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嘉永6年に行われたわが国とロシアの領土談判とプチャーチンの残した警告

前回の記事で、アメリカのペリーが来航した翌月の嘉永六年(1853)七月にロシアのプチャーチンが長崎に来たことを書いた。プチャーチンは、ペリーのようにわが国を武力で威圧するようなことはしなかったが、携えてきた国書には両国の親善と交易の開始のほかに両国の境界を定めるという難問が記されていた
しかも、プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に老中に宛てて記した十月十八日付けの書簡には、択捉島も千島列島も樺太島も全部ロシア領と言わんばかりに書かれていて、さすがの幕府もこの問題についてしっかり反論しておく必要があったのである。

川路聖謨
川路聖謨

幕府の全権として川路聖謨(としあきら)、筒井政憲が長崎に派遣されることになり、老中阿部正弘は、川路に対し「開国通商の一件は、なるべく延期をせよ。また北方境界の設定は、樺太島にては、北緯五十度の地を分界となし、またウルップ全島をも、なるべく我有となすべく尽力せよ」と指示したという。

プチャーチンは十二月五日に再び長崎に戻り、いよいよ幕府全権との領土談判が始まった。この談判はオランダ語を介して行われ、談判の記録が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第31』に紹介されていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもPCなどで読むことができる。

北方領土

十二月二十日に行われた第一回目の談判における、領土問題に関するロシア使節と川路聖謨の発言の一部を紹介したい。文中の「左衛門尉(さえもんのじょう)」は川路聖謨を指している。

「使節
日本千島のうち、南は日本、北はわが国にて支配致し候。右のうちエトロフ島は、昔から我が国人が居住いたし来たり候ところ、その後貴国より手を入れ、貴国の人住居致し候様に相成り候。当今日本にては、エトロフは、いずれの所領と心得られ候や。

左衛門尉
蝦夷の千島は、残らずわが国の属島にて、元来名も蝦夷詞(ことば)に候ところ、段々貴国より蚕食致し、名をも付け替え候儀にこれあり、その後貴国のゴロウニンと申す者、蝦夷地へまかり越し候砌(みぎり:頃)、規定を立て、たがいの国境を守り、ウルップを以て間島と致し候つもり、契約いたし、それ以来、エトロフ島へは、外国の者を置かず、領主よりも番所をも差し置き来たる所にして、もとより吾が所領なるところ疑いもなくこれ候

使節
ウルップ島は、百年前ロシア所領なりしに、近来アメリカ人罷り越し、猟事いたし、エトロフ島は、50年前迄は、ロシア人のみ住居致し、貴国の人罷り越し居り候儀これなきことにつき、右の心得方尋問に及ぶところに候。

左衛門尉
エトロフはわが国所領たること断然として疑いを容れべきところなく、古(いにしえ)はカンシャッカ迄も、わが国の所属にて、蝦夷人のみ住居致し候を、その後貴国の人據守(きょしゅ)するようになり、それのみならず、カラフト南岸の地、わが国所属にて、これまで番所をも差し置き来たり候。いったい使節心得方に不審すべき條々これあり。貴国政府の書簡にもこれなき儀を、使節よりは色々と弁を加え申し聞けらる趣もこれあり候は、政府の意に非ざるべし。右体(みぎてい)の儀、強いて弁論及ばるるは、貴国の所願をなさんとの儀にはこれあるまじく、右様の心得方にこれあり候わば、通信通商の儀は、論判にも及び難く、これらよりして、わが国人心の憤怒を生じ申すべく。しかしながら望み乞うことを調(ととの)えたく存ぜられなば、追っての書面は相下げ候方にはこれあるまじくや。さもこれなくては申し聞けらるる旨も、畢竟無益のことなるべし。

使節
ゴロウニンは元来我が国政府よりの使臣にあらず。全く自己の了簡をもって右様の事にも及びたる事なれば、今般の証跡には引用(ひきもち)いがたく、エトロフの儀、品々弁論もこれあり候えども、今日の会議に尽くしがたき間、後会に治定の答え承るべし。

左衛門尉
承り届け候。

使節
サカレン(樺太)は、もともと我が国人住居の地にあらず。先年アンモル(黒竜江)へわが国の者罷り越し候ところ、かの住民ども、我が国へ属せんことを願うにつき、我が主の命によって、軍卒を差遣し、かの土を守らせ候ことにて、日本所属の地へ手出し等致し候儀にはこれなく、右境界しかと取り極め申さず候ては、外国のもの通航差しさわりにも相成り候あいだ、境界相定めたく存ずるところなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/231

このように川路聖謨は、国境の問題に関しては結構強い姿勢でロシア使節とやりあっている。

プチャーチンと川路聖謨

次に二十二日に行われた第二回目の談判を紹介しよう。

「左衛門尉
カラフトを半分に引き分け、貴国より差し置かれ候軍卒主兵は、境界相分かり次第引き払わせらるべくとの儀においては、一昨日申し聞けられ候通りにこれあるべく、エトロフの儀は、その砌(みぎり:時節)申し述ぶる通りにて、存寄りもこれあるまじく候。

使節
カラフトの儀は一昨日申し述べ候とおり、守兵は外国人の窺窬(きゆ:隙を窺い狙うこと)を絶たんが為にして、日本所領へ対し手出し致し候儀にはこれなく候あいだ、談判次第、右守兵速やかに引き払わすべし。

左衛門尉
カラフト境界50度以上の所をもって、半島に引き分け候つもりに候や。この心得承りたく候。

使節
境界巨細のところは、その場所の大名並びに官府の役人中立立ち合い御取調べの上にこれ無くては相整い難き儀は勿論にこれあるべく候えども、概略の規定取り決め申さず候ては、衛卒の進退にもかかわり、捨て置きがたき筋につき、いずれにもこのところにおいて、あらましの取り決めは致しおき、貴国の来春二三月頃、双方場所へ立ち合いの上、取り調べ方致すべし。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/237

こんな具合に、カラフトについては境界線をいずれ取り決める方向となったのだが、エトロフ島もロシア人が居住しているので、この島についても国境を定めようと持ち掛けてきた。これに川路はこう答えている。

「左衛門尉
それは心得違いと存じ候。いったい蝦夷千島の儀は、わが国古記録にも相見え、その上エトロフは、断然当時わが国の所領の所、右様筋なきの儀申し出候ては、さても談合も取り扱いも相なりがたく、この上は談判は詮なき事なるべし。

使節
当時エトロフには、アイヌばかり住居致し、日本人住居致さずように相見え候

左衛門尉
アイヌは、蝦夷人の事にて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候所は、即ち日本所領に候

使節
アイヌはエトロフ島の内、諸方に住居致し候うち、ロシアに属し候者も、日本に属し候者もこれあり。同島北の方のアイヌは、ロシア支配にして、日本の所属にあらず。これを取り極めたく存ずるところなり

左衛門尉
エトロフ境界の儀については、文化年中、為取替(とりかわせ)の書付も出来致し候ところ、貴国より受取りの者差し越されざるゆえ、それきりに相成りたり。この一條につき、段々申し聞けられの趣、畢竟不筋の申し分にはこれあるまじくや。いったい貴国は、両国の民の争論を慮(おもんばか)られ、わざわざ使節差し越され候につき、我ら不肖ながら命を受けて、品々穏やかに懸け合いにも及び候ところ、右様不法の申し分これあり候ては、談合及び難く候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/241

そもそも国境を定めるような難問が、初めての両国の協議で簡単に決まるはずがない。
このような談判が24日にも26日にも行われ、それぞれ言いたいことを述べあったのだが、結局国境問題で結論が出ることはなかった。

魯西亜使節應接図
【魯西亜使節應接図】

徳富蘇峰はこの談判についてこうまとめている。
「ただ日本側にて、カラフトに支配下の役人を派遣して、見分せしむるであろうと言うただけが、いささか具体的に近き箇条にして、その他には薪水食料窮乏の際には、いずれの地にても給与して差支えなしとの一点が談判中露国使節の、握り得たる言句であった。しかもこれとて言葉の上のみにて、未だ確たる物とは思えなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/267

またロシアの使節は26日の談判の際に、わが国がいつまでも鎖国を続けることを改めるべきことを忠告する文書を提出している。結構説得力のある内容なので一部を引用させていただく。

「…水蒸の航海起こるに及びて、隔遠なる地も縮みて近く、古(いにし)え数月を経ざれば、到ると能わざる地方も、今は数週にて達すべし。水蒸船は風の恬静(てんせい)なる日も、停止する患(うれい)なく、大風涛のために支えられず。通行すべからざる両極下極寒の地を除くのほかは、世界中一所の探討(たんとう)せざる地なし。何の故をもって、昔日に比すれば、近年は異舶の日本港に到れる数増大したるや。また昔に比すれば、毎年日本の洋面に航する船隻、何ぞ甚だ多きや。…これらの船隻は、彼是の国人、害心を挟(さしはさん)んでこの地方に往来するには非ず。皆已むを得ざる切用の事あればなり。今は支那に交易起こり、アメリカ理西北岸に、互市を開き、かつハワイ島においても交易盛んなれば、その数十二十のみならず。百隻に及べる船舶毎年その地に往来すれば、その途中必ず日本諸島を過(よぎ)らざるを得ず。これ、日本は上に言える数地の中間にありて、これより彼に航海する間、適当の憩所たるが故なり。

