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後醍醐天皇を支えた武将・楠木正成にまつわる南河内の史跡を訪ねて

富田林寺内町の散策を終えて、滝谷不動(富田林市大字彼方1762 ☎0721-34-0028)に向かう。

瀧谷不動明王寺

滝谷不動は通称で『滝谷不動明王寺』というのが正式な寺の名称なのだが、寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師が創建したと伝えられ、造営当初は今よりも約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。
南北朝時代に楠木正成が嶽山城を築城した際は、滝谷不動明王寺本尊の不動明王をその城の守護仏としたと伝えられている。
この寺は、延文5年(1360)に足利義詮の嶽山・金胎寺攻めの兵火で焼失し、再建後は嶽山合戦の兵火で再び荒廃したのち、現在地に移って慶長年間(1596~1615)に本堂(現・観音堂)が落成し、以後復興して現在に至っている。
御本尊の木像不動明王及び二童子立像(国重文)は平安時代の制作で、毎月8、18、28日に御開帳されているのだそうだ。

次の目的地は、龍泉寺(富田林市龍泉888 ☎0721-34-3134)。滝谷不動から4km程走ると到着する。
寺伝では、推古天皇2年(594)に勅命によって蘇我馬子が創建したと伝えられているのだそうだが、寺域の発掘調査では奈良時代前期の瓦などが発掘されており、かなり古い寺であることは間違いがない。
その後弘仁14年(823)に弘法大師によって再興され、天長5年(828)には淳和天皇の命により藤原冬緒が伽藍を整えて、堂塔をはじめ23の僧坊を備える大寺院となったのだが、南北朝時代に楠木正成が寺域の近くに嶽山城*を構えたことから、この寺も南北朝の騒乱に巻き込まれることとなり、仁王門を除いたすべての堂宇を、宝物とともに焼失してしまったという。
*嶽山城:別名龍泉寺城
龍泉寺 仁王門

上の画像は戦乱の中で唯一焼け残った仁王門で国の重要文化財に指定されている。鎌倉時代中期に建築されたもので、他の堂宇のほとんどは江戸時代の再建である。

龍泉寺 仁王像

木像金剛力士像(大阪府指定文化財)は建治元年(1275)の制作といい、筋肉隆々でなかなか迫力がある。

龍泉寺庭園

境内北西には『龍泉寺庭園』として文化財保護法による国名勝に指定されている浄土式庭園がある。池の中に3つの小島があるのだが、小島に通じる石橋が崩壊したまま放置されているのは残念だ。草も伸びすぎているように思うのだが、観光客が少ない古刹では庭師を入れる余裕がないのだろうか。
画像の小高い山が龍泉寺山(嶽山)で、この山頂近くに楠木正成が築いた嶽山城跡がある。

楠妣庵 門

龍泉寺から3kmほど走ると楠妣庵(なんぴあん:富田林市大字甘南備1103 ☎0721-35-5161)がある。
「楠妣」というのは楠木正成夫人の久子を指し、久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹で、元亨3年(1323)に楠木正成に嫁ぎ、6人の息子を育て、戦に出た夫の留守をよく守ったといわれている。
正平3年(1348)正月に、嫡男の楠木正行(まさつら)が四条畷の戦いで討死後、久子は出家して敗鏡尼(はいきょうに)と称し、河内長野にある観心寺の中院からこの場所に移って草庵を営み、楠木一族の菩提を弔いつつ余生を過ごしたと伝えられている。
久子の死後、三男の楠木正儀(まさのり)が亡母のために寺とし母の墓も建てたのだが、のちに足利方の山名・畠山氏に攻められて、長い間荒廃して廃墟となっていた。

楠妣庵 本堂

ところが明治44年(1911)になって久子の墓所が明らかにされ、大正4年(1915)以来岐阜県の加藤鎮之助氏が私財を投じてこの土地を購入し、草庵が再建されたのちに本堂が建てられ、約半世紀をかけて再興されたのだそうだ。

楠妣庵 観音堂と草庵

本堂から観音堂、草庵に通じる階段の右に、楠妣庵を再興させた加藤鎮之助の銅像が建てられている。私が訪れた時にはほかに観光客はいなかったのだが、楠妣庵は紅葉の名所として知られており、シーズンになると多くの観光客で賑わうという。

楠妣庵から観心寺(河内長野市寺元475 ☎0721-62-2134)に向かう。距離は3km程度なので7分程度で到着する。
寺伝では大宝元年(701)に役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、当初は雲心寺(うんしんじ)と呼ばれていたが、大同3年(808)に空海が厄除けの為に、境内に7つの星塚(北斗七星)を勧請し、弘仁6年(815)に木造如意輪観音坐像(国宝)を刻んで本尊とし、寺号を観心寺としたという。以後空海の一番弟子にあたる実恵(じちえ)が弟子の真紹(しんしょう)とともに天長4年(827)頃から伽藍を整えていったことが『観心寺縁起資財帳』(国宝)などに記載されているのだそうだ
鎌倉時代中期から大覚寺統に属し、南北朝時代には大覚寺統の天皇を擁する南朝の勅願寺となった寺でもある。

