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江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐

前回の記事で江戸幕末期におけるイギリスの首相がパーマストン子爵であったことを書いたが、この人物は三度外務大臣を務めたのち二度首相を勤め、二度目の外務大臣ときには清国に介入してアヘン戦争を引き起こし、第一次パーマストン内閣(1855~1858)の時にはアロー号事件で清国に対する武力行使を容認して北京を占領し、アロー号戦争中の1858年8月には、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約である日英修好通商条約を締結させている

パーマストン

第二次パーマストン内閣(1859~1865)においても武力にモノを言わせる外交姿勢は変わらなかった。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

「第二次パーマストン内閣は万延元年(1860)には清国に2万人の大軍を送って、天津を奪い、北京西郊の離宮円明園に入り略奪の限りを尽くして火を放って焦土とし、北京条約を結んで香港対岸の九龍の割譲と賠償金8百万両を召し上げ、清国を完全に屈服させた
 第二次パーマストン内閣の対日政策は、当初は駐日公使オールコックの進言によりロンドン覚書を調印するなど柔軟に対応したものの、生麦事件が起きると本来の武断的性格を剥き出しにし、文久3年(1863)には薩英戦争を、元治元年(1864)には四国連合艦隊による下関攻撃を行ない賠償金3百万ドルを幕府に請求した。」(『開国の真実』p.269)
と、相変わらずひどいものである。

鈴木氏によるとイギリスの伝統的植民地政策は、「相手側の民族対立・宗教対立等の国内的軋轢に乗じて、その一方を支援して分割統治を行ない、植民地として支配する」というもので、国内に内紛があれば、イギリスは反政府勢力を支援して政権転覆後に親英政権をつくってイギリスの影響力を再度強めようとしたという。そしてイギリスはわが国においても同様のことを行なおうとしたことは間違いないだろう。

英国策論

薩長同盟が成立した3カ月後の慶応2年(1866)4月、横浜で発行されている英字新聞ジャパンタイムズ紙に、イギリス公使館の通訳官であるアーネスト・サトウが『英国策論』を発表した。しばらく鈴木氏の解説を引用する。

「アーネスト・サトウは有能な通訳官で日本語に堪能で独自の情報を入手できたから、イギリス公使パークスの判断は、アーネスト・サトウの意見に大きく依存するようになった。こうしてアーネスト・サトウは、イギリス公使パークスの片腕とも、助言者とも言うべき立場になった。その後、イギリス公使館の対日政策はほぼアーネスト・サトウの『英国策論』のシナリオどおりに展開していった。そうした意味でアーネスト・サトウは、駐日イギリス公使館における対日政策立案者というべき重要な立場にあった。
『英国策論』の内容は、
『私の提案なるものは、大君(将軍)を本来の地位に引き下げてこれを大領主のひとりとなし、ミカド(天皇)を元首とする諸大名の連合体が、大君(将軍)に代わって支配勢力となるべきだ』

 というものである。更にアーネスト・サトウは、
『外国人は大君を日本の元首と見るべきでなく、早晩、ミカドと直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を強くした』
 とも述べている。アーネスト・サトウ『英国策論』で展開した『幕府の政権担当を否認し天皇を元首とする諸大名の連合意見樹立論』は、幕府政権を否定する長州藩や薩摩藩の主張と合致している。」(同上書 p.272-273)

アーネスト・サトウの『英国策論』は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、次のURLで全文を読むことが可能だが、いささか読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900382

遠い崖 アーネストサトウ日記抄3

『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』を取り寄せて読むと、サトウがこの『英国策論』を著した基本的な考え方が、彼の日記にわかりやすい言葉で記されている。

「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれが望んでいるのは、ただひとりの有力者との条約ではなくて、この国のすべてのひとにたいして拘束力を持ち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽を捨てて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。言いかえれば、われわれは、現状の条約を、日本の連合諸大名との条約によって補足するか、あるいは、前者を後者と取り換えるかしなければならないのである。

