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キスカ上陸後、すぐに米軍の反撃が始まった~~『キスカ戦記』を読む3

前回は昭和17年(1942)6月7日に日本軍がキスカ島に無血上陸したことを書いたが、米兵がいなかったわけではなかった。上陸後2名がすぐに捕まり、残りの8名も大浜海岸に投降してきて捕虜としたが、全員戦意はなかったという。

上陸したのち、すぐに機材の陸揚げがはじまったのだが、これが大変だったようだ。
海軍大尉の柿崎誠一氏の手記によると、
揚陸海岸はたちまち物資の山となり、それを内陸に運ぼうにも湿地のため堅固な道路を開設せねばならなかった
 それこそ、陸戦隊員・設営隊員さらには捕虜まで総動員し、昼夜兼行で作業を実施したが、なかなか思う通りには進まなかった。」(『キスカ戦記』p.40)

「昼夜兼行」といっても、6月のキスカ島の昼は長い。設営隊員であった北村富造氏の手記には、
白夜のキスカ島は夜でも明るく、午前二時には起床である。それから十六、七時間というもの荷揚げ作業の連続であった。食事は一日四回。眠る時間は四時間」(同上書 p.57)
と記されている。

では、キスカ攻略部隊の兵士たちは具体的にどんな作業をしていたのだろうか。兵装隊長・海軍少尉であった菅恭彦氏の手記を紹介しよう。
現地はいわゆるツンドラ地帯で、木は一本もなく、野菜も育たず、全部内地から運ばねばならなかった
 木柱をつないで無線のアンテナを立て、長波・中波・短波のアンテナを張り、多数の無線機を設備した。
 谷あいにディーゼル発電所を造り、配電設備を架設して、指揮所・無線通信所・電波探信儀・兵舎等に電気を供給した。発電所は占領期間中、一度も爆撃の被害を受けず完全に任務を全うした。
 敵の無電をキャッチして敵の方位を測定するため無線方位探知機を山上に設備したが、この建物は金属を一切使用しない木造であった

 また、キスカ湾の入口には、敵潜水艦の侵入に対する警戒のため水中聴音機を設置した。」(同上書p.55)

軽巡洋艦 木曽
【軽巡洋艦 木曽】

しかしながら、キスカ島を占領して5日目の6月12日に、早くも米軍機による集中爆撃を受け、それ以降何度も空からの攻撃が行われて、基地を整備する作業は中断されてなかなか進まない。しかも、難を避けるために軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊は18日にキスカを去って北千島に戻ってしまい、キスカ島にはわずか数隻の輸送船と陸上部隊だけが残されたという。
そして6月19日には油槽船日産丸が爆撃されるに及んで、20日には大型輸送船白山丸、球磨川丸2隻についても揚陸作戦を中止して内地に引き揚げることとなり、食糧は陸揚げしたものの、この離島で守備に当たる防備部隊には不可欠の資材を積み残したまま帰投してしまった。キスカ湾に残されたのは爆撃で焼けた日産丸と、三隻の駆潜艇のみとなったという。

海軍は兵士を避難させる事よりも船を避難させることを優先させたわけだが、このことは兵士たちにとっては、さぞ不愉快でありまた心細かったことだろう。海軍主計大尉の小林亨氏の手記には、表現は抑えられているが素直な思いが書かれている。

戦いで守ること〈防御〉、防御力のない地上部隊の対空専守防衛ほど人的心理を害するものは無い。戦いは、まさに死を知らずして猛烈に勇奮することに〈こそ真骨頂が〉あると思われる
 21日。曇天時々晴。荷揚げ作業が〈したくても〉無いので、全員防空壕掘りに力を注ぐ
 土中生活に徹底することが目下の急務である。意思なき敵爆弾によって不可抗力的に聖天せしめられては、なんとしても死にきれぬ。」(同上書 p.76)

軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊や2隻の輸送船が去っていった後のキスカ島には、どれだけの兵力が残されていたのだろうか。
軍医の小林新一郎氏の手記にはこう記さている。

兵力としてはわが舞三特が600の1コ大隊で、これが陸上兵力として計算に加えることのできる唯一のものであった。
 東港空支隊の基地員も約200はいた、が飛行機のない航空隊くらい意味のないものはないし、地上火器を持たない素手の基地員は陸上兵力としては加算できない。そのほかに、舞三特付属として基地設営のための工員が約300名いたが、これとても全くの丸腰で兵力としての数に入れることはできない
 有する兵器はどうか。
 まず飛行機であるが、神川丸〈特設水上機母艦、キスカ攻略部隊協力の水上機部隊に編入され、16日キスカに入港した〉の観測機4機――内1機は不時着して修理中を更に爆撃され大破――であるが、これがボーイング等の大型機に対しては全く無力である
次に大切な対空火器であるが、これも誠に心細いもので、舞三特米岡高射隊の有する四門の中、何とか射撃できるようになっているのが僅かに二門である。…
 高杉山の十三粍(ミリ)機銃四門が景気よく火を吹いて頼もしげであった。ところがこれが〈後日〉撃墜された大型機の装甲板に対して300米(メートル)の距離で射撃してみて、これを貫通し得なかったのにまったく驚いた。
 こうした心細い状態で、しかも敵中に深く突出して孤立無援の状態に取り残されたのが当時のキスカ島部隊であった。
 頼みとする友軍は遠く後退し、自らの実力は言うに足りず、後援続かざる絶海の孤島に、待つあるを恃(たの)む能わずして、ただ 来たらざるのみを恃まざるを得ない状態になってしまった
。」(同上書 p.73-74)

水上戦闘機
【水上戦闘機】

しかしながら、しばらくしてキスカ島に増援部隊が送られることとなり、7月5日に水上機母艦千代田と輸送船アルゼンチナ丸が濃霧の中を入港した。千代田には水上戦闘機が6機搭載され、アルゼンチナ丸には、ミッドウェーに上陸予定であった800名の将兵が新鋭の高角砲や重砲を携えていたという。ところが、そのあとに続く駆逐艦3隻が、入港を目前にして米潜水艦の砲撃を受けて1隻は沈没し、2隻は現地では修理不能のために濃霧の中を北千島に戻されたという。
その後も、毎月のように輸送船・潜水艦など数隻が米軍の攻撃を受けて沈没させられたり破壊されたりしている。

水上機母艦 千代田
【水上機母艦 千代田】

『キスカ戦記』の第7章に孫子の兵法書地形篇の一節が紹介されている。

「『地形には…挂(かい)なるものあり…挂なる形には、敵に備えなければ出でてこれに勝ち、敵もし備えあれば出でて勝たず、以て返り難くして、不利なり』と、また
『遠なる形には、勢い均しければ以て戦いを挑み難く、戦わば而ち不利なり』と。
 つまり、挂(かい)というのは、敵が無防備ならば遠征して勝利を得られるが、敵が防備を固めている場合の遠征はまず勝ち目がない。特に、敵に主導権がある場合は撤退困難で不利である。また本国から遠く離れている戦場には、彼らの戦力が同等ならば決して戦いを挑んではならない。遠隔であることの不利が、われに苦戦を強いるからである。
 アリューシャンの戦場はまさに挂(かい)なる形であり、遠なる形であった。無血占領は容易であったが、反攻の度合いが増大するに比例して撤退は困難となり、本国を遠く離れ、有勢なる敵と対戦するの不利は顕著となり、味方航空、艦艇戦力の衰えるにしたがって戦場は益々遠くなり、苦戦敗色の濃くなるのを如何ともすることができなくなっていった
。」(同上書 p.154)

孫子の兵法では、わが国の本土から遠く離れた絶海の孤島を占領することは、戦いを敗北に陥れる要素として戒めているのだが、大本営は、船の損害が多数出ているにもかかわらず、占領した2島を長期確保してわが国の北辺の防衛体制を強化するために、キスカ・アッツの2島に飛行場を建設する方針を決定し、地上防備兵力特に防空部隊の増強をはかりだしたという。

『キスカ戦記』に海軍水兵長の中村秀雄氏がキスカ島の飛行場建設のことを書いている。
昭和18年2月頃から飛行場建設が始まり、設営隊だけでなく、われわれも作業に出かけ、元気まかせに突貫工事に精を出した。今思えば時代遅れの工法で、いわゆるツルハシとスコップにモッコ、辛うじてトロッコで土砂運搬だから作業は遅々として進捗しない。」(同上書 p.142)

先日に私が友人と話を伺った中村さんは、昭和18年2月に対空防空部隊としてキスカ島に派遣され、武器弾薬の運搬と防空隊本部の防空壕掘りと弾庫掘りの作業などを行ったという。この季節のキスカ島は、日照時間はわずかしかなく、寒さが特に厳しかったという。

中村さんと同じ時期にキスカ島に入った、海軍一等水兵の芝田耕氏はこう書いている。

「上陸第一日目は機銃弾の運送作業で、吐く息が防寒帽の前の部分の毛の所一面に凍結して氷柱(つらら)が下ってくる。午後3時頃になると、あたりが暗くなり早くも夕方になる。朝、明るくなるのが9時過ぎで昼間が非常に短いので、作業時間が少ないために陣地構築は捗らず、居住のための幕舎の設営も出来ないので、キスカ湾大浜海岸の水上飛行機の木造格納庫で夜を明かすことになった。コンクリートの床の上に毛布を敷き、全員に配給された焼酎を飲み身体が温まった勢いで寝た。朝、目覚めると、格納庫の隙間から入った雪が、寝ている毛布の上に白くなって積もっている。」(同上書p.97)

その翌日はすごい吹雪で、格納庫がミシミシと音を出して揺れ出したので、風呂場に退避したのだが、朝起きて格納庫を見てみると、強風で屋根が吹き飛ばされて完全に倒壊していたことが芝田氏の手記に書かれているが、このことは中村さんも話しておられた。

このような作業をしている時に米軍機に襲われて被害が出たことも何度かあったようだが、中村さんの話ではキスカ島は雲や霧に覆われて視界が悪いことが多く、米軍機からも攻撃目標を確認できないまま適当に爆弾を落としていくようなことが多かったという。
今の爆撃機なら悪天候の中でも目的物を狙って破壊することが可能なのだろうが、当時の爆撃機は操縦士の視力に頼らざるを得なかったようで、「天気の悪い日には空襲は少なく、視界の良い日には空襲があると警戒した」のだそうだ。また、飛行機から爆弾が投下された時には、「(飛行機の飛ぶ方向で)自分のいる場所が安全かどうかある程度わかる」とのことで、危ないと判断した際には防空壕に入って敵機が去るのを待ったという。

キスカ島空襲回数
【キスカ島に対する敵空襲一覧表(一部)】B:爆撃機、P:戦闘機、Y:飛行艇 xは不明を示す

『キスカ戦記』の巻末に水上機母艦君川丸飛行長、古川明氏の提供資料により作成された「キスカ島に対する敵空襲一覧表」があり、キスカ島上空に現われた爆撃機、戦闘機の来襲機数と来襲回数が日別に出ている。この記録を見ていると、昭和18年3月以降にアメリカの爆撃機、戦闘機による空襲が激増していることがわかる。

キスカ島でツルハシやモッコを使って飛行場を造るのに手間取っている間に、米軍は隣のアムチトカ島に飛行場を完成させたことがその理由である。

B-25爆撃機
【米軍B-25爆撃機】

飛行場づくりに携わった海軍水兵長の中村秀雄氏はこう記している。
「…すぐ近くのアムチトカ島に米軍もまた飛行場を造っているとのことで…、悲しいかな、物量と機械力に物を言わせた敵は、あっという間に飛行場を造り上げ、われわれより一足先に一度に十機以上の戦闘機で襲ってくるようになった。長い間のわれわれの念願も全く無駄に終わってしまった
 …
 さて空襲はますます熾烈となり、時には眼前で艦砲射撃もしてくる。今思えば恐ろしいことだが、当時は全く捨身の心境であった。
 米軍機はB25、B24、B17爆撃機、戦闘機はカーチスP40、ロッキードP38などは、特にP38は奇襲で機銃掃射、小型爆弾攻撃を散々やった奴だ。
しかし、なんといっても艦砲射撃が一番気味悪かった。どこを狙っているのか、着弾しないと分からないのだから。次に恐ろしいのが時限爆弾だった。1トン爆弾級になると、一発で直径十メートル、深さ五メートルくらいの穴を作る代物だった。触発信管付の人馬殺傷用の小型爆弾も厄介者で、深さは僅か10センチメートルぐらいだが、破片が地表面十数メートルに四散する。」(同上書 p.142-143)

アリューシャン列島

日本軍より先に米軍がアムチトカ島に飛行場が完成させたことは重要である。アムチトカ島からキスカ島は110km、アッツ島へは440km程度と近く、3月からの米機の空襲は猛烈さを増すばかりであった。海軍主計大尉の小林亨氏の3月10日の日記には「敵戦爆28機来襲、飛行場にほとんど全弾命中せしめられ、戦死2、重軽症あわして約17、8名を出せり」(同上書 p.193)とある。

制空権、制海権を失えば、アッツ島やキスカ島に食糧や武器弾薬等を送り込むことがますます困難となることは誰でもわかる。

アッツ島沖海戦
【アッツ沖海戦】

3月27日には輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇し、アッツ島沖海戦が起こる。この本海戦に日本軍は敗れて、以後アッツ島は食糧不足が深刻化することとなる。
小林亨氏の日記を読み進んでいくと、4月14日にキスカ島からアッツ島へ潜水艦で食糧を送る指令が出たことが記されている。文中の「熱田島」はアッツ島であり、「鳴神島」はキスカ島のことを意味している。

「熱田島は糧食の不足に相当の逼迫を来たし、五艦司令部より鳴神島から潜水艦により〈熱田へ〉輸送するようにとのこと」(同上書 p.194)

キスカ島への補給も何度も米軍に襲われていたので、アッツ島に食糧を回すほどの余裕があったとはとても思えないのだが、アッツ島の食糧不足はそこまで深刻な状況になっていたということだろう。

そしてこのアッツ島海戦以降、日本軍は輸送船が米軍の北太平洋艦隊に攻撃を受けることを警戒し、霧の発生する季節までは、物資の輸送を潜水艦に託すことになったという。

『キスカ戦記』にはこう解説されている。文中の「集団輸送」というのは輸送船団を艦艇で護衛しながら物資を輸送することである。

「…細々とした潜水艦輸送に頼るほか無くなったわが輸送作戦は、ここに至って末期的様相を呈してきた。
霧の時期は6、7月せいぜい9月までである。だから、潜水艦輸送に転換してからは、補給のための集団輸送は遂に行われず、皮肉なことに霧を利用しての集団輸送が発動されたのは、キスカ撤収作戦においてであった。
 アリューシャンの要地占領から、撤収までの13ヶ月の間に失われた艦艇8隻、中・大破した艦艇10隻、沈没、擱座した輸送船9隻、人員の犠牲2000人以上に及び、海没した物量は数万トンに達したのである。
 正に血みどろの輸送作戦であった
。」(同上書 p.156-157)

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第二次世界大戦についてこのブログでいろいろな記事を書いてきました。良かったら、ちょっと覗いてみてください。

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
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『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
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なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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