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薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと

前回の記事でトーマス・グラバーが薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎や長州藩の伊藤博文井上馨らの海外密航留学の手引きをしたことを書いた。

トーマス・ブレーク・グラバー

グラバーは安政6年(1859)に、21歳の時に「ジャーディン・マセソン商会」に入社後、開港後間もない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営んだ。当初は生糸や茶の輸出が中心だったのだが、8月18日の政変後の政治的混乱に着目して、討幕派、佐幕派、幕府のそれぞれに武器や弾薬を販売して大稼ぎした人物である。

ラザフォード・オールコックのあとで慶応元年(1865)にイギリス公使となったハリー・パークスは当初は幕府支持であったようだが、グラバーは本国の動きとは別に早い時期から討幕勢力に肩入れして、明治維新に大きく関わったのである。

慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を密輸入して戦争準備を進めていた。

開国の真実

鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。
長州藩の慶応元年(1865)5月の武器購入概算は、装条銃千八百挺、剣銃二千挺、金額合計四万六千両という厖大なものである。長州藩が密輸入した小銃等は、下関―上海の直行ルートや、下関―長崎―上海の三角ルートで運ばれ、船がひっきりなしに往復していた。
 下関には上海から入荷した外国品があふれ、上海には下関から輸出された品物が沢山あった。
 長州藩領内の下関は小銃・弾丸・火薬など武器輸入の密貿易の拠点となった
のである。
 密貿易には莫大な利益がともなう。外国商人は危険を冒して下関へ集まってきた。これ等の武器商人のうち、もっとも代表的なのがイギリス商人トマス・グラバーである。」(『開国の真実』p.246)

当時は、大量の外国製武器が上海に集まっていたようなのだが、その事情についてはWikipediaの解説がわかりやすい。
1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たというが、多数の戦死者が出た原因は破壊力の強い最新鋭の小銃がこの戦争で大量に用いられたことによる。戦争が終わってアメリカで用済みとなった大量の武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったというわけである。
長州藩が慶応元年にグラバーを通して密輸入した銃はいずれも口径が大きく、命中すれば即死となる可能性の高いものだったという。

第二次長州征伐で15万人の幕府軍が4千人の長州軍に敗れた原因は、兵士の士気の差もあっただろうが武器の性能が桁違いであったことをまず知る必要がある

ライフリング

江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで買った銃はゲベール銃と呼ばれるもので、射程距離は100mから300m程度しかなかったのだが、長州藩や薩摩藩は早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していたという。

200px-Minie_Balls.jpg

ミニエー銃にはゲベール銃と違い、銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっている。(ゲベール銃の銃弾は球状)

ゲベール銃とミニエー銃

その改良を加えることで銃弾に回転を与えることとなり、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上した
のである。
Wikipediaによるとミニエー銃の有効射程はゲベール銃の3~6倍に延びたとあるが、長州軍はこの銃で、幕府軍の銃の届かないところから幕府軍を狙い撃ち出来るので、いくら兵力差があっても銃弾が続く限り負けることはないだろう。

そして、このような殺傷能力の高い武器の密輸に、グラバーの手引きによって英留学を果たした伊藤博文井上馨が関与していたのである。

鈴木荘一氏の著書を再び引用させていただく。幕府による第二次長州征伐に対抗するために、長州藩の伊藤博文井上馨はグラバーから武器を購入契約を結ぶのだが、その時のグラバーの発言に注目である。

「慶応元年(1865)7月、幕府は長州藩の不始末による下関戦争賠償金1回分五十万ドルを長州藩の代わりにイギリスに支払ったのだが、実はこの慶応元年(1865)7月、長崎で妙な密談が行なわれていた。この月、井上馨(当時は井上聞多)と伊藤博文(当時は俊輔)は長崎で密かにグラバーと会見しミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んだ。このときグラバーは井上馨等に対し『百万ドルぐらいの金はいつでも用立てるから、決して心配には及ばない』と申し出た
 一口に百万ドルというが…。百万ドルとは半端な金額ではない。
 百万ドルといえば、幕府がアメリカから購入した強力軍艦『甲鉄』を二隻も買える大金だ。
 当時、社員15人のグラバー商会にそれだけの資力があっただろうか。グラバー商会の財務内容を洗ってみる必要がある。1866年(慶応2年)6月末のグラバー商会の決算書をみると、ジャーディン・マセソン商会からの債務額が38万ドルに膨れ上がっている。グラバー商会は負債過多の状態にあり、百万ドルもの大金は持っていなかったようだ。
 しからば、グラバーが井上馨等に語った百万ドルの出所は、一体、何処だったのか
 それは今でも謎のままである。
 しかしながら、長州藩の不始末により幕府がイギリスに対し長州藩の代わりに下関戦争賠償金第一回分五十万ドルを支払った慶応元年(1865)7月という同じ時期に、グラバーから長州藩に対し百万ドルの信用供与の話が出たとなると、『イギリスは幕府から召し上げた五十万ドルをグラバーを通じて長州藩に信用供与したのか?』と邪推してみたくなる。
 少なくとも確かなことは、イギリスは『幕府から五十万ドルを召し上げた』という事実と『長州藩に百万ドルの信用供与を申し出た』という事実である。幕府の軍資金と長州藩の軍資金の間に、『行って来いで150万ドルのハンディキャップを付ければ…』幕府と長州藩の軍事バランスが逆転するのも当然の事だ。」(同上書 p.253-254)

