HOME   »  大正時代~第二次世界大戦~連合国占領期   »  キスカ戦記を読む  »  キスカ島を目前にして撤収部隊は北千島に引き返していった……『キスカ戦記』を読む6

キスカ島を目前にして撤収部隊は北千島に引き返していった……『キスカ戦記』を読む6

前回の記事で、潜水艦によるキスカ守備隊の撤退は効率が悪い上に3隻もの貴重な潜水艦を失ってしまったため、水上艦艇による一挙撤収に方針が変更されることとなったのだが、この作戦が成功するためには、キスカ島周辺に視界がゼロに近い濃霧が発生することと、艦隊にレーダー装備が必要であったことを書いた。

キスカ戦記』の解説にはこう記されている。文中の「電探」とは、「電波探信儀」の略語で、「レーダー」のことである。

高速駆逐艦 島風
【高速駆逐艦 島風】

「第五艦隊は周到な準備を整え、電探を装備した新鋭駆逐艦島風の増強を得、水雷部隊の木村昌福少将を特に南方戦線より招致して撤収部隊司令官に任じた。
 駆逐艦11隻を以て一挙撤収を断行し、木村昌福(まさとみ)少将は島風に坐乗して陣頭指揮をする決意であったが、この案は採用とならず、さらに軽巡阿武隈、木曽の二艦と応急収容部隊として特巡粟田丸を加えた大艦隊が収容部隊に決定された。
 7月7日ケ号第二期作戦は、水雷部隊の幌筵(ほろむしろ)出撃を以て開始された。…」(『キスカ戦記』p.317)

軽巡洋艦 阿武隈
【軽巡洋艦 阿武隈】

少し補足すると、島風は通信等を受信した際に発信元をつきとめる逆探知も可能なレーダーを装備していた。上記の引用部分で「この案は採用とならず」とあるのは、木村昌福司令官が坐乗したのは島風ではなく阿武隈となったことを意味している。逆探知の可能なレーダー装備を要望したのは木村司令官本人であり、島影は収容部隊に加えられていた。
また、ケ号作戦は6月29日に発動され、最初に気象通報に従事する潜水艦部隊が幌筵から出撃し、水上部隊の出撃はその1週間後の7月7日で、キスカ島には当初は7月11日に到着の予定であった。

とは言いながら、アッツ島陥落後はキスカ島周辺の制空権も制海権も米軍に握られてしまっていた。
たとえ濃い霧がキスカ島周辺を覆っていたとしても、米艦隊には霧を見通すことが可能なレーダーが装備されていたので、濃霧で空襲は避けられても、米艦のレーダー網を掻い潜ってキスカ湾に突入し、兵士たちを収容し、島を脱出して北千島に帰投することは誰が考えても容易なことではない。


北海守備隊の参謀であった藤井一美氏はキスカ島から潜水艦で幌筵島の第五艦隊司令部に派遣され、撤収作戦会議に参加した時のことをこう記している。

キスカ島にあった峯木少将〈北海守備艦隊司令官〉は、会議出席の私に、
『今回の撤収作戦は、海軍側の非常な努力によって実施されることになったが、アッツ島なきあと、敵のキスカ島に対する封鎖はまことに厳重なるものがある。撤収のため、キスカ島に接近するや、敵艦隊と衝突することは必至である。その際は、陸軍としては一兵たりとも撤収を考えず、敵上陸部位の撃破に任ずるから、どうぞ海軍は全力を挙げて敵艦隊の撃破に任じてもらいたい。』
と言うように命じられた。
 このことを作戦会議でとくと海軍側に伝えたところ、木村司令官から回答があり、
『撤収作戦中、敵艦隊に遭遇すれば掩護に任ずる艦隊の主力はむろんその撃破に従事するであろう。だが、撤収を主任務とする小生麾下の戦隊は、一艦でも二艦でもキスカ島に突入し、一兵でも多くの陸戦部隊の収容に任じたい。海軍部隊の撤収は遠慮してもらう
というのであった。この相互理解の精神はおのずと陸海将兵のあいだに流れ、うるわしい精神的結合となった。」(同上書 p.346)

