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アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1

京都にいる親しい友人から、近所に「キスカ島撤退作戦」を体験した中村さんという方がおられるとの情報が入り、その方の話を友人と一緒に聞くことになった。

中村さんは大正14年(1925)のお生まれで91歳という高齢ではあるが、大変お元気で、言葉もしっかりしておられたのに驚いた。
2時間近くお話を伺ったが、私にとってはこんなに長時間にわたって戦争の体験談を直接聞いたのは初めての経験で、いろいろ勉強になることが多かった。しかしながら、中村さんは日本軍がキスカ島占領して8カ月後の昭和18年(1943)2月にキスカ島に派遣された方であり、キスカ島での任務は半年程度と短く、奇跡の撤退を経験した当時は18歳の海軍一等水兵であり、立場上知りえないことが多々あったことはやむを得ないことである。

キスカ島占領から撤退にいたるまでの詳細ならびに軍の方針や戦略的なことなどはこの本を読んで確認してほしいということで、キスカで任務にあたったメンバーの貴重な体験談や作戦に関与した幹部の証言等が綴られた『キスカ戦記』(原書房刊)を中村さんからお借りすることとなったのだが、この本の「まえがき」に、この本が昭和55年(1980)に発刊された経緯が記されている。

キスカ戦記

「…この間、幾多の日米両戦士の生命を失った死闘が続けられていましたが、僅かに公刊戦史がその経緯を述べ、個別の私記あるいは特定の戦闘に関する断面が喧伝さているのみで、大多数の人々の生々しい体験については記録されておらず、その全貌はあたかも霧の中に埋没された儘のようになっておりました。戦後この作戦に参加し生き残った人々が相集いキスカ会を結成、毎年恒例として東京を始めゆかりの地において慰霊祭を施行して参りましたが、年々当時の青年も壮年もやがて老年ともなり櫛の歯の抜けるようにこの世を去りつつあり何時かは消える運命にありますが、一昨年厚生省当局のお骨折りでアリューシャン列島戦跡慰霊巡拝団派遣を機に、特別会員徳永正三氏等から、元気な者が残っている間に各自の体験を記し、遺しておこうではないかとの強力な発案があり、総会出席者全員の同意する処となり、会の事業としてとりかかることになったのであります。…」(『キスカ戦記』p.5)

この本が出版されてからすでに36年が経過し、「奇跡」と言われるキスカ撤退を経験した最も若い世代にあたる中村さんがすでに91歳なのだから、この本を執筆したメンバーのほとんどは既にこの世を去っていることだろう。軍隊で責任ある立場にいた人の話を直接聞くことのできる時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているのだ。

しかも初版の定価が2600円というのは当時としてはかなり割高で、この本が一般の読者にどの程度売れたかについては良く分からない。

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミは『軍隊は悪』とのイメージを拡散し続け、そのために私も含めて戦争を知らない世代の多くは、あの戦争の最前線で苦労をされた兵士のことについて関心を持たないまま過ごしてきた。新聞やテレビは、空爆や原爆の悲惨な体験談を紹介することはあっても、兵士としてこの戦争を体験した人の貴重な話を紹介することはほとんどなかったと言って良く、この『キスカ戦記』が出版された2年後(昭和57年)の宮沢談話以降は、マスコミと教科書の左傾化が進行していくばかりだった。

しかしながらキスカの作戦に加わった主要メンバーが『キスカ会』を立ち上げて、メンバーが健在なうちに体験談を本に纏めておいたことには意味があったと思う。
本というものはいわばタイムカプセルのようなもので、当時のマスコミが兵士の体験談を意図的に採りあげなかったにせよ、本にしておけばいずれ世の中が変わって誰かが読み、いくつかの文章が紹介される可能性が残る。『キスカ会』がこの本の出版を決意したのも、そのような思いが少しはあったのではないだろうか。

そして昨今、学校やマスコミを通じで戦後垂れ流され続けてきた歴史叙述に嘘が多いことが、ようやく国民に広く知られるようになり、通説とは異なる視点から太平洋戦争のことを考えようとする人が明らかに増加傾向にある。

このような時期に、91歳の中村さんが私にこの大切な本を預けられたことの意味を考えてみるのだが、中村さん自身は軍隊の責任ある立場ではなかったために、キスカ島で起こった出来事を、正確にその背景から語ることは難しい。しかしながらこの本には、然るべき立場の人が思いのたけを記しておられる。どうかこの本の内容の一部でもブログに紹介していただいて、キスカ島で国を守るために共に戦った兵士たちのことを若い人に伝えてほしい。そういう思いで中村さんは大切な本を私に託されたのではないだろうか。

私の筆力でどの程度のことが伝えられるかはわからないし、何回の連載になるかも不明だが、しばらくこのブログで、日本軍がキスカ島を占領してから奇跡の撤退を果たすまでの経緯を、この作戦に参加した兵士の手記などをなるべく引用しながら記すことにしたい。

キスカ島はアリューシャン列島西部のラット諸島に位置する島で1741年にヴィトゥス・ベーリングによって発見され、1867年にロシアからアラスカを購入した際にアラスカ本土と共にアメリカ領となっている。

アリューシャン列島

まず地図でこの島の位置を確認しておこう。アラスカのハイテン岬から髭のように長く伸びたアリューシャン列島の西部にキスカ島があり、さらに約300km西にアッツ島がある。
キスカ島の面積は277.7㎢で、わが国の西表島(289.6㎢)よりも狭いのだが、わが国はなぜこんな狭い島を攻略したのだろうか。その経緯を知るためには、太平洋戦争で日本軍の快進撃が続いた頃にさかのぼる必要がある。

わが国は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃以降太平洋の西海岸に展開し、12月20日頃から潜水艦からの攻撃による連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。そして翌年の2月24日にはカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油精製所への砲撃に成功し、これまでほとんど本土を攻撃されたことのない米国政府・国民に大きな衝撃を与えたという。

このような状況を受けて米軍は首都東京を攻撃する計画を練るのだが、米陸軍航空軍の長距離爆撃機の行動半径内に日本を収める基地がないため、同盟国の領土に着陸させるプランが検討されるに至る。

昭和17年(1942)4月18日に米軍は航空母艦に搭載した米空軍のB-25爆撃機16機によって、日本本土に対する初めての空襲が実行され(ドゥーリットル空襲)、東京、川崎、横須賀、名古屋などが爆撃されて、民間人が87人死亡したほか、潜水母艦1隻が小破し、監視艇5隻が沈没する等の被害が発生した。

B-25爆撃機
【B-25爆撃機】

ドゥーリットル空襲で用いられたB-25爆撃機の航続距離は4300kmで、往復を考慮すると作戦行動範囲は2170kmとされるのだが、この空襲においてB-25は空母に戻らず、日本列島を横断して中華民国国軍の飛行場に着陸したのだ。

ドゥーリットル空襲の規模は決して大きなものではなかったのだが、日本陸軍は二度目の本土空襲を防ぐために、支那派遣軍に命じて浙贛(せっかん)作戦を実施。5月中旬から9月にかけて、中国側の着陸基地を破壊し占領した。

アリューシャン列島地図

またすでに内定していたミッドウェー攻略作戦の実行が急がれることとなる。
ミッドウェー島はハワイの北北西2100kmにある環礁で、その中に多数の島々がありミッドウェー諸島ともいう。ちなみにミッドウェー島から東京までの距離は4100kmである。

ミッドウェー島
【ミッドウェー島】

そして5月5日にミッドウェー作戦とアリューシャン諸島占領作戦が認可され、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成されたのである。

アリューシャン諸島占領作戦はミッドウェー作戦と同時に行われたのだが、その作戦を同時に実施した目的はどこにあったのだろうか。『キスカ戦記』にはこう記されている。

「陸、海それぞれの公刊戦史は、この間の事情を次のように伝えている。
『アリューシャン攻略作戦が決定された経緯については問題はなかったけれども、その作戦目的については関係者の回想は必ずしも一致していない
すなわち、福留繁軍司令部第一部長は『本作戦はミッドウェー作戦内定に付随して新たに企画されたもので、ミッドウェー作戦を実施しても米艦隊が出撃して来るとはからないので、その出撃強要を一層助長する手段として採用した』と回想しており、ミッドウェー作戦の補助作戦の意味を含めている。また、
 富岡定俊軍司令部第一課長は、戦術的にミッドウェー作戦の牽制作戦の意味を持たせたと回想している。また
 軍司令部第一課の航空主務であった三代辰吉部員は、米ソの連絡を妨害してシベリアを基地とする米航空部隊の本土空襲を予防する点を重視し、アリューシャン西部要地に大型機を進出させて哨戒すことは、気象などの関係から実施困難で、航空兵力の消耗が大きいことを予想して反対であったと回想している。
 連合艦隊司令部の関係者は、米国が大型機をアリューシャン西部に進め、わが本土を空襲する企図を先手を打って押さえるとともに、敵の北方進攻略を未然に防ぐのが目的で、ミッドウェー作戦の補助作戦とする考えは全くなかったと回想している』」(『キスカ戦記』p.7-8)

アリューシャン諸島占領作戦で日本軍が占領しようとしたのはアッツ島とキスカ島なのだが、アッツ島から東京までは3200km、キスカ島から東京までは3500kmだ。
太平洋には島らしい島はわずかしかなく、米軍機に日本本土への空襲をさせないために、日本列島に最も近いアメリカ領の島を押さえることは戦略上必要であるとの判断が優先されたのだが、占領期間はいつまでなのか、航空基地をつくるかどうかで意見が割れていた。

中沢佑
【中沢佑海軍中将】

当時第5艦隊参謀長であった中沢佑海軍中将はこの作戦に関しこう述べたという。
「…私は(要地占領を夏期のみ、航空基地を造成しないという連合艦隊参謀の案に承知せず)、自分の信念に基づいて根本方針を主張した。その結果、連合艦隊は、守備隊は冬季に入るも撤収しない、但し有力なる航空基地は置かず、僅かの水上航空兵力を置くこととした。<これが妥協の産物であった>
 連合艦隊司令部の幕僚にも、海洋中の島嶼(とうしょ)占領は恰(あたか)も陸戦における要地占領の如く考え、制空、制海権を確保するにあらざれば、占領の意義なきのみならず、却って、補給の負荷となることを理解していないものがあったことを遺憾に思う」(同上書 p.9)

一旦はミッドウェー、アリューシャン両作戦は海軍だけで実施することが決定されたのだが、ドゥーリットル空襲によって再び方針が変更される。

「軍令部はこれが対策として本土東方哨戒を厳にするため、哨戒基地を前進するにはミッドウェー攻略を最も有効な手段と認め、連合艦隊のミッドウェー作戦に釈然としていなかっ作戦課も、一転してその攻略ならびに攻略後の保持対策に熱心になった。
 一方、陸軍部は両作戦〈ミッドウェー、アリューシャン〉に陸軍兵力を出さない方針であったが、この空襲により哨戒基地前進の必要を認め、なるべく早く返すよう考慮する条件で陸軍兵力の派出を海軍部に通告し、21日それを決定した。」(同上書 p.10)

この度重なる方針変更が、両作戦の準備にかなりの混乱を招いたようだ。

『キスカ戦記』に海軍少佐の向井一二三氏の手記がある。向井氏は施設本部から『キスカ島基地設営計画』なる機密文書を手渡されて驚いたという。
「そこにはGF(連合艦隊)司令部の短期進駐の方針とは全くかけ離れて、半永久的根拠地設営ともいうべき厖大な資材と施設計画が用意されていた。陸戦隊固有の兵器・弾薬・糧食・医療品、その他の軍需品と併せて1万屯(トン)級と7千屯級と二隻の輸送船が充当されているのを見ても如何に厖大な計画であったかがうかがえるだろう。熾烈な敵の砲爆撃を顧慮して案画されたものとは到底思えない」(同上書 p.21)

また海軍軍医大尉としてキスカ島に向かった小林新一郎氏の手記には、
「…1千名もの兵器、器材から被服糧食その他およそ戦いと人間生活に必要な、ありとあらゆる物資の、しかも幾月分かを準備しなければ、不毛の地と予想される彼地において生きていくこともできない。
 これらの夥(おびただ)しい量の物資を、短時日で搭載することがいかに困難であるか、まったく想像を絶するものがあった
。直接その任にあたった甲板仕官、浅井少尉らの苦労たるや到底筆舌に尽くし得ない所であった。

目指す敵地!勿論攻略せずにはおかない。しかし、…果たして補給は完全に出来るだろうか。余りにも飛び出した部隊は全体としての戦略的弱点を形成しはしないだろうか。戦術の何物かを生かじった私はふっとそんな不安が胸に湧いて、じーっと地図を見つめたまま動かなかった。…」(同上書p.28-29)

米軍の空母や大型機の基地を撃滅して本土空襲を防止することが当初の目的であったはずなのだが、ミッドウェー島やアッツ島、キスカ島を攻略し占領して基地を設営するとの色彩が強められていったのである。

『キスカ戦記』では、両攻略作戦発動についてこう纏めている。
わが戦争指導部と実戦部隊は、根本的思想の統一と理解を欠いたまま、戦場方面に対する貧弱な智識――敵情、兵要地誌、天候、気象など――を克服できぬまま、あわただしく両作戦の準備に着手し、相当な無理を押して兵力特に水上部隊、航空部隊の移動、集中を行い、5月25日を先陣に両作戦部隊は基地を出撃、運命の大作戦の幕を切って落としたのである。連合艦隊司令長官山本五十六大将も、海軍記念日の5月27日、主隊を率いて出撃した。」(同上書 p.10)

一方、米軍は日本軍の暗号電文を解読し、ミッドウェーとアリューシャン列島に日本軍が進撃するとの情報がいち早くニミッツ太平洋艦隊司令長官に報告されていたのだが、そのような事態を知る由もなく、わが国の攻略部隊は必勝の意気に燃えて次々と出撃して行ったのである。
<つづく>
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【ご参考】
太平洋戦争関連はいろいろな記事を書いてきました。マスコミなどで伝えられていない歴史に興味のある方は、ちょっと覗いてみてください。

太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-222.html

なぜ日系人だけが強制収容所に送られたのか~~米国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-268.html

強制収容所の日系人が米軍を志願した理由は何だったのか~~米国排日9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-269.html

GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-406.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html


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Comment
前線の兵士の生の声を出版化するのは、戦勝国の描いた歴史に都合が悪くてタブーの空気になってたんじゃないでしょうか。

ようやく真実が明らかになりつつある時代になったんですね。
Re: タイトルなし

時乃★栞 さん、コメントありがとうございます。

戦勝国が描いた歴史は、日本だけが悪かったという歴史であり、日本の軍国主義が悪かったという単純なものですから、その歴史をわが国で定着させるために、兵士に共感を感じさせるような内容の番組は作れなかったのでしょうね。

今もマスコミのスタンスはあまり変わりませんが、ネットではタブーは維持できませんので、いずれ日本人の歴史観も変わっていくように思います。
米本渡砲撃
サンタバーバラ砲撃は、「ポンプ小屋が壊れており、FBIが調査して日本軍の仕業ではないかとわかった。」と言いますからたいしたこともなかったようです。もちろん情報操作もあるでしょうが、結果的には、おっしゃるような「国民に大きな衝撃」はなかったですね
Re: 米本渡砲撃
どの程度の被害が出たのかは良く分かりませんでしたが、「ポンプ小屋が壊れており、FBIが調査して日本軍の仕業ではないかとわかった。」という具体的な記述は初めて読みました。もしよろしければ出典をご教示下さい。

しかしながら、たとえ被害が大きくなくとも、「国民に大きな衝撃が無かった」とは言えないでしょう。
事実アメリカは、サンタバーバラ砲撃を受けたその翌日に、同じ南カリフォルニアのロサンゼルス近郊において、アメリカ陸軍が日本軍の航空機の襲来があったと誤認し、多数の対空砲火を行った「ロサンゼルスの戦い」が発生しています。この際に対空砲火の落下弾により3人が死亡し、日本軍上陸の報に驚いた市民が心臓麻痺で3人死亡、ほかにも多数の家屋や自動車などが損壊しましたが、この日に日本軍が空襲をかけた事実はありません。
また、その後アメリカは日系アメリカ人を強制収容していますね。
http://www.weirdca.com/location.php?location=309
ブリキのドアが壊れて500ドルの損害だそうです。

本当かどうかはわかりませんが、少なくともこのように報道されて、アメリカ国民には「大きな衝撃」ではなかったでしょうね。
Re: タイトルなし
ご教示いただきありがとうございます。

いずれの国も、戦争については自国の勝利は誇大に書き、自国の損害は小さく報道するようですね。
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