農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。

藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』の一節が紹介されている。
「日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている。」(藤木久志『刀狩り』(岩波新書)p.8)
フロイスによると、男たちは耕作にはあまり熱心ではなかったが、年少の頃から大小の刀を帯び、眠る時だけ枕元に置いたという。
またWikipediaにはこう解説されている。
「16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを『刀指』と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では『おとな百姓』の家は村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の『小百姓』に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
上記の解説にある後北条氏の動員令の事例が、藤木久志氏の『刀狩り』にもう少し詳しく書かれている。
「村人をにわかに民兵として動員しようとした時、関東の戦国大名北条氏は『民兵として出陣するのは、侍(上層の村人)でも凡下(一般の村人)でもいい。自分で用意する武器は、弓・鑓(やり)・鉄砲の三種のうちなら、どれでもいい』とか『百姓はもとより、町人・商人・職人までも、弓・鑓・鉄砲・小旗などを支度して参陣してほしい』などと呼びかけていた。民兵には弓・鑓・鉄砲のうち、どれかの自弁をとくに重視していた。戦国関東の村には、弓も鑓も鉄砲も自弁できるだけの用意がある、とみられていたことになる。
国の危機が迫ると、北条氏は、村に住む十五歳から七十歳までの成人男子を、根こそぎで徴兵検査に出頭させようとした。そのとき、大名は、『弓・鑓を持てないような男は、鍬・鎌でもいい』とか、『弓・鑓を持たないものは、鎌を持って』とか『道具を持たぬ者は、棒をもって』といい、さらには『得道具(武器)のない者は手ぶらでもいい』とまでいって、徴兵検査には成人の男子がこぞって出頭するよう、けんめいに呼びかけていた。村や町の人々が持つ武器は、弓・鑓・鉄砲から、鍬・鎌・棒まで、おそらく階層によって、じつに多様であった。それだけ多彩な、しかも、戦闘にも使えるほどの武器が、村や町には日常的に蓄えられていた。
一方で目を引くのは、これら村にあてた大名の徴兵検査令はどれも、村人の装備に強い関心を示しながら、村人に刀や脇差で武装せよとは、まったく要求していない、という事実である。それらを身につけるのは当然とみて、ただ『腰さしの類のひらひら、武者めくように』と、その見てくれだけを気にしていた。武者の刀と百姓の刀は見かけが違うから、なんとか武者風に、というのであろう。」(同上書 p.28~29)
このように戦国時代の農民たちは帯刀しているのが普通で、中には高価な鑓や鉄砲などを持っていた者もいたのだが、おそらくこれらの武器は、落ち武者狩りや、そのあとで開かれる日市などで安く手に入れたものが大半ではなかったか。

国立国会図書館デジタルコレクションに昭和6年に出版された柳田国男の『日本農民史』が公開されている。日向の山奥にある椎葉村*(しいばそん)の戦国時代の様子が描かれているので紹介したい。文中の「サムライ」は名字もあり刀を指す、おとな百姓を意味している。椎葉村には、おとな百姓たちの家は3分の1ほどあったという。
*椎葉村:宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する村。日本三大秘境の一つ。

「戦国時代に入って戦争が忙しく、サムライは傍ら農業を営む余裕が無く、また分捕り高名の方が楽で面白くて利益が多かったので、耕作は老幼婦女と下人の最も貧弱なる者に一任し、自分等は武器を執って、常に近傍の攻め取っても差し支えない者の領分を侵略することばかり心掛けた。彼らの上に戴く総領主の実力が、一々彼らを統制することが出来なくなると、この種無名の小さな戦争が愈々(いよいよ)多くなった。今日伝わっている多くの合戦記、関東地方で言えば関東古戦録の類、または…続群書類従の合戦部にあるような地方史に、野武士という無茶者の出て来るのは、即ち農を怠り武道に専らになった地士(じざむらい)のことで、彼らは概して名分に疎く、通例は大戦の後などに、負けて落ち行く者を苦しめて、首を取ったりした。言わば追いはぎを兼業したようなものであった。…此の如き連中までも勘定に入れると、足利時代の末頃には、実は非常なる武士の数であった。それが何れも居村に還ればトノサマと呼ばれ、それ程ではなくとも一領の主であった。但し、彼らの生活は至って質素なものであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181083/44
ここには、教科書や通史をいくら読んでも見えてこない戦国時代の本質が、わかりやすく描かれている。この時代については時代小説や映画などのイメージが強烈で、どうしても戦国大名同士の争いにばかり着目してしまうところなのだが、大名が一切関与していない世界で近傍の村同士が分捕り合戦を繰り返すような小さな争いごとが、あちこちで発生していた時代であったようなのだ。
また、この時代に各地で起った百姓一揆や一向一揆には、彼らの持つ大量の武器を用いて暴動を起こしていたことを知らないと、本質を見誤ってしまうことになる。
相手の物を奪い取る意思を持つ人間同士が武器を持って争う戦いや、武力を背景に自らの要求を押し通そうとする動きに対して為政者側が抜本的対策をとらないでいると、より武力を強化しながらエスカレートしていくことになる。
このような勢力を抑え込むためには、より強力な武力を背景にして、相手の武器を没収するなどして無力化させることがどこかで必要となるはずだが、戦国時代は大名同士が戦っていてそれぞれが大量の足軽を必要としていたので、自国の一国だけで実施しても自国の軍事力を弱めてしまうことになるだけだ。誰かが全国一斉に武士以外の武器の利用を統制することが必要だったのだが、それを成し遂げるためには全国統一の目途がたてることがまず必要で、それを成し遂げたのが豊臣秀吉であることは言うまでもない。

秀吉の刀狩令は天正十六年(1588)七月に出され、北は北陸の加賀前田家から南は九州の薩摩島津家まで、当時の秀吉の勢力圏ほぼ全域に令書の原本や写しなど約20点ほどが今に伝えられているという。
Wikipediaに、その内容が紹介されているが、教科書などで紹介されているのはこの部分である。
「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9
この刀狩令は大名や領主に対して出されたものであるが、原文には第1条のあとに、なぜ百姓の武装を禁止するのか、大名らにその必要な理由を説得している部分がある。藤木久志氏の前掲書に現代語訳で紹介されている。
「諸国の百姓たちがよけいな武具をたくわえて、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、領主たちに向かって不法をたくらむ。そんな百姓はもちろん秀吉が成敗(処刑)する。それにしても、百姓たちが武具をもてば、つい田畠を作るのを怠けるようになって、それだけ領主の取り分(知行)が減ることになる。それでは困るだろう。だから、そうならないよう、大名(国主)や領主(給人)や秀吉領の役人(代官)は、それぞれ責任をもって、百姓たちから武具をすべて没収して、秀吉のもとへ進上せよ。」(同上書 p.40)
この刀狩令は、大名・領主にとってはともかくとして、農民にとっては自衛のための武装権が奪われて、村の防衛については大名や領主を信頼して委ねることを意味し、武器を使って何度も掠奪行為などを繰り返してきた者に対しては、稼ぎの手段を奪われることでもある。天正10年(1582)や天正12年(1584)には各地で飢饉が発生した記録があり、武器を奪われることに関して農民側の抵抗はかなりあったはずなのだが、実態はどうであったのか。

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、秀吉の刀狩令を以下のように高く評価している。
「…天下の百姓は、何時でも土匪(どひ)となり、強賊(ごうぞく)となる便宜を持っていた。この弊風が一掃せられたのは、もとより鉄砲の流行が、その重(おも)なる原因の一であったに相違ない。されど秀吉の刀狩りも、またあずかりて力ありだ。
刀狩は単に百姓、町人より武器を取り上ぐるのみでなく、彼らをして、野武士の気分を蝉蛻*(せんぜい)せしめ、純乎(じゅんこ)**たる農夫の気分たらしめた。すなわちこれがために、城下に集まり、食禄を得て、ひたすら戦争の業に従う武士と、地方に散在して、農業に従う百姓と、截然(せつぜん)区別せられてきた。すなわち秀吉の所謂(いわゆ)る『諸奉公人は、面々恩給をもってその役を勤むべし。百姓は田畠開作を専らにつかまつるべき事』との、両者の分業を画定(かくてい)した、法規となった。徳川幕府は、要するに秀吉のこの遺制を拡充し、徹底せしめたにほかならぬ。
…
およそ秀吉の平和促進運動中、未だかくの如き痛快に、かくの如き有効なるものはなかった。惟(おも)うに秀吉は、信長に負うた債務を、利息を付けて、家康に弁済した。秀吉が信長に負う所あるが如く、家康の秀吉に負う所は、尚より多大であった。徳川幕府は、一から十迄、ほとんど秀吉の踏襲者たるに過ぎなかった。」
*蝉蛻:外形のみで中身のないこと。迷いから覚め悟りの境地に達すること。
**純乎:全く混じりけのないさま
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960831/32

ルイス・フロイスの記録によると、秀吉はキリシタンの叛乱を警戒して九州地区では厳しく武器を没収していたと記されているようだ。
藤木久志氏の『刀狩り』に、フロイスの『日本史』の記述が紹介されている。
「①暴君関白(秀吉)は、かねてよりこうした(叛乱の)恐れを抱いていたので、彼は長崎の住民からだけではなく、下(シモ:九州)の全地方の兵士以外の全員から、武器を接収するように命じた。そのために、おびただしい数の役人を投入して、その実行に当たらせ、皆の者が一つも隠すことなく、あるだけの武器を差し出すように、また、それを拒む者は、磔(はりつけ)にし処刑する旨、大々的に触れ歩かせた。この命令は、非常な厳しさをもって遂行され、当時(人々を)襲った最大の不安の一つ(と見なされる)ほどであった。こうして無数の武器が徴収された。
②関白のこれらの役人が徴集した刀・脇指・槍・鉄砲・弓・矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が四千振り、槍が五百本、弓が五百張以上、矢は無数、鉄砲三百挺、および鎧百領以上(に達し)、有馬領からは、一万六千以上の刀剣と、その他無数の武器が(徴集された)。
③こうして下地方のキリシタンたちは、彼らがもっとも重んじていたもの、すなわち武器を失うことになった。彼らはこのことを無上に悲しんだが、結局どうにもならなかった。」(同上書 p.100-101)
藤木久志氏の著書に各地の事例が紹介されているが、地域によって没収された武器はさまざまで、薩摩の島津領では刀・脇指三万腰が秀吉に納められたという。キリシタンの多い大村領や有馬領だけ特別に厳しかったかどうかについてはよく判らないが、多くの地域では農民の保有するすべての武器を調べ上げて、根こそぎ没収するというものではなかったようである。
藤木氏によると「ごく機械的に形だけ行われたかに見えた、一人あたり大小一腰を出せという方式は、実は中世百姓の帯刀権を原則として剥奪する(帯刀を原則として武士だけにかぎる)という、象徴的な行為であったことになる。刀狩りを画期として、百姓の帯刀を原則として免許制にする。このたてまえを創り出すことに、刀狩令の真の狙いがあった」(同上書p.86)とあり、実際には農村にはかなりの武器が残されたという。
では、刀狩令後も足軽・雑兵たちによる掠奪は続いたかどうか気になるところだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前に戦場となった伏見城周辺の村に、城攻め用の竹木を調達するのだといって、戦場で掠奪をこととする「濫妨人(らんぼうにん)」という雑兵たちが、集団で押しかけて来たことが醍醐寺の日記に記されているのだという。藤木氏はこう記している。
「『濫妨(雑兵たち)に、地下人(じげにん:村人)が武具をもって(集団で)出合い、これを防ぐ』とか『南里の竹伐りを、郷民が発起(一揆)して取り返す』というのがその一例である。また『濫妨人百四、五十人が、伏見の城攻め用だから、竹を伐らせろといって押しかけてきたが、村の侍たちが出動して、寺の門を閉めて戦い、早鐘を撞くと郷民が武器をとって蜂起した。これに恐れをなした賊徒どもが、助けてほしいと懇望したので、危害を加えず見逃してやった』という。」(同上書 p.107)
刀狩令によれ雑兵たちによる略奪が減って農民たちは豊かになり、武器を持って賊徒を自力で追い払うだけの実力と武器が蓄えていたのである。藤木氏によると、秀吉の刀狩令を単純に百姓の武装解除令とみる通説は、根底からの見直しが求められているという。戦国時代の歴史が抜本的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。
源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-499.html
大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-500.html
源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか
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応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える
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飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html
室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-465.html
戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-462.html