 現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。
最近、われわれは、天皇の勅許なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍が自らの行動によって是認するのを知ったのである。

 このことから、天皇は将軍よりも上位にあると、ひとびとが結論したのは当然であり、理屈にかなっている。」(『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』p.255-257)

徳川幕府はペリー来航以降の相次ぐ列強からの開国要求に対し、当初は朝廷の承認を得て和親条約を締結する方針をとったのだが、攘夷主義の朝廷は通商条約の締結に反対して勅許を与えなかったために、大老井伊直弼は幕府の専断で通商条約に調印した。そのために各地で攘夷事件が起こり、列国は幕府の統治能力に疑問を持つに至り、武力を行使して条約勅許の獲得を幕府に迫って、幕府は朝廷を説得して慶応元年10月にようやく朝廷より勅許を得たのだが、この一連の動きからイギリスは、幕府は日本国の元首ではなく条約を批准する権利を持たないと判断し、また幕府と結んだ条約は将軍の管轄地でしか効力を持たず、他の大名たちに対しては拘束力がないと理解した。現状の条約では日英貿易の自由な拡大は難しいため、アーネスト・サトウは幕府に期待するのではなく、条約を締結する相手の切り替えを通して天皇をいただく雄藩連合に政権を移すという意見を表明していたのである。単刀直入に言えばサトウの考えは討幕論だ。

しかしながら、1865年10月に第二次パーマストン内閣が退陣して、その後イギリス本国では対日政策が軌道修正される動きがあった。
新外相クラレンドンは1866年4月9日付で公使パークスに宛てて「日本における政治的影響力の行使を求めるのではなく、たんに通商の発展だけを求め、内乱の際には厳正な中立政策をとる方針」と指示したのだが、船便のためその公信がパークスの手元に届いたのは6月であったという。

ところが、すでに述べたようにアーネスト・サトウの『英国策論』が発表されたのは同年の4月で、イギリスの対日政策は、サトウの描いたシナリオ通り反幕府・薩長支持で動き始めていてそれを逆転させることは困難な情勢にあった。というのは5月に幕府と長州との談判が決裂し、6月には幕府軍が長州に向かっていて第二次長州征伐がいよいよ目前に迫っていたからである。
パークスが新外相の中立指示に従う意思がどれだけあったかはよくわからないが、結局イギリス公使館はサトウの『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めることとなる。

再び鈴木氏の著書を引用させていただく。文中の「幕長戦争」とは、「第二次長州征伐」のことである。

周防大島への砲撃

「こうして幕長戦争が間近に迫ると駐日イギリス公使館は長州藩支持の立場で活発に動き始めた。実は既にこの年の正月、イギリス武器商人グラバーが薩摩藩を訪れ、島津久光の次男島津久治から手厚い接待を受けた。このときグラバーは、薩摩藩とイギリスの友好関係を一層深めるためパークス公使を鹿児島に招くように提案し、薩摩藩は快諾してパークスに招待状を送った。この仲介により…5月20日頃横浜を出帆して薩摩藩訪問の旅に出たパークスは下関に立ち寄り、5月24日、秘かに高杉晋作、伊藤博文と会見し『帰路に長州藩主と正式に会見する』と約束した。その後、パークスは長崎へ向かい長崎にしばらく滞在した。
 一方、第二次長州征伐の開戦が迫ってきた。慶応2年(1866)6月初旬に老中小笠原長行が幕府九州方面軍の主将として小倉に布陣し、6月5日には幕府先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が広島に到着して長州藩包囲態勢が完成し、幕府軍の戦闘準備が整ったからである。
 慶応2年6月7日朝、幕府軍艦富士山丸が長州藩領の周防大島を砲撃し、翌6月8日以降幕府歩兵、幕府砲兵、松山藩兵が周防大島に上陸し、第二次長州征伐が始まった
 長崎に居たパークスは幕長間の開戦を見届けると、早速、活発に動き出した。
 パークスは、6月14日長崎を出帆し、同月16日鹿児島湾に入った。翌日、パークスは島津久光や薩摩藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])と会見して交歓し、その後、数日にわたってパークスと薩摩藩の交換は続いた。この時西郷隆盛は薩摩藩代表としてパークスと懇談を行い、時局認識について腹を割った意見の擦り合わせを行った。この席でパークスは、
『ミカド(天皇)と大君(タイクン:将軍)の二人の君主があるような姿は外国では決して無いことで、いずれは日本も国王ただ一人とならなければ済まないだろう』
と述べ、薩長等雄藩による討幕を示唆し、さらにパークスは、
『このようなことを外国人が言い出すと、日本人は不満を持つようになる。日本人がこれをおのずから決すべきである』
とも述べた
。これに対して西郷隆盛は、
『なんとも外国人に対して面目ないこと』
 と答えた。パークスは西郷隆盛に対し『イギリスは直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない』ことを示して薩摩藩を激励したのである。」(同上書 p.275-277)

