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白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺

旅行の二日目は思いのほか良い天気だったのでホテル八鵬を早めにチェックアウトし、白峰の重要伝統的建造物保存地区に向かう。
白山が見たかったので、JA白山白峰支店(☎076-259-2003)の近くの駐車場に車を停めて、林西寺の裏にある大前山のブナ林散策コースを歩くことにした。

白峰観光マップ

案内板では頂上まで2.2kmとあり、軽い気持ちで登り始めたが結構きつかった。

大前山から見た白山

20分程度でようやく頂上に辿りつき、周囲の木々の間に少しだけ白山を見ることができたのだが、白山の全貌を見るためには、もっと見晴らしの良いところに行く必要がありそうだ。

山を下りて林西寺に向かう。

林西寺

前回の記事で明治維新の直前までの白山信仰は神仏習合であり、三馬場(さんばんば)と呼ばれた白山寺白山本宮、霊応山平泉寺、白山中宮長滝寺から山頂に至る3つのルート(加賀禅定道、越前禅定道、美濃禅定道)があり、それぞれのルートに多くの仏教施設があり仏像が祀られていたのだが、この林西寺の白山本地堂には白山の頂上などに祀られていた8体の仏像が安置されているのである。

これらの仏像はいずれも貴重なものばかりで、かつて白山旧室堂に安置されていた平安時代の銅像十一面観世音菩薩立像が国の重要文化財に指定されているほか、御前峰(2702m)に安置されていた大御前本地仏の銅像十一面観世音菩薩坐像をはじめ残りのすべての仏像が石川県の文化財に指定されている。

明治の廃仏毀釈・神仏分離で、白山信仰の聖地においても仏像・仏具などの多くが惜しげもなく破却されているのだが、どういう経緯でこの林西寺に白山の貴重な仏像が残されたのか、だれでも不思議に思うところだ。

三馬場と禅定道

白山の山頂に登るには加賀(現石川県)・越前(現福井県)・美濃(現岐阜県)のいずれかの禅定道を選ぶ必要があったのだが、白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐって三藩の対立が何度も起こり、藩境争いにまで拡大した経緯(「白山争論」)から、江戸幕府は寛文8年(1668)に、白山を含む山麓一八ヵ村を天領(幕府直轄地)とすることで解決を図った経緯がある。

ところが明治維新後の明治5年(1872)に、この地域を石川県の管轄とすることが決定し、さらに翌年の明治6年(1873)には、石川県令が白山頂上の三社(大御前・大政・別山の山上三社)を白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ:石川県白山市)の本社とすることを決定したのである。
しかしながら、あらたに決められた白山比咩神社の広大な神域には多くの仏教施設があって仏像が存在しており、石川県としては神仏分離令にしたがって、多くの仏像等を排除しなければならなかった。
ところが石川県には、熱心な浄土真宗の信徒が非常に多数いたために、他府県のように露骨な廃仏毀釈を行なうことは難しいと判断されたようで、そこで翌明治7年(1874)に県は、前回の記事で紹介した森田平次が中心となって白山嶺上三社などの神仏分離が実行に移され、不要となった仏像が下山することになったのである。

白山本地仏の下山について、詳しく書かれているサイトがあるので少し引用させていただく。

「山上が神社に帰属した以上、そこにある神仏習合の状態は当然分離される運命にあったが、住民の動揺を恐れたのか、県がその実行にとりかかったのは一年後、次の指令を山麓の区長に発した。

 白山嶺上の三社は白山比咩神社の本社であって神霊の鎮まる神地である。それが中世から僧徒が管理するようになり、各社に仏体を安置し、鰐口・梵鐘などを備えるようになった。かかる不浄を廃するため、役人と神官を出張させて仏体・仏器を排除し、代わって其の神体を納める。山麓の村々は仏体下山の運搬の任にあたり、各村惣代は村人を説諭して請書をさし出せ。
これにもとづき森田平次以下の役人・神官は登山口の市ノ瀬に集合、三日の予定でとりかかった。が、途中で天候激変、村人の動揺もはなはだしく不穏の状況を呈した。森田らは必死にかれらを説いて、九日を要してかろうじて仏体下山をなしとげることができた


 ちなみに、下山した仏体は、今は十一面観音(大御前峰)・阿弥陀(大汝峰)・聖観音(別山)などの白山五仏は白峰村(旧牛首)の林西寺の客仏とし、安正観音などは尾添村の小飼に「白山さん」として村人たちに守られている。」
http://japan21.info/hakusann.html

林西寺 白山下山仏

下山した中で一番重たい仏像は白山の主峰・御前峰に安置されていた銅像十一面観世音菩薩坐像で、重さは207kgもあるという。いくつかに分解して運べるように鋳造されているのだそうだが、悪天候の中で急峻な山道を金属製の仏像を担ぐ苦労は大変なものであったろう。また白山の本地仏を運んでいる最中に天候が激変したというから、村人たちが白山の怒りに恐れおののいて、動揺したことはよくわかる話だ。

石川県のホームページの解説によると、「さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、『白山下山仏』の名で安置され、今日に至っている。」とあり、かなり早い段階で仏像を引き取る決断がされたようである。
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/rekishishiryou/k-9.html#k-9-1

しかし、もしこのタイミングで山上に残された仏像の引き取り手が現われなければ、これ等の仏像は破壊されたり捨てられたりしてもおかしくないし、残されたとしてもこんなに美しい状態ではなかったのではないか。

林西寺 加藤可性師

3日の予定が9日もかけて苦労して下山してきた仏像のうち、八体を林西寺の住職・可性法師が下山費を明治政府に献納して引き取ったという。林西寺は浄土真宗の寺であるが、もともとは天台宗で、8世紀に開基された白山麓でもっとも由緒の古い寺院であり、長年にわたり代々白山別当を勤めてきた寺の歴史が可性法師の血を騒がせたのであろうか。おかげさまで、8体の貴重な仏像は林西寺の「白山本地堂」でいつでも拝観することができる。

白山下山仏

「白山本地堂」内部では撮影は禁止されているので、パンフレットの仏像の画像を紹介するが、このような経緯で奇跡的に残された仏像が、客仏であるにもかかわらず、非常に立派な須弥壇の上に見事なバランスで配置され安置されていることに感激してしまった。

林西寺 本堂

隣接している林西寺の本堂も住職に案内していただいたが、ここもなかなか見ごたえがあった。この本堂は幕末の文久3年(1865)に再建されたものだそうだが、151年も以前に建てられたものだとはとても思えなかったし、欄間の龍の彫刻も素晴らしかった。

八坂神社

林西寺の右隣に八坂神社がある。明治初期にこの名前に改称されたのだが、以前は薬師如来を祀っていて、「薬師社」「牛首社」と呼ばれていたという。明治4年の神仏混淆禁止により宝鏡を神宝として中央に据えられたが、大正12年に出版された『石川県能美郡誌』によると「明治4年神仏混淆禁止の令あるに及び、宝鏡を以て神宝とし、左右に薬師如来及び干支の像を配す」とあるので、今も薬師如来が祀られているようである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978711/516

白峰地区の魅力は林西寺の文化財だけではない。冬には積雪が2m以上にもなる豪雪地帯であり、ここに建ち並ぶ建物は土地の気候と風土に適応した独特な風情を醸し出していて、集落の大半が重要伝統的建造物保存地区に選定されている

山岸家

上の画像は山岸家住宅で、白山山麓一八ヵ村を取り仕切る大庄屋の家だそうだ。敷地内には罪人を裁く白洲や牢屋の跡地もある。
ボランティアの方が説明してくれたが、最近まで実際に住んでおられたので、今は修理中のために中に入ることが出来ず、仏間だけを庭から見ることが出来る。

白峰伝統的建築物群

少し歩くと、道沿いに古い民家が立ち並ぶ場所があったので思わずシャッターを押す。
ゆきだるまカフェで冷たいジュースを飲んで休憩したのち、白山ろく民俗資料館(白山市白峰リ30 ☎076-259-2665)に向かう。

資料館には白山信仰に関する資料や、廃仏毀釈で破壊された石仏や、江戸時代の高札等の展示や、白山ろくの天領時代の歴史や、昔の冠婚葬祭や報恩講にかんする展示などがあった。
また広い敷地内に、かつて白山麓に存在していた6棟の古民家が移築されたのだが、うち旧織田家(県指定有形文化財)は修理中の為公開されていなかった。

旧杉原家

上の画像は旧杉原家(県指定有形文化財)で、江戸時代の旧白峰村桑島で村役人を代々務めた豪農の家で、石川県最大級の民家だという。

旧杉原家内部

前回の記事で記したとおり、この旧杉原家は手取ダムを建設によって水没する地域に建っていたのを移築したもので、中に入ると大きな囲炉裏のある部屋が二つもある。

旧長坂家

上の画像は旧長坂家(県指定有形民俗文化財)で、白峰集落から約6km上流の苛原(えらはら)地内で鉱山経営や木材業、養蚕等を行なってきた出作り*農家である。
*出作り:白山麓では耕地が狭いため、集落から離れた山中に住居を建てて農業や養蚕・炭焼に従事する生活様式であった。

旧小倉家

上の画像は旧小倉家(国指定重要文化財)で、旧白峰村桑島の旧家で天領期には代々庄屋を勤めていた家柄だという。

旧表家

上の画像は旧表家(県指定有形民俗文化財)で、旧尾口村東二口の旧家で代々道場役を世襲してきた家で、玄関上の2階の妻側に半鐘と板木がかかっている。

旧尾田家

上の画像は旧尾田(びた)家(国指定重要文化財)で、白峰集落から8km上流の五十谷地内で永住出作りを営んでいた家である。

資料館を見学したあと、国道157号線を走って白山平泉寺に向かう。
途中で昼食を取って白山平泉寺歴史探遊館(福井県勝山市平泉寺町66-2-12 ☎0779-87-6001)に入った。

白山平泉寺参道

白山信仰や白山平泉寺の歴史を解説するパネルやハイビジョン映像、発掘調査で出土した遺物などの展示を見た後、白山平泉寺の参道を進む。上の画像は精進坂の近くから一の鳥居を写したものである。

ここで、簡単にこの寺の歴史を振り返っておこう。

平泉寺は養老元年(717)に修験者の泰澄(たいちょう)が、ここから白山に登拝してこの寺を開いたとされ、平安時代中期から戦国時代には、白山信仰の越前の拠点として、最盛期には48社、36堂、6千坊の堂塔伽藍が存在し、僧兵が8千人いたという。
ところが、天正2年(1574)に一向一揆との戦いに敗れ全山焼失し、9年後に顕海僧正が平林寺に戻って再興したが、往時のような大寺院には戻れず、中心伽藍は再興されたものの、大部分は田畑や山林の下に埋もれてしまった
しかし江戸時代になって幕府から200石が朱印地として、福井藩から100石が白山社領として、勝山藩からも30石が寄進され、寛永8年(1631)には上野寛永寺末寺となって収入面で改善をみたのだが、明治に入って政府の神仏分離政策により、まず明治3年(1870)4月の太政官布告により寺号が廃止され、翌明治4年1月に寺領が没収されて経済的基盤を奪われ、明治5年には廃寺となり、住職の義章(ぎしょう)は還俗して神官となったという。
かくして「霊応山平泉寺」はすっかり仏教的色彩が廃され、白山社の本殿、拝殿、鳥居などが残されて「白山神社」と名前を変えられて、今日に至っている。

