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補給に苦しみながら敵の上陸を許さなかったキスカ島の兵士たち…『キスカ戦記』を読む4

キスカ島の防衛のためには、航空戦力が不可欠であることぐらいはわかっていたはずなのだが、わが国には航空部隊や航空機を北方に差し向ける余裕はなかった。米国はアムチトカ島に航空基地を完成させると、それ以降米軍機によるキスカ島への空襲が激しさを増すことになる。

キスカの霧

『キスカ戦記』にはこう解説されている。
「キスカ在舶艦船を主な攻撃目標にしていた米航空機は、在舶艦船がいなくなり、わが航空兵力が逼塞すると見るや、対空部隊を主とする地上への攻撃とその鉾先を転じた。東西二十粁*、南北五粁、百平方粁の陸上にへばりついているわが六千足らずの守備隊に対し、延べ四千機にのぼる攻撃を加え、全占領期間四百二十日のうち百八十四日、五百四十回以上も執拗かつ猛烈な爆撃、銃撃を行なったのである。暴風雨、濃霧、吹雪以外の日はすべて敵機の洗礼を受けたといっても過言ではない
 わが、陸海防空部隊の奮闘、死闘は正にキスカ保持の源泉であり、花形であった。補給の断絶にあえぎ、弾薬の不足に悩まされながら、よくこれを克服した陸海高射部隊の協調と功績は、キスカ無血撤収の成果と共に永く青史を飾るものである。」(『キスカ戦記』p.225)
*粁:km

25mm機銃と兵士
【25ミリ機銃と兵士と犬と】

艦船も航空機もなく陸上施設も地下壕にもぐるようになって、米軍機の攻撃目標はもっぱら対空陣地となっていた。これだけの空襲を受けながらも、弾薬の補給の乏しい中で陸海高射部隊は良く持ちこたえたのである。では彼らはどのようにして、航空機と戦ったのか。

砲術長兼高射砲台長であった海軍大尉の柿崎誠一氏の文章がわかりやすい。
「…後期、敵の攻撃目標は専ら対空陣地に集中、しばしば正に一騎討ちの真剣勝負とも言うべき様相となった。
 水平爆撃には『間合い』が大切で、敵機が爆弾を投下する直前に射弾を炸裂させることが最も効果的で、たとえ直撃〈命中〉しなくても、敵機は人間の操縦するもの、さっと右か左に急変針するので爆弾は命中しない。早目に射撃すると立ち直りの機会を与え、爆弾投下後では意味がない。…
 経験を重ねるに従って間合いの取り方も冷静に判断することができるようになり、直進して来る爆撃機も余裕を持って勝負を挑むことができるようになった。
 霧にもめげず毎日の空襲で、勢い弾薬の消耗も甚しく…〈弾薬の不足〉は急を告げた。輸送に当たっての軍需品の大部は高射砲弾薬であり、次いで食糧品であったと思う。苦心して輸送揚陸した弾薬だから、無駄にはできないという気持ちで一杯であった。とりわけ、薬莢(やっきょう)の片隅に、国防あるいは愛国婦人会のひとたちが製作した印のついているのが多数目につくようになり、全隊員の心を引き締めた
 砲台周辺の地上弾薬庫は案の定、敵超低空爆撃の目標となったが、既に地下弾薬庫に移送ずみで事なきを得たのである。
 補給の不足は続き、射弾節約の指示を出さざるを得なくなった。こうして撤収時の最後まで射ち続けたが、〈撤収時の〉残弾はあと三~四日の戦闘分だけしか無かった。…
 公刊戦史によれば、キスカ撤収第一期作戦期間(昭和18年5月27日~6月21日)潜水艦によって輸送、揚陸された兵器弾薬のみでも125トンにのぼったと記録されている
。」(同上書 p.229-230)

松ヶ崎高角砲台長で海軍大尉であった三輪勇之進氏の文章を紹介しよう。
「(3月31日)…ほとんど毎日対空戦闘が続いた、そして今日こそは死んだ部下の恨みを晴らすことが出来た。一番砲の部下を失ってから残った砲台員は何か鬼神でも乗り移ったかのようだった。私は無数に孔のあいた砲を見ると無量の感慨に打たれずにはおられない。どの砲も爆弾の破片が、機銃弾のあとがある。ここにあがって来てから1年近くになる。一番砲の部下を思う自分の気持ちは言い尽くせぬものがあるが、砲台を襲った爆弾と機銃弾の数に比べるとわれわれの損害は不思議なほど少ない。天佑神助という外ない。そして攻撃精神のあるところ、天は決して見捨てないのだ。」(同上書 p.237)
そしてこの日、B24機が5機来襲し、その内の1機を撃墜し、敵の搭乗員の死体を土に葬り、木の十字架をたてて「アメリカ飛行士の墓、昭和18年3月31日戦死」という墓標をたてたことが記されている。

このようにして高射砲部隊は最後までよく戦い、米軍の上陸を許さなかった。米軍が、キスカ島からアッツ島へ攻略の重点を変えたのは、キスカ島の高射部隊にすさまじい敢闘精神があったからなのだと思う。

故郷の便り
【待ち焦がれた故郷の便り】

次に食糧の補給についてはどうであったのか。

キスカ島で海軍部隊全体の補給の任務にあたった海軍主計兵曹長の山田正治氏の手記によると、
止むなく本来の補給任務から一転、消費規制の手段を強めていかねばならなかった。一方、命によって島内の可食物の調査を行い、野草、海草の採取から、漁労班の編成による水産物の確保などに当たることになった。とはいっても、南方や中国大陸と違い、とれるものは種類、数量ともに絶対量は賄いきれぬから食い延ばし策を講ずるほかなかった。
まず主食三食のうち、一食をオジヤ(雑炊)とすることを提案した。相当の反対を予想していたにもかかわらず、各隊とも諒承してくれ、十月頃から実施することになった。…
陸軍の補給担当の田中主計少尉とも、お互いに肚を割って相談し合い、かれこれ融通しあった。陸海軍は犬と猿などと口さがない人たちは言う。そうでなくとも補給のメドが立たず、現有物資以外入手の途を閉ざされ、生命の維持の極限に置かれては、骨肉相食む状況だって起きないとはいえぬ。だがキスカに於いてはその気配はみじんもなく、とにかく、陸海両軍の保有物資を最高度に活用し、反撃の機を得るか、あるいは最後の一兵となるまでこの島を守り通す、すなわち島を枕に討ち死にするまでの籠城作戦となるかの方針は、陸海ピッタリと意気の合ったもので、これあればこそ奇跡の完全撤退が成功した所以でもあったと今にしてしみじみと陸海軍の意気投合、融和一体の成果を喜んでいる次第である。」(同上書 p.261-262)

山田正治氏によると、6月に種を植えて小松菜と馬鈴薯を育てようとしたが、この島では小松菜はトウが立って食い物にはならず、馬鈴薯は指の頭のようなものが多数できただけで、種芋と同程度しか採取できなかったそうだ。ただ芹(セリ)に近い野生の植物は、食用に使えることがわかり、野草の群生地を探しては採集して帰ったそうだが、時折やって来る敵機の襲撃に何度も身を隠しながら、植物を採集することは決して容易なことではなかっただろう。

キスカ島 大漁に沸く
【キスカ島 大漁に沸く】

一方海産物は、季節によってある程度収穫できたようだ。海軍兵曹長の森勇氏はこう記している。
キスカ港は、水温は低いけれど不凍港で、コンブも密生し、舟も走れないほどの所もあります。ウニ、イクラ、タラ、アイナメ、タコ、オヒョウ、アンコウ、黒鯛など実に多くおり、釣るのは至って簡単、針に赤いボロ切れをつけただけで、すぐ釣れるのです。
黒鯛釣りは難しい方で、向島と松が崎の中間の岩場で深さ二十米(メートル)位のところでないと釣れない。中には三瓩(キログラム)以上もある大物も釣れ、刺身にすると一番おいしかったがサビが無いものだから唐辛子をつけて食べたりした。」(同上書 p.267)
ところが、9月になるといっぺんに冬がやって来て、風速30m以上になるという。

キスカ富士と霧
【キスカ富士と霧】

また、森勇氏はキスカ島の霧のことをこのように書いている。
キスカは…、全くの霧の島で、濃霧(ガス)がかかると十米(メートル)先はもう見えない。良く晴れて、キスカ富士(1300m)の頭が見えるのは年に7日もあれば良い方で、島一帯はほとんど年中霧に被われ、たとい晴れ間が出ても何分か経つと激変してガスがかかってくる。時には、文字通り一寸先も見えなくなり、昼か夜かもわからなくなる始末でした。」(同上書 p.267)
そして、このキスカ島の濃霧が、後に多くの兵士たちの命を救うことになるのである。

さて、前回の記事で3月27日に起きたアッツ沖海戦のことを書いた。輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇して日本軍が敗れて輸送が中止されたのだが、そのためにアッツ島の武器弾薬不足・食糧不足が深刻となっていった。

キンケイド提督
【キンケイド提督】

米軍のアリューシャン戦線の最高指揮官キンケイド提督は当初はまずキスカ島攻略の計画を立てていたのだそうだが、方針が変更されたのだという。
『キスカ戦史』の解説にはこう書かれている。
「キスカ攻略の為にキンケイドが中央に用意した兵力、艦艇、資材は到底補給する余裕がないとの理由で中央から否決され、キンケイドはキスカ攻略を渋々断念せざるを得なかった。かくて、後日、中部太平洋から反撃を展開するに当たって採り入れられた飛び石作戦の発想がキンケイドの頭に浮かんだ。キスカを無力化するには、兵力僅少、防備不全なアッツを攻略すればよい。アッツは日本本土に近いのだ。だが、一個連隊も持って行けば2日、3日でアッツは攻略できる。そう踏んだキンケイドは大事をとり圧倒的兵力で一挙にアッツ奪回作戦、秘密作戦名ランド・クラブ(陸蟹[おかがに])を決行した。」(同上書 p.280)

アッツ島上陸
【米軍のアッツ島上陸】

米軍は5月12日に陸軍第7師団1万1千名を上陸させたのだが、日本軍はこの時点で米軍のアッツ島上陸を想定していなかったようである。
Wikipediaによると、軍司令部第一課長山本親雄大佐は、「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想しているのだそうだ(『戦史叢書21』p.268)。当時キスカ島には約6000名の守備隊がいたが、アッツ島の守備隊は2650人とキスカ島の半分以下で、米軍の上陸兵の4分の1に過ぎなかった

アッツ島の守備隊は必死の抵抗を続けたのだが、5月30日に司令官山崎保代陸軍大佐以下残存兵300名が玉砕し、アッツ島は米軍の手に落ちた。そしてその情報は、キスカ島の兵士達にも入ってきた。

水兵長の河西要氏の手記には、アッツ米軍上陸から陥落までのニュースを知った時の心境が綴られている。多くの兵士たちは死を覚悟したのである。
「12日の昼飯時である。アッツ島に敵大部隊上陸を始めたとの入電。すわとばかり、皆随身兵器を身につけた。話では、百余隻の大船団をもって上陸中であるという。そんな大船団で来ているのなら、その一部が今、明日中にもこのキスカに押し寄せてくるに違いないと皆ひかに覚悟したのであった。
 空襲のない昼休みは、誰も5分でも6分でも昼寝をするのが常であったが、この日は誰いうとなく、手箱を整理したり、身の周りを整理したりしていた。私も千人針の中に母の写真とお守りを入れ、鉄カブトの下にしめる白木綿の鉢巻に日の丸を書き、再び逢うこともないであろう初恋のひとが送ってくれた白梅の押し花と歌を縫いこみ、いつ戦死しても恥ずかしくないよう下着も着替えて死出の支度を整えた
 だが3日たち4日過ぎても敵はキスカにやってくる様子はなかった。アッツの苦戦の状況を聞くたびに腹わたを抉られるように辛かった。どうか、あと5日頑張ってくれ、必ずやわが艦隊が救援に行き、敵艦艇を撃滅してくれるだろう。私たちはそう祈り、そう願った。しかし、それはむなしい祈りであり願いにすぎなかった。
 5月29日、アッツ玉砕を知り皆泣いた。同じくこの孤島を守る私らであり、同じ司令官の下に命をかけている兄弟部隊の玉砕だもの、この雄々しくも悲しい最期を聞いてなんで泣かれずにおられよう。私は霧雨の降りしきる原に出て黒百合の花を摘み、二十五粍(ミリ)機銃の打ちがら薬莢に挿し、手製の神棚に飾りアッツの英霊のみたま安かれと、涙ながらに祈りを捧げた。」(同上書 p.282)

アッツ玉砕新聞記事

5月30日に大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使って、新聞もそれを報道した。国民に守備隊の全滅を知らされたのは、アッツ島の戦いが最初なのだそうだ。
大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道したのだがこれは真実ではなく、実際には山崎大佐は5月16日に補給と増援の要請を行っていたのである。しかし若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたために大本営は18日にアッツ島放棄を決定してしまったのである。確かに、16日に増援部隊を北千島から送り込んだとしても、アッツ島まで1200kmもの距離の移動に5日近くはかかるだろうし、戦いの大勢が決したあとでは多大な犠牲が避けられず、燃料も逼迫しておりその後の補給も難しいので、冷静に考えればアッツ島に増援することは厳しいと判断せざるを得ない。しかしながら、山崎大佐の要請を見送ることは、アッツ島守備隊の兵士たちを見殺しにすることを意味する。

樋口季一朗

大本営のその通告を受けた北方軍司令官の樋口季一郎中将は、アッツ島増援中止を認める代わりに条件を付けたという。Wikipediaに樋口季一郎の回想が引用されている。

「“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く『北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい』と。
私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった
。” ――『戦史叢書21 北東方面陸軍作戦(1)アッツの玉砕』 p.412」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

樋口季一郎は、アッツ島に援軍を出さないことを了解するかわりに、キスカ島を守っている6000名の兵士たちを何としてでも無事に撤収させたいと考え、その実現のために、海軍は無条件で協力するという条件を取り付けたのだが、アッツ島が陥落したために、キスカ島は制海権も制空権を完全に米軍に掌握された戦域で孤立無援の状態となっており、わが国の船が島に近づくことすら容易なことではなくなっていたのだ。

5月20日にキスカ島の放棄が決定し、キスカ島の守備隊を撤退させることが正式に決まったものの、米軍に包囲された島に残された6千人近い兵士たちの撤退がなぜ成功したかについては、次回以降に記すことと致したい。

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【ご参考】
今回の記事で、北方軍司令官の樋口にアッツ島への増援中止を通告した大本営参謀次長の秦彦三郎は終戦時には関東軍の参謀長であったが、ソ連が対日参戦した直後に非常におかしな動きをしている。当時の軍部には秦彦三郎以外にも、ソ連の工作にかかっていたかソ連びいきの幹部が多数いたことを知るべきである。

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html


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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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