文久3年(1863)の薩英戦争の時は薩摩藩も賠償金の支払いを幕府より借用して支払うことで決着し、あとで踏み倒している。長州藩は下関戦争の賠償金3百万ドルは、幕府が攘夷の実行を朝廷に約束し諸藩に通達したものであるから、請求先は幕府であるとした。
薩摩も長州もイギリスと和解する際に幕府に賠償金を支払わせたのだが、これは幕府を弱体化させるために何者かによって仕組まれたものかもしれない。

「死の商人」の発想からすれば、射程距離が従来の3倍以上もある最新兵器を初めから幕府に大量に売っていたのでは、幕府による統治がより強固になるだけでわが国での武器取引はすぐに終焉してしまうことになる。彼らができるだけ長く大量の武器を販売するためには、最新武器を有力な討幕勢力に提供し続け、双方の兵力のバランスを勘案しながら、敵対する勢力にも武器を提供し、できるだけ紛争が長引くようにすることが望ましかったはずなのだ
実際グラバーは討幕派・佐幕派双方に武器取引をしていたのだが、こんなことを繰り返していたのだから、グラバーは武器弾薬の売買で大儲けしたことだろうと誰でも思う。

しかしながらグラバー商会は明治3年(1870)に倒産しているのだ。
その経緯については前回記事で紹介した苫米地英人氏の著書に詳しく記されている。少し引用させていただく。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

1868年、1月鳥羽伏見戦いが勃発、グラバーの期待どおり、薩長軍は連戦連勝する。
 将軍慶喜は大坂城に敗走し、大広間に家臣団を集めて『事すでにここに至る。たとい1千騎が戦没して一騎となるといえども退くべからず。汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。もしこの地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸あり。決して中途にやまざるべし』(『会津戊辰戦史』)と大演説を行い、兵たちを鼓舞した。
 が、その翌日、慶喜は側近数名を伴って大坂城を密かに出奔し、江戸へと帰ってしまうのだ。
 置き去りにされた幕兵たちのショックは大きかっただろうが、グラバーにとってもショックだったろう。大阪城は難攻不落の城であり、幕府軍が籠城すれば数ヶ月は余裕で抗戦することができる。そうなれば、相当量の武器弾薬がここで消費されたはずだったのだが、大将が逃げてしまっては話にならなかった
 これをグラバーの読みが外れたという言い方をする人も多いが、敵を前にして緒戦で逃げ出す総大将がいると想像する方が難しい。
 しかも、グラバーは戦争が長引くと読んでいたわけではない。
 彼は当時、日本で一番の武器商人であり、その彼が日本で内戦が起き、それが拡大すると判断していたということは”戦火が広がる仕掛け”を施したことを意味する。
 実際、グラバーは薩摩に大量に戦艦、武器弾薬を売る一方で幕府からの武器発注の仕事も受けていた。それも当時、最強の大砲といわれたアームストロング砲35門と砲弾10万発を、だ。総額18万3847ドルの大取引だが、幕府軍の手にそんな強力な火器が渡れば薩長軍の苦戦は免れず、場合によっては敗戦だってあっただろう。
 ところが、グラバーの抜け目のないところは、幕府から支払われた手付金6万ドルのうちの半分、3万ドルを薩摩藩に貸し付けていたことだろう。
 なぜそんなにことをしたのかと言えば、幕府に武器を売って金を儲け、その儲けた金から敵対する薩摩に武器代金を貸してやり、また武器を売る。この循環によって武器を戦場に供給するシステムができるからだ。
 実はこの時期、幕府も反幕府の雄藩たちも武器の買い過ぎで資金がショートし始めていた。これを補うためにも具体的な資金供給システムが必要だったのである。ただし、このシステムはかなり投機的なことは否めず、ちょっとしたきっかけで瓦解する可能性を常にはらんでいた
 ちなみに幕府発注のアームストロング砲だが、その一部は1867年の夏頃には長崎に到着していた。これをただちに引き渡していれば、翌年開戦する鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたが、グラバーは残金との引き換えを要求し、受け渡しを拒否していた。…
 …
 グラバー商会を苦しめたのは武器の過剰在庫だけではない。数年前の新造船の発注も重くのしかかっていた
 1867年、萩藩から新造艦船の建設を依頼されたグラバーは、兄が経営する船舶保険会社グラバー・ブラザーズ社を通じてアレキサンダー・ホール社に発注をかけていた。…また、熊本藩からは日本名・龍驤(りゅうじょう)艦の建造も依頼された。この龍驤艦は…堂々たる戦艦で、金額は36万ドルという高額なもの。…
 しかし、これらの船が日本に届いたのは1870年前後で既に戊辰戦争も終ろうか、もしくは終わっている時期。発注元の藩も既に使う必要のない軍艦に代金を払うモチベーションは下がっており、その多くが焦げ付いてしまう
 さらに、新政府は徳川幕府から領地を受け継いでおらず、戦争に勝ったとはいえ、まったく金がなかった。新政府が旧幕府時代の債務を全部肩代わりしたとはいいえ、一朝一夕に支払う能力はない。グラバーは勝ち馬に乗っていながら、財政的には敗者に等しい状態に陥ってしまう。」(『明治維新という名の洗脳』p.86-90)

