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ペリーが江戸を離れた翌月に4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシアのプチャーチン

前回まで2回に分けて嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に来航したペリーの事を書いた。
徳川幕府は将軍の病気を口実に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後の再来航を約して6月12日江戸を離れたのだが、それからわずか10日後の6月22日に将軍家慶が死去している。
そして幕府が7月3日水戸齋昭を海防参与に任じた2週間後の7月17日に、今度はロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した


パルラダ号
【パルラダ号】

ロシア政府はアメリカが日本との通商開始を求めて艦隊を日本に派遣する計画がある情報を事前に入手していて、プチャーチンはペリー出航よりも早くロシアのクロンシュタット港を出発していたのだが、パルラダ号がスウェーデンとデンマークの間の狭いオレスンド海峡で座礁してしまい、イギリスで修理するのに2か月近く要したためにペリーに先を越されてしまったのである。

プチャーチン航路

教科書などにも記されているが、オランダ・中国以外の国で、鎖国以降のわが国に最初に接近し交易を求めてきた国はロシアである。ロシアと我が国とのそれまでの交渉経緯を簡単にまとめておこう。

ロシアは1706年にカムチャッカ半島を領有し、オットセイの毛皮などを獲るために千島列島にも出没するようになっていたのだが、ロシア領から遠く離れた地であるために、近隣諸国と食糧物資などの交易ができることを求めていた。
また1799年にはアラスカがロシア領となり、その広大な領土を維持するためには大量のロシア人を送り込むことが必要となる。しかしながらアラスカは極北の地ゆえ食糧等が乏しく、大量の食糧や生活必需品などをどうやって調達するかがロシアにとって喫緊の課題となった。
そのような経緯から、18世紀からロシアは交易を求めて何度かわが国に使節を送り込んできたのである。

1778年にロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商をもとめたが翌年に松前藩が拒否した記録がある。続いて1792年には、日本人漂流者でロシアに保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のためアダム・ラクスマンがイルクーツク総督の信書を携えて根室に来航したが、老中松平定信は長崎のオランダ商館と交渉することを求めたため、ラクスマンは長崎に行かずに帰途についている。

ニコライ・レザノフ
【ニコライ・レザノフ

1804年にはニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い国書を携えて長崎に来航したのだが、半年間も監視され出島に留め置かれた挙句、幕府より国外退去を命じられ追い返されてしまった。
このロシアの使節に対する日本幕府の仕打ちに憤慨したレザノフの部下の中に、日本には、軍艦も大砲もないので武力を用いればロシアが樺太などに拠点を作ることは容易であるとの意見を持つものも現われ、ニコライ・フヴォストフは日本への報復として、独断で1806年及び1807年に樺太や択捉島の拠点を部下に攻撃させている。(文化露寇)

幕府は北方警備の重要性を悟り、西蝦夷地も幕府の直轄領とし、さらに奥羽四藩に蝦夷地(北海道)の沿岸警備を命じたのだが、知床半島の斜里に向かった100名の津軽藩士は寒さと栄養不足から72名もの病死者を出してしまった。そもそも北海道の海岸線の総延長は3000km近くあり、広い蝦夷地のどこに現われるかもわからないロシア船を追い払うためには膨大な数の兵士と大砲と軍艦が必要なのだが、幕府が送り込んだのは軽武装の津軽、南部、秋田、庄内の藩兵3千程度で、彼らを駐留させ、越冬させるための準備も不十分で、これでは蝦夷地を守ることは不可能だ。

そこで、幕府内でロシアとの交易を認めるべきであるという考えが出てきた

後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章は、文化5年(1808)2月に老中の諮問を受けて意見書を提出し、ニコライ・フヴォストフの乱暴狼藉について謝罪があれば、国同士ではなく辺境同士の交易ぐらいならば『軽き事』として許可すべきであると主張し、このことを幕府が許可しなければ蝦夷地全域を警衛が必要となり、たとえ2万3万を動員してもこの広い蝦夷地を守ることは難しいと説いたのである。
そして、この二人の意見書が認められ、幕府はフヴォストフの再来を予想し、「狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。戦をする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ。来年6月カラフト島にて会談しよう。この上狼藉するなら交易どころではないぞ」との趣旨の返事が用意されたという。(渡辺京二『黒船前夜』p.277)
渡辺氏によると、もしこの頃にロシアが船を派遣して日本側と接触していたら、交渉次第では日露の通商関係が成立していた公算が高かったとある

しかしながら文化5年(1808)にイギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港に入港し、出迎えのため船に向かったオランダ商館員2名を拉致し、薪、水、食料の提供を要求し、供給がない場合は港内の船を焼き払うと脅迫する事件(フェートン号事件)が起こって幕府の対外姿勢が再び硬化するのだが、この事件の3年後の文化8年(1811)に、再びロシアの軍艦ディアナ号が5月に択捉島の北端に上陸したのち国後島の南部に向かい、泊湾に入港した。

