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刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。
藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119)

豊臣秀吉
豊臣秀吉

では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。
秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存在している点である

藤木氏の著書に『喧嘩停止令』の3つの判例が紹介されている、それぞれの事例をまとめると
① 天正二十(1592) の夏は炎天が続き、摂津の鳴尾村と瓦林村(兵庫県西宮市)が用水(北郷井水)をめぐって激しく争い、近隣の村を巻き込んで、互いに弓・鑓を揃えて大がかりな合戦となり、数多くの死傷者を出した。その紛争は秀吉の知るところとなり、『天下ことごとく喧嘩御停止』の法に背いたとして、鳴尾村の13人、瓦林村の26人が処刑された
② 河内(大阪府)の観心寺が、寺領の柴山の利用をめぐって、近隣の7つの村々と争っていたのだが、あるとき、ある村の百姓たちが、山で薪を刈る寺衆にたいして「日々に追い立て、打擲・刃傷に及ぶ」という激しい攻撃を加え相手を傷つけたことが、天正十五年(1587)春に秀吉の奉行によって『当御代喧嘩停止』の『御法度に背いた』とみなされ、村々は山の立ち入りを禁止とされた。
③ 日照りが続いた天正十七年(1589)の夏に、近江(滋賀県)の中野村と青名・八日市の村人たちが武装して用水を奪い合う争いとなった。秀次の奉行によって、その「刃傷」が問題となり、『喧嘩御停止の旨にまかせて』、3つの村の惣代各1名(計3人)の処刑が執行された。

藤木氏はこう解説している。
秀吉の喧嘩停止の法は、村々による山野河海の紛争の場で、武器を用いて集団で争い『刃傷』する、『村の戦争』を禁止する法であった。もともと中世の村々では、生活に関わる紛争は、村の自力で武器を持ち出して決着をつけてきた。その日常の紛争処理の作法が『刃傷』(武器による死傷)の回避を理由として、制御されようとしていた。刀を持って争えば百姓の身命があぶない。秀吉の刀狩りはこの説得とともに行われていた。…
 村々には大量の武器があり戦争も起きる。その現実を直視しながら、村の四季の生活にはいつも日常であった、山野や用水の争いの現場で、百姓たちが集団でその武器を使い、人を死傷することを抑止しよう。村にある武器を封じ込め、その使用を凍結しよう。そこに、この武器制御のプログラムの狙いがあった。それは『村の戦争』を『村の平和』に転換させるプログラムでもあった。いまこれを、あらためて秀吉の喧嘩停止令と呼ぼう。
 つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は。村に武器があるのを前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元には武器はあるが、それを紛争の処理としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。」(同上書 p.124-125)

徳川秀忠
【徳川秀忠】

では、秀吉が制定した『喧嘩停止令』はどのように書かれていたのだろうか。
先述したとおり秀吉が定めた法令は見つかっていないが、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠が慶長十五年(1610)に制定した『覚』四カ条の第二条がWikipediaに現代文訳とともに紹介されている。

「郷中にて、百姓等、山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷を成敗いたすべき事。(山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
この条文は、発生した判例から判断して、秀吉の『喧嘩停止令』を成文法として継承したものと考えられている。

徳川家光
【徳川家光】

また第三代将軍の家光は、寛永十二年(1635)の10月に『覚』三カ条の第三条で秀忠の条文を修正している。これもWikipediaに出ている。

「井水・野山領境などの相論つかまつり候時、百姓、刀・脇指をさし、弓・鑓をもち、まかり出るにおいては、曲事たるべき事(山野や用水などでの争い時において刀や脇差、弓や槍を用いて武力行使に及ぶ行為は違法である
付けたり、何ごとによらず、百姓、口論をいたし候時、他郷より荷担せしめば、本人よりその科(とが)を重くすべき事(いかなる場合もよその村々がこの争論に加担した場合、加担した村のほうを重罪とする)」

秀忠の条文と較べると、刀・脇差が追加され鉄砲が外されたほか、よその村が紛争に加担した場合はより罪が重くなることが付け加えられている。

このような法令が出来ていて違反者が厳しく処罰されることがわかっていると、いくら農民たちが武器を保有していても、紛争を解決する手段として武器を使うことを自主的に回避するようになるであろう

藤木氏はいくつかの事例を挙げておられるが、たとえば徳川秀忠の『覚』が出る前の慶長十一年(1606)の近江(滋賀県)の例を紹介しよう。

この年の初春に三上村(滋賀県野洲市)の下人が山仕事の帰り道で、近くの北佐久良村の者に、刈り取った柴と山道具を奪われてしまう。三上村の男たちは報復することを主張したが、村の長老たちは「復讐すれば互いに『あたまを打ちわられ』大怪我をすることになり『喧嘩御停止のみぎり』があるので、困ったことになる」ことを説明して、おとなしく裁判に訴える途を選ぶことにしたという。

次に徳川時代の事例をひとつ紹介したい。これを読めば、村には相当武器が残っていたことがわかる。しばらく藤木氏の著書を引用する。

「それは1641年(寛永十八)冬にはじまり、越後の魚沼地方四ヵ村と陸奥の会津地方七ヵ村の百姓たちの間で、六ヵ年にわたって争われた、銀山の帰属をめぐる、国境の争いである。
 その翌1642年に会津川の村々はこう主張していた。国境を越後側の村々に占拠された。そのため、これを自力で排除しようとしたが、それでは『天下の御法度』に触れるので、自粛して引き揚げた、と。1642年の段階で、『村の戦争』を自粛させた『天下の御法度』といえば、その7年前に発令されていた、家光の喧嘩停止令のほかにはありえない。
 しかしこの主張に反論して、越後側の村々はこう訴えていた。会津方が『千四、五百人引き連れ、鉄砲百四、五十挺、弓五、六十張、鳥毛ついの鑓百本ほど、長刀八振、段々に備えを立て、まかり出』たが、越後方は『御公儀おそろしく…ひっそく(自粛)』していた、と。」(同上書 p.130-131)

