天誅組河内勢に関わる史跡と富田林市寺内町の美しい町並みを訪ねて
特にこの地域には南朝や、天誅組に関わる寺社などが多いことに興味を覚えて、先日富田林市、河内長野市、千早赤阪村を巡ってきた。

最初に訪れたのは、美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ:富田林市宮町3-2053 ☎0721-23-3007)。「美具久留御魂」とは「水泳(みぐくる)御魂」で水神をあらわし、千早赤阪村の建水分(たてみくまり)神社を上水分(かみのみくまり)神社と呼んだのに対して、下水分(しものみくまり)神社とも呼ばれてきた。下の画像は享和元年に出版された『河内名所図会』に描かれている「美具久留御魂神社」で、この書物では「下水分社」と記されている。

ご祭神は出雲系の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)で、社伝によると崇神天皇の10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので天皇自ら視察して、「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのに始まるという。
平安時代には神仏習合の霊地として栄えていたそうだが、鎌倉方の千早赤阪城攻めの際に焼払われてしまい、楠木正成が後醍醐天皇の命を受けてこの神社を再建したと伝えられている。
その後天正13年(1585)の豊臣秀吉による根来攻めの際に再び焼失し、豊臣秀頼の寄進により社殿が再建されたという。
平成6年(1994)には本殿・摂末社および拝殿・社務所等の大改築がなされ、同8年(1996)に完成したのだそうだ。

鳥居を抜けて参道を進むと下拝殿がある。

この下拝殿の中に神輿や絵馬があるが、上の画像は天和2年(1682)の第7回朝鮮通信使を描いた珍しいものだという。
更に階段を登ると上拝殿がありその奥に本殿と摂社などがある。

神社の境内は真名井ヶ原と称する丘陵の一部で、この丘陵は古くから神奈備(かんなび)山と呼ばれ、山そのものが御神体として崇敬されてきた。この本殿の背後に宮裏山古墳群があるのだそうだが、古代より聖地として自然のままに残されてきた深い緑は「大阪みどりの百選」に選ばれているようだ。
http://www.pref.osaka.lg.jp/midorikikaku/toshiryokka/hyakusenn.html
美具久留御魂神社から錦織神社(にしきおりじんじゃ:富田林市宮甲田町9-46 ☎0721-25-2770)に向かう。美具久留御魂神社からは車で10分もかからない。
この付近は古くからこの地域に百済からの渡来人が居住した地域で、錦織の地名は彼らが綾織、錦織を朝廷に献上したことに由来すると考えられている。
この地域は、近くに大和側支流の石川が流れて水流の集まる地域であったので、古くから水郡(にごり)の郷と呼ばれていて、当社も水郡(にごり)神社と呼ばれていたのだが、明治40年(1907)に今の社名に改められたのだという。

長い参道の途中に「天誅組河内勢」の顕彰碑がある。
碑に刻まれている文字は『花と咲き 花と散りにし人々の 若き命を誰が惜しまざる』と読むのだそうだ。

碑の左に、天誅組に参加した河内勢の人々の名前が刻まれている。
右上に河内勢の首領の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、とその長男の水郡英太郎の名がある。
水郡善之祐は喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり水郡に改姓したという。豪農で伊勢国神戸藩の代官(大庄屋)を勤めたため士籍に列し、勤皇の志が強く志士達を金銭的にも援助したことで知られる。

参道を更に進むと入母屋造・檜皮葺きの立派な本殿(国重文)と摂社である春日社本殿(国重文)・天神社本殿(国重文)が見えてくる。

本殿は室町時代の正平18年(1363)に建築されたものと伝えられており、漆塗りの極彩色の華麗な様式は、日光東照宮拝殿などの原型となったと言われているようだ。この神社の創建された時期はよく判っていないのだが、昭和10年(1935)の本殿修理の際に地中から平安時代中期の瓦が発見されており、それよりも古い時代に創建された古い神社であることが推定される。
摂社は平成修理の際に棟札が発見されており、文明12年(1480)の建立であることが判明しているという。

ここで「天誅組河内勢」顕彰碑の話に戻そう。
天誅組のことは何度かこのブログで書いたが、文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の攘夷親征の詔勅が発せられ、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら尊王攘夷派浪士が攘夷派公卿の中山忠光を主将として先鋒となって京都を出発し、伏見を出航して堺に上陸したのち狭山を通って錦織神社の近くの水郡邸で河内組と合流したのである。水郡善之祐は、天誅組が戦うための直前の準備や人足の調達を受け持っていたと言われている。
錦織神社の顕彰碑の右にはこのように刻まれていた。
「文久三年八月十七日 天誅組河内勢六十余人は、中山忠光を盟主とし、皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し、同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇陵を拝し、大楠公首塚の前で結盟を誓い、千早峠を越えて大和に入り、五條代官を屠りてその所領を天朝直轄の御地御民と宣言し、討幕の第一声を挙げた。然るに翌十八日突如として京師に政変*起こり、廟議一変し却って逆徒として追討せられることとなる。…僅か四十日にして九月二十四日、或は鷲屋口に戦死し、或は紀州竜神に捕えられて、翌元治元年七月二十日京都に於いて斬首された。実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である。…」
*京師に政変:文久3年(1863)8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件

天誅組の挙兵自体は失敗に終わったが、幕府領支配の拠点である陣屋やその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となったと評価されている。もし8月18日の政変が無ければ、討幕の時期はもっと早まっていたことだろう。

天誅組河内勢六十余人が集まった水郡邸は錦織神社から東に600mほど進んだところにあり、大阪府指定史跡となっているのだが残念ながら内部は公開されていないので表門を撮ることができるだけだ。狭い路地に囲まれて建っているので、車で行く場合は近くに駐車して歩いて行くしかない。

古い土塀が当時の趣を伝えるこの水郡邸で多くの河内勢が集まり本隊と合流したのだが、なぜ全国の脱藩浪士が組織した天誅組に河内勢が参加したのだろうか。
産経新聞の連載『維新150年 大阪の痕跡を歩く4』(平成29年9月9日)ではこう解説している。
「江戸時代、南河内地方は綿花栽培と関連産業で多くの豪農、豪商が出た。『加えてここが楠木正成を生んだ地であること。尊皇と親政待望の土壌が子々孫々と育まれてきた』と天誅組研究家の草村勝彦さんは指摘する。彼らの中には裕福な環境下で国事に奔(はし)る者も少なくなく、吉田松陰ら全国の志士が行き交う尊攘運動の地だったという。」
http://www.sankei.com/west/news/170916/wst1709160008-n2.html
富田林は大阪・堺方面、大和・紀伊方面に行く交通の便が良く、京都に出るのも容易であったことから、商業が発達して各地から人の集まるところとなり、幕末の勤皇の志士たちが身を隠したり、各方面に連絡をとるのに都合が良い場所であったことも重要なポイントである。
産経新聞の記事に吉田松陰の名前が出てきたが、ペリーが浦和に来航した嘉永6年(1853)に松陰が約20日間滞在した仲村家が富田林寺内町(とんだばやしじないまち)にある。
水郡邸から1.5km程度走って富田林寺内町に行く。駐車場はあまりないのだが、車で行く場合は中心部に近いSPARKというコインパーキング(富田林町12−35)がお勧めで、次に市営東駐車場(富田林町1-30)が近い。

【富田林興正寺御堂 河内名所図会】
富田林寺内町は戦国時代の弘治元年(1555年)から永禄の初めにかけて、京都・興正寺第16世・証秀上人が信者達の力によって荒地を開きその中央に興正寺別院を建立したのち区画整理を実施し、数年後に寺内町を形成して希望者に移住させた。熱心な信者たちが各地から集まり、また御坊様への志納と町内の負担金以外に租税はかからないから、商人などがこぞって集まるようになったという。現在も江戸時代中期以降に建てられた民家が数多く残されていて重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれている。

富田林寺内町は古い街並みが美しく残されていて見るべきところが多く、また良く出来た『じないまち散策絵図』が公開されているので、観光される場合は次のURLからファイルをダウンロードして印刷して持参されることをお勧めする。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/jinaimachi-sansaku-map.html

最初に訪れたのは、吉田松陰が滞在したという仲村家住宅(府指定文化財)。
残念ながら非公開のため中に入ることはできない。
江戸幕末期の仲村家は河州きっての酒造家で、当主の仲村徳兵衛を訪ねての文人墨客の出入りが多く、徳兵衛氏はこれらの客から天下の情勢を知ることができたという。
また、徳兵衛の次男である徳治郎は天誅組の一員として義挙に参加したのだそうだ。