ゴロウニン
ゴロウニン

ディアナ号艦長のゴロウニンは松前奉行配下の役人と面会して補給を要請したところ、日本側から陣屋に赴くように要請され、食事の接待を受けたのちに捕縛されてしまう
ゴロウニンの安否を心配した副艦長のリコルドは、情報を収集するために択捉島から函館に向かっていた官船・観世丸を拿捕し乗船人を人質に取ったのだが、この船に乗っていた船主の高田屋嘉兵衛はたまたまゴロウニンが生存していることを知っていた。

リコルド
【リコルド】

リコルドと親交を深めて次第に言葉を理解し事情を把握した嘉兵衛は、日本がロシアに敵意を抱く原因となったフヴォストフの蛮行には全くロシア政府が関与しておらず、この男がロシア皇帝により処罰されていることを公文書で幕府に提出した上で、フヴォストフらが掠奪した物品を日本国に返却すれば、ゴロウニンと嘉兵衛一行との交換が可能となることをリコルドに提案し、リコルドは自ら日ロ交渉に赴くことを決意する。
一方幕府も、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換がなされていて、嘉兵衛の提案に基づき作成されたイルクーツク民生長官とオホーツク港務長官による松前奉行宛の書簡が功を奏し、文化10年(1813)9月に松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、2年3か月ぶりにゴロウニンは解放されることとなる

この交渉の過程で、ゴロウニンもリコルドもわが国に対して好意的になり、この事件にかかわった日本人もロシアに対して好意的となり、この時にもう少しロシアが粘っていれば、他国に先駆けて交易が開始されたかも知れなかった。
しかし、ロシアはそれから30年間わが国に対して使節を送ることはなく、記事の冒頭で記した通り、ペリー来航の1か月半後にプチャーチン率いるロシアの艦隊が長崎に現れたのである。

200px-Pallada_in_Nagasaki_1854.jpg
プチャーチン来航を描いた瓦版】

ペリーの場合は外国船の来航が許されない浦賀に艦隊を乗り入れ、そこで高官との面談を要求し、さらに浦賀湾内の測量まで強行して幕府側に威圧を加えたのだが、プチャーチンの艦隊はシーボルトの進言に従って、日本で唯一の対外国窓口である長崎に向かい、長崎では武力で威圧するようなことは一切なく、長崎奉行応接掛の馬場五郎左衛門の聞書きによると、「奉行より食料薪水なども差支え候わば、手当致すべき旨申し聞き候ところ、万端不足これなき由相断る」とあり、漂流船でも猟船でもなく使節の船であるので、故なくわが国から助力を受けることを断ったという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/178

プチャーチン
【プチャーチン】

プチャーチンが携えてきた国書は長崎奉行に渡されて、プチャーチンは江戸から幕府の全権が到着するのを待つことになったのだが、そもそもこの国書には何が書かれていたのだろうか。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第31』にその全文の日本語訳が紹介されている。長い文章だがポイントとなる部分を紹介したい。
「今般使節を、大日本国の大主へ差上げ候趣意は、その一には本国より親交を相求め候意味と、世界当時の形勢事情如何というところを申し立て、その二には両国境界を取り定め候肝要のことを申し立て、その三には両国領分の人民互いに利益あるの交わりを相始め、両大国を至極安全の場に至るよう成行き候事は、疑いなく存じ候。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/187

幕府はロシアの国書に対する返事を、ペリーと同様に引き延ばすことにしたという。プチャーチンは何度か返事の催促文書を記し、長崎奉行も幕府に上申書を送って返事を促したのだが埒が明かなかった。

国書を交わして2か月以上が経過した嘉永6年(1853)9月19日、長崎奉行らが将軍家慶薨去の事を告げ、これがために返答が遅れていると説明しに来たのだが、この時にロシア側は彼らにこう詰問したという。

プチャーチンを描いた瓦版
【プチャーチンを描いた瓦版】

何ゆえに江戸から速やかに返事を得る能わざるか。長崎の地は、畢竟単に外人を欺かん為に設けたる場所だ。日本の西隅にありて、首府とかけ離れ、中央政府との交渉、勢い緩慢となる。ために外人は自ずから倦怠して、立ち去るに至らんこと、これ貴国政府の本意であろう。されど欧州諸国は、やがて貴国のこの譎策(きっさく)を洞知すべく、かくて爾後はかかる手段は乗らずして直ちに江戸に肉薄するに至るであろう。しかして露国は7月22日は将軍の喪を発したる日にして、その死去はその以前にあり。江戸より長崎への道程は、約三週間なれば、8月19日会見の際には、日本官吏は、当然このことを知るべきである。しかるに今までことさらにこれを秘したるは何事ぞと。」
*譎策:偽りの策
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/194

そして10月17日になってプチャーチンは、長崎から江戸に向かうことを決意し、長崎奉行にその旨を通告した。徳富蘇峰は前掲書でこう記している。

吾が官吏は大いに驚き、これを引き留めんとした。19日に至り、露艦がその旗を捲くと見て、長崎奉行は人を露艦に派し、江戸より露使へ面会のため、特に4人の大官を派する旨を告げた。されど到着日を示さず、かつ日本官吏の指定したる場所が露人の意に適せず。かくて22日プチャーチンは長崎奉行に宛てた書と、江戸より来たるべき4名の大官に宛てたる書とを留め、不日再び来航の際、江戸の種瀬、なお未だ来着せざるに於いては、直ちに江戸に向かうべき旨を告げ、23日相い率いて長崎を去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/195

プチャーチンは3か月もの間長崎で無駄に過ごしたのちに上海に向かっている。
クリミア戦争に参戦したイギリス軍がロシア軍を攻撃するために艦隊を差し向けたとの連絡が入り、おそらくプチャーチンは情報収集のために中国に向かったものと考えられている。

では、プチャーチンを待たせている間に江戸ではどのような議論がなされていたのであろうか。徳富蘇峰によると、ロシア船を追い払えとする意見はほとんどなかったという。
たとえば仙台藩士大槻平治は、9月20日付けでロシアと結んでアメリカを制すべしとの意見書を勘定奉行川路聖謨(としあきら)宛てに提出している。
殊に強大なロシアを与国となされ候上は、かの来春渡来仕るべきアメリカ人等は、ただ今のうちに、いかようとも御工夫相なり申すべく。たとい御返翰遣わされ候とも、この国を以て取次がせ候わば、…必ず穏便の取扱い出来申すべく、かの水師提督数十艘の軍艦差向け候様の儀、必ずや相控え申すべきやと存じ奉り候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/197

川路聖謨
川路聖謨

江戸で様々な議論がなされたが、幕府としては確固たる対ロシア政策を定めないまま、長崎で交渉するメンバーとして川路聖謨と筒井政憲を派遣することに決定した。
徳富蘇峰の前掲書に、幕府がこの2人に対してどのように指示したかについて、川路聖謨の伝記を引用している部分があるので紹介したい。

「(老中)阿部正弘から、開国通商の一件は、なるべく延期をせよ。また北方境界の設定は、樺太島にては、北緯五十度の地を分界となし、またウルップ全島をも、なるべく我有となすべく尽力せよと申し聞けたという(『川路聖謨之生涯』)。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/200

幕府が回答を引き延ばしたのは、開国の判断を躊躇したこともあるようだが、両国の国境についての考え方が、大きく異なっていたことが大きかったようだ。
プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に、老中に宛てて記した書簡に、境界についてのロシアの考え方が記されている。文中の「クリル諸島」は千島列島、「エトロフ」は択捉島、「カラフト」は樺太島を意味している。

北方領土

日本北方にあるクリル諸島は、往時よりすでにロシアに属し、かつその支配たり。エトロフ島もまたこの諸島中の一にして、クリル人ここに住居し、かつ一部は日本人も雑(まじ)わり住す。しかのみならずロシアの漁民、往時よりすでにこの島に棲居せり。これによりて、この島ロシアに属するか日本に属するかの疑問を生ず。このゆえに全権と日本政府の高官と会同して、この疑問を決せば、両帝国の境界もまた定まるべし。
カラフト島は、ただ野人のみ住棲し、その住民は、ロシアの支配を仰ぎ、制教および交商に乏しき者たり。ゆえにロシア皇帝の命令にて、この3か月来ロシアの所領とし、かつ数多の軍兵を置いてこれに備う。漁猟および他の商業を為し、かつ時節を期して、おのれが住家を構えんが為に、カラフト島の南部アニワ港に来たる日本人の寡少なるは、ただ全権が言えるところの理を資(たす)く。しかのみならず、右日本人アニワ*に住居するにあたっては、ロシア領民の如く、その保護を蒙(こうむ)るなるべし。」
*アニワ: サハリン(樺太)南部のアニワ湾に面した町。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/205

択捉島も千島列島も樺太島も全部ロシア領と言わんばかりだが、プチャーチンの書簡の内容は真実だったのか。千島列島はアイヌ民族などの先住地で、ロシア人がはじめてウルップ島以南に到達したのは1766年の事であるし、樺太南部には鎌倉時代からアイヌ民族や日本人が進出していて、千島列島も樺太島も江戸時代に松前藩が治めていたことは確かなことである。
ロシアの交渉姿勢はいたって穏便ではあったものの、国境を定める問題については当初から随分強気の姿勢で臨んでいたことがわかる。

どんな談判が行われたのか興味深いところだが、この点については次回に記すことにしたい。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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