史談会速記録

前掲書によると、『史談会速記録』という書物に肥後熊本藩主細川斉護の六男長岡護美が、龍驤艦の到着が遅れた経緯について語っている記録があるのだそうだ。
苫米地氏によると龍驤艦は実はもっと早く完成していたのだが、薩長側が完成した艦船を日本に到着させない妨害工作をし、英国のジャーディン・マセソン商会も薩長の要請に応じていたという。とすると、グラバーは彼が応援してきた薩長やイギリスに最後には裏切られたことになる。そのためにグラバー商会は資金繰りにつまって明治3年(1870)8月に倒産してしまうのだ。

グラバーはただの武器商人で、彼の嗅覚で利があると思う方向に動いただけだったのかもしれないが、実はイギリスがフィクサーとして幕末の日本を混乱させるために差し向けて、討幕派の勝利を確認したのち、明治維新にはイギリスの関与は全くなかったことを印象付けるためにグラバー商会を倒産させたという観方はできないか。
前回の記事でイギリスのハモンド外務次官がイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた文書を紹介したが、「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」という文章は、イギリスの植民地支配の基本的な考え方を簡潔に述べたものである。もしグラバーが明治維新後に大富豪として存在していたとしたら、討幕が「日本人だけから端を発している」ようには見えなかったように思えるのだ。
幕末期にグラバーがいち早く薩摩藩・長州藩に対し当時の最新鋭の武器を大量に融通したことによって「討幕」に向かう流れを加速させたことは確実なのだが、そこにイギリスの関与はなかったと単純に考えて良いのだろうか。

このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合の悪い真実を歴史の記述に残すことを許さない。現在流布している教科書や一般的な幕末史ではグラバーのことがほとんど記されていないし、伊藤博文や井上馨がイギリスのエージェントであったことが書かれる書物にお目にかかることはまずないのだが、明治維新からすでに150年近い年月が過ぎたのだから、そろそろ薩長中心史観を見直す議論を期待したいところである。

トーマス・ブレーク・グラバー2

明治41年(1908)に明治政府は、グラバーに対して外国人としては破格の勲二等旭日章を贈っている。表向きは日本の近代化への貢献がその主な授賞理由だったようだが、明治維新後のグラバーは三菱財閥の相談役として活躍しキリンビールの基礎を築いたとはいえ、外国人として最初に破格の勲章が贈られた理由としてはあまりピンと来ないのは私だけではないだろう。
この授賞は、明治維新の勝者となった薩摩藩や長州藩に対して、密留学を手配したり、幕府に先んじて最新鋭の武器・弾薬を大量に持ち込んだ上に、金融面でも支援したことと無関係ではないと思うのだが、皆さんはどう考えられますか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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