仲村家のすぐ近くに旧杉山家住宅(国重文)がある。
杉山家は富田林寺内町創立以来の旧家の1つであり、江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町の経営に携わり、貞享2年(1685)以降明治時代半ばまで造り酒屋を営んでいたという。

旧杉山家住宅は、江戸時代中期17世紀中頃の建造で、富田林寺内町では最も古いとされているが、古いだけでなく風格を感じさせる見事な建築物である。
上の画像は土間から格子の間とダイドコを撮ったものだが、格子の間に掲げられた墨跡は山岡鉄舟の筆によるもので、みぎから「生前富貴学頭露身後風流怕上花」と書かれているのだそうだ。

内部の障壁画や欄間彫刻なども見ごたえがある。大床の間の「老松図」は狩野杏山守明筆なのだそうだがかなり傷んでしまっていて、私はこの襖絵の方が気に入った。

障子越しに庭園を見るのも良い。秋は少しは色づくことだろう。

和風建築でこのような螺旋階段がある家屋は珍しいので思わずシャッターを押してしまった。

この杉山家の長女として明治5年に生まれた石上露子(いそのかみつゆこ:本名 杉山孝)は、幼時から古典・漢籍などに親しみ、20歳ごろから『明星』などに短歌や詩、小説などを発表し、明治期の中央歌壇で注目されたのだそうだ。旧杉山家の蔵に、石上露子の遺品などが展示されている。

富田林寺内町のすごいところは、美しい街並みを構成している家のほとんどが今も住居として使われているところなのだが、そのために観光客に公開されている住居は2つしかない。旧杉山家住宅のほかには、中心部からはずれたところに旧田中家住宅*があるだけだ。とはいえ、このような街並みが今も美しく広い範囲で残されているところは珍しく、この街を歩いているとタイムスリップしたような気分になって、都心とは異なる空気を感じる。
*旧田中家住宅:富田林市本町7番2号 国登録文化財 寺内町の外にあるため『じないまち散策絵図』に記載がない。じないまち交流館北のちびっこ交通公園から西に160m。

上の画像は富田林寺内町の成立と発展の中心となった興正寺別院で、この山門のほか興正寺別院本堂、対面所、鐘楼、鼓楼、御成門が国の重要文化財に指定されている。山門が閉じられていたので拝観できないと簡単にあきらめてしまったのだが、次のURLによるとインターホンで申し出れば拝観可能だったようである。堂宇や狩野派の障壁画などが鑑賞したかったのだが、随分惜しいことをした。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC04H34_U6A300C1AA2P00/

上の画像は(南)葛原家住宅の三階蔵、下の画像は越井家の米蔵である。この米蔵は明治末期に建築されたそうだが、外壁が美しく保たれていて周囲の景観を引き立たせている。

私の子供のころは古い街並みを各地で見ることが出来たのだが、都心部の場合は道路の拡張や再開発で破壊され、田舎の場合は過疎化が進行して多くの家が空き家となって取り壊されていき、かつての美しい街並みを失ってしまった場所が少なくないのだ。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されて街並みの破壊は免れた地域も、若い世代が地元で働くことが出来ない環境では地域の高齢化を避けることは難しい。若い世代の働く場所があったとしても、最近の若い世代は親との同居を望まないケースが多いときている。
これでは、地域の居住者の高齢化と過疎化の進行を止めることは困難だ。

【奥谷家住宅】
富田林寺内町の通りは狭くて中心部にはほとんど車が走っておらず、古い家には駐車場らしきものが極めて少ない。大きな店舗は皆無で、自動販売機の様なものすら見当たらない。この美しい町並みを維持するために、地域の人々がかなり不便な生活を余儀なくされていることは、この町を歩けば誰でもわかる。