藤木氏の著書にはこの事件の結末については記されていないが、いずれにせよ豊臣秀吉が『喧嘩停止令』を出して以降、わが国では村同士が紛争を武力で解決することを次第に自粛するようになっていったことが読み取れる。

島原の乱
【島原の乱】

この事件が起こる4年前の寛永14年(1637)に有名な島原の乱が起っている。

島原の乱については以前このブログで4回に分けて書いたが、この乱では一揆勢37千人が大量の鉄砲と弾薬をもって原城に立て籠もり、山田右衛門作覚書によると「城内に鉄砲の数五百三十挺」あったという。『刀狩令』のあとでもこんなに大量の武器が残されていたのは意外であったので、一般的な教科書に秀吉の刀狩についてどう記されているかを確認してみた。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』では、「刀狩とは農民から武器をとりあげることである。秀吉は、農民が刀や弓などの武器をもつと、一揆を起こす原因にもなるとと考え、1588年(天正16)年刀狩令を出して、すべての武器を没収した。これによって兵農分離がすすみ、さらに1591(天正19)年には身分統制令をだし、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた」(p.144)と書いてある。
少し調べればこの通説に矛盾する記録をいくつでも容易に見つかるのでこの説が誤っていることは明らかである。秀吉の「刀狩令」に関しては、いずれ書き替えられることにならざるをえないだろう。

少し考えればわかる事だが、そもそも「すべての武器を没収する」ことは実施困難だ。隠そうと思えばいくらでも隠せるものを集めることには所詮限界があり、武器を没収するという施策だけでは武器を用いる紛争を終わらせることはできないと言って良いだろう。
為政者が村同士の争いごとに武器使用を停止させるためには、武器を没収することよりも、紛争を解決する手段として武器を用いた者を厳しく処分することのほうが有効であり、農民出身の秀吉がそのことに気付いて、いちはやく『喧嘩停止令』を出した意義は大きいと思う。

村々はこの法令と『刀狩令』によって次第に平和を取り戻していくのだが、その結果としてわが国ではそれ以降の武器の進化が停滞していくこととなる。また、百姓に対して武器を用いて食糧などを掠奪する行為を禁じたのであるから武士は襟を正さざるを得なくなり、掠奪のためなどに武器を用いるような行為をなすことは許されないこととなり、明治以降も兵士達は高い規律を求められることとなる。

しかしながら、西洋列強諸国ではその後も戦争が続き、武器の性能をより進化させつつ、自国の軍事力を拡大させる方向に進んでいったのである。
江戸時代の後半には、西洋列強諸国の軍事力はわが国を凌ぐレベルになっていたが、兵士達の規律という点に焦点をあてると、西洋諸国の軍隊は、わが国よりもかなり野蛮であったと言わざるを得ない。

アーネスト・サトウ22-23歳

例えば文久3年(1863)の薩英戦争では、英戦艦アーガス号に乗船していた英公使官通訳のアーネスト・サトウはこう記している。
提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

北清事変連合軍兵士
【北清事変連合軍兵士】

また、明治33年(1900)の北清事変では、北京にある11か国の公使官が存在する区域が暴徒に取り囲まれて、各国の4000名もの人々が孤立無援の状況に陥り、わが国はイギリスの再三にわたる要請を受けて第五師団を派兵し、連合国軍に加わって北京籠城組の救出成功に導いたのだが、そののち連合国軍の掠奪行為がはじまる。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に公開されている菊池寛の『大衆明治史・下巻』にはこう記されている。なお文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという。
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。

 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/35
*戎克(ジャンク):木造帆船

この時の各国の兵隊がやったことは掠奪ばかりではなかった。
菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。

戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/36

このような連合軍兵士たちの悪行については英国の新聞記者も多数記録しており、真実であることは確実なのだが、第二次大戦後のわが国では、戦勝国にとって不都合な真実はことごとく封印されてしまっており、国民がこのような史実に触れる機会がほとんどないのは残念なことである。
興味のある方は、国立国会図書館デジタルコレクションに『北清戦史. 下』が公開されているので、それを読まれることをお勧めしたい。
次のURLに英国デイリーエクスプレス紙の軍事通信員ジョージリンチ氏が各国の軍隊の悪行を伝えているのだが、ここでは「連合国軍中最も品行の良いのは日本軍である」と明確に書いていることは注目して良い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

太平洋戦争の終戦後においても、大陸から引揚げてきた多くの日本人が満州や朝鮮半島で随分酷い目に遭っているのだが、他国の軍隊はどこの国も似たり寄ったりで、日本軍の方がはるかに規律を保っていたことは少し調べればわかることだ。

こういう史実を知れば知るほど、『喧嘩停止令』を最初に定めた豊臣秀吉の偉大さを認識せざるを得なくなってくる。
掠奪行為を為すために、あるいは紛争を解決するために武器を使用する者を厳しく処罰することで武器使用の自粛を導いてきた長い歴史の過程で、わが国では武器を保有する者には他国よりも高い規律が求められるようになっていったと理解すればよいのだろうか。
何度も飢餓に襲われて、各地で争いごとが続いた16世紀にわが国を統一し、その権力を適切に用いて村々を平和に導いた秀吉のことを、もっと高く評価しても良いのではないかと思う。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-387.html

島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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