数年前オランダの政堂よき思慮ありて、日本に方今の形勢に応じて、政律を改革すべき時節至れるよしを告ぐ。今はまた他の諸国よりも日本政堂にその説を献じ、爾後も屡々(しばしば)来りて、日本と厚意の交わりを結び、風波を日本の港に避ける事を許し給わんことを請い、また外国の如くに交易を許されんことを願うものあらん。船舶頻りに来たり請うことあらんには、その交易をついに開かざることを得ざるべし
日本政府も、すでに旧律に拘泥することはなしがたき由をほぼ了解し給い、かつロシアより希望せる事体と、このたび上言せる善き思慮の証例を熟(よ)く勘考(かんこう)したまいなば、速やかに外国との交通を開き、殊にはロシア国と交好を結び給わんこと、全権大使の望むところなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/268

蒸気船ができたことで、世界中で交易が盛んにおこなわれるようになり、日本も国是の鎖国にこだわることなく、他国と同様に交易を開始すべきであると論じたあとで、これまでのわが国の対応はロシアから見ていかなるものであったのかを述べている。

日本の国法に、善を尽くさざること多くあるを省みたまうべし。例えば難船に逢いて困迫せる漂流人の本国に帰ることを禁ずる法の如きこれなり。他の諸国にてはかくの如き遭厄の徒を見るときは、深くその情を察し、これを保護して、それぞれの扶助をなし、その本国に帰るべき処置をなすことなり。風波に逢ってロシア国の海岸に漂着せる日本人6名ありけるが、ロシア帝これを憐れみ、ロシア船に命じて去年下田港に送りたり。その際両国の処置相反するは如何ぞや。下田の県令これを受け取ることを欲せず、威劫(いきょう)してその船を速やかに出帆せしめんとせり。漂民は、せめて本国の地にて死に就かんと船将に請いけるゆえ、上陸させたれば、彼らその所にて囚に就くかまた刑を受くるを待つの体なりき

また異国の船を種々の国法に準じ非道の取扱いをなし、甚だしきは、近年までは日本海岸に到ることを許さず。もしたまたま到れば、再び来たることを禁ずるの法律は、正理というべからず。開けたる他の諸国にては、すべて正理にもとづき、破船せるものあれば、破損を修繕すべき諸物を与え、その徒を愛敬して、しかるべき扶助をなし、これによりて愛敬をその本国に示すことなり。船の来たることいよいよ多ければ、文物いよいよ備わり、もって富を致すべく、国威もまた従って盛んなり。産物を交易すれば、互いに有用の諸物を得、人民富饒にして生営も十分なるを得るなり。平日交わりを結び、かつ異国に使節を差し遣わしおけば、争端自ずから開けず、互いに親睦なることを得るなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/270

プチャーチン
【プチャーチン】

ロシア使節はこう論じて、わが国が開国し、他国と交易することで豊かになり、他国との親睦を深めることが可能となる。今までのように鎖国を続けていても利益はないと説いたのである。

ロシアとわが国との交渉は結局まとまらなかったのだが、将来もしわが国が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与えることについて合意して、プチャーチンは嘉永七年一月八日にマニラに向かっている。

そしてその八日後の一月一六日に、今度はペリーが琉球を経由して再び浦賀に現れたのである。前回の来航時に幕府は将軍の病気を理由に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは一年後の再来航を告げて嘉永六年六月十日に江戸を去ったのだが、それからまだ七か月しか経っていなかった

ペリー
ペリー

Wikipediaには「ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えた」とあるが、『ペルリ提督 日本遠征記 ㈢』には、
「ロシアの海軍大将プチャーチンは、他の戦艦三艘を率いて上海にあった。長崎から到着したばかりだったのである。ペルリ提督は、ロシア人は日本に引き返して、結局江戸に行こうとひそかに企てており、この企ては自分の活動を大いに妨げることになるだろうと懸念し、…あらゆる不便を冒して、真冬に日本への航海に乗り出そうと決心した」(岩波文庫『ペルリ提督 日本遠征記3』p.90-91)と記されている。
ペリーは、ロシアがアメリカよりも先に日本と交易を始めることを許すわけにはいかないとの思いから、九隻の艦隊を組んで江戸湾に集結したのだが、幕府は突然のペリーの来航にいかなる対応をしたのか。
この点については次回に記すことにしたい。

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【ご参考】
シーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草している。
ロシアに対してシーボルトは、穏便で平和的な交渉をするべきと主張しロシアはそれに随い、アメリカもわが国には軍事行動を起こさなかった。
わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとしたら、いったいどこの国のスパイだというのだろうか。

シーボルトについては、このブログで何度か書きました。読んでいただくとありがたいです。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-392.html

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html



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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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