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尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか

前回の記事で、ソ連が「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行い、西欧諸国の共産化が失敗した後は工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにされていたことが、戦前のわが国の新聞記事で具体的な事例を多数確認できることを紹介した。

前回は昭和3年(1928)以降のわが国に対する工作活動を中心に記事に書いたが、そればかりではなく極東における「世界革命の推進」過程で、多くの日本人が犠牲となる凄惨な事件が少なからずあったことは、戦後のわが国ではほとんど知らされていない。

前回同様に神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』を用いて、共産軍がどのような戦い方をしていたかについて、当時の新聞記事を探していくと、たとえばこのような記事がみつかる。

尼港邦人全滅 言語に絶する過激派の惨虐
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126695&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

上の画像の記事は大正9年(1920)4月27日の報知新聞のもので、「尼港」というのは黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にある都市のニコラエフスクのことである。

尼港地図

ニコラエフスクについて少し補足させていただくと、以前は人口2000人程度の町であったようだが、1892年に函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が事業としての漁業に取り組み、ロシア側がそれを歓迎したことから多くの日本人が住むようになったという。その後日本人が漁業をすることは禁じられたものの海産物の交易で栄えるようになり、1896年に島田元太郎が設立した島田商会など、いくつかの日本企業がこの地に進出していた。

ロシア革命によってロシアが連合国から離脱し、1918年にアメリカの呼びかけにより連合国は、赤軍と戦闘状態にあったチェコスロバキア軍の支援を目的としてわが国をはじめ英米仏伊などの連合諸国がシベリア出兵に参加した。
その後チェコスロバキアが独立したのち、1920年1月にアメリカが連合軍の撤兵を通告してきたのだが、革命派が勢力を拡大して来たためにニコラエフスクの治安が悪化していき、市民および日本人居留民は日本軍の増援を請願していたという。

尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真
尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真】

大正9年(1920)当時、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊とその家族たちが在住していたのだが、他の連合国の軍が撤兵するとロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザン*が同市を包囲し、七百数十名いた日本人のほとんど全員が殺された痛ましい事件を「尼港事件」と呼んでいる。
*パルチザン:非正規の軍事活動を行う遊撃隊

報知新聞の記事にはこう記されている。文中の「亜港」というのは樺太にあるアレクサンドロフ・サハリンスキーという都市の名前である。

尼港帝国領事館焼跡
【尼港帝国領事館焼跡】

尼港事件
当時同地に滞在しあり三月三十一日同地を出発して四月八日亜港に来れる米人マキエフの語る尼港を情況左の如し。

尼港砲撃
初め赤衛軍が尼港市街の砲撃を開始せる時、日本守備隊長は哈府日本軍指揮官の命により中立を宣言せり。然るに赤衛軍は市街に侵入したる後旧露国軍人、官吏等二千五百名を捕縛しその二百名を惨殺する等横暴惨虐看るに忍びざるものありしかば日本守備隊長は抗議を申込たるに、赤衛軍は却て日本軍の武装解除を要求し来り日本守備隊長断然之を拒絶したる□遂に日本軍と赤衛軍との間に戦闘開始せらるるに至れり。

惨虐無道
戦闘は二昼夜に亘りて激烈に行われ、日本人の奮闘目覚しかりしも衆寡敵せず、遂に日本軍の不利に終り、日本領事館は焼かれ領事はその他の日本人と共に自ら火中に投じ、島田商会亦全焼して店員は悉く殺されたり。日本守備隊長は戦死せり。過激派は露人たると日人たるとを問わず掠奪惨殺を行い、狂暴言語に絶し、罪なき婦女子を銃剣を以て蜂の巣の如く刺殺したるを目撃せり

邦人全滅か
該米人の尼港を去るとき日本人百三十名許り過激派に拘禁せられありしが、日々待遇冷酷を極めつつあり。その惨虐なる行為は外部に対し極力秘匿しある為、真相分明せざるも恐らく今は一人も生残るものなかるべしと云えり。尚現在赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり朝鮮人は掠奪したる軍服を着用しあり。」

この記事の最後で「過激派に拘禁」されていた邦人は正確には122名なのだが、わが国が送った救援隊が近づいている情報を知って、5月24日以降全員黒龍河畔に連れて行き、ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうだ。

尼港事件で投獄された日本人122名を虐殺した日の壁書き

監獄の壁には日本人が鉛筆で書いた落書きがいくつか残されていて、上の画像は「大正9年5月24日午後12時を忘るな」とあり、12時を指した時計の針が描かれている。
この画像は多門二郎大佐率いる救援軍の従軍記者が現地に到着した際に撮影したもののようだが、『極東ロシア・シベリア 所蔵資料ギャラリー』というサイトの『サハリン島写真館』に、尼港事件の現場の写真を多数見ることが可能で、これらの画像の一部を今回の記事で拝借させていただいた。
虐殺された邦人の写真も何枚かあるので心臓の弱い方にはあまりお勧めできないが、何枚かの写真を見れば、この事件は新聞報道の通りひどい事件であったことが理解できる。
http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_si.php?photo=si07


中村粲氏の『大東亜戦争への道』のp.170に6月13日付の時事新報の記事の引用があり、その記事によると、監獄を見たあとで記者団が黒龍河畔に向かったところ、造船工場の前の200坪の空地は一面に血潮に染められ、船べりにはおびただしく血潮が飛び散っていて、眼も当てられぬ惨状であったという。

尼港事件唯一の生存者が本社を訪う
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10150853&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

しかし、わずかながら日本人の生存者がいたのである。毛皮商人の井上雅雄氏の妻子3名は虐殺されてしまったが本人は万死に一生を得て帰国し、6月23日付の神戸新聞に井上氏がこの事件について語った記事が掲載されている。

3月の2日に在留邦人が命の綱と頼んでいた無線通信の設備がパルチザンにより破壊され、次の日には「日本人を鏖殺せよ」との貼紙が市中到る所の電柱に貼られていたそうだ。
3月11日の夕方に所用があり自己所有の鉱山に向かったが、行ってみるとわずかのメンバーが残っているだけだったという。井上氏は不穏な空気を感じて、翌日早朝に起床してニコラエフスク(尼港)に向かったのだが、そこは惨憺たる修羅場と化していた。
この場面から記事を引用させていただく。

黒煙市街に溢れる尼港

「その当時の光景を追想するだに私は戦慄を禁じ得ない。
黒竜江の河口から河に沿って長方形なる尼港市街は、この時河口の方から紅蓮の焔がメロメロと市街を西北に舐めつつあった。何しろパルチザンの悪鬼共が手に手に石油缶を提げて屋内に投込つつ放火して歩くのだから火の手の早い事夥しい。
 パチパチと鳴る機関銃の音河口から打出す砲声(河口には支那の巡洋艦及駆逐艦二隻碇泊し之がパルチザンに加担して市街に砲火を浴せかけた)日本の軍隊は陸軍が二個中隊いたが領事館を囲んでいるので居留民の援護は出来なかったらしい。又海軍は河口閉塞の任に就(つい)ているのでこの渦中に飛び込めなかったものと見える。

 この時領事館も既に紅蓮(ぐれん)の焔に包まれていた。その光景を眺めた時、私はもういよいよ駄目だと思った。けれども私の店は西北隅にあったから、まだこの火焔に包まれておらぬを幸い、妻子の安否如何と飛ぶように帰って来た。

 私の店は階下が三間に台所、階上が同じく三間の西洋館であるが、妻子はその時奥の間に顫(ふる)えながら私の帰りを待ちわびているところだった。私は妻子が散り散りになって逃げる事を決心し、その支度をしている折柄入口にヌッと一人の露人がやって来た。私は拒むと悪いと思ったので直ぐに扉を開けてやると、彼は片手に剣の抜身を提げながら『缶詰はあるか』と血眼で言った。私は何でも皆な持って行ってくれと答えた。するとその後から俄(にわか)に五六十人の露人がドヤドヤと入って来た。彼等は悉(ことごと)くパルチザンの一味であった。その時私の家の後は既に炎々たる焔(ほのお)に包まれて、到底裏から逃げる事は出来なかった。前川の虎後門の狼とは真にこの事であろう。
 私は三人の妻子に別れ別れになれと命じたが、彼等は一緒に固まって動かなかった。する内に五六十人の露人の後から機関銃がバラバラ鳴り出した

