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廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。

その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。

府藩県制史

明治政府はどういう基準で新しい県の名前を決めたのかがちょっと気になったので、手がかりになりそうな本を『国立国会図書館デジタルコレクション』で探していると、昭和16年(1941)に出版された宮武外骨の『府藩県制史』という本が目にとまった。

この本に、廃藩置県が行われた際に明治政府はどういう考えで新しい府県名を決めたのかが記されている部分がある。いろいろ反論があるかも知れないが、結構面白いので紹介したい。

賞罰的県名 逆順表示の史実

トコトンヤレの勇士を出した忠勤藩
  錦の御旗に刃向かった朝敵藩
   洞ヶ峠の日和見であった曖昧藩
    葵の紋がついた親類筋の拱手藩

 昨冬『府藩県制史』編纂の資料整理中、図らずも天来的の痛快事に接した。イヤ痛快事と言うよりも、明治史上には逸すべからざる順逆表示の史実、永久不滅の賞罰的県名と見るべきことを知りえたのである。それは廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、忠勤藩と朝敵藩とを区別するため、忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけ、朝敵藩すなわち錦の御旗に刃向かった大藩、および早く帰順を表せず、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名には藩名をつけず、郡名または山名川名などを県名としたということである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/55

では忠勤藩の事例を見ていこう。
「鹿児島藩のあった薩摩国に鹿児島県
 山口藩(萩藩移動)のあった長門国に山口県
 高知藩のあった土佐国に高知県
 佐賀藩のあった肥前国に佐賀県
 福岡藩のあった筑前国に福岡県
 鳥取藩のあった因幡国に鳥取県
 広島藩のあった安芸国に広島県
 岡山藩のあった備前国に岡山県
 秋田藩のあった羽後国に秋田県

 この忠勤9藩名の8県名は悉く明治4年11月2日より同月22日までの間に、廃藩置県の際における藩名に同じ県名をいったん廃止され、さらに同県名に復したのである。佐賀県だけは明治5年5月29日に旧伊万里県を改称した復県。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/56

次に朝敵藩、曖昧藩の事例を見ていこう。
曖昧藩 熊本藩の熊本県を肥後国小川名の白川県と改称、再置の熊本県は9年2月
 朝敵藩 松江藩の松江県を出雲国島根郡の島根県と改称、それが現存
 朝敵藩 姫路藩の姫路県を播磨国飾東郡の飾磨県と改称、9年8月兵庫県に合併
 朝敵藩 松山藩の松山県を伊予国高山名の石鐵(いしづち)県と改称、6年2月愛媛県と改称
 曖昧藩 宇和島藩の宇和島県を伊予国神南山の神山県と改称、石鐵県と合せ愛媛県
 朝敵藩 高松藩の高松県を讃岐国香川郡の香川県と改称、再三廃合復県、現存
 曖昧藩 徳島藩の徳島県を阿波国名東軍の名東県と改称、再置の徳島県は13年3月
 朝敵藩 桑名藩の桑名県と曖昧藩津藩の津県を廃して三重郡四日市の三重県
 徳川家 名古屋藩の名古屋県を尾張国愛知郡の愛知県と改称、それが現存
 徳川家 水戸藩の水戸県を常陸国茨城郡の茨城県と改称、それが現存
 曖昧藩 金沢藩の金沢県を加賀国石川郡の石川県と改称、それが現存
 同分家 富山藩の富山県を越中国新川郡の新川県と改称、再置の富山県は16年5月
 朝敵藩 小田原藩の小田原権を相模国足柄郡の足柄県と改称、9年4月廃止、神奈川県
 朝敵藩 川越藩の川越県を武蔵国入間郡の入間県と改称、6年6月廃止、熊谷県
 曖昧藩 岩槻藩の岩槻県を武蔵国埼玉郡の埼玉県と改称、それが現存
 朝敵藩 佐倉藩の佐倉県を下総国印旛郡の印旛県と改称、6年6月廃止、千葉県
 曖昧藩 土浦藩の土浦県を常陸国新治郡の新治県と改称、8年5月廃止、茨城県
 朝敵藩 松本藩の松本県を信濃国筑摩郡の筑摩県と改称、9年8月廃止、長野県
 朝敵藩 高崎藩の高崎県を上野国群馬郡の群馬県と改称、それが現存
 朝敵藩 仙台藩の仙台県を陸前国宮城郡の宮城県と改称、それが現存
 朝敵藩 盛岡藩の盛岡県を陸中国岩手郡の岩手県と改称、それが現存
 朝敵藩 米沢藩の米沢県を羽前国置賜郡の置賜県と改称、9年8月山形県に合併
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/57

宮武外骨
宮武外骨

宮武外骨によると、明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名については、朝敵藩や曖昧藩においては一つの例外もなく、藩の名を県名にしていないというのである。

宮武はこの話を思い付きで記しているのではなく、渡邊修という老人から聴いた話と記しているのだが、この老人は明治時代の半ば頃に大蔵省預金局長、千葉県知事等を歴任した兵頭正懿という人物の話で知ったという。

