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陸軍に破壊された鳥取城の城跡から神話の舞台となった白兎海岸へ

前回記事で、明治時代の初めに因幡東照宮(現鳥取東照宮)の神仏分離が行われ、別当寺の大雲院が移転され、鳥取の最大の祭礼であった権現祭りが行われなくなったことを書いたが、鳥取の人々は、さらに地域の人々の誇りであった鳥取城をもこの時期に失うこととなる。
次の目的地は鳥取城跡だ。駐車場はあまり多くないのだが、運よく無料のお堀端路上駐車場が空いていたので利用した。

鳥取城は久松山城とも言われ、織田信長の中国攻めでは羽柴秀吉が兵糧攻めを行って攻略したことで有名な城だが、元和三年(1617)に池田光政が32万5千石の大封で入府したのち、大大名に相応しい規模に拡張され城下町も整備されたが、その後備前岡山藩に入っていた池田光仲と所領の交換が行われ、そのまま池田家が12代続いて明治維新を迎えている。

鳥取城石垣

日本名城100選」にも選ばれていて、非常に立派な城であったことは石垣を見ただけでわかるのだが、鳥取城はどういう経緯で破壊されてしまったのであろうか。

Wikipediaの『鳥取城』にはこう解説されている。
「城は、1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した。1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)の台風によって倒壊したが同年に再建された。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されている。」

鳥取城の二の丸古写真

少し補足すると、明治4年(1871)の廃藩置県後、明治政府は全国の城郭や陣屋・砲台など軍事利用可能な施設をいったん兵部省の所管として国有化し、その後軍事的に有用であるかどうかを判断して、明治6年(1873)の廃城令で今後陸軍が所管する城(「存城」)と大蔵省が所管する城(「廃城」)に分けられたのだが、「存城」といっても軍財産とすることを決めたにすぎず、文化的価値とは無関係で選ばれただけだ。鳥取城に関していうと、軍が不要と判断した門櫓や土塀の大部分は早い時期に撤去され、土蔵や御殿、三階櫓などの大型の建造物は、軍が利用していた間は残されていた。上の画像はその頃の鳥取城の写真である。

明治12年日本地図

その後明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再設置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅した。鳥取城が破壊されたのは、「鳥取県」が存在しなかった頃のことである。
以前このブログで明治12年(1879)の日本地図を紹介させていただいたが、この地図には富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が存在していない
これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになるのだが、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったことは容易に想像がつく。鳥取県再設置についてはいずれこのブログで書くこととして、話を先に進めよう。

では陸軍は、鳥取城をいつ破壊したのだろうか。
明治2年(1869)の版籍奉還によって従来の藩の知行高は 10分の1に削減され、さらに明治4年(1871)の廃藩置県以降、士族の収入がさらに削減されいったことから各地で不平士族たちが反乱を起こしている。鳥取県においても不穏な動きがあったようだが、明治10年(1877)に西南戦争が終結して不平士族の動きが沈静化していくと、陸軍の分遣隊を全国各地に置く意味がなくなっていった。
明治11年(1878)に鳥取分遣隊の撤収が決定し、12月に建造物処分を前提に兵営用の什器備品が搬出されたのち、建造物は解体撤去されてしまったようなのだが、この時の解体の経緯や入札結果を示す資料は乏しく、どういう経緯で解体されたかを明確に記している記録はネットでは見つからなかった。

いろいろ調べて分かったことだが、西南戦争終結後も鳥取には明治政府に反抗的な旧藩士がかなりいたことは確かで、明治政府が鳥取県を特に警戒していた記述が明治42年に出版された『西南記伝』に記されていて、昭和7年の『鳥取県郷土史』に引用されている。

「…詫間護郎は因州における政府反対派の領袖なり。かつて同志とともに弾薬を製造し、武技を鍛錬し、以て風雲の来るを待つや久し。十年の役(西南戦争)起こるに及び、詫間は機に乗じまさに為すところあらんとす。政府鳥取の形勢を看破し、前鳥取県令河田景與をして鳥取に赴き人心を鎮撫し、…官軍熊本城に連絡するに及び、詫間等計画を中止し、事無くて止みしといえども、十一年その党中より紀尾井坂事件(大久保公暗殺事件)*に與(く)みし、また、竹橋騒動(思案橋事件)**に與みするものを生じたるは、蓋し十年失敗の結果なりしなり。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/660
*紀尾井坂事件:明治11年5月14日、内務卿大久保利通が不平士族6名によって暗殺された事件。参加者の内1名は鳥取藩士であった。
**竹橋騒動:明治11年8月23日、陸軍近衛部隊259名が起こした武装反乱事件。大隈重信邸が攻撃目標とされた。中心メンバーに鳥取藩士がいた。


陸軍が鳥取城の建造物を破壊したのは、鳥取城が反政府分子に利用されることを怖れたという可能性はないだろうか。
鳥取県民の誇りとする城を奪い、県下最大の祭りを奪い、さらには県名をも奪った明治政府の施策は鳥取の反政府勢力を弱体化させる意図があった可能性を感じるのだが、逆に彼らを強く刺激する結果になったとは言えないか。
もしあと数年長く陸軍が鳥取に分遣隊を置いていたとしたら、国内の文化財保護の機運が高まっていた時期でもあったので、鳥取城が陸軍による破壊から免れることになったかもしれない。

鳥取城 中仕切門

せっかく来たので、二ノ丸跡だけでも見ていこうと鳥取城跡の散策を始める。上の画像は中仕切門。鳥取城に残る唯一の城門で、陸軍の破壊から免れたものの台風で倒壊し、昭和50(1975)年に復旧されたという。

鳥取城 石垣2

二ノ丸の三階櫓跡の石垣。山頂の天守が焼失した後は、三階櫓は鳥取城のシンボルだった。

鳥取城 菱櫓跡から天球丸跡の石垣を見る

次の画像は二ノ丸菱櫓跡から天球丸跡の石垣方向を写したもの。

もう少し上に登っても良かったのだが、時間がないので麓にある仁風閣(にふうかく)に向かう。
前回記事で明治40年(1907)に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が鳥取を行啓された際に、権現祭りが復活したことを書いたが、この時に親王の御座所(宿舎)として、旧藩主家の侯爵池田仲博が建造し提供した建物がこの仁風閣である。
鳥取で初めて電灯がともり、電話が最初に設置されたのも仁風閣だというが、電気事業連合会のHPによると明治39年(1906)には電灯照明は全国で50万灯になったと書かれている。鳥取県は他の地方よりかなり近代化が遅れていたようだ。
http://www.fepc.or.jp/enterprise/rekishi/meiji/

仁風閣

仁風閣の建築設計は、赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家・片山東熊(とうくま)で、建築費は4万4千円であったと記録されているそうだ。ちなみに当時の鳥取市の年間予算は5万円だったという。

仁風閣 額

建物の命名は行啓に随行した海軍大将・東郷平八郎である。二階ホールに掲げられている『仁風閣』の書は東郷平八郎の揮毫によるものだ。

仁風閣 御座所と謁見所

この部屋は謁見の間。奥に見える部屋が御座所である。

仁風閣 2階ベランダ

二階のベランダはとても明るく、窓から見える庭は池泉回遊式の宝隆院庭園で、国の名勝に指定されている。

大国主命と白兎

仁風閣から白兎神社に向かう。駐車場は道の駅(神話の里白兎店:鳥取市白兎613 ☏0857-59-6700)を利用すれば良い。駐車場の入り口に大国主命の像が建てられている。

白兎海岸

道の駅から歩道橋を使って白兎海岸へ降りることができる。
『古事記』に記されている、因幡(いなば)の白兎(シロウサギ)の神話は日本人なら誰でも知っていると思うのだが、上の画像の島が淤岐島(おきのしま)*で、白兎は和邇(ワニ)*を騙してこの淤岐島から陸に渡ったのち、騙されたと知った和邇に襲われてしまい、皮を剥がされて泣いているところを大国主命に助けられたとされている。
*「淤岐島」「和邇」:『因幡國風土記逸文』では、「沖津島」「鰐」と表記されている。

子供の頃この話を聞いて、日本の海にワニがいるとは思えず奇異に感じた記憶があるが、山陰地方ではサメのことを「ワニ」と呼ぶのだそうだし、アイヌ語では「ワニ」はシャチを意味するのだという。

インドネシアの民話に、ウサギの代わりにネズミジカ*が出てきてワニの背中を飛び跳ねて海を渡る話があり、この民話では、ネズミジカはワニの背中を飛び越えて元の陸地に帰ると、最後にワニを馬鹿にして話が終わるのだそうだ。インドネシアは実際にワニが生息している国であり、この民話がわが国に伝わって因幡の白兎の神話に変化した可能性はかなり高いと思われる。
*ネズミジカ:ジャワマメジカという体長30~48cmの小さな鹿で、現地では『手乗りジカ』とも呼ばれる。
https://nihonsinwa.com/page/257.html

白兎神社樹叢

白兎海岸から白兎神社に向かう。
参道周辺の森は「白兎神社樹叢」と名付けられていて、学術的に重要なもののようだ。
案内板には「…この周囲には常緑のタブ、シイノキ、アカガシ、ヤブニッケイ、トベラ、モチノキ、カクレミノ、クロキなどの低木が多く育っています。
 これは北西方向の黒松が冬期の寒風を遮ったために生育したもので、日本海岸地方の原始林景を今に残している重要なものであるため、昭和12年国指定の天然記念物にされました。」

白兎神社 拝殿

上の画像は白兎神社の拝殿だが、この神社の創建の由緒についてはよくわかっていない。
『古事記』には因幡の白兎の話が記されてはいるものの、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に因幡国の神社50座42社の名前が挙げられている中に白兎神社の名前がない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7

白兎神社保存の寛文9年(1669)の棟札に、「慶長年間(1596~1615年)に鹿野城主、亀井茲矩公が再興された」と記されているようだが、それより以前の記録は存在しないようだ。
神社に伝わる賽物には「延喜ノ時、式外ノ神社ニシテ頗る大社ナリシガ往古兵乱ニ逢ヒ詞廟衰廃シ跡形絶失」したとあるのだが、『延喜式神名帳』に名前がないのであれば、もし古い時代から存在したとしても決して大きな神社ではなかった可能性が高いと思う。

宿に向かう途中で湖山池に立ち寄る。「池」と名付けられていても周囲は16kmもあり、地形的には「湖」である。水深は3m程度の所が多く、6つの島が浮かんでいて、最大の青島には縄文式土器や弥生式土器、勾玉などが出土したという。

この地域にこんな民話(『湖山長者』)が残されている。
「高草郡に赤坂の長者と呼ばれる大金持ちが住んでおり、村人全員で一日で長者の田んぼの田植えを行う習慣がありました。ある年、夕方になっても田植えが終わらず、残念に思った長者は、金の扇を招き、太陽に向かって『一時の間戻ってくれ。』と言いました。すると沈みかけていた太陽が再び昇り始め、一日の内に田植えを終える事ができました。ところが翌日、田んぼへ行くと、見渡す限り広い池になっており、人々は『太陽を招いた罪で田んぼを池に変えられた。』と噂するようになりました。その池が湖山池です。」
http://www.city.tottori.lg.jp/geopark/geospot/koyama.html
湖山池は、学術的には、千代川による砂の堆積作用や湖山砂丘の発達によってせき止められてできた潟湖なのだが、このような民話が残っているのは興味深いものがある。

湖山池

上の画像の右は青島の西側で、画像中央の小高い山の上に、防己尾(つづらお)城跡がある。
天正9年(1581)の羽柴秀吉の鳥取城攻撃に際し、秀吉は三津ヶ崎本陣山城に本陣を構えて防己尾城を攻めたのだが、この城に籠城していた吉岡将監らは変幻自在の戦法で秀吉の大軍を3度も撃破したと伝えられる。そこで秀吉は防己尾城を包囲して兵糧攻めに切り替え、糧食つきた吉岡一族は降伏して城を出てこの城は落城したという。

浦富海岸民宿の夕食

湖山池から宿泊先の浦富海岸に向かう。もちろんこの季節は解禁されたばかりの松葉ガニが目当てである。
有名な観光地なら民宿でも松葉ガニのフルコースは結構の宿代を覚悟しなければならないが、この日に泊まった浦富海岸の民宿は、設備面は古くて狭いことを割り引いても、食事の内容は1泊1万8千円にしてはすごいボリュームで、とてもおいしくいただけて大満足だった。
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【ご参考】
このブログで奈良県と宮崎県の再設置運動について記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-92.html

また、『日本百名城』についてこんな記事を書いてきました。

江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-451.html

「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html

誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-467.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

後醍醐天皇を支えた武将・楠木正成にまつわる南河内の史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-527.html

日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-397.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html


関連記事
Comment
城の破壊と陸軍の分遣隊
鳥取城の記事を興味深く拝見しました。
先週、長野県の上田城に行ってきたのですが、上田城も明治になって払い下げになり、建物が売却され破壊されたと聞いたばかりでした。
上田城は、明治4年に陸軍の分遣隊が駐留することになり、その後陸軍が撤退したために、明治8年に民間に払い下げられ、2つの楼は移築され遊郭になっていたとのこと。その後、昭和19年になって買い戻され、現在は元あった場所に再建されたそうです。
陸軍が一時的に駐留して、まもなく撤退したことを不思議に思っていたのですが、今回の記事を拝見して、その理由がわかり納得しました。
帰宅後、偶然手に取った本が、信州での赤報隊を扱ったもので、上田辺りの維新期について読みました。明治政府が上田に陸軍を駐留させるのも、理由があってのことですね。
Re: 城の破壊と陸軍の分遣隊
ラングドック・ラングドシャさん、コメントありがとうございます。

上田城を訪問した時はそこまで深く考えなかったのですが、今回の鳥取旅行で、明治政府が旧鳥取藩に対しては随分ひどいことをしていることに気が付いて、旅行から戻ってからいろいろ調べているうちに、鳥取の反政府活動を抑え込むために陸軍が駐留した可能性が高いことに気が付きました。
信州の上田も、同じ理由で陸軍が駐留したと私も考えます。
赤報隊の件は今まで知りませんでした。貴重な情報ありがとうございます。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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