イギリスのハモンド外務次官がパークスに宛てた文章に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と記されていることをこのブログで何度か紹介したが、パークスが西郷に話した「(元首をただ一人にするという問題は)日本人がこれをおのずから決すべきである」「直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない」という部分は本国の指示の通りとなっていることは注目して良い。

ところで、幕府軍と長州軍との戦いはどんな戦いであったのか。
以前も書いたが、長州の武器の多くはアメリカの南北戦争で用いられた最新鋭のもので、幕府軍のものよりはるかに射程距離が長く命中精度が高かった。薩摩藩も最新鋭の武器を大量に保有していて幕府から出兵を要請されていたのだが、薩摩藩は出兵を辞退している。一方、幕府軍および幕府軍の要請で出兵した諸藩の武器は一時代古いものが大半だったようだ。

第二次長州征伐

兵の数では幕府軍が長州軍を圧倒していたのが、戦いは最新鋭の武器を大量に持ち、兵の士気の高い長州軍の方がはるかに強かったという。
副将として広島にいた老中本荘宗秀(ほんじょうむねひで)は、大阪にいる老中に宛てて、このように報告している。

長防御討入については諸大名へ人数を差出し候向きも少人数。少し多き分は農民共が過半にて兵勢甚だもって振わず。鉄砲も幕軍はゲペル甚だ少なく、火縄付の和筒のみ。長州は農民に至るまでゲペル銃を用い必取の英気鋭く、なお薩摩も長州へ心を寄せ、イギリスも長州へ応援致し候様子。この分にては、とてもすみやかに御成功はおぼつかなく」(同上書 p.283-284)

本荘宗秀は「ゲペール銃」と書いているが、この銃は江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで購入したもので、長州藩はその銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施され、銃弾にロケット状のものを装填する最新鋭の「ミニエー銃」を多数保有していた。ミニエー銃は銃弾に回転を与えることで飛距離と命中精度が向上し、有効射程はゲペール銃の3~6倍もあったうえに命中した場合の殺傷力が圧倒的に強かった。ミニエー銃を持つ長州軍は、幕軍の銃の届かないところから幕軍を狙い撃ちすることが可能だったのだ。

国会図書館デジタルコレクションに、明治大正の歴史家である中原邦平が明治42年の講演を書き起こした『忠正公勤王事蹟』という本がある。
そこには芸州口で行われた長州藩と幕府軍との戦いをこう記している。

長州征討に出陣す高田藩兵
【長州征討に出陣する高田藩兵】

「そうして小瀬川を渡って、井伊、榊原の兵が陣羽織立烏帽子で押太鼓を打ち、法螺貝を吹き、ブーブードンドンでやって来るところを、不意に西洋の利器で撃ち掛けましたから、ひとたまりもせず、みな崩れて敗走したので、一戦でもって大竹、玖波、小方を占領してしまいました。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782028/312

