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香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて

香住の宿をチェックアウトし、干物などの海産物を買い求めてから拝観を予約していた帝釈寺(0796-36-0717)に向かう。3年前に香住に来たときには、予約していなかったので寺の境内を散策しただけで終わってしまった。

帝釈寺

この寺は決して大きな寺ではないのだが、古い歴史を有しているだけでなく寺の創建に関して興味深い伝承を持つ寺である。

寺の案内板にはこの寺の創建についてこう書かれている。
「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。」

仏教の受容を巡って 蘇我氏と物部氏との対立が2代にわたり続いたのだが、2代目の蘇我馬子と物部守屋との抗争について『日本書紀 巻第二十』にはこう記されている。
「(敏達天皇14年)3月1日、物部弓削守屋大連と、中臣勝海大夫は奏上して『どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ』といった。天皇は詔して、『これは明白である。早速仏法をやめよ。』と言われた。
 30日、物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣をつつけた。馬子宿禰と、これに従った僧侶たちを責めて、人々に侮(あなど)りの心をもたせるようにした。佐伯造御室(さえきのみやっこみむろ)を遣わして、馬子宿禰の供養する善信尼(ぜんしんのあま)らを呼ばせた。馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく歎き泣きさけびながら、尼らを呼び出して、御室に託した。役人はたちまち尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭うつ刑にした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 下』p.68-69)

物部守屋が焼け残った仏像を捨てさせたという敏達天皇14年は西暦の585年で、この蘇我・物部両氏の対立は、2年後の587年に起きた丁未の役で蘇我馬子が物部守屋を滅亡させて仏教受容に対する抵抗勢力は姿を消し、593年には蘇我氏が支援した推古天皇が即位してわが国で仏教が拡がっていくことになる。

帝釈寺で頂いたパンフレットによると、御本尊の帝釈天王は「推古天皇の6年、聖徳太子が宮中に於いて勝鬘経を講ぜられし際、帝釈天の霊験に深く感ぜられ、太子自ら刻まれた等身帝釈天王像三躯の中の一躯であると伝えられており、…当時、仏教の排斥を唱えた守屋大臣の為に尊像は浪華の津に投入されたが、後に、縁あって天武天皇白鳳4年、下浜枕ヶ崎の一ノ瀬に漂着」と書かれている。
推古天皇の即位は物部守屋が丁未の役で滅ぼされた6年後の593年で、聖徳太子が帝釈天像を彫ったとされる推古天皇6年は598年という計算になり、その仏像が587年に滅ぼされたはずの物部守屋の命令で海に捨てられることはあり得ないことなのだが、このような伝承が、京都や奈良から遠く離れたこの寺に残っているということは興味深い。

帝釈寺本尊帝釈天像

上の画像は、パンフレットに掲載されている御本尊の帝釈天像で、秘仏として12年に1度だけ公開されるのだそうだ。像内背面に西暦1301年を意味する「正安三年七月十日」の墨書があり、鎌倉時代後期の作であることが確実なようだが、聖徳太子の作ではないにせよ、美術的にも価値ある仏像であることには相違なく、兵庫県の重要文化財に指定されている。

パンフレットによると、その後帝釈寺は「室町時代初期には七堂伽藍完備して一山寺院三十三坊を有し、山陰屈指の名刹として後亀山天皇至徳二年*には、勅命を受けて国家の安泰と内乱の平静のため法華経八巻を数十部印刷の上、諸願成就の大祈願をなす」ほど栄えたのだそうだが、その後衰退し、天文年間**に寄進を受けて復旧するも何度か兵火にかかり、現在の堂宇は元禄宝永***の頃に建てられたものだという。
*至徳二年:至徳は北朝の元号で至徳2年は西暦1385年
**天文:西暦1532~1555年
***元禄宝永:元禄(1688~1703)、宝永(1704~1710)


帝釈寺 枯山水の庭

住職に最初に案内されたのは枯山水の庭園で、現在香美町の文化財に指定されている。パンフレットの解説によると
「中央の巨石は礼拝石と神仙島を兼ねた一石で、…左に神秘的な岩島を組み、右にめでたい宝舟を置いた祝儀思想の蓬莱式庭園である。
 江戸時代初期の作庭であるが、一説に小堀遠州作の伝来もある」とのことである。

帝釈寺 本堂

次に江戸時代に建てられた本堂に案内される。本尊帝釈天は厨子の扉が閉じられていたが、地蔵菩薩(平安時代?)、不動明王(南北朝時代)、四天王立像(南北朝時代)などの諸仏が安置されている。内部の写真撮影を許可いただいたのはありがたかった。

帝釈寺 仁王像

上の画像は仁王像だが、かつてはこの寺の仁王門があって再建されないまま本堂に安置されている。寛政6年(1794)に制作されたなかなか立派な仁王像なのだが、右腕が抜けているなどかなりの修理が必要で仁王門から建てなおすとすると、かなりの浄財が必要となる。住職の夢がかなう日は来るのだろうか。

最後に浄聖殿(収納庫)に案内される。ここに国の重要文化財である聖観音立像が収納されている。上の画像は住職に写真撮影の許可をいただいて撮影したものだが、国の重文に指定されている仏像の撮影を許して頂いたのは初めてのことである。

帝釈寺 聖観音立像

この仏像は、冒頭で紹介した案内板には大宝2年(702)に法相宗の開祖である道照上人が自ら刻んだと伝えられていることが記されていたが、『続日本紀』には道照上人が文武天皇4年(700)に没したとの記録があるのでこれもあり得ないことである。パンフレットの解説では、「平安後期の地方色を示す秀作である」と表現されている。
風雨に曝され虫に食われて下半身はやや損傷しているものの、桧の一木造の立派な仏像で、柔和な面貌とふくよかな上半身が印象に残った。

