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長州藩が攘夷の方針を改めた経緯

文久2年(1862)に公武合体策の一環として和宮と結婚した将軍徳川家茂は、翌文久3年(1863)3月に上洛した際、義兄にあたる孝明天皇に攘夷の沙汰を申しつけられ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し諸藩にも通達した。

攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、軍艦4隻を配備して海峡封鎖の態勢をとり、攘夷期日の5月10日に田ノ浦沖に停泊していたアメリカ商船ベングローブ号を砲撃した。ベングローブ号は周防灘に逃走したが、続く5月23日には、長府沖に停泊していたフランスのキャンシャン号には数発が命中し、キャンシャン号から交渉の為に書記官をボートに乗せて陸に向かわせたところ、藩兵が銃撃を加えたために水兵4人が死亡した。
さらに5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号にも攻撃を加え17発が命中し死者4名が出たという。

オールコック卿
【ラザフォード・オールコック】

長州藩はその後も攘夷の姿勢を崩さなかったために、下関海峡は通航不能となってしまった。イギリスの駐日公使ラザフォード・オールコックは、長州藩による攘夷が継続することで幕府の開国政策が後退することを心配していた矢先に、翌元治元年(1864)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきた。
そこでオールコックは日本人に攘夷が不可能であることを知らしむべく、長州藩への懲罰攻撃を決意したのである。

アーネスト・サトウ22-23歳

当時イギリスの駐日公使館の通訳として横浜にいたアーネスト・サトウは著書にこう記している。

「ラザフォード卿は帰任するに際し、実に大きな権限を与えられていた。彼は、長州藩の敵対的態度に対し膺懲(ようちょう)を加えようと決心していた。われわれは、もはや薩摩の好意を獲得したと言っても良かったので、もう一方の攘夷派の首魁(しゅかい)である長州に対しても薩摩に対したと同様の手段を用いるならば、同じく有利な効果が得られるものと充分に期待していた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.115)

サトウが「薩摩藩の好意を獲得した」と述べている点について補足しておこう。
このブログで前年の文久3年(1863)の薩英戦争で薩摩藩が善戦したことを書いたが、薩摩藩が善戦できたのは天候の要因が大きかったことは明らかで、悪天候でなければ射程距離の長いアームストロング砲相手では勝負にならなかったことを薩摩藩が認識し、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると考えてイギリスとの講和談判を開始したことを指している。興味のある方は次のURLの記事を読んで頂ければありがたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

一外交官の見た明治維新

アーネスト・サトウの著書を続けよう。
「…今や一隻も下関海峡を通ることができなくなったのだ。これでは、ヨーロッパの威信が失墜すると思われた。日本国内の紛争に頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかない。
 そこで、ラザフォード・オールコック卿は、時を移さずフランス、オランダ、合衆国代表との提携を実現しようと苦慮し、ついに完全にこれに成功した。そこで大君の政府に対し、日本側が20日以内に下関海峡を再開するという満足な保証を与えなければ、外国艦隊を同地へ急派して、長州藩主の非を正すであろうと警告した
。不思議な偶然の一致であるが、その時ちょうど、長州から洋行していた若侍5名の一行中、その2名が外国から帰朝したばかりのところであった。この2人は、世界を見学して列強国の資源について多少の知識をうるために、前の年ひそかにイギリスに派遣されたのである。その名前は伊藤俊輔(訳注:後、博文)と井上聞多(訳注:後、馨)。この2人は、煉瓦塀に自分の頭をぶっつけるのは無益だということを藩の同志に警告しようと、知識を身につけて、日本に帰って来たのであった。…伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕え、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時に、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。卿は仲間の諸公使の承諾を得た上で、伊藤と井上の二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派したが、その際この両名に1通の長い覚書を託して、藩主に提出させることにしたのである。」(同上書 p.116-117)

