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応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える

前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。

東南アジアの夏の平均気温推移

このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような視点からこの時代を叙述している歴史書は少ない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』に、『シュペーラー極小期』の初期に土一揆が頻発したことについてどう記されているか気になったので調べてみると、こう書かれている。

惣村の形成
守護大名が大きな勢力をきずいてきた14世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。
 惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。
 こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。

土一揆
 農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。
 しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)

と、この時期に異常気象が相次いで何度も飢饉が起こり多くの餓死者が出たことを一言も書いていない。普通に読めば、農民が実力を蓄えて守護大名に対抗する勢力になったと理解するしかないのだが、農民が守護大名に抗して武力蜂起をおこすというのはどう考えても異常事態であり、この教科書のような説明に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

広域の飢饉発生年とその要因

前回の記事で紹介した田家 康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』には、土一揆が多発した経緯についてこう記している。

「まず一四二三年に京都、越中、山城、大和で、そして一四二七年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。一四二八年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長(しょうちょう)へと改元した理由となった。

 一四二八年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年八月、正長の土一揆が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等を悉(ことごと)く破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった

 一四三七年から二年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。一四四一年六月に足利義教が赤松満祐(みつすけ)によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す『代替りの徳政』を求める声が高まった。九月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏九月一〇日に徳政施行を発した

 一四四五年から一四四六年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で『止雨奉幣』が祈られた。そして、一四四七年(文安四)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際に土一揆が起こっているのであって、農民が階級闘争をはじめたかのような『山川日本史』の歴史叙述が正しいとは思えないのだ。

京都で武装蜂起した土一揆はどんな人々が結集し誰が主導したかというと、田家 康氏の論文によると当時の文献からは2つのパターンがあるという。
1つは惣村が関与した土一揆で、京都の酒屋や土倉といった金融業者に押し入り、借入証文の破棄という私徳政を要求したもの。
もう一つのパターンは村主導のものだけでなく、飢饉の発生によって村を離れて流民となった人々が、自力救済の行動として食糧や物資を強奪したものである。

田畑を耕して家族の生活が維持できるのであれば、農民が村を離れることは考えにくい。農民が耕地を捨てて流民となるのは、余程の飢饉が起きたか、刈り取る前に作物を奪われるなどして、村にいても生きていくことが出来なくなるような事態に陥ったということだろう。

「シュペーラー極小期」の始期とされる応永27年(1420)に大規模な旱魃が起こり、畿内と西国が大凶作となり、また翌年には各地で深刻な飢餓と疫病に襲われて、さらに応永28年(1421)には飢えた人々が難民となって京に殺到したという。しかしながら、京の人々も食べるものが無くなって、餓死者が続出するに至る。

飢餓と戦争の戦国を行く

そして嘉吉3年(1443)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

「この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。」(同上書 p.50-51)

さらに文安2年(1445)には各地を大きな台風が襲い、文安3年(1446)には大洪水があり、翌文安4年(1447)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。

そして13年経って、長禄4・寛正元年(1460)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛政2年の春に、将軍足利義政が錢100貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか6日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。
また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく20日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に300mもの長い堀を掘って埋葬したという。

一方で、京に流入した飢餓難民に仕事を与えてうまくいった事例もある。藤木氏は同上書でこう記している。

「15世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。」(同上書 p.55)

足利義政
【足利義政像】

将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正2年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

花の御所
【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】

将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう
その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました。世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちのとうぜんの務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。」(同上書 p.57-58)

このような事例のある一方で、土一揆で多くの建物が襲われて取り壊されたりしたのだが、では、どのような建物が破壊のターゲットとされたのか。藤木氏の解説を続けよう。

「しかし、もしひどい不況や飢饉になっても、金持が蓄財をだし惜しんで『有徳の人』らしい務めを果たさなければ、世の中はだまっていませんでした。『有徳の人』に『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでした。あいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。」(同上書 p.58)

では、なぜ食糧の生産地である農村が先に飢えて、消費地である京に飢餓難民が殺到したのか。この謎について藤木氏は都市社会学者の藤田弘夫氏が提起した仮説を紹介しておられる。

もはや中世の村は、その生産物でまず自分の暮らしを立て、その余りを首都に移出するという、自然な自給自足の村ではなかった。ことに周縁の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市である首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付け(モノカルチャー)が強制され、それを上納し販売することで、ようやく村の暮らしも保証されるようになっていた。
 だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムをもつ生産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させていた、首都をめざすことになったのだというのです。」(同上書 p.58-59)

藤木氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』における15世紀のわが国の記述は、『山川日本史』よりもはるかに説得力を感じるのだが、残念なことながらこの本は絶版になってしまっているようだ。
近い将来、この時代の通史が階級闘争史観から全面的に書き改められる日は来るのだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

金閣寺と足利義満の野望
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-112.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-456.html


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Comment
しばやんさん、こんにちわ。
いつも興味深く拝読していますm(_ _)m

気象から歴史を読むと説得力がありますよね。
昨今も異常気象が頻発しますが、これが
重機や冷凍設備の無い時代には
気の遠くなる事態だったろうと思います。

教科書の歴史の全てが悪いわけではないのですが、
従来と異なる視点、固定概念を疑ってみるのは
大切なことだと思います。

しばやんさんの記事はいつも大いに感銘を受けます。
これからも頑張って下さい!m(_ _)m
Re: タイトルなし
かめいとさん、嬉しいコメントありがとうございます。とても励みになります。

ご指摘のように、歴史は視点を変えるとさまざまな叙述が可能で、通説が正しい保証はありません。
固定観念を疑って、様々な観点から過去の出来事を見直す事が必要なのだと思います。

このブログを始めて7年近くなります。自分一人でノートに書くだけなら、こんなに長くは続かなかったでしょう。
いつまで話題が続くかはわかりませんが、読者の皆さんからエネルギーをいただいていることがとてもうれしいです。
気象と飢饉
こんにちは。いつもお世話になっております。
とても興味深く拝読致しました。このグラフを眺めているだけでも面白いですね。

以前、養和の飢饉により源平双方の動きが止まった事を『方丈記』から調べたのですが、1100年代後半は冷夏から猛暑へ変化していたのだなと思いました。

『方丈記』は都の有り様を述べていますが、なるほど各地の村の生産体制等が記事中の状況なら人々がモノの集まる所へ集中したのがよくわかります。

記事のように習ったなら、受験用にキーワードだけで覚えるのではなく、歴史の面白さを早くから知ることができただろうなと、少し残念な気がします。
Re: 気象と飢饉
つねまるさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

太陽活動にこんなに変化があり、これが歴史に結びつくことに最初に気が付いた人はすごい人ですね。
西洋が世界各地を植民地にしはじめた『大航海時代』も『シュペーラー極小期』にあたり、世界の歴史もこういう視点で見ることが必要な気がします。

確かにこのグラフをみていると楽しいですね。地球の温暖化も進行していることが良く分かります。

ネットで田家康氏の論文を見つけて読んで、ほかの著作も読みたくなって「気候で読み解く日本の歴史」という本を取り寄せました。今後ブログのネタに使うかもしれません。


日韓に潜む「竹島」問題。
行基図から読み取る7~8世紀
「おおやまつみ」古代名「鬼山衹」。オニ ヤマ キシ(コロモに氏)。 *「神」と呼ばれた中津國出雲王朝こと物部族も社で崇拝した。
―ー> 「大山衹」に変化し。
 現在 日本書紀の書き写し間違いから、「大山祇」になってしまった。
古事記
日本書紀
出雲國風土記
 三書のなかの「国造り」や「国引き」は苗木を植えること=「植樹する」。
なぜ? 鬼刀禰(おおとね)の金属器生産過程で国土の木々がなくなっていった。
 たたら製鉄は紀元前17世紀より始まった。1ヘクタールの森林を炭に変え、3日で消費し、わずかな「鉄」を手にした。
 これが、古墳時代に「鉄」だけでなく、「青銅器、銅生産」も行われようになる。邑南町立図書館本館蔵書「川本町誌歴史編」1977。 「霧の子孫たち」2002。
7世紀の終わり~8世紀に人麻呂・スサノヲ(不比等)・行基の3人と八咫烏と呼ばれた11名の鬼刀禰族が「植樹」をはじめた。
 古墳と呼ばれるものは金属生産遺跡&居住空間&最後は長(ヲサ)の墓。近隣の森林はなくなってしまった。
貝殻型古墳は青銅器生産遺跡。円墳は鉄器生産遺跡。方墳は青銅器・銅生産遺跡。前方後円墳は鉄・青銅・銅生産遺跡。
 通風孔は北極星の方向。考えられることは真反対の南側でガラスレンズで太陽光で火を熾した。
 広島県で不比等は「神武」と「スサノヲ」の名を使い分けた。ここから「神武」名で進んだ地は淡路→熊野→奈良。これが記紀の東征。
鬼刀禰(おおとね)は古墳&金属生産遺跡の壁面に書かれていた(だろう)文字を「鉄ノミ」で消してまわった。
 「溶融点」・・・たたら製鉄の砂鉄から鉄生産するには400度C~800度Cの炉(鈩)が必要。青銅器・銅生産は900度C~1100度Cの炉が必要になり。より多くの森林を失うことになった。
東海→関東(群馬では不比等と名乗った)→福島(浜通り・中通り)→青森(太平洋側)までは「スサノヲ」「ヤマトタケル」と名を使い分けた。
飛弾高山(熊野と同じように秦の始皇帝派遣の少年達の動向調査)→大和→出雲へ(不比等は)ヤマトタケルで移動(記紀では途中死亡)。

*この時の新羅というのが(石見・出雲の)国造り・国引きがウルルン島(鬱陵島)の苗木。新羅の都攻めもこの島より(300隻の軍舟)行われた。海名は「海東」もしくは「東海」かも知れないがこの島は、日本領と確信する。スサノヲ・行基・人麻呂・鬼刀禰族・小野族・和邇族・阿波忌部族・(群馬・蝦夷)鬼刀禰族の生活(暮らした)跡がある。
Re: 日韓に潜む「竹島」問題。
chikaraさん、コメント有難うございます。

面白いことを書いておられますが、それぞれ出典を示して頂ければありがたいところです。

しかしながら、たたら製鉄がそんなに低い温度で生産が出来るというのは信じられません。銅の方が鉄よりも溶けやすいのならば理解できるのですが、数字が間違ってはいないでしょうか。
溶融温度
*溶融温度 www.nikko-yozai.co.jp_wp_wp-content_themes_nikko_pdf_reference_reference06.pdf-Adobe
鉄器と青銅器の製造・加工ならびに溶融点

青銅器とは銅と錫(すず)の合金で加工。・・・・青銅剣(刀)など。
 800~900°Cで製造・加工できる。900度の炉が必要。

鉄器。・・・・鉄剣(刀)、鎌、斧、鍬(くわ)など。
 400~800度で製造・加工できる。
  砂鉄400度から可能。
  鉄鉱石600度から可能。

銅。・・・・融点は1083度(約1100度)で古代では銅鐸、鏡など。

純鉄。融点は1535度。
鉄から青銅・銅へ
海から見て「八頭龍と一つの胴体」を紙に書いて眺めると胴の部分は「底」となる。「川本~江津」のこと。
スレ50 底の国:人麻呂の伝承「水を潜って海神の国。地を通って根の国、底の国に抜けると出雲の国へ出る。」
底の国をパソコンでみると。「西中国・にしなかくに」再度パソコンでみると。
「細戈千足国=サホコチタル・ホソホコチタル・ソコチタル」パソコンの解説を記すと。
もともとサホコチタル国は根国の一部であったようで、根国との区別があまり明確でない。
「ホソホコチタル」の意味は精巧な武器(戈や鏃・やじり)をつくる人たちがいた地。
「川本町誌」歴史編p31.32 p46.47で「瑞穂町・長尾原遺跡」内容が書かれているが、大集落となる「たたら製鉄」の遺跡とおもわれる。
そこの住人が激減したとき、川本地区の人口が激増している。
江津市大字後地に「波来浜遺跡」がある。墓のよせ集めで、その1つB二号墳第一、第二、第三、第四、第五の主体が収められているが、副葬物がバラエティー。
・第一主体、八個の土器と1本の鉄鏃。
・第二主体、二個の土器。
・第三主体、土器三個、鉄鏃銅鏃各二本。
・第四主体、土器一個、銅鏃二本。
・第五主体、土器一個。
8世紀の初めに海(江津)~川本(江川沿い)までの国・底の国が存在した。

以上のことから鉄から銅の生産に切り替わった。しかし、農耕の「鎌」だけは鉄でなければならなかった。
これは、仮説だが、前方後円(墳)の「方」の部分で銅を生産し、「円」の部分で」鉄を生産した。

解明するため島根・邑南町「邑南町立図書館」の河瀬正利先生寄贈の3000冊・「河瀬文庫」の乱読と目録・エクセルで作成中。
やまたのおろち
「八岐大蛇(やまたのおろち)」
古事記で出雲国と記載があるが、実際は「江の川」。記紀と伝承から古代神社とゴウ川の関係。

 古代人は
龍龍龍
龍龍龍
龍龍龍(ごう)川と書いた。

 スサノヲと鬼刀禰(おおとね)が上根に到達したとき、すでに物部族が「龍山(たつやま)」にオオヤマツミの社を建てていた。この社の為、出雲の国と間違った。

 九頭の龍から「龍山(神社)」に一頭とられ八頭龍になった。上根の地には簸川(ひのかわ)が流れ。大蛇の伝説がある。”女が井戸のそばで洗い物をしていたとき、櫛を井戸に落し飛び込んで取ろうとした。女は大蛇に変身し櫛をくわえ出て、川を下って行った”。→櫛名田姫・・・古事記。

 簸川の下流の可愛(えの)川流域でも大蛇や神武の「宮の城」進駐。稲田川(現在は多治比川)・稲田橋。→奇稲田姫・・・日本書紀でも安芸の国と記載。スサノヲと清(すが)神社。「やまたのおろち」は「江の川」。

*広島県安芸高田市八千代町上根。分水嶺ちかく。
 大蛇の出現場所=簸川の水源=国王ヶ池(ごこうヶいけ)。
Re: やまたのおろち
chikaraさん、コメントありがとうございます。

鉄は400度や600度では溶融するのではありません。ただその温度だと酸化した鉄が還元されて、燃焼の過程で不純物が抜けたあと、穴ぼこだらけの鉄の塊(海綿状鉄)ができるようです。温度が高ければ水あめ状になり加工が可能とのことですが、不純物が多いために柔らかいものしかできないので、実用的ではなかったと思われます。
http://55096962.at.webry.info/201402/article_24.html

硬度の高い鉄器を作るには1400度以上の高温を保つことが必要です。
日立金属のホームページにたたら製鉄の話がありますので、参考にしてください。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020611.htm
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Re: 古墳群と砂鉄と水(川や沢)の関係。
chikaraさん、記事と関係のないコメントを一方的に書くのはやめてください。
自分の研究成果の開陳は、自分のブログを立ち上げて発表するようにしてください。
海綿鉄プラント
日立安来といえば、海綿鉄即ちスポンジアイアン操業に興奮を覚える。あの、仕事は、圧力計、電流計,温度棒のみで、炉内を把握する、極めて気を遣う操業であったはず。驚きです。
Re: 海綿鉄プラント
吉田さん、コメントの内容が良く理解できないのですが、比較的低い温度でスポンジアイアンを取りだして、それを鍛錬して鉄でない部分を取りだせば、立派な鉄になるということなのでしょうか。日立安来ではその製法で鉄が作られたが、わが国でも古くからその製法で鉄器が製造されていたということなのでしょうか。
参考になるサイトのURLなどをご教示していただくとありがたいです。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

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また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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