白山平泉寺境内図

上の画像は中世に描かれた平泉寺の境内だが、多くの仏教施設があったことが良く分かる。しかし一向一揆の戦いでほとんどが焼失してしまい、廃仏毀釈の直前にどれだけの仏教施設が残されていたかについては図会などが失われているためによくわからない。

白山平泉寺散策マップ

旧玄成院庭園

一の鳥居を過ぎると社務所がありその東側が国名勝の「旧玄成院庭園」とあるので入ってみた。
玄成院は天台宗平泉寺の塔頭*だった寺で、建物の東側が室町時代に作庭された廻遊式枯山水庭園であったのだが、今はすっかり苔むしてしまっていて、庭園に配置された庭石を確認できるだけである。
*塔頭(たっちゅう):寺院のなかにある個別の坊をいう。寺院を護持している僧侶や家族が住む子院。

白山平泉寺 御手洗池

そのすぐ先に御手洗池(みたらいいけ)という池があるが、昔は平清水と呼ばれていて、平泉寺の名前の由来となった池なのだそうだ。中央にある岩は影向岩と言い、泰澄大師がこの岩に向かってお参りしていると、一人の女神が現れ、その女神の導きにより大師は白山の頂上を極めたという謂れがある。

白山平泉寺 拝殿と礎石

二の鳥居を過ぎると拝殿があるが、天正2年(1574)の一向一揆で全山が焼失する以前は、この場所に45間*8分(83m)奥行7間2分(13m)の大講堂が存在したという。現在の拝殿は安政6年(1859)に建設されたもので、間口6間、奥行き4間と随分小さくなり、その左右には苔に埋もれた大講堂の礎石が多数残されている。
*1間=1.818m

白山平泉寺本社

そして拝殿の奥には本社がある。
間口3間1尺、奥行3間と決して大きな建物ではないが、総欅造りの立派な建物で、昇り龍・降り龍の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻が見事である。

白山平泉寺 納経所

本社から三の宮に向かう途中に納経所跡があったので立ち寄った。周囲には破壊された石仏が所狭しと道端に数多く積まれていた。一向一揆で破壊されたのか、廃仏毀釈で破壊されたのか詳しいことは良く分からないが、境内の石仏をここに集めたようである。

三の宮は安産の神様を祀っているところで、その左に楠木正成の墓がある。

加賀禅定道入口

そして三の宮の奥には、越前禅定道の入口がある。平成8年にこの道は『歴史の道100選』に選ばれたのだそうだが、かつては修験者達がここから白山を目指して行った道である。

白山平泉寺 中世石畳跡

もとの参道を引き返して途中で左に折れると、南谷三千六百坊跡の発掘現場がある。境内を挟んで反対側の北谷には二千四百坊があり、合せて平泉寺六千坊があったと言われているのだが、天正2年に全てが焼かれしまったという。
平成元年から南谷の発掘調査が始まって、上の画像のような石敷きの道に接して、計画的に配置された僧坊跡が発見され、中世の平泉寺が多くの僧坊を備えた宗教都市であったことが次第に分かるようになってきたという。

このように『白山平泉寺』は『平泉寺』という名前は残されたが仏教の施設は撤去されて、明治以降の正式名称は『白山神社』となっている。
しかしながら、この寺に関しては、明治の廃仏毀釈による破壊よりも一向一揆の門徒による破壊の方が、はるかに規模が大であったことを知るべきである。

ところが、真宗の信者の多い越前では、あまりにも強引な政府の宗教政策に反抗して、明治6年(1873)に僧侶や門徒たちが大規模な一揆を行なっている。(『越前護法大一揆』)