洋行前の伊藤博文
【洋行前の伊藤俊輔(後の伊藤博文)】

サトウが記している日本人は、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文と、外務卿、農商務大臣などを歴任した井上馨なのだが、海外渡航が国禁であった時代に長州藩は極秘に若手侍を洋行させていたのである。要するに、長州藩が唱えていた「尊王攘夷」は本物ではなく、当初から二股をかけていたと理解するしかない。
遊学先で長州藩が馬関で外国船を砲撃したことを知り、3人を残して伊藤・井上の2名が大急ぎで帰国して英国公使オールコックに会見し、公使が二人に託した覚書の訳文を持って長州に向かった。

長州藩士時代の井上馨
【長州藩士時代の井上馨】

サトウの著書には、山口で藩主に面談し、その回答についてこう述べている。
「…両人はまず、山口で主君に面謁して四ヶ国外交代表からの手紙を直接渡したと述べてから、主君から託されてきた回答について語り出した。それによると、藩主は重臣との相談の末に、次のような結論に達した。すなわち、藩主は外国代表の手紙の趣旨がもっとも至極なことを充分に認め、また自分の力では西洋諸国の兵力に対抗できないことも承知しているのだが、大君(タイクーン)*から一回、天皇(ミカド)からは再三の命令を受けており、これに従って行動している次第である。だから、自分の責任でやっているのではないし、また許可を待たずに外国代表に回答を与えることは自分の権限外に属する。よって、自分は京都へ上り、意見を具申して天皇の心を動かそうと思うが、それには三か月を要する見込みであるから、それまでは列強諸国が行動を起こすのを待ってほしい、というのだった。」(同上書 p.119-120)
*大君(タイクーン):徳川将軍のこと

伊藤と井上は何等の文書も持たずに口頭で語ったのみで、藩論が攘夷に傾いて収拾がつかず、戦争にならずに済みそうもないとも言った。
二人によると、「外国の代表は大君を見限って大坂へ行き、直接天皇と条約を結ぶために、天皇の大臣たちと会見するのが一番の上策であろうと言った。そして、きわめて痛烈に大君の政治を非難し、幕府が長崎とか新潟とかの、商業の発達しそうな場所をことごとく専有して、内外の交易を全部独占していることを責め、国民の大部分もこれと同じ考えである」とも言ったのだが、なぜ伊藤や井上は長州藩でなく、英国公使官に報告したのだろうか。この点の疑問については後述する。

伊藤・井上による藩主への忠告が失敗に終わったことにより、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実施する旨を幕府に通達した。
なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団が帰国したのだが、幕府は約定の内容を不満として批准されなかった結果、武力行使は予定通り準備されることとなった。

7月27、28日に四国連合艦隊は横浜を出港。艦隊は17隻で、内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻で、総員約5000の兵士が乗艦していたという。
対する長州藩は奇兵隊2000と砲100門で兵力差は歴然としていた。

馬関戦争図
【馬関戦争図】

8月5日の午後から四国連合艦隊の砲撃が始まったのだが、この戦いはどのような戦いであったのか。アーネスト・サトウの記録をしばらく引用させていただく。

「ユーリアラス号から第一弾が発射された。田野浦側の艦隊全部がこれにならった。串崎岬の砲三門を備えた砲台から撃ち出す砲弾が、イギリス旗艦のかなり近くまで飛来すようになったと思う間に、軽艦隊がこの砲台を沈黙させてしまった。やがて、錨綱に発条(バネ)の取りつけをやっていたセミラミス号が、後甲板砲の恐るべき威力をもって砲撃を開始した。その弾丸はほとんど全部命中した。ターキャング号は、たった一門の砲で最善の効果を発揮した。コンカラー号は三発の炸裂弾を発射したが、その中の一発は多人数の密集している砲台軍の間で見事に炸裂した。…」(同上書p.128-129)

下関戦争

こんな具合で、連合軍は圧倒的な兵力差で次々と砲台を占拠し砲を破壊していった。
8月7日には彦島の砲台軍を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲し、8日までには長州藩の砲台は悉く破壊され、火薬庫も焼き払われてしまったという。

高杉晋作
【高杉晋作】

8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は高杉晋作を送り込んで、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号で行われた談判の席に臨ませている。
18日に講和が成立し、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要とする者の売渡しなどのほか、賠償金3百万ドル支払いを長州藩が受けいれて講和が成立したのだが、賠償金については、今回の外国船に対する攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったのであるから、請求すべきは長州藩ではなく幕府であるということになったという。

かくして長州藩は、この「下関戦争」ののち、冒頭のアーネスト・サトウの言葉通りにイギリスに接近することになるのだが、イギリスは元治元年(1864)の時点で明治維新の中心勢力となった薩摩藩・長州藩の両藩を手なずけたことになる。

先ほど、長州藩からイギリスに密留学した者がいたことを書いたが、このメンバーは伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5名で、この密留学の手助けをしたのがトーマス・グラバーである。

実は、グラバーは薩摩藩にも働きかけて、15名の留学生をイギリスに送る手助けをしているのだが、その留学メンバーの中には五代友厚、寺島宗則、森有礼、長澤鼎がいたという。

明治維新という名の洗脳

認知科学者の苫米地英人氏の著書『明治維新という名の洗脳』という面白い本がある。

苫米地氏は、『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』のなかに、イギリスのハモンド外務次官からイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた1866年4月26日付の文書の一節が引用されていることに注目しておられるのだが、その内容は実に驚くべきものである。

日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。じじつ、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」(『明治維新という名の洗脳』p.44)

イギリスのハモンド外務次官は、イギリスの極東政策の現場のトップであった人物であり、イギリスが幕末の日本を裏から動かしていた可能性を感じさせる文章である。

それだけではない。薩摩・長州の留学生たちのことは、パークスらの通信文の中でエージェントと書かれているらしい。通常エージェントと言えばスパイを意味することは言うまでもない。また、歴史家の犬塚孝明氏の『密航留学生たちの明治維新』という著書には、長州留学生たちは留学に必要な授業料を払っていなかったことが記されているのだそうだ。伊藤が支払ったのは2ヶ月分で井上は授業料を全く払っていないという話も興味深いところである。伊藤や井上が最初に長州藩のためではなくイギリス公使館のために動いたのはそういう背景を知らなければ理解できるものではない。

明治維新については、教科書などでは外国人の関与があったことを書いている本はまずなく、テレビでそのような解説がなされることも無い。私自身も長い間、明治維新については日本人によって成し遂げられてわが国が西洋の植民地となる危機から守ったと理解して来たのだが、どうやらそんなに単純なものではなさそうだ。
幕末の志士と呼ばれる若い侍がなぜ異なる藩と横で繋がっていったのか。江戸幕府を転覆させるための資金を薩摩や長州などの藩はどうやって調達したのかなど、理解しがたいことがあまりに多すぎる。不思議なことが多い理由は、多くの肝腎な事実が隠蔽されているからではないのか。

また苫米地氏は、アーネスト・サトウも『一外交官の見た明治維新』のなかで、英国の日本統治方法についてこんな意味深なことを書いていることを紹介しておられる。文中の「両刀階級」とは武士のことである。

もしも両刀階級の人間をこの国から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治は困難ではなかったろう。だが、外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かねばならぬ。さもなければ、そうした企画は完全に失敗に終わるだろう。しかし、この国には侍が多く存在していたのだからこうした事は実現不可能であった。」(『明治維新という名の洗脳』 p.73)

アーネスト・サトウは、日本を植民地化するためには武士を排除しなければならないし、外国人が日本語をマスターしなければならないが、そんなことは不可能だ。日本人を統治は武士に任せるべきであり、イギリスはその武士階級を統治すれば日本を掌握することができるという考えのようだが、よくよく考えてみると今のわが国も、一部の政治家やマスコミや教育界などがどこかの外国勢力に手なずけられていて、いいようにコントロールされている状態が続いているような気がする。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
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