【杉田家住宅】
次のURLには、「富田林寺内町の地域には全体で約610棟の建物がある。実はこのうち約1割は空き家」とある。この地域の高齢化問題はかなり深刻なようなのだ。
http://j.sankeibiz.jp/article/id=1471
地元の人々の努力により、地域には飲食店やギャラリーなど約50軒の店舗が誕生したのだそうだが、居住者を増やすということはそう簡単ではないようだ。
上記URLの記事によると、富田林寺内町は中国人富裕層の評判が抜群で、観光客が増えてきているのだそうだ。
観光客からすれば古い街並みの景観を楽しむことがこの場所を訪れる主目的であるのだから、その地域の住民がそこに住んでいなければその魅力は失われていく。しかしながら寺内町の住民からすれば、ただ住んでいるだけでは税金の支払いや住居の改修コストがかかるばかりである。少々の税の減免などの優遇策があったとしても、居住者の大半が年金生活者という状態では、この街並みの美しさを維持していくことは容易なことではない。
しかし、富田林寺内町には景観の美しさばかりでなく歴史的魅力にも富んでいる。これらの魅力を活かして、地域全体が観光でもっと潤うようにできないものであろうか。
若い世代がこの地域で得られた収入で生計が成り立つようにすることが肝要なのだが、もっとこの街の魅力を発信したり、一般公開施設を増やすなど、工夫すればそれができる可能性はあると思う。
富田林寺内町を訪れる観光客がこれからも増えて、この街並みの美しさが末永く残されていくことを祈りたい。
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【ご参考】天誅組に関してはこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html
誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-445.html
古い街並みを歩くことが好きな方に、こんな記事はいかがですか。
鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html
白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html
郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html
京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-37.html
又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html
室津の歴史と、その古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-497.html
白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-468.html

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しばやん様の記事を拝見するたびに、誠実なお人柄を感じ、安心してどんな記事も少しでも参考にしよう、取っ掛かりにしようと貪欲になってしまいます。
富田林在住の友人がいつも「スルーするなー!」と力説するので、この夏、友人宅からあちこち参りました。
友人のおじいちゃまがお出ましになって、それはそれは筆舌に尽くしがたい濃密な日々を過ごして、かえって頭の中が空っぽになってしまいました。
しばやん様のご指摘の通り、コインパーキングもなく、気のきいた観光案内があるわけでもありませんが、この土地が後々の世に陰ながら及ぼした影響を考えると、地場産業なり地勢なりの背景が興味深いです。
同じ大阪ではありますが、出入りの激しい北摂とは全く異なる自分の生まれた土地への強烈な誇りを感じました。
天誅組の足跡、私もしばやん様の後を追って、てくてくしてます。
寒くなってしまいましたが、どうぞご自愛くださいますようお祈り申し上げます。
しばらくブログを更新しておられないのでちょっと心配していました。
お元気そうでなによりです。
私も富田林に友人がいて、彼が地元に強い愛着を持っていることを感じていました。彼と飲んだ時に寺内町と天誅組の話を聞いて、記事になりそうだと思って、河内長野から千早赤阪をめぐる旅になりました。
先日は鳥取に行ってきましたが、結構寒くて厚着の用意をして正解でした。
今日は良い天気で観光日和でしたが、近くに買い物に出たけた後は家にいて、年賀状の準備やブログの原稿を仕上げて一日が終わりました。だいぶ良くなりましたが、まだちょっと風邪気味です。
つねまるさんも風邪などひかないようにしてください。
Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
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- 平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震 (10/04)
- 戦国時代の歴史を動かした天正地震 (09/27)
- 敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」 (09/20)
- 地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波 (09/13)
- 由良要塞の一部である深山砲台の跡地と淡島神社などを訪ねて~~加太の歴史散策 (09/06)
- 紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か (08/30)
- 江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える (08/23)
- 綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか (08/16)
- 徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか (08/10)
- 鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて (08/02)
- 長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて (07/26)
- 長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて (07/19)
- 満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国 (07/12)
- 満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか (07/05)
- 満州に関東軍が駐留していた背景を考える (06/28)
- 満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか (06/21)
- リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか (06/14)
- 関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか (06/07)
- 満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか (06/01)
- 関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える (05/24)
- 関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった (05/17)
- 仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える (05/11)
- 日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎 (05/03)
- 神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗 (04/26)
- 滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他 (04/19)
- 旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後 (04/12)
- 厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後 (04/05)
- 会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き (03/29)
- 白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争 (03/22)
- 暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化 (03/15)
同上 電子書籍
同上 自由選書版
江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます
落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました
この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました
南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版