神々の明治維新

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)には、明治6年の越前の出来事をこう解説している。
「(越前)大野郡では『仏法廃止』に抵抗するための秘密組織が生まれ、村々が連印して、耶蘇宗の者が来たら蜂起することが約定された。3月6日、こうした同行の機先を制する目的で二人の指導者を逮捕すると、大野郡一帯で農民たちは蜂起し、『南無阿弥陀仏』と大書した旗をかかげ、竹槍をもって大野町地券役所を襲って焼きはらい、同町や近在で、富商・戸長役場・商法会社・高札場などを打ちこわし、あるいは焼いた。大野郡についで今立郡・坂井郡でも同じような蜂起がおこった。一揆勢は大野郡だけでも2万、その行動のはげしさにおいても規模においても、明治初年を代表する一揆の一つであった。」(『神々の明治維新』p.190-191)

もっと詳しく知りたい人は、「『福井県史』通史編5 近現代一」がネットで公開されている。この一揆で、大野郡で80人以上が捕縛され、6人が死刑に処されたという。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

このように、政府の宗教政策に反対して浄土真宗の門徒が起こした一揆は、越前だけでなく明治4年の『三河大浜騒動』や、明治5年の『信越地方土寇一揆』など、明治3年から6年の間に集中しているのだが、このような真宗門徒による一揆が全国で相次いだことが、冒頭で記した白山下山仏が林西寺に奇跡的に残されたことと無関係ではなさそうだ。

旅行から帰って調べてわかったことなのだが、白山平泉寺歴史探遊館を300mほど南に進んでいくと平泉寺観音堂がある。近くまで来ておりながら行きそびれてしまって非常に残念だが、その観音堂に「聖観音立像」という仏像が安置されているようだ。
この仏像は、天正2年の一向一揆の乱で観音堂が焼け地中に埋まっていたのを、平泉寺を再興した顕海僧正が掘り出したと伝えられているという。この仏像も、明治の廃仏毀釈を奇跡的に生き延びた。
そして平泉寺白山神社の一の鳥居に向かう精進坂の左手に、平泉寺の塔頭であった顕海寺がある。ここにも、平泉寺が山岳信仰の中心であったことを伝える鎌倉時代の金銅仏が2体残されているという。

平泉寺観音堂
【平泉寺観音堂:聖観音立像】

いつになるかわからないが、今度行く機会があれば顕海寺と観音堂に立ち寄って、一向一揆と廃仏毀釈という二つの大きな危機を奇しくも乗り越えてきた仏像を、是非とも観賞したいものである。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/ibuki/kannondo.html

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-396.html

高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-398.html

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html


関連記事
Comment
修験道とは
こんにちは。いつもお世話になっております。

今回も素晴らしい旅ですね。現地でなくては感じられない、様々な事柄の重さを伝えて下さりありがとうございます。

本地仏の安置されていた山の図絵に驚きです。
昨今修験道の寺院の奥の院等へ気楽に訪れ滑落する人がいますが、修験道とは何かをもっと勉強しないといけません。
私見はさておき、この仏様達が今でも残り、拝むことが出来ることに感謝ですね。しばやん様の記事を拝読しながらドキドキしました。

また、その土地のお寺側の宗派によっても神仏分離の禍が異なるのですね。とても興味深いです。
ひとつひとつ、現地で確かめる楽しみが増えるばかりで困ってしまいますわ。

客仏、という存在があるのですね。
さすがしばやん様です。さりげない一言がとても勉強になります!
神仏分離は仏教側にも神社にとっても災厄だったんですね。

旧住居、北海道にはないので珍しいです^^
このあたりは雪が多いから大変だっただろうな^^

Re: 修験道とは
つねまるさん、いつもありがとうございます。

今回の旅は、あまり深く考えず白山周辺を巡るつもりで宿を取りましたが、事前にいろいろ調べていると興味深い話がいろいろ見つかって、結構面白い旅程が組めました。

林西寺のお寺の住職の話も面白かったです。しかし、観光客は外には誰もいなかったのが残念です。廃仏毀釈のことを知れば、興味を持って訪れることのできる場所なのですが、わが国では学校もマスコミも、廃仏毀釈の話をほとんど伝えてくれませんね。

廃仏毀釈は宗派によっても違いますし、地域によってもかなりの格差があるようです。

「客仏」というのは、もともとその寺の仏像ではなく、他の寺院などから移ってこられた仏様のことを言いますが、確かにあまり使わない言葉ですね。

Re: タイトルなし
時乃★栞 さん、コメントいただきありがとうございます。

比較をすれば寺側の損害の方がはるかに多かったのですが、多くの文化財を失ってしまって霊場としての魅力を失い、参拝客を大幅に減らしてしまったところが多いのではないでしょうか。

北海道に行ったのは今まで2度だけですが、ブログを書き始めてからは1度もありません。アイヌの民家は屋根も壁も茅葺のような写真を見たことがありますが、今では残っていないのでしょうか。会社の勤務を終えれば、東北や北海道や九州に足をのばして、歴史散策がしたいものです。


廃仏毀釈なのですが、実際に破壊活動を行ったのは、氏子だけだったのでしょうか?
また、教育勅語の失効の議決はなされていますが、神仏判然令は、今日に至るまで廃止されていません。なぜ、でしょうか?
尚、ご存じかもしれませんが、歴史ねつ造は中韓だけではなく欧州にもあることレポートが、下記のサイトにあります。
雑誌Wedgeのweb版です。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7053
Re: タイトルなし
年金生活者さん、コメントありがとうございます。

全国各地で破壊活動が行われましたが、私の知る限りでは政府の役人か藩の役人が中心になって行っています。藩の役人と言っても、多くの場合は政府から使命を帯びて送り込まれているようです。

勅語とは、原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示であり、「教育勅語」はGHQの圧力により廃止されました。
「神仏判然令」は太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などの形で何度も出されている通達などの総称で次のURLに原文があります。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

太政官布告などは、それ以降に成立した法令に矛盾しない限り有効とする考えもあり、今も有効な太政官布告がないわけではありませんが、明治期に文化財を護る姿勢が打ち出されていますので、すでに無効になっていると考えて良いのではないでしょうか。

いつの時代もどこの国でも、為政者は、自国にとって、また自分にとって都合の良いように歴史を捏造しています。もちろん欧米も同様です。中韓がひどすぎるので、あまり目立っていないようですが…。
度重なる質問で恐縮です。
廃仏毀釈の実行部隊に関し、ブログ主様は、「全国各地で破壊活動が行われましたが、私の知る限りでは政府の役人か藩の役人が中心になって行っています。藩の役人と言っても、多くの場合は政府から使命を帯びて送り込まれているようです。」 とのご見解。
ということは、破壊対象は中央で決められており、破壊対象とされなかった寺院もあるということでしょうか?
泉涌寺、青蓮院その他の門跡寺院が襲われたということを聞いたことがないもですから、・・・・・。
Re: タイトルなし
私の情報源はネットと数冊の本だけなので、そんなに多くの事例を知っているわけではありません。
記録に残されているようなケースは、かなり激しく破壊されたから記録する人が多かったわけで、だから全国も同様であると考えるべきではありません。

政府から送り込まれた役人の熱心度合いは様々で、寺や文化財が物理的に破壊されたケースもあれば、地域によっては信者や僧侶が抵抗して寺や文化財が残されたケースも少なからずあります。

明治時代初期に物理的に破壊された寺もありますが、収入源を失った寺が経済的に成り立たなくなり、仏像等が売り払われたり、建物が売却された事例の方が多いのではないでしょうか。このケースを「破壊活動」と表現したことは、誤解を招いたようなので訂正させていただきます。

京都や奈良は、古い寺や仏像が数多く残されてきたと学生時代にイメージしていましたが、明治初期に奈良ではかなり大きな寺院がいくつも無くなっています。ことことはこのブログで紹介しました。