住職にお礼をして次の目的地である大乗寺(0796-36-0602)に向かう。帝釈寺からは4km程度なのですぐに到着する。
大乗寺 クス

兵庫県指定文化財である山門を抜けるとすぐ左手に香美町指定天然記念物の大きなクスの樹がある。樹齢は約800年で樹高は28m、幹回りは6.55mもあるのだそうだが、樹勢が強くて幹が山門の屋根瓦に年々接近し、このまま放置すると山門が倒壊する恐れがあることが、2年前の新聞記事に出ている。
http://www.sankei.com/region/news/141108/rgn1411080077-n1.html

大乗寺 石仏

このクスの根は四方に立派に張りだしていて、まるで土を盛って幹の周囲を固めたかのようである。上の画像はクスの横にある石仏を撮影したものだが、画像の左下に写っている苔むした部分は土ではなくこのクスの根である。

大乗寺 客殿

大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら聖観世音菩薩立像を彫刻して本尊として創建されたと伝えられているが、その後戦乱を受けて衰退し、江戸時代天明年間の住職、密蔵上人が再興を試み、弟子の密英上人が再興をはたした寺である。上の画像は県指定文化財である客殿である。

大乗寺 応挙

客殿の正面に円山応挙の銅像が置かれている。
客殿には応挙とその弟子12名が描いた襖絵や屏風などが多数残されていて、そのうち165点が国の重要文化財に指定されている。

では、どういう経緯で円山応挙が弟子たちとともにこの寺に多くの作品を残したのか。

以前このブログで、京都府亀岡市にある金剛寺のことを書いた。
円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていた。
玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っているのだが、京都で絵を学ぶための資金を援助したのが大乗寺の住職だった密蔵上人だと伝えられている。

大乗寺再建の普請が始まった天明6年(1786)に密蔵上人が亡くなり、翌天明7年(1787)に新住職となった密英自らが上洛して応挙に襖絵の作成を依頼し、応挙は亡き密蔵上人の恩にむくいるために弟子たちと共に襖や掛軸を飾る絵を描いたという。そのような経緯からこの寺には応挙や弟子たちの襖絵だ多数あることから、「応挙寺」の名で親しまれている。

応挙と弟子たちが描いた絵は、『大乗寺円山派デジタルミュージアム』の『客殿めぐり』ボタンをクリックすると、誰でもネットで閲覧することができる。
http://museum.daijyoji.or.jp/index.html

大乗寺襖絵

客殿での写真撮影は禁じられているのは残念だったが、ネットで円山応挙が寛政7年(1795)に描いた『孔雀図』の画像が出ていたので紹介しておこう。
墨だけで描れた作品であるにもかかわらず、孔雀や松に色彩が使われているようにも見えてくる。応挙はこの絵を描いた年に亡くなっているのだが、孔雀の羽根の一本一本が信じられないほど細部まで細い線で描きこまれているのに驚いてしまった。応挙はこの大作を完成させて命を縮めてしまったのではないだろうか。

旅塵

歌人の吉井勇が、昭和9年の3月にこの大乗寺を訪ねて、歌集の『旅塵』(昭和19年刊)に六首の作品を発表している。『国立国会図書館デジタルコレクション』にこの歌集が収録されているので誰でもネットで読むことができるが、三首だけ紹介しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128154/59

「應擧寺の墨絵の孔雀襖より歩み出づることもありにけむもの」

「ありがたき香住の寺の襖絵のいみじき松は見るに飽かなく」

「應擧寺を出づれどこころ繪に残り襖の松の鳴るをなほ聽く」

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【ご参考】
円山応挙の襖絵はこんな寺にも残されています。金剛寺というのは応挙が少年時代に小僧として生活した京都府亀岡市にある寺です。この寺も「応挙寺」と言われています。

円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-110.html

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html


仏教伝来に関する歴史を追ってみました。興味のある方は覗いてみてください。
新しい記事を書きながら、手作業で旧メインブログのBLOGariから記事を移しましたので、この頃の記事のエントリーナンバーが逆転しています。

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html



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Comment
円山応挙
こんばんは。いつもお世話になっております。
帝釈寺の仏像、豊かなお姿ですね。予約していなかったのでお参りできませんでしたが、私も由緒を読んで頭を抱えました。

大乗寺、素晴らしいですよね。私も応挙が大好きなので、こちらではゆっくりゆっくり拝見致しました。
歌にあるように、本当に襖から孔雀が出てきそうですし、襖の開閉による松の枝の変化などは感動しました。

守礼によるころんころんの仔犬達はもう、愛らしくてたまりませんでした。
一門の絵は図鑑のように精巧ですが、温かく生命力に溢れている感じがします。

応挙は生命あるもの全てにとても愛情を持った方なのではないかと思います。

Re: 円山応挙
つねまるさん、いつもお世話になっております。コメント感謝です。

こんなに都心から離れても、素晴らしい絵や仏像が残されているのが凄いです。私も応挙が大好きで、孔雀の間の「松と孔雀図」は特に好きです。墨絵でこんなにすごい絵はめったに見ることがありません。

守礼の「梅花狗子図」も好きです。応挙の「郭子儀図」も子供が可愛いです。花鳥風月を愛する人でなければこんな絵は描けませんね。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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