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いつも楽しく拝読しています
今回もまた、一本の論文のようで
読み応えがありました!
こちらで様々な記事を読ませて頂き
私の頭の中で、最もフィルターがかかっていたのは
豊臣秀吉だったのだと気づかされました。
当時の東アジアの危機感、日本の情勢、気候など
全て繋がりがあり、成る程と思うばかりです。
大学で勝手に聴講させて頂いている気分ですm(__)m
これからも明解な御説を楽しみにしています。
戦後マスコミなどで広められている秀吉像は、「征服欲が嵩じて意味のない戦いをした」とか「色ボケ爺」とかロクな扱われ方をされていないのですが、戦前では間違いなく国民の英雄扱いでした。
戦後秀吉がこのように描かれるようになったのは、おそらく、マスコミや教育機関で広められた戦勝国史観と関係があるのでしょう。
秀吉が伴天連を追放して西洋諸国の侵略からわが国を守ったことが、キリスト教国の多い戦勝国にとっては面白くなかったので貶められたのだと考えています。
毎度新しい記事が出ると読みふけっています。
歴史の裏側を見るようで楽しいです。
こういう事情を踏まえて
自国の歴史に詳しくなっていきたいです。
だって、日本人ですから
日本の歴史くらいは正しく認識したい。
学生時代は歴史は教科書に書いてあることをただ鵜呑みにするだけで、面白いと思ったことが無かったのですが、40代の半ばに廃仏毀釈をテーマに調べていた時に、通史等で描かれているのは勝者にとって都合の良いことばかりである事に気が付き、為政者が記録させたものはそういうスタンスで書くことが当たり前だと思うようになりました。それ以来、教科書の様な勝者にとってのキレイごとの歴史叙述全般に距離を置くようになりました。
いつまでこのような記事が書けるかわかりませんが、話題の続く限り、続けて行きたいと思います。
これからも時々覗いてみてください。
戦後の歴史叙述で秀吉公は随分貶められましたが、秀吉を偉人として描いたのでは、GHQがわが国に広めようとした『自虐史観』が成り立ちません。戦後GHQは多くの書籍を焚書扱いにして、戦勝国にとって都合の悪い史実を日本人に広まらないようにしましたが、彼らが隠そうとした史実がどのような内容のものであったかが、今ではネットで簡単に検索できる世の中になりました。
彼らが隠そうとした史実は、彼らがわが国に広めようとした歴史叙述にとって都合の悪い真実であると考えて良いでしょう。このような史実を、多くの人に知ってもらえたらといつも思っています。
いつまで話題がもつかわかりませんが、これからも頑張りますので、時々覗いてみてください。
Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
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- 長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて (07/26)
- 長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて (07/19)
- 満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国 (07/12)
- 満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか (07/05)
- 満州に関東軍が駐留していた背景を考える (06/28)
- 満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか (06/21)
- リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか (06/14)
- 関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか (06/07)
- 満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか (06/01)
- 関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える (05/24)
- 関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった (05/17)
- 仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える (05/11)
- 日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎 (05/03)
- 神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗 (04/26)
- 滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他 (04/19)
- 旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後 (04/12)
- 厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後 (04/05)
- 会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き (03/29)
- 白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争 (03/22)
同上 電子書籍
同上 自由選書版
江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます
落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました
この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました
南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版