京都も、明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材とし四条大橋が造られたといいますから、かなり多くの寺が廃寺になったはずです。門跡寺院でも照高院が廃寺になりましたが、この寺は住職が還俗して東京に移住したために無住寺院となったもので、物理的に破壊されたわけではありません。
奈良の興福寺
何年か前、「奈良の旅」(松本清張、光文社文庫、昭和41年刊の本の文庫版昭和59年)という本が古本屋でタダ同然で売られているのをたまたま見つけて買いました。

興福寺の部分はほんの8ページですが、この寺の盛衰が、その本質を突きながら実によくまとめられています。

都が奈良から京都に移ったあと、パトロンを失った興福寺が、次第にあらゆる遊芸の座元となって、日本文化の伝統を支える存在として機能してきたことがよくわかります。そういえば私は若いころ世阿弥に傾倒(?)していた時期があって知ったのですが、彼の一座(結城座、のちの観世座)も、この寺を本拠としていて、彼も子供のころ巡業していないときは家族や一座の人達とこの寺に住んでいたようです。

興福寺は今もありますので、廃仏毀釈には会わなかったのかと簡単に考えていたのですが、実はさんざんな目に遭っているのですね。かつては壮大な大寺院だったようで、今残っているのはほんの一部らしいです。この本からちょっと引用しますと、

「興福寺は、高級僧侶が京都の公卿出身であった。彼らは、この運動(=廃物稀釈)が起こったとき、みな競って還俗し、春日の祇官となって、華族に列せられた。寺を捨てて保身を考えたのである。これを「奈良男爵」とよんで、奈良の人から馬鹿にされた。たが、けっきょく、その終わりをまっとうした家は少ない。」
「この結果、多くの建物や土塀はこわされ、わずかに鎌倉時代の北円堂と三重塔、足利時代の五重塔、東金堂、大湯屋がかろうじて、破壊からまぬがれた。仏像仏具経典の類は、おそらく数知れず失われたであろう。」
Re: 奈良の興福寺
一読者さん、コメントありがとうございます。

興福寺にかぎらず、奈良の大寺院の廃仏毀釈については、いろいろ書いてきました。

かなり古い記事ですが、興福寺に関しては以下を参考にしてください。

「悲しき阿修羅像」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

「外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-77.html

「次々に廃寺となった奈良の大寺院」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-79.html
リンクを付けてくださった三記事、読ませていただきました。ありがとうございます。実によく調べて書いていらっしゃいますね。というか、お寺さんのお生まれだそうですから、この方面は元々お詳しいのかも知れませんね。

しばやんさんのサイトは読みだしたばかりで、ゆっくりと読んでいると(リタイアしても野暮用に追われている毎日です)永遠に追いつけそうにないです。2014年以前の過去記事も、こちらへ全部移していただけるとうれしいです。まだ残っているのですね。頑張ってください。

この白山の記事は、記事といい、写真といい、地図といい、まさに保存版ですね。(よくああいう絵地図を観光地でもらいますね。私はあの手の地図が大好きです。すべてが視覚化されてて、ほんとにわかりやすいですよね。)

白山も一度行ってみたいです。 北陸新幹線が関西まで開通すれば速いのですけどね。新幹線の感覚で、たまに長距離を特急で行くと、びっくりするくらい時間がかかることに驚きますね。
Re: タイトルなし
一読者さん、ありがとうございます。

御察しのとおりお寺の生まれなので、学生の頃から廃仏毀釈には関心がありましたが、教科書や通史に書かれている内容がピンときませんでした。ネットでいろんな方の研究の一端を知ってから、少しずつ疑問が解けてきましたが、まだまだ公表されている史料は少ないようです。

旧ブログ(ブロガリ)の歴史関係の主要記事はこちらに移していますのでご心配なく。

写真を褒めて頂きとてもうれしいです。なるべく人を写さず、電柱や電線を写さないように心掛けて一回の旅行で200枚以上撮影していますが、それだけ撮ればたまにはいいものが撮れています。

白山周辺はなかなかいいところがあるので、おススメです。本場のトチ餅も是非、食してください。

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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