 私はその時も護身用の六連発を握っていたが、放すと弾丸が無くなるので容易に放さなかった。その内に表から撃出した機関銃のため、真先に入った露人はバッタリ私の膝の上に倒れ懸った。私は慄然として拳短を取直した。
 その時露人の群はサッと屋内に殺到したが、私は私の妻子が機関銃の為めバタバタとその場に打倒れたのを見て、もう気も漫(そぞ)ろに拳短を乱射した。
 敵の弾丸は私の左腕の外套(私はその時鉱山から帰った儘の姿だった)を貫き臀部を擦過したけれども幸か不幸か大した傷も負わなかった。その内に私の弾丸にあたって敵は二人まで倒れた。敵はそれに怯(ひる)んでサッと退却したため、私は硝子の壊れている間から身を以て屋外に遁(のが)れた


 屋外は煙に包まれて全然見えない。けれども私は夢中になって街路を走った。路上には死屍累々算を乱して横たわっていたが、彼等の死に得ざる者は私の足に纏(まと)わりついて『助けてくれ、助けてくれ』と泣き縋(すが)った。けれども私は(今考えると無情にも)それらの手を振切り振切り駆抜けた。十一丁ばかりも逃げた時、既にそこは街外れで丘に続く道があった。そこまで逃げて私はホッとした。私は後ろを振返ったその時、私の頬にポタリと落ちたものがある。血潮だった。見上げるとそこの樹の上に十五六の娘が裸体のままひっかかって死んでいるではないか。多分銃剣で突刺されて抛(ほお)り上げられたものだろう。それを見ると私は又夢中になって駆出した。

 私の家から凡そ二十丁もある丘上に駆上った時私は初めて我に返ったような心地がした。妻子の死!あの無残なる死!それを考えると私はもう生きて居られなかった。私も死のう、一緒に死んで妻子の霊に追付こうと思って、私は拳短の筒先を右の耳下に当て思い切って曳金を外した。然るに何事ぞ、弾丸は今一発残っていると思ったのが、既に全部撃尽されて私は遂に死にも得なかった。

 遥かに尼港市街を瞰(みおろ)すと全市は炎々たる猛火に包まれ、邦人の逃げる者は一人も無い。私の目撃しただけでも邦人の大半は真裸体にされ多く背中の皮を剥がれていた。剣で削られたものであろう。『日本人は一人も残さず殺せ』との声を私は路上で聞いた。私はその時ふっと考え付いた。『若し尼港在留邦人が悉く殺されたとするとこの椿事を故国へ報告する者は誰だ?』私はその使命を自分に与えられたような気がした。この時午後四時頃だったろうと記憶する。」

井上氏は何とか生きて帰国することを決心し、敵に発見される怖れの少ない山中を分けてハルピンに逃げた。途中で一人のロシア人に組みつかれたが、柔道経験のある井上氏はその腕を組んで背負い投げし、石でその男を殴り倒して夢中で逃げたそうだ。
八日間飲まず食わずで歩き続けて眼も見えなくなったが、イギリスかアメリカの老人に一斤のパンを与えられ、さらに6日歩いて土人の部落に入り指輪を馬に変えたりして、なんとかハルピンに到着したのは、事件があってから36日目のことであったという。
ハルピンの領事館に辿りついて事情を説明したのち、極度の疲労から病に陥り医師の手当てを受け、漸く体調が回復した後ようやくわが国の土を踏んだのが6月20日と述べているので、その3日後にこの記事が掲載されたことになる。

尼港市街の惨状

また、同年4月20日付の大阪毎日新聞にこの事件を目撃した日本の海軍士官の手記が掲載されていて、中村粲氏の『大東亜戦争への道』に引用されているので紹介したい。

「彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたものとす。すなわち左のごとし。
 第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然と略奪したる後、老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり。
 第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、第三段行動として獰猛なる彼らの毒牙は着々我が同胞日本人に及びたるなり。

 ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、惨虐なる暴戻ほとんど言うに忍びざるものあり、敢えてこれを書く所以のもの、すなわち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。

 公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞婦人を極端に辱かしめて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、腕を放ち、足を絶ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど言外の屈辱を与え、残酷なる弄り殺しをなせり。
 またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼この馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼してこれに和するに至っては、野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す。世界人類の公敵として天下誰か、これを許すものぞ、いはんや建国以来の民族血族においてをや。

 帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携へ相扶け、やうやう身を以て領事館に避難し、その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪はもちろん、放火、破壊その他暴状至らざるなし。しかりといへども軍人云わず領事館民と云わず飽くまで彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堪忍自重す。しかるに彼等過激派はますます増長し、ついに領事館に向かって砲撃を加え、我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。
 これまでなりと自覚するや、居留民男女を問わず一斉に蹶起して、自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云う男子は総員武器を把って護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。

 しかし、全員いかに努力奮戦するも衆寡敵すべくもあらず、刻一刻味方の減少するのみ、ついには繊弱なる同胞婦人に至るまで、戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込めるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、人力のいかにすべきやうもなくなお生存の健気なる婦人または身働きの出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受けるものかと、共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり」(『大東亜戦争への道』p.168)

我が居留民を投獄した尼港監獄

こんな事件があったことが信じられない方は、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』の簡易検索を用いて「尼港事件」をキーワードで検索されれば良い。443件もの記事がヒットすることも驚きだが、そのうちのいくつかの記事を読めば、この事件がわが国にいかに大きな衝撃を与えたかが誰でもわかるだろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

Wikipediaによると、この尼港事件で殺されたのは日本人だけではなく、ニコラエフスクの総人口のおよそ半分に及ぶ6000名を超える市民が虐殺され、日本人犠牲者総数は判明しているだけで731名だという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

領事館焼け跡に立つ多門大佐
【領事館焼け跡に立つ多門大佐】

実は、この事件のように多数の日本人が虐殺される事件は他にも多数あったのだが、残念なことに戦後になってこのような史実がマスコミなどで詳しく伝えられることは皆無と言って良い。
戦前の日本人なら誰でも知っていたような重大事件が、なぜ戦後の日本人には伝えられないのかと誰でも不思議に思うところなのだが、その理由は、もしわが国の教科書に「尼港事件」や「通州事件」のような史実が記されていたらどうなっていたかを考えるとある程度察しが付く。
もし、コミンテルンやその指示で動いていた共産勢力の悪事の数々を知れば、ほとんどの日本人が、今日マスコミや教育機関から垂れ流されている歴史観に違和感を覚えることになることは確実だ。

このブログで何度も書いているように、『戦勝国にとって都合の良い歴史』は、わが国だけが悪者でなければストーリーが成り立たないし、教科書やマスコミが語る歴史叙述は、そのような歴史観で国民を洗脳するために記されているといっても過言ではない。
戦後GHQは日本人に自虐史観を植え付けることに成功したことは確かだが、そのような歴史観に矛盾する史実をいくつも日本人が知ることになると、史実に基づかない歴史叙述は急激に支持を失っていくことにならざるを得ないだろう。

つい最近までは御用学者やマスコミなどが、『戦勝国、特に共産国にとって都合の悪い真実』を伝えない権利を堂々と行使していたために多くの国民が騙されてきたのだが、ネットで真実が一気に拡散される今の社会ではこれまでのようにはいかないことは、昨今のマスコミの凋落ぶりを見れば明らかである。

国民が自虐史観の洗脳から解放され、中韓が声高に主張する歴史が嘘ばかりであることが広く認識されて、歴史が全面的に書き替えられる日が来ることを祈りたい。

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【ご参考】
江戸時代の探検家・間宮林蔵が1809年に樺太およびその対岸のアムール川下流探検をし、その際に『東韃地方紀行』という記録を残していすが、この中で「フヨリ」と彼が呼ぶ町がこの事件の現場となったニコラエフスク(尼港)と考えられています。
彼の探検をこのブログで纏めました。よかったら覗いてみてください。

間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-441.html

日本人が大量に虐殺された事件について、こんな記事を書いています。参考にしてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

それにしても、ロシア人が異国人を殺戮する方法は、3千人の清国人が殺された1897年の『アムール川の流血事件』と同じですね。

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html



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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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