木村昌福
【撤収部隊司令官 木村昌福少将 】

アッツ島の際は、海軍は陸軍からの要請に対して救援部隊や増援部隊を送る協力が出来ず、補給さえも行うことができずに同島を放棄することに至ったことで、分かりやすく言えば、陸軍に対して「借り」があった。今度はその「借り」を返さなければならなかった。成功するかどうかはともかく、海軍は、何が何でもキスカ撤退作戦を実施しなければならない立場にあったと考えて良い。
木村司令官が、海軍を後回しにして陸軍部隊の収容を優先することを明言したのは、本人にもアッツ島に対して海軍が陸軍に迷惑をかけたという思いがあったのだと思う。

しかしながら、木村司令官が「一艦でも二艦でもキスカ島に突入し」と述べているとおり、いくら霧が深くても、全員が撤収できるなどとは当初から考えていなかったのである。そして、もしキスカ湾に突入する艦艇が少なければ、多くの兵士が島にとり残されることとなり、アッツ島と同様に、最後まで米軍と戦って玉砕するしかなかったのである。

キスカ島の守備隊の兵士たちはそこまでは考えず、撤収することが決まって期待に胸を膨らませた。

兵士たちのやることはいろいろあった。海軍水兵長の八木恒雄氏の手記を紹介しよう。

「(7月)7日の昼頃30分にわたり艦砲射撃があり配置についた。私は指揮所へ行ったが霧のため敵艦の姿が見えず、ただ各隊へ連絡を取るだけだった。
 撤収作戦の発表があったのはその夜だった。待ちに待った内地へ帰れる機会が来たのだ。喜色満面誰しもほっとしたものだ。11日夕方待機海岸に集結せよとのことで、官品、慰問袋などキスカ島にある物は全部放棄、不用品は焼却。この焼却作業が大変だった。霧のかかっている間に燃やし、晴れてくると消し、敵に絶対悟られないよう焼却するのである。
 …撤収の際、下士官、兵が携行できるものは、小銃、鉄カブト、雑のうの三品だけである。…
 弾薬は池の端に穴を掘って全部埋め、探照燈、自動車、兵器も全部処分した。…
 11日撤収当日は、物干にシャツなどをブラ下げ、ストーブには濡らした粉炭を焚き、如何にも兵員がいるふうによそおった。…
 いよいよ出発時刻となり、持つ物を持ち、最後に今まで愛用していたゴム長に重油を注ぎ、毛布にも重油をたっぷり浸し、米兵に使用されぬようにと処置したもの
である。
 これを全員がやったのである。…」(同上書 p.327-328)

また陸軍大尉・平松清一氏の手記にはこう記されている。
「とにかく、撤退作戦の準備は進められた。今まで敵の目から隠されていた洗濯ものが兵舎外で大っぴらに風にはためき、各砲には軍服を着た人形が大勢取りつき、煙突からは終日煙が棚引くようになった。汚れた軍服は人形用となり兵士たちは予備品のま新しい軍服を着用に及び時ならぬ新兵さんが現出する。格好は新兵でも顔はヒゲ面で妙な感じだ。
 …
 撤退後敵が上陸侵入の時、少しでも損害を与えるよう装置するため、色々の工作や準備を整えた。地雷やダイナマイトを利用することも指示した。…」(同上書 p.332-333)

しかしながら、キスカの兵士たちは指示のあった11日に、キスカ湾内の指定の場所で夜遅くまで待ったのだが、収容部隊は入港せず、その日は行動中止が発せられた。
翌12日も13日も14日も同様に、指令通りに集合待機したのだが不発に終わり、15日には撤収作戦中止が伝えられて、艦隊は北千島の幌筵島に反転しまったのである。キスカ島の兵士たちが落胆したことは言うまでもない。

キスカ島地図

海軍水兵長の河西要氏の手記を紹介しよう。待機を命じられて3日目(7月13日)のキスカ島は濃霧で視界が悪く、レーダーで探索したところ艦船6隻を捉えたので、いよいよ収容部隊の入港が近いと周囲が期待している場面から引用する。

