きかった。

杉の年輪

上の画像は川上村にある『山幸彦のもくもく館』の展示物だが、右から2つ目の吉野杉は年輪幅が非常に緻密でかつ年輪の幅がほぼ一定している。どうしてこんなきれいな年輪になるのかと不思議に思ったのだが、それは土倉翁が確立させたという吉野の造林技術と関係があるという。

吉野杉の森

吉野林業では1haの育林地に1万本前後と他の地域の倍近い苗木を植える。密植すると苗は早く上に伸びて幹がまっすぐで真円に育ちやすく、しかも年輪が密になる。そして間伐を繰り返して良い木だけを残していく。そして、間伐木のうち利用できるものは木材として売却する…それを繰り返していくのだそうだ。

このような努力が実を結んで、吉野材は品質だけでなく安定供給、運送コストの面で全国を席巻したのだという。

吉野林業全書

上の画像は、1896年に出版され、山から市場までの吉野林業のあり方がイラスト付きで纏められた『吉野林業全書』だが、この本の刊行に当たり庄三郎は5000円を援助したと伝えられている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが可能だ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842441


しかしながら、かつては林業の先進地域として栄え、8千人の人々が住んでいた吉野郡川上村も、過疎化・高齢化が進んで人口も1325人まで減少してしまっている。

木材自給率の推移

ここまで急速に人口減少した背景には、昭和30年代に木材輸入の自由化が段階的にスタートしたことが大きい。昭和30年(1955)には木材の自給率は94.5%であったのだが、その後昭和39年(1964)に木材輸入が全面自由化され、さらに円高が進んで海外製品が大量に輸入されて、平成12年(2000)には自給率は18.2%にまで低下してしまった。
その後自給率は改善し、最近は3割を超えているようだが、外国材との競合にさらされて価格は低い水準に止まり、林業が厳しい環境にあることは変わらない。
http://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/23hakusyo_h/all/a51.html

スギの苗を植えてから伐採するのに50年近くかかるというのに、いきなり木材輸入が自由化されて海外製品が大量輸入され、さらにドルが変動相場制に移行して急激な円高となった。こんな激しい環境変化に対応することはどんな経営者でも難しかったと思う。昭和30年代以降のわが国の施策は林業従事者を切り捨てたに等しかった。

しかしながら、よくよく考えると、わが国の国土の3分の2は森林である。林業で生計を立てられないような施策がこれからも続けば、いずれ森が荒れ、地域の文化が失われ、緑豊かな美しい景観を守れなくなるだろう。
すでに北海道をはじめ各地で海外資本により広大な森林や水源が買われていると報じられているが、こんなことがこれからも続けば、わが国の国土でありながら、国土のかなりの部分が外国人に支配されるという日が来てもおかしくない。外国人参政権などを安易に認めてしまっては、いずれ各地でとんでもないことが起こることになるだろう。
http://www.sankei.com/premium/news/160509/prm1605090005-n1.html

首都圏や都市部にばかり若い人口が集中することは、国土の面積の大半で人口減少・高齢化が進むことでもあり、「国防」という観点からみると決して望ましいことではなく、昔のように田舎が元気である状態を取り戻す施策がこれからますます必要になるのだと思う。

林業は樹木を売るためだけでなく、環境を守り地域の文化を守り、さらには国土を守ることにもつながることを知るべきである。山で働く人々の収入が乏しくては、山に残る人々は少なくなるばかりであり、人々がいなくなれば山は荒れて文化も伝統も消滅してしまうことになる。
国もようやく平成22年(2010)に「公共建築物等木材利用促進法」を制定し、公共建築物に国産材を使う動きが出てきたが、大手建設業者もコンクリートのマンションばかりではなく、国産の木を使った木造の戸建て住宅にもっと力を入れて欲しいものである。

現在は吉野に限らず、いずこの山村も経済的に厳しく、人口減少や高齢化が進行し疲弊している。しかしながら、かつては山村が輝いていた時代があり、土倉庄三郎は吉野郡川上村という小さな山村で、明治という時代を動かしたのである。

土倉翁リレー対談古瀬

土倉翁の座右の銘は「守不移」。移らないことを守る、他所へは移らないという意味だそうだ。
事実土倉翁は住所を移さず、川上村を愛し、村民と共に苦楽を共に過ごされた。
川上村では、土倉翁を顕彰しその精神を学び次世代に伝えようと、龍泉寺の古瀬住職が中心となってNPO法人芳水塾が立ち上がり、活動を始めておられる。

川上村だけでなく多くの山村の人々が土倉翁の事績を知って、以前の輝きを取り戻されることを祈りたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら、覗いてみてください。

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html

『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-301.html

自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-302.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-107.html

吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-108.html



関連記事
Comment
感動しました
こんにちは。いつもお世話になっております。
庄三郎翁の事を教えて戴いたのもしばやん様でしたが、あのまましばやん様の中でずっとあたためておいででしたのね。尊敬します。
素晴らしい100年忌でしたのね。

確かに林業には運搬が要となりますね。現在も物流のメインルートである169号線を走ると、誰がはじめに作ったのかなぁ?すごいなぁと思います。
輸入木材は木が荒い(大工さん談)らしく、やはり建築部材としては国産に勝るものはないとか。吉野杉の生育法、驚きです。
花粉症の身には恐怖の杉ですが、ちゃんと産業として育成されるなら我慢します。

昔を懐かしむだけではなく、前向きに活動を始めておいでの様子。私も友人共を引き連れてひとっ走りして、何か地元のものを購入しなくては。そして、あのカーブのどこかに頑張って駐車して、岩の削った所を見たいです。まだ止まれず通過・・・。
Re: 感動しました
つねまるさん、暖かいコメントをいただいてとてもうれしいです。ありがとうございます。

庄三郎翁のことは奈良の知人から聞いて3年前に旅行しましたが、今度は没後100年のイベントがあるという情報を聞いて駆けつけました。行って良かったです。
残念ながら土倉邸は伊勢湾台風で壊れてしまいましたが、跡地に庄三郎の銅像があります。知人から教えてもらって、その近くで岩を削ったあとを写したと記憶しています。
銅像の周りは駐車もできます。近くに郵便局と警察があります。
次のURLに地図があります。
http://small-life.com/archives/16/04/1520.php
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル