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幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。

東京遷都

教科書では東京遷都について、
「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日本史』p.218)
などと簡単に書かれているのだが、当時の京都地図を『”超検索”幕末京都地図』で確認すると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあり、同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があり、平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

幕末京都地図

これらの建物やその建物に繋がる人々の大半が、首都の機能が東京に移転してしまえば京都にいることの必要性が次第に消滅してしまうことは明らかで、充分な対策を打たなければいずれ京都の人口は大幅に減少し、武家や宮家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、賑やかだった京都のあちこちに住人不在の屋敷が残されて荒廃していかざるを得ない。実際に京都の人口は維新前の35万人から20万人に急減し、その後京都を復興させるために数多くの苦労があったのだが、この点については以前記したので繰り返さない。

徳川家達
【徳川家達】

今回は視点を東京に移してみよう。
徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強とされるのだが、慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨が伝達されて、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%も減封されたことになる。

江戸地図

当時の徳川家には約3万人の家臣団がいて、その半分近くが家族とともに駿府移住を希望したため、彼らはとんでもない窮乏生活を余儀なくされることになったのだが、当然の事ながら彼らがこれまで住んでいた江戸の住居の多くは空き家となった。
江戸には徳川家の家臣だけでなく諸藩の屋敷も数多く置かれていたのだが、参勤交代が無くなったのでこれらもまた不要となり空き家となって、江戸の人口は急減して急速に荒廃し、治安も悪化していったのである。

この間の事情について詳しく書かれた書物を探していたのだが、前回記事で紹介した伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に、薩摩藩の市来四郎の日記が引用されているので紹介することにしたい。

「江戸瓦解後の東京府内の状況は、貴賤貧困を極めること譬えようもない。旧幕臣ことごとく各所に流離転沛(てんはい)し、その居宅皆変じて草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め八重葎(やえむぐら)が軒を覆う。昔は壮麗を誇った大名小路もことごとく廃墟に変じ、市街の商賈(しょうこ)工匠も過半は退転して、人々は飢餓に陥っている。中にも番町深川本所下谷の地は、見わたすかぎり空き家にして腐朽累々たり。また城内にしても、本丸は燃燼後のままに荒れ果て、狐狸の巣窟となっていたずらに生い茂り、目も当てられない有り様である。西丸は殿閣のみ以前のままであるといっても、無主無人なので頽廃する所が多い。ただし内外三十六見付の門楼のみ残って旧観を保っている。二年の御東幸以来、ようやく人心安堵し民業やや開けたけれども、昔に比べれば十分の一である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/25

江藤新平
江藤新平

江戸がこのような状況に陥ることを予見して、江戸城が無血開城される少し前の慶応4年(1868)4月1日に、佐賀藩の江藤新平が岩倉具視卿にこんな意見書を差し出したという。この意見書も伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に引用されているので一部を紹介しよう。

慶喜へはなるだけ別城を与え、江戸城は急速に東京と定められ、おそれながら、天子東方御経営の御基礎の場とされたく、江戸城をもって東京と定められ、行く行くのところは東西両京の間に鉄路を御開きあそばされ候ほどの事これなくては、皇国後来両分の憂いなきにしもあらずと考えられ候。かつ東方王化に染まらざること数千年につき、その当時においても江戸城は、東京と定められ候。御目的肝要に存じ奉り候。…ここにおいて右の通り公然御布告、江戸をもって東京と相定められ候わば、東京の人民も甚だ安堵大悦いたすべく候。かくのごときはその関係甚大なりとす。深く御考量くださいますように。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/15

この意見はのちに佐賀藩の藩論として朝廷に建白することとなり、廟議で正式に江戸を東京と改称し、陛下は東京で親臨して政を行うことが決定されたのである。
慶応4年(1868) 7月17日に『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が出されたのだが、本文にはこう書かれている。

江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書

「朕、今万機を親裁し、億兆を綏撫(すいぶ)す。江戸は東国第一の鎮、四方輻輳(ふくそう)の地。宜しく親臨以て、其の政を視るべし。因って自今、江戸を東京とせん。是れ朕の海内(かいだい)一家東西同視する所以なり、衆庶(しゅうしょ)此の意を体せよ」

このとおり本詔書には都を遷すとはどこにも書かれていない
遷都があるのではないかと疑う京都の人びとを配慮してか、翌8月27日に京都御所で明治天皇の即位式が行われ、9月8日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月20日には東京へと「行幸(ぎょうこう)」され、それが実質の遷都となってしまったのである。