「ところが、入港してくる筈の艦がまだ見えない。いぶかっていると防備衛所から、
『十万0千まで近付いて右に移動している』と報告が入る。ますます変だなあと思った時である。ドカーンという物凄い艦砲射撃の砲声が聞こえた。
 敵だ!三斉射もやった頃、司令は、
『この作戦中止。迅速にもとの配備に復し戦闘を開始せよ』と命令
した。
 撤退の喜びに湧いた夢は消えた。二、三分後に、またも四斉射があり、松が崎近くに弾着するのが見える。この夜は一睡もせず総員配備についた。いよいよ敵はキスカに上陸するのだと覚悟した。
 次の日、敵艦隊は再び近接し、わが艦隊のくる様子はなかった。五日目にはもう諦めた。日本艦隊は千島に帰投してしまったとの無電連絡があったそうだ。からっぽになった兵舎に帰った私らは、玉砕を待つだけしかないのだ。食糧も残り少ないと聞く。
 ケ号作戦は失敗したのだ。そう決まると、今までイライラして待っていた時とは反対に、かえって心が静まりのびやかな気持ちで最後の日を待てるような気になった
。」(同上書 P.324)

アリューシャン列島

それにしても、キスカ島では霧が出ていたにもかかわらず、収容部隊が一度もキスカ湾に突入しなかったのはなぜだったのか。
記録によると、11日はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてしまい、突入を断念。第2回目の13日も、翌14日も途中で霧が晴れたために断念し、15日は燃料補給の為に反転して北千島の幌筵島に向かったとある。

手ぶらで根拠地に帰ってきた木村少将への批判は凄まじかったようで、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、果ては連合艦隊司令部、更に大本営から「途中一部天候の良いところがあっても、キスカには霧があった。なぜ突入しなかったのか」「水雷戦隊に肝なし」などと非難を浴びたという。当時の厳しい燃料状況からすれば、少々の危険を冒してでも断行しなければならないという考え方が強かったようだ。
しかしながら、霧が一部でも晴れていたなら空襲に曝されるリスクがある。仮に空襲を受けなかったとしても、先ほどの河西要氏の手記の通り、13日のキスカ島は濃霧の中で米艦による艦砲射撃があり、集合場所に近いキスカ湾の北にある松が崎に着弾している。この日に強引に突入していたら敵との衝突が避けられず、大きな被害が出ていたことであろう。

幌筵島に戻った木村少将は、周囲の批判を意に介せず、濃霧が発生するのをじっと待ったという。
燃料はあと一回分が残されているだけだった。
7月17日連合艦隊参謀長は、軍令部との打ち合わせにおいて、連合艦隊の方針として次のような所信を明らかにしている。
一挙撤収・今一回全力撤収作戦実施・断行

一方、キスカ島への補給が途絶えて久しい。守備隊に残された食糧や弾薬は日に日に減っていくばかりだった。米ヶ丘放射台長で海軍大尉の柿崎誠一氏は、こう記している。

伊7号潜の悲壮な戦闘を最後として、水上艦艇による一挙撤収まで、一隻の補給も行われない間、現状の高射砲弾薬で、撤収企図を秘匿するためにも、対空戦闘は続けねばならない。しかも、上陸直前を思わせる戦爆連合空襲の様相が益々激しくなってきており、残弾も連日の戦闘で残り少なくなりつつある。高射砲部隊員の闘魂旺盛なりといえども、如何せん弾薬がなければ戦いはできない
 万一の場合の、対上陸戦闘時の予想消耗弾薬量だけは、何とか確保することとし、その他は極力、引き延ばしを計らねばならなかった。そうは言うものの、陣地目がけて来襲する敵機に対しては、敢然と戦いを挑まねばならず、射撃指揮官の最大の心痛は戦闘後の残弾数であった。現に、撤収艦隊入泊、砲台を離れるにあたって残った弾薬は、数は記憶していないが、わずか三~四日分であったのである。」(同上書 p.355)

食糧も同様な状況にあり、キスカ守備隊の兵士たちは一日も早く収容部隊がキスカ湾に突入してくれることを祈りつつ、それまでなんとか食いつないでいくしかなかったのだ。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-439.html

ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-416.html

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html

軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html


関連記事
Comment
島風の写真が違います。
これは峯風型の初代島風。
Re: タイトルなし
> 島風の写真が違います。
> これは峯風型の初代島風。

ご指摘いただきありがとうございます。
正しい画像が以下のサイトで見つかりましたので、差し替えさせていただきました。

大日本帝国海軍 所属艦艇さんのサイトより
http://romanship.web.fc2.com/kuchiku/shimakaze2.html
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル