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戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか

以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html

応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだが、なぜか土一揆は姿を消している。
藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の180世別当である。

尋尊
【尋尊像 (興福寺蔵)】

「…尋尊(じんそん)は、こう証言する。
彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=食糧や給与を支払う力がない。だから、その代わりに戦場の市街での打破・乱入、つまり富家の略奪を公然と許可しているのだ、と
つまり足軽と号する』というのは、兵粮の代わりの公然たる略奪の免罪符で、『おれは足軽だ』といいさえすれば、略奪は思いのままで、その戦場には、物取も悪党も乱暴人も流民(きがなんみん)たちも殺到して、切ないサバイバルの手段にしていたのであった。その盗品は、彼らと結託する戦場の商人たちに売られて、郊外の『日市』で売りさばかれていた。」(『土一揆と城の戦場を行く』p.21)

『真如堂縁起絵巻』応仁の乱
【『真如堂縁起絵巻』応仁の乱

食糧が乏しかったにもかかわらず、応仁の乱の10年間に土一揆の記録が無い理由は、それまで「土一揆」を起こしていた主要勢力が両軍の「足軽」に入り込んだからなのだが、彼らにとっては「土一揆」を起こすよりも「足軽」という立場で掠奪する方がリスクも低く、経済面のメリットが多かったということなのだろう。

東南アジアの夏の平均気温推移

しかし、文明九年(1477)に『応仁の乱』が終わっている。それから後はどうなったのだろうか。
以前このブログで紹介したが、1420年代から1530年代の約110年間を『シュペーラー極小期』といい、太陽の活動が低下していたことが分かっている。太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-462.html

広域の飢饉発生年とその要因 1481~1601年

太陽活動が低下することにより穀物等の収穫量が減少し、全国各地で飢饉が発生したのだが、戦国大名は、自国領も含めて周辺の国々の食糧の絶対量が不足している年にどのような対策を行ったのだろうか

北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)
北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)】

北条早雲―氏綱―氏康と三代続いて名君と評価されている後北条氏の治世について田家康氏は著書でこう述べている。

「後北条氏の治世とは、近隣諸国との武力抗争だけではなく、飢饉時に爆発しそうになる領民のエネルギーをいかに抑制するかが大きな課題であった。
 興味深いことに、彼らの家督相続はすべて飢饉の年に起きている。伊勢盛時…は、1518年(永正十五)…の9月には隠居し、家督を嫡子の氏綱に譲っている。…1518年は関東諸国だけを見ても、上野で『今年諸国大飢饉』、甲斐で『天下人民餓死』とある。…
 家督を継いだ氏綱がまず行ったのが、領国内の年貢賦課の改革、役人の不正排除、目安制度(直訴)の創設であった。まずは農民の不安や不満の解消に手を付ける必要があったのだ。
 続く氏綱から氏康への相続は、1539年夏に始まる冷夏・長雨傾向が1541年まで続いた時期であった。甲斐の『妙法寺記』には1541年について、『此年春餓死ニ至リ候、人馬共ニ死ル事無限、百年ノ内ニモ御座キ候ト人々申来リ候、千死一生ト申候』と餓死者が多発した様子を記録している。
 1541年(天文十)七月十九日に氏綱の死去により家督を継いだ氏康にとっても、当初の重要課題は先代と変わらず飢饉対策であった。天候不順により農地は荒れ果て天文の飢饉となっていた。加えて、軍役の徴発が重くのしかかったことで、『退転』『欠落(かけおち)』『逃散(ちょうさん) 』といった農民の離村が急増していたのだ。氏康は手始めに両国の検地を実施し、不作地を特定した上で農民からの課税減免要求に応えている。さらに、1543年(天文十二)二月三日の虎印判状で、金銭を納めれば軍役を免除しその代わりに『郷中に罷り帰り、作毛すべし』と農作業の奨励を発した。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.181-183)

北条氏綱や氏康が領内の農民の不満への対策に取り組んでいたことが紹介されているが、北条軍が他国に攻め入る場合は話が別である。天正二年(1574)五月に北条軍が下総に攻め込んだ時には稲の苗代を悉く掘り返し、収穫期の夏麦を刈り取っている。また八月に上総に攻め込んだ時には、収穫前の米を刈り取り味方の兵粮にしている。このような事例は北条軍だけではなかった。

上杉謙信像(上杉神社蔵)
上杉謙信像(上杉神社蔵)】

上杉謙信の場合、越後の足軽や雑兵らを引き連れ、他国を侵略し、食料の略奪を繰り返した。越後からの関東出兵は、長雨による飢饉となった1560年(永禄三)八月に始まる。関東出兵は1574年まで12回に及んだが、うち8回は秋から翌年夏にかけてであり、関東平野で越冬している。越後は雪国ゆえ水田二毛作といった麦の裏作はできない。このため、春以降の領内の食料不足を見据え、『口減らし』をすべく温暖な関東平野で過ごしている上杉謙信は北陸や北信濃にも出兵しているが、こちらは秋の収穫期を狙っての短期間の軍事行動であり、長期遠征で越冬するのは関東に対してだけだった。
 上杉軍は、後北条氏の領内の農産物を奪っただけではない。1566年(永禄九)二月に常陸小田城を落とした際、『景虎ヨリ、御意ヲモッテ、春中、人ヲ売買事、廿銭程致シ候』と上杉謙信公認のもとで、戦争奴隷の人身売買を行った記録がある
 武田軍も同様だ。武田信玄は1541年(天文十)に甲斐の当主となり、1573年(元亀四)に三河の陣中で没するまで生涯32回の他国への軍事侵攻を行う中で、広域の飢饉が発生した後に必ず外征している。1544年の冷夏・長雨の翌春に南信濃の伊那郡に遠征、1577年以降の干ばつ時に北信濃の川中島までを支配した。1561年にインフルエンザと思われる疫病が関東で流行した際に川中島で軍事作戦を展開し、1566年の冷夏・長雨時には上野を侵略している。
 武田軍の足軽・雑兵にとっても、戦場は出稼ぎの場であった。戦場で乱取りが常態化していたことは、高坂弾正(春日虎綱)による『甲陽軍艦』から読み取れる。…
高坂弾正は、こうした乱取りができるのも『信玄公矛先の盛んなる故なり』と認識し、『国々民百姓まで悉く富貴して、安泰なれば、騒ぐさまひとつもなし』と領内の雰囲気を描いている。乱取りで得た戦利品によって領民の生活が豊かになっており、それゆえ甲斐では武士から領民まで外征を歓迎していた。」(同上書 p.185-186)

雑兵たちの戦場

東日本の例を挙げたが、西日本も同様であった。藤木久志氏はこう解説している。

「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このように雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ち帰ることの方を重要視していた者が多かったようなのだが、戦利品は食糧や財物ばかりではなく、人間も対象にされたことを書かねばならない。九州では大量の日本人が奴隷として海外に売却されたことがフロイスの記録に残されている。このことは今までこのブログで何度も書いてきたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

今回の記事の冒頭で、応仁の乱の頃に興福寺の尋尊(じんそん)が、雑兵には兵粮が与えられない代わりに戦場の市街での乱取りが大目にみられていたことを記していることを紹介したが、それから100年以上たっても同様であったことをルイス・フロイスが別の著書で書いている。

ヨーロッパ文化と日本文化

岩波文庫の『ヨーロッパ文化と日本文化』という本の第7章で、フロイスはヨーロッパ(ポルトガル)の戦争と日本の戦争の違いをこう記している。

「38 われわれの王や体調は兵卒に報酬を支払う。日本では戦争の続いている間、食べたり、飲んだり、着たりすることは各人が費用を賄わねばならない。
 39 われわれの間では土地や都市や村およびその富を奪うために戦う。日本では戦争はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために行われる
40 われわれの間では、馬、単峰駱駝(ドロメダリオ)、駱駝等が兵士らの衣類を運ぶ。日本では各人の百姓fiaquxosが彼の衣料や食糧を背中につけて運ぶ。」(『ヨーロッパ文化と日本文化』p.115-116)

戦国時代の戦争は、決して戦国大名や家臣たちのものではなく、その根底には村人たちの戦争参加があった。軍全体でみると、中核となる騎馬兵は全体の1割程度で、残りの9割は村の出身者が戦争の時に集められた「雑兵」であったのだが、彼らには兵粮がなく、懸命に戦っても恩賞があるわけでもなかった。それゆえに、ある程度の掠奪や暴行を許容しなければ、彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用することができなかったのである。

真如堂縁起絵巻
【『真如堂縁起絵巻』】

「雑兵」といっても、刀などの武器は当然保有していた。その気になれば、武器で脅迫して民間人から食糧や財物を巻き上げることは容易であったはずだ。
戦国大名は、敵地に侵攻する際に「雑兵」たちに敵地の作物を刈り取らせ、容赦のない掠奪を行なわせたのだが、これは敵地の経済力にダメージを与える狙いがあったにせよ、ただでさえ太陽活動が低下していた時期にそうした行為が各地で繰り返されることによって被害地域は食糧不足となり、いずれ飢饉に陥ることとなる。

隣国同士がこんな戦いを続けていたのでは、お互いが消耗するばかりだろう。かといって、お互いが争わないことを約したとしても、軍備を怠っていると別の敵に狙われて食糧不足に陥りかねない。
昔も今も同様だが、侵略意思のある国が存在するかぎりは、どの国も自国を守る備えが不可欠で、特に絶対的に食糧が不足しているような状況下で他国の食糧を奪いあうような争い事が始まれば、そう簡単には終わらなくなる。

戦国時代がいつからいつまで続いたかについては諸説があるが、応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から始まり豊臣秀吉が天下を統一した天正十八年(1590)まで123年続いたというのが多数説のようだ。室町幕府の中央政権としての機能が失われた明応二年(1493)の明応の政変以降という説を選ぶにしても100年近く続いたことになるのだが、なぜ戦国時代がこんなに長く争いが続いたのか、教科書などを読んでもよくわからなかった。

大坂夏の陣図屏風
【大坂夏の陣図屏風】

藤木久志氏は『雑兵たちの戦場』のプロローグで、雑兵たちが戦場に向かった背景についてこう解説している。
「戦場で濫妨狼藉の主役を演じていた雑兵たち。彼らはいったいどこからきたのか。
 凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊も、ゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場に繰りひろげられた濫妨狼藉、つまり、掠奪・暴行というのは、『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)
村の人々にとっては『食うために』は、戦争に行く選択しかなかったことを理解すれば、戦国時代が長く続いたことがなんとなく理解できる。

しかしながら、隣国同士が相手の食糧を奪い、田畑を破壊するような争いを繰り返していたのでは、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。
まして当時のイエズス会は、切支丹大名を育ててわが国の分断をはかり、最終的にわが国を植民地化する戦略を練っていた。もし、このままわが国の内乱が続いてわが国がバラバラのままで疲弊していったとしたら、わが国の一部が西洋の植民地にされていた可能性は決して小さくなかったと思われるのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

そうさせないために誰かが西洋勢力の魂胆を見抜き、武力で全国を統一して国同士の争いごとをやめさせることが必要だったのだが、そういう視点からこの時代を描いた書物は戦前には存在したものの、戦後はほとんど姿を消してしまっている。
戦後になって、戦勝国である西洋諸国にとって都合の悪い史実が封印されてしまい、長い間わが国の教育界やマスコミなどでタブー視されてきたのだが、いつになったらこの時代の歴史が全面的に書き直されることになるのだろうか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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