このように、彦根藩や高田藩は槍や刀で争う時代の戦い方で臨んだために小瀬川ではあっけなく潰滅したのだが、赤坂・鳥越の戦いのように肥後藩細川氏の奮戦で幕府軍が長州軍を圧倒した戦いもあったようだ。

小倉城への砲撃

しかし、第二次長州征伐の戦況が厳しい中、7月20日に大坂城在陣中の将軍家茂がわずか21歳で病没し、それを理由に幕府軍の総督・小笠原長行は戦線を離脱し、小倉口に集結していた九州諸藩の兵士達も相次いで帰国して、孤立した小倉城は長州藩の猛攻を受けて8月1日に落城してしまう。

徳川慶喜は朝廷に休戦協定を願い出て幕府軍は撤退し、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終ったのだが、兵士の数では圧倒しながら長州藩に敗れたことで幕府の権威が失墜し、幕府の求心力が急速に低下していくことになる。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html


関連記事
Comment
当時のイギリスが目論んだであろう、間接支配について、他国植民地支配の事例と比較すると、手法的類似点がありそうな気がします。
ハモンド外務次官、書簡集、伝記あれば読みたいところです。
Re: タイトルなし
masurawoさん、コメントありがとうございます。

ハモンドという人物はあまり知られていない人物のようで、出版されたものがあるかどうかはよく判りませんが、もしあったとしても重要なことは隠されているかもしれませんね。

しかしこのような統治手法は今日でもよく用いられているのではないでしょうか。わが国の政治家やマスコミなどにも、他国に操られているような人物が何人もいそうですね。
旧ブログ終了
しばやん様

ラングドック・ラングドシャです。ご無沙汰しております。
旧ブログがサービス終了でなくなるとのこと。
コメントは現ブログに移行できないということなので、旧ブログ分を全て拝見しました。
投稿者の方、しばやん様ともに、とても貴重な情報に満ちていました。
気になったものはメモしました。
それにしても,莫大な量ですね。お正月からはじめて、昨夜までかかりました。
いつかは、現ブログのほうのコメントもチェックしたいと思います。
(おかげで旧ブログにも目を通したのですが、以前のブログ内に、既に書いていらっしゃったことをきちんと確認せず、コメントにちぐはぐなことを書いていた気がします。どうかご容赦の程を)。
では、一段と寒いですが、どうぞご自愛ください。
Re: 旧ブログ終了
ラングドック・ラングドシャさん、ありがとうございます。

旧ブログから手作業で移転しなければならなかったので、コメントの移転は余りに面倒なので諦めました。
そのコメントまでチェックされたとは驚きです。

旧ブログのアクセスは1日700程度でしたが、熱心な読者がいたおかげで、わたしも読者から刺激を受けながらこんなに長く続けることができ、いろんな方がSNSなどで紹介してくださるおかげで読者も増え続けています。

はじめは、日記を書くようなつもりで「しばやんの日々」としましたが、歴史にテーマを絞ることを決めてから、私の探求心に火が点きました。
私も63歳になりましたが、この歳になってこんなに勉強することになるとは思いもよりませんでした。しかし歳をとってから学ぶということが、こんなに楽しいものであることをブログを続けることで知りました。読者の方から刺戟を受けて、学ばせて戴いていることに感謝しています。

この冬一番の寒さが続いています。ちょっと風邪をひいてしまいましたが、ラングドック・ラングドシャさんもお体大切に。




パークス
こんにちは。いつもお世話になっております。
今、幕末明治の尾張徳川家と入植先の北海道の八雲町を調べておりまして。
慶応元年の箱館駐在の英国領事館員によるアイヌ人骨盗掘事件に突き当たりました。

結論は箱館奉行に対し公使パークス側が歩みより、返還と慰謝料支払となりますが、これだけを見たら、よかったね、で終わるところでした。

デジタル八雲町史
http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep03.htm

当該事件の抜粋
http://hotate.sakura.ne.jp/otosibe.htm

今回もしばやん様の記事で当時の情勢をわかりやすくご説明いただき、感謝です。まだまだお勉強しなくちゃ!
Re: パークス
つねまるさん、こんばんは。いつもコメントありがとうございます。

「アイヌ人骨盗掘事件」というのは初めて知りました。
白人のイギリス人にとっては、有色人種は人類学の標本の様な存在だったようですね。日本人の骨もどこかで盗まれていたかもしれません。

当時の箱館奉行小出大和守秀實は今の政治家よりも立派ですね。今はおかしなことをする外国に抗議する政治家が少ないのは残念なことです。

それにしても、よくこんな事件を見つけましたね。つねまるさんの旺盛な好奇心に感心しています。

新資料も
アイヌの墓からの遺骨の盗掘については、先日あらたに、ドイツで新しい資料が発見されたそうです。

(記事より抜粋)
日本政府が19世紀後半、アイヌの墓の発掘を禁止する「命令」を出していたとみられることが、オーストリア人の旅行記から分かった。

命令についての記述があるのは、オーストリア人アイヌ研究者グスタフ・クライトナー(1847~1893年)の旅行記「極東にて」(1881年出版)。1878(明治11)年8月に北海道を探検した際のアイヌの調査などをまとめている。

 クライトナーらは研究資料としてアイヌの頭骨を入手することを旅行の主要目的の一つにしており、当時北海道を管轄した「開拓使」とみられる官庁に墓の発掘許可を申請。だが、日本側は「政府はアイヌの墓に触れてはならないとする厳しい命令を出している」として、申請を却下していた

 命令の時期や詳細な内容の記述はないが、当時、札幌で農業指導をしていたドイツ出身のルイス・ベーマーはクライトナーに「(1865年に)函館近郊で英国人によるアイヌ遺骨窃盗事件が起きたため、住民の怒りを買う発掘は難しくなった」と背景を説明している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170204-00000007-mai-soci

明治になってからも「アイヌの頭骨を入手することを旅行の主要目的の一つ」というのが凄いです。
Re: 新資料も
ラングドック・ラングドシャさん、情報ありがとうございます。

この事件のことは、つねまるさんのコメントをいただいて初めて知りましたが、コメントをいただいてからわずか11日目にこんな記事が新聞に出たとは驚きです。最近はあまり新聞を読まないので、ラングドック・ラングドシャさんのコメントで初めて知りました。

それにしても旅行の目的が「アイヌの頭骨を入手すること」とは驚きですね。白人は有色人種を人間とは見做していなかったような気がします。
生きた人間も
 この当時は、骨を集めることだけでなく、生きた人間を連れて行き、展示することも行われていたようです。

(抜粋)
 1904年に開かれた「セントルイス博覧会」では、博覧会の人類学部門の責任者W.J.マクギーは開催の意図をこのように述べた。
「この部門の目的は暗い原始から最も輝かしい開化へ、未開から文明社会へ、利己主義から利他主義へという人類の進歩を示すことである」

 この実証のために、アイヌの人たちがアメリカに送られたとのことです。
http://www.douhoku.org/ainu/diarylog/200710031.htm

日本語にすると、「人間動物園」と言う概念も存在していたとのこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%9C%92

 ほぼ同時期には、日本でも同様のことが行われ、人類館事件(大阪博覧会事件)ということが起こったそうです。

(抜粋)
 1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

いろいろ考えさせられます。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
Re: 生きた人間も
ラングドック・ラングドシャさん、いろいろ情報ありがとうございました。

歴史だけでなく人類学といった分野においても、白人にとって都合の悪い真実は隠されていてなかなか表に出て来ることが無いということですね。彼らにとって有色人種は動物と同等ですね。
以前このブログで、「米国排日」のことを書きましたが、米国では反日感情を煽るために日本人を動物に描いたポスターが数多く制作されました。これ等の話と根は同じところにあるように思います。

アメリカの原爆投下を抗議して、アメリカ・キリスト教会連盟事務局長のカヴァート氏がトルーマン大統領にあてて抗議の電報を送り、それに対するトルーマン大統領の返事が
「…私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。彼ら(日本人)が理解する唯一の言葉というのは、私たちが彼らを攻撃するときに使う言葉のようです。
けだものと接する時はそれをけだものとして扱わなければなりません(When you have to deal with a beast you have to treat him as a beast.)。非常に残念なことですが、それが真実です。」でした。

今も、欧米人には「白人至上主義」のような考え方が残っているかもしれませんね。中東で大量破壊兵器を投下するのも、人種差別に近い発想があるような気がします。
続報
ドイツでのアイヌ人骨の件ですが、明治政府が、持ち出し禁止令を出してたという話だけではなく、実際に人骨が見つかっていたそうです。1体は返還されそうだということです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170209-00000001-mai-soci

http://mainichi.jp/articles/20160807/ddm/007/040/063000c

http://mainichi.jp/articles/20161025/k00/00m/040/149000c
Re: 続報
ラングドック・ラングドシャ さん、続報いただきありがとうございます。

アイヌ人は「最も原始的な民族」と見做されていたようですが、そのあたりがアイヌ人骨収拾の動機になったのでしょうね。
勝手に「原始的」とされたアイヌ人にとっては、迷惑千万な話です。

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高貴な野蛮人
明治初期のアイヌのイメージですが、「原始的な人」というものだけでなく、何らかの理由で極東に取り残されたヨーロッパ人(コーカソイド)というイメージも持たれていたようです。「高貴な野蛮人」、「失われたヨーロッパ人」という概念が、当時ヨーロッパではアイヌに対して持たれていたとのこと。
日本に住んでアイヌの研究をした、マンローという人について書かれた文を添付します。


(マンローは)また、1898年には、1877年以来北海道でキリスト教の伝導に努めるイングランド人宣教師、ジョン・バチェラー(John Batchelor)の案内で初めて北海道に旅している。(中略)
バチェラーはアイヌにキリスト教に基づいた教育を施すための学校を創立したほか、アイヌ語の言語学的、民族的研究に多くの業績を残した人物である。彼は、アイヌ人はコーカソイドが日本に渡ったものだという、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(江戸末期に来日した『大シーボルト』)の唱えた「アイヌ白人説」を支持し、原ヨーロッパ人の子孫が現在の日本人によって不当な仕打ちを受けていると考えていた。
この説は極東の「高貴な野蛮人」というロマンチックなイメージで捉えられ、当時欧州の研究家たちの関心を誘っていたのである。バチェラーはマンローを誘うことで、共にこの説を証明しようとしたのだろう。
http://www.japanjournals.com/feature/great-britons/3752-.html?start=2

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-06041047/
Re: 高貴な野蛮人
ラングドック・ラングドシャさん、情報ありがとうございます。

シーボルトが「アイヌ白人説」を支持したというのは初めて知りましたが、それから多くの人類学者が来日して白人のルーツを探ろうとしたことが行き過ぎた結果になったということですね。

プレスタージョン
しばやん様

アイヌに対する「失われたヨーロッパ人」というイメージは、人類学的・科学的興味だけでなく、中世ヨーロッパに流布していた「プレスタージョン」(古代に東方に分かれていったキリスト教の王)の伝説が実在したという感覚でも捉えられていたような気もします。

(引用)
12世紀、十字軍運動が展開された時代には、遠く離れた東方の世界に、キリスト教徒が住んでいて、その指導者のプレスター=ジョンが、十字軍を助けてイェルサレムをイスラーム教徒から奪回するためにやってくる、という伝説が広く信じられていた。
http://www.y-history.net/appendix/wh0403-055_1.html
Re: プレスタージョン
情報ありがとうございます
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Re: アップされた寺社仏閣の写真、見てますよ。癒されてます。
茨○○子さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

いつまでネタが続くか自分でもよく判りませんが、古い書物や記録を辿りながら、マスコミなどで広められている歴史に行かに嘘が多いかを綴って行きたいと思います。

これからも時々覗いてみてください。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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