賀陽宮朝彦親王
賀陽宮朝彦親王

このようにしてかなり強引に「東京遷都」が行なわれたのだが、その理由は東京の荒廃を防ぐことだけではなかったのである。この混乱を機に、徳川の再興をはかろうとする動きがあり、その中心人物は伏見宮邦家親王の第4王子の賀陽宮朝彦(かやのみやあさひこ)親王殿下で、文久3年(1863)8月18日の政変の時は宮号を倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとした「中川宮」と同一人物である。

再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「…二藩に対して嫌焉(けんえん)の情をもっておられた朝彦親王は、ますます不快の念を抱きながらも、空しく大勢の赴くがままに傍観していたが、いよいよ遷都の議が廟堂に上るとなっては、もはや黙視することができず、盛んに不平の公卿を糾合して反対はしたけれど、これもまた大勢の赴くところで、如何ともすることもできなかった。殊に、陛下の思召しもそこにあるとして見れば、自分も表面に立って反抗することもならぬところから、幸いに紀州新宮の藩主・水野大炊守(おおいのかみ)が、宮と同じ意見をもって、しきりに同士の糾合に努めていることを伝え聞いたので、家来の浦野兵庫を水野への使者として深く相結び、さらに諸藩の浪士で、徳川の再興を夢見ている者が多くある。これらの者を集めて、うまく事を起こして目的を遂げようと、着々とその進捗(はこび)をつけていったのである。
 しかるに、江戸へ出ている公卿の中に、愛宕通旭(あたごみちあきら)という人がいた。これもまた普通の公卿とは違って、存外に胆力もあり、議論ももっていて、なかなか薩長二藩の指導にのみ従っていることの出来ぬ人であった。多くの公卿も遷都には反対であるが、時の勢いに押されて、いずれも緘黙しているのを見て、愛宕卿はしきりに憤慨していた折柄、賀陽宮が主として、水野大炊らが遷都反対を口実に、薩長二藩を押倒して徳川再興を図ると聞き、これに同意してひそかに同志の糾合にかかった。どうせ維新の大変革があって幾日も経たぬ時であるから、さまざまな事情や議論を持って、薩長二藩に反対をしていた者は、到るところにたくさんいたのである。自然とそれからそれへ連絡がついて、初めのうちは極めて少人数であったのが、いつか知らずその関係は全国へ拡がって、集まってくる志士の中には、なかなかに有為の人物も多く、秋田の初岡敬治*、土州の岡崎恭輔、米沢の雲井龍雄そのほかものすごい連中が追々に集まってくる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/27
*初岡敬治:出羽久保田藩士。勤王家として重用され、戊辰戦争では評定奉行副役格。権大参事などを務めたが、反政府陰謀に加担したとして明治4年に自刃を命じられた。
**雲井龍雄:出羽米沢藩士。討幕は薩長の野望によるものと批判し、戊辰戦争時に官軍の東北進撃阻止に動き、明治3年に斬首された。


戊辰戦争関係略図
戊辰戦争関係略図】

この当時、戊辰戦争はまだ終わっておらず、政府軍は奥羽列藩同盟との戦いが続いていた。官軍勝利の見込みがついていたとはいえ、会津藩を中心に不平の諸侯や浪士を集めていて、戦争はそう簡単には集結しないと思われた。
さらに榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力が旧幕府の軍艦に乗って江戸を脱出し、途中で大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約2,500人を集めて蝦夷地(北海道)へと向かったという動きもあった。この時期、賀陽宮の呼びかけに応えた諸侯や浪士がかなりいたことはまちがいないだろう。

しかしながら賀陽宮の陰謀は明治政府の知るところとなり、慶応4年(1868)の8月になって刑法官知事大原重徳、判事中島錫胤(ますたね)が、朝廷の内命を拝して、賀陽宮を訪ねている。この二人が宮に謁見する場面を伊藤痴遊はこう記している。文中の芸州とは今の広島県西部を指す。