観心寺 楠木正成像

観心寺の山門の左側に楠木正成銅像がある。観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺として知られている。

観心寺 山門

上の画像は観心寺の山門である。

観心寺 中院

山門を抜けるとすぐ左に中院(ちゅういん)がある。楠木正成はここで8歳から15歳まで仏道修行について学んだと伝えられている。

観心寺 金堂

石段を進んでいくと、国宝建造物の金堂がある。リーフレットには後醍醐天皇の命を受けて楠木正成が造営したと書かれている。本尊の木像如意輪観音坐像(国宝)は秘仏ではあるが、毎年4月17・18日に開帳されるのだそうだ。

観心寺 建掛塔

上の画像は建掛塔(たてかけのとう:国重文)で、この塔は楠木正成の発願により三重塔として建て始められたのだが、正成が湊川の戦いで戦死したことにより、建築途上で未完のままとなったと伝わっている。

湊川の戦いについてはいずれこのブログで書くことになるだろうが、延元元年=建武3年(1336)九州から東上した足利尊氏・直義の軍が、湊川で新田義貞・楠木正成らの軍を破った戦いである。
この戦いでは新田軍と楠木軍は分断されてしまい、孤立した楠木軍は圧倒的な足利軍の兵力を相手に勇敢に戦い、『太平記』などでは正成と弟の正季とは刺し違えて自害したと記されている。
正成の首は一時京都六条河原に曝されたが、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、故郷の親族へと丁重に送り届けられたと伝えられている。
尊氏側の記録(『梅松論』)では、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。楠木正成は敵将からも死を惜しまれた人物であったのである。

観心寺 楠木正成公首塚

上の画像は正成公の首塚だが、こんな大規模な首塚は珍しいのではないだろうか。
石に彫られている「非利法権天」は正成自身の言葉で、「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」という意味だそうだが、このような考え方が戦後のわが国で急速に失われてきているような気がしてならない。
前回記事で幕末の天誅組のことを少し書いたが、彼らは富田林から観心寺に入り、この楠木正成公首塚の前で戦勝祈願をして大和に向かっている。

赤坂城址

観心寺から5kmほど走って下赤坂城址に向かう。
下赤坂城址の石碑は千早赤阪中学校(南河内郡千早赤阪村東坂25 ☎0721-72-0004)の校舎の間を通り抜けてすぐのところにある。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山で挙兵をすると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵し、奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したことで全国的に倒幕の機運が高まったとされている。

下赤坂の棚田

ここを訪れた目的はもう一つあった。下赤坂城址に広がる棚田が日本棚田百選に選ばれているのでカメラに収めたかったからである。大阪府ではあと能勢町の長谷の棚田が選ばれている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage764.html

千早城への階段

下赤坂城址から7kmほど走って、日本百名城の一つである千早城址に向かう。
千早城址へ向かう登り口(南河内郡千早赤阪村千早1063)にある駐車場に車を停めて、ここから600段近い石段を登って行くことになる。前半は急坂が続くが、途中から坂が緩やかになるので、下の画像の案内板ほどの時間はかからないだろう。

千早城 地図

登り口の案内板にはこう記されていた。
「(千早城は、)元弘2年(1332)楠木正成が構築し翌年5月まで100日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。
標高約660mで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口…現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150m、東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。…」

ここで千早城の戦いについて簡単に記しておこう。
翌元弘3年(1333)に鎌倉幕府軍は赤坂城を陥落させたのち千早城へと出軍した。
千早城で籠城していた楠木軍はわずか千人足らずの小勢であったが、そこに数十倍の幕府軍が押し寄せて来たのである。兵力では幕府軍の方が圧倒的に優勢であったのだが、千早城では櫓より大石を投げ落として敵の楯を砕き、矢を射って防戦して互角に戦ったという。
あまりに犠牲が多いので、幕府軍は水辺に陣を構えさせ相手の水源を断つ持久戦に方針を変えたのだが、楠木軍には井戸があるので水には問題なく、また充分な食糧を用意していたので大きなダメージにはならなかったようだ。
また正成は、甲冑を着せ武器を持たせた藁人形を20~30体作らせて、その後ろに兵を潜ませ、夜明けになると朝霧の中から鬨の声を挙げさせたという。幕府軍は楠木軍の決死の攻撃と思いこみ攻め寄せてきたのだが、楠木軍の兵は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げ、鎌倉幕府軍が藁人形に到達したところを見計らい大量の大石を投げ落し、幕府軍に多数の死者が出たという。

このような戦いが続く中、護良親王の命を受けた吉野、十津川、宇陀、宇智郡(内郡)の野伏が楠木軍に味方して幕府軍の糧道を遮断し、一方、隠岐を脱出した後醍醐天皇が討幕の綸旨を全国に発してこれに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国することとなった。
また幕命を受けて西国の討幕勢力を鎮圧するために上洛していた足利高氏が、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくことを決意し、5月7日には京の六波羅探題を滅亡させてしまう。その情報が千早城を包囲している幕府軍に伝わり、幕府諸将は協議の上千早城から撤退することを決定し、5月10日の早朝に、幕府軍は陣を撤収して奈良へ引き上げている。
一方関東においては、新田義貞が手薄となっていた鎌倉を攻め、5月22日に鎌倉幕府は滅亡することとなる。

千早城の戦いが終わってからわずか12日後に鎌倉幕府は滅亡してしまったわけだが、倒幕の最大の功労者はやはり楠木正成だろう。幕府の大軍がこの千早城の戦いで釘づけにされたことで、楠木正成の活躍に触発された勢力によって倒幕の機運が盛り上がっていき、有力御家人であった足利尊氏や新田義貞の離反もあって鎌倉幕府は滅亡したのである。

登り口から15分くらいかけて千早城跡茶屋のある広い四の丸に着く。

千早城址

三の丸に千早城址の石碑と千早神社の鳥居があり、二の丸に千早神社がある。

千早神社

山を下りて、せっかく千早赤阪村に来たのだから、最後に楠木氏の氏神である建水分(たけみくまり)神社と楠公*誕生地を訪ねることにした。
*楠公(なんこう):明治以降は楠木正成を「大楠公」「楠公」と呼んだ。

建水分神社

上の画像が建水分神社(南河内郡千早赤阪村大字水分357 ☎0721-72-0534)の鳥居だが、社伝によれば崇神天皇5年(紀元前92)に諸国が飢饉となり各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。前回の記事の冒頭に記した美具久留御魂(みぐくるみたま)神社を下水分(しものみくまり)宮と称するのに対し、この神社を上水分(かみのみくまり)宮とも呼ぶ。
元の鎮座地は現在地より北100mの水越川のほとりにあったのだそうだが、後醍醐天皇の勅命をうけた楠木正成がこの地に再建し遷座したと伝えられている。本殿は拝殿より高いところにあって良く見えなかったが、正成が再建したという建物が残されていて国の重要文化財に指定されている。
また摂社には楠木正成を祀る南木神社がある。

楠木公誕生の地

楠公誕生地は、建水分神社から800mほど進んで千早赤阪村立郷土資料館(千早赤阪村水分266 ☎0721-72-1588)の横にある。
石碑が建っているだけだと想像していたのだが、敷地は隣にある郷土資料館よりも広いくらいで、美しい生垣に囲まれた空間は森のように木々が伸び、灯籠がいくつか建っていて、中央には随分立派な石碑が建っているのに驚いてしまった。
案内板にはこう記されていた。
「楠木正成は永仁2年(1294年)、この地に誕生したと伝えられている。文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅(さるすべり)を委嘱したという記録が残っている。また元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後明治8年、大久保利通が楠公遺跡巡りの際、ここに石碑を建立し顕彰した
 碑文の楠公誕生地は、幕末勤皇派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった桃井春蔵直正の揮毫によるものである。
 明治41年、近郷有志による楠公誕生地保勝会が組織され、敷地の拡大や休憩所の新築など、史跡の整備顕彰にあたったが、終戦とともに活動は衰退してしまった。昭和49年に楠公史跡保存会が有志で組織され、保存顕彰にあたっている

『木のピオ村』のピオさんが有名武将たちの生誕地めぐりをされて、ご自身のブログでその写真を公開されているが、天下人となった人物ですら碑が建っているだけで、楠木正成のように広い場所で今も美しく顕彰されていることは例外的であることがわかる。
http://www1.clovernet.ne.jp/kinopio_mura/history/birthplace/birthplace.html

楠木正成について今の教科書では、「後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の武士楠木正成らのしつような抵抗がつづくなか、幕府は反乱を鎮圧するために足利高氏らを派遣したが、その高氏は途中から御家人をひきいて幕府にそむき、六波羅探題を攻め落とした」(『もう一度読む 山川日本史』p.103)とある。
戦前の「皇国史観」では「忠臣の鏡」とし「国民の模範」とされた正成だが、今の教科書ではまるで端役扱いだ。

千早赤阪村には楠木正成館跡推定地にも大きな石碑があり、正成産湯の井戸も大切に残されている。河内長野市の観心寺の首塚の規模も半端なものではなく、没後681年も経っているのに、どの史跡も美しく維持されていることに驚かざるを得ない。

正成が国民から愛されていたのは戦前のことだけではなく、江戸時代も同様であったことは享和元年(1801)に秋里籬島が著した『河内名所図会』の観心寺の解説で、正成の首塚の記事だけで1ページを占めていることを知れば見当がつく。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563471/31

正成は決して自分の利害や損得で動く人物ではなく、地元の人々を愛し、また国を愛し、忠孝を重んじる人物であったからこそ、時を越えてあらゆる階層の日本人に敬愛されてきたのではなかったか。

楠木正成像

ネットで『太平記 巻第十六』の現代語訳が読める。『太平記』の作者は、楠木正成をこのように評している。

「もともと元弘以来、天皇からあり難くも厚い信頼を得て、忠義を守り通した上に大きな戦功も上げ、その功を誇っている者は、幾千万人もいたのでしょう。しかしながら、この戦乱(足利尊氏の反乱)が始まってからというものは、仁義を知らない者は天皇の恩を忘れて、敵に従属したり、武勇に自信を持てない者は、一時でも命を守ろうとして、逆に処刑されたり、また知恵のない者は、時代の転換を知らないため、正道を歩むことが出来ないのに、正成のように智仁勇の三つの徳を持ち合わせた人間が、死ぬことによって人間として道義にかなった生き方を守ったのは、過去から現在に至るまで、正成ほどの人間は居なかったのです。その人間が兄弟共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのでしょう。」
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki11-20/taiheiki-16-3.html

『論語』巻第五・鄕黨第九に「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」とあり、孔子は智・仁・勇を大いなる徳と見なし、万人が修めるべき三つの徳としている。
何が正しいかを識り、相手の立場になって考えられる慈愛の心を持てば、惑わされることなく、憂えることなく、勇気をもって信念を貫くことができる。

いつの時代も同じだと思うのだが、このような三つの徳目を兼ね備えたようなリーダーがいなければ、国や地域を守ることは難しいであろう。どのような社会を理想とするかは時代によって異なることは当然のことだが、今日の様な混乱期こそ、自らの信念を貫き通した楠木正成の生き方から学ぶべきものがあるのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-320.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-456.html

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Comment
ご無沙汰しております。
お久しぶりです。
わたしも昨年から今年にかけて約1年半、関西を中心に『太平記』ゆかりの史跡をめぐりまして、現在、拙ブログでシリーズ化しています。
南河内一帯の史跡も、ほどんど足を運びました。
棚田、感動もんでしたね。

楠木正成に関しては、たしかに名将ではあったのでしょうが、江戸時代には尊皇思想の象徴として、昭和の戦前には国粋主義の教科書として大いに政治利用され、美化されてきた人物だと思うので、多少は割り引いて評価する必要があると思います。
鎌倉幕府の滅亡や、その後、足利勢との戦いにおいても、むしろ、正成以上に尽力したといっていい新田義貞は後世にあまり人気がなく、正成ばかりが讃えられるのは、ちょっと義貞が気の毒な気がしないでもないです。
義貞と正成の違いは、正成があくまで帝に忠実だったのに対し、義貞はちょいちょい帝の言うことを聞きませんから、そこが不人気の理由なんでしょうね。
あと、勝てないとわかった戦いに挑んで命を落とした正成に対し、義貞は戦っては逃げてを繰り返し、最後はあっけない死に方としたということも評価を下げているところなんでしょう。
日本人は判官贔屓ですから。
でも、正成の「七生報国」の精神が、後世の1億玉砕に繋がったことを忘れてはいけないと思います。
義貞のように、不利になったら退却して再起を図る。
この方が、実は後醍醐天皇の力になっていたはずだとわたしは思います。
Re: ご無沙汰しております。
坂の上のヒゲおやじさん、コメントいただきありがとうございます。

随分『太平記』ゆかりの地をめぐってこられたのですね。
『坂の上のサインボード 』記事のナンバーが135になっているのを見て驚きました。

下赤坂の棚田は私も感動しました。訪れた時は小雨が降るあいにくの天気でしたが、稲が伸びてとても美しかったです。

ご指摘の通り楠木正成は戦前には国粋主義の教科書に美化されてきた人物ですが、戦後はその反動でほとんど採り上げられることがありません。私もそれなりに戦後教育の影響を受けてきましたから、この人物については今までほとんど関心を持たなかったのですが、たまたま富田林から千早赤阪村を巡ってみて、地元が今も首塚や生誕の地など正成ゆかりの地を大切にしているのを見て、戦前に利用された人物像をいったんリセットして、なぜこの人物が今も地元に愛されているのかについて考える必要があるように感じた次第です。

私のブログは、面白そうな話題を探して時代があちこち飛ぶので恐縮ですが、建武の新政から南北朝のことは、もう少し勉強してからいずれしっかり書きたいテーマです。貴ブログを参考にさせていただいて、故地をいくつかめぐらせていただきます。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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