「『これより芸州の浅野家へお預けに致すから、左様御承(う)けなされい
と、朝命を伝えた時に宮は恐ろしき眼をして、両人を睨みつけ、暫らくは言葉も無かったが、両人は唯恐縮して、宮の御答を待つばかりであった。時に宮は
『此一事は、予の更に預かり知らぬことであるゆえ、たとえ朝廷の御沙汰といえども、容易に従うわけには相成らぬ。それとも予がこの事に関係しているという、確たる証拠でもあることか』
こう言われてみると、何とか答えなければならぬから、両人は
『御家臣の浦野兵庫なる者の陳述によりますれば、殿下の御謀反は明白なもので、すでにその一味徒党の連判書さえ、このとおりにござりまする』
宮は不審の眉に皺を寄せて、
『その連判の中に、予の氏名もあると申すのか』
『殿下の御名はござりませぬが、その御手形はこの通りのこりおりまする』
『それを示せ』
『ハッ』
そこで両人は、連判書を宮の前に差し出すと、宮は無造作にこれを拡げて御覧になったが、やがてその手形の上に自分の手を拡げたまま、載せてみて、
『これが予の手形であると申す可。一度押した手形の、どうしてかくも寸法に違いがあるか、よくこれを見よ』
と、言われて、両人が恐る恐る頭を挙げてみると、意外にも連判書に押してある手形は、今宮が押さえている手よりはよほど大きい。そうなってみると、この争いはちと困ったことになったが、今更に朝議一決してかくなったものを、このままにして立ち帰ることもならず、大原は汗を拭きながら、
『一応は御道理(もっとも)でござりまするが、この場合に於いてたとえ御不服はありましょうとも、一時朝命に従って、芸州へ御立退きを願い上げまする。しかし、この事に就きましては、必ず殿下の為にその冤を雪ぎますることは、自分に於いてもお引き受けいたしまする。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/29

このようにして大原は宮を口説き落とし、宮は一旦広島藩預かりとなったのだが、どういう経緯で広島藩に行くことになったかについてはWikipediaには全く触れられていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

では賀陽宮はそれからどうなったのであろうか。
再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「宮は遂に朝命に服して、芸州に立退くことになった。哀れ、卓落不羈の気象を持っておられて、薩長二藩の横暴に反抗し来たった宮は、この一事から不遇剥落に、後の半生を送ることになったのである。しかしながら、朝廷においても、宮の心事の皇室に反(そむ)いたのではないということは、明らかに分かっておられたのであるから、その後赦免の御沙汰が下って、一旦賀陽宮は廃止となったが、久邇宮(くにのみや)の御名義を下し給わって、東京へ上ることをお許しになった。…明治の初年には、皇室の班に列する方でさえも、こういうことのあった一事に顧みても、薩長二藩の横暴が、どれほどに一般の人から睨まれていたかということの想像はつく。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/30

そののち賀陽宮親王は政治の世界から遠ざけられたが、宮の呼びかけに応じたメンバーの多くは斬に処せられたのだそうだ。
このような薩長にとって都合の悪い出来事は今日ほとんど知らされていないと言って良いのだが、このような出来事を知ると明治維新は決して順調にすすめられたのではないことがわかる。

ここで、もう一度この記事の最初に紹介した薩摩藩の市来四郎の日記を振り返ってみたい。市木は文章のはさらにこう続いていた。
「したがって人心洶々(きょうきょう)、堵に安んぜず、各藩の兵隊充満して横暴に流れ、人民は愁苦を訴えている。それで気概のあるものは各所に潜匿(せんとく)観望して、時をうかがって薩長二藩を討ち、これに取って代わろうと企てる者がある。この形況のまま押し行けば、数年を待たずに再度大乱になりそうな情勢である。」

また江藤新平が岩倉具視卿に提出した意見書にも「東方王化に染まらざること数千年」という言葉があった。

戊辰戦争箱館戦争の図
【戊辰戦争箱館戦争の図】

明治政府からすれば、戊辰戦争で官軍が東北で奥羽列藩同盟との戦いが続き、江戸には新政府に不満を持つ各藩の兵隊が充満していて、隙あらば新政府を倒そうという動きが各地にあったことを知らねばならない。

こんな状況で東京遷都の議論されないまま、京都が新生明治国家の政治経済の中心地となっていたとしたら、東日本で内戦の長期化は避けられなかっただろうし、外国勢力の動き方次第では今の日本はなかったかもしれない。

東京遷都により、江戸幕府瓦解のあとの東京の荒廃を免れたことはそのとおりなのだが、当時の国内情勢を考慮すると、その後も関東・東北地方に睨みを利かせながら、わが国全体をバランスよく統治するためには首都は東日本でなければならず、荒廃が進み治安が悪化していた当時の江戸の状況を考えれば、首都を京都のままとすることは愚策である。
京都の人々を騙して強引に行われた東京遷都ではあったが、スタートしたばかりの明治政府にとってはいかなる手段を取ってでも、江戸を東京として首都を東京に遷すことがベストの策だったのである。

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【ご参考】
教科書などにはほとんど何も書かれていませんが、幕末から戊辰戦争に至る歴史はイギリスとフランスの動きが重要で、戊辰戦争にはフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉らフランス人兵士5人がが軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んでいます。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
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なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
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江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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