実際にそのような賞罰的な考え方で府県名が決められた可能性が高いような気がするが、誰の発案でこのような考え方が決定したかについては、宮武は、当時は大蔵省が府県監督の専任であり、大蔵大輔であった井上薫の案を大蔵卿の大久保利通が賛同したのであろうと推定している。

では、なぜこのような考えで廃藩置県に臨んだことを明治政府が公表しなかったのだろうか。
その点について宮武はこう記しているが、文中の三条実美の発言がどの記録に残されているかについては言及していない。
「それは明治政府の態度を察するに、各藩に対し極めて寛大の処置を執り罰すべき罪をも赦した事実が多くあり、只管(ひたすら)旧藩臣の緩和を計った上より見て『士族の反感を買うような賞罰的県名は良くない、かつまた宏量たるべき政府としてはアマリにコセツイタ案である。既に発表した県名、今更取り消して改称するにも及ばない、命名の理由など知らさず、黙っていろ』という温厚な三条太政大臣の意見があった結果、秘して世間に伝えしめなかったのであろう」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/59

司馬遼太郎
【司馬遼太郎】

以前このブログで、県名と県庁所在地の関係について司馬遼太郎が『街道を行く(3)』で書いていることを紹介したことがある。
明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である

薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-91.html

この記事では、「この説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に『府藩県政史』という本で書いたものらしい」と書いたのだが、今回『府藩県政史』を実際に読んでみると、宮武は県庁所在地については触れていない

司馬は「藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」と書いているが、富山県、徳島県、和歌山県、静岡県のような例外もある。その点宮武は、「明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名」と限定したうえで、県名に藩名を用いたのは官軍側だと指摘しているのだが、確かにその時期の廃藩置県については正しい指摘であるように思う。

前回の記事で明治9年(1876)の9月に鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。
明治4年(1871)7月の廃藩置県において宮武外骨は、徳川との親戚関係でありながら戊辰戦争を官軍方で転戦した鳥取県を忠勤藩に分類し、隣の島根県は朝敵藩であったがゆえに県名が藩名から変えられたとしているのだが、忠勤藩であった鳥取県がなぜ朝敵藩の島根県に併合され県庁が松江市とされたのかについては何も書いていない。

不平士族のための県庁変更

ところが、『府藩県政史』を読み進んでいくと、廃藩置県の際に明治政府が送り込んだ役人が、士族たちから強い抵抗を受けたという話が各地で起こっていたことがわかる。
例えば、埼玉県について宮武はこう記している。

廃藩置県 埼玉

「太政官は忍(おし)藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合わせて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置くことにして郡名を採った埼玉県と称したのである。しかるに役人どもが此処へ来て威張られてはタマラナイ。県庁をこの岩槻町へ置かさせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とするはずの香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした。一方埼玉県知事野村盛秀は、強いて岩槻に行けば士族たちに暗殺されるかもしれない。イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和鹿島台に居座ることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

三つの藩が合併して埼玉県が誕生したのは明治4年(1871)の事だが、同様なことが同じ年に印旛県でも起きたという。

廃藩置県 石川 富山

また、石川県、新川県(富山)の事例も紹介しておこう。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。

富山藩の富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、この富山も金沢同様、旧藩の士族どもが威張っていてそれを避けるため、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた。これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると言って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

中には不平士族に暗殺された県令もいる。
熊本県は明治4年(1871)に白川県と改められ、その後明治6年(1873)に八代県と合併し、明治9年(1876)に再び熊本県に改名されているが、その年に熊本県令の安岡良亮は不平士族の連中に傷つけられて死亡している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/88

このような記録を読むと、廃藩置県の実施にあたり各地で反対運動が起こっていて、明治政府は不平士族による抵抗活動の激しい県については、不平士族の多い旧藩都を避けて比較的安全な場所に県庁を置くことにしたり、あるいは相手が怒るようなことを敢えて強行して、相手から変更を願い出るのを待つという戦略で臨んでいたという可能性が高そうだ。司馬遼太郎が石川県の事例で書いていた、加賀藩が日和見であったためにその懲罰として田舎の地に県庁を置いて県名としたという説はおそらく誤りで、不平士族が多くて藩都に県庁を置けなかったと理解するのが正しいのではないか。

高校の一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、「廃藩置県のような大改革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はなかったのである」(p.219)などと書かれているのだが、誰でもこんな文章を読めば、廃藩置県について各地で旧藩士の強い抵抗があったことは思いもよらない。

鳥取城石垣

前回の記事で明治9年(1876)に旧藩時代に大藩であった鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。政治力・経済力でも人口でも鳥取県の方が格上であり、戊辰戦争において政府に対して忠勤を尽くした鳥取県がなぜ島根県に飲み込まれることになったのか。その理由を考えると鳥取市中心に活動していた不平士族(共斃社)の過激な活動にたどり着くことになる。

明治政府は、過激な活動を続ける共斃社の活動拠点である鳥取市を避け、彼らの活動を抑える目的もあってわざと鳥取県を格下の島根県に併合させて県庁を松江市に置き、明治11年(1878)には鳥取城を破壊して不平士族たちがここで籠城することを不可能にしたうえで、衰退していく鳥取の立て直しについて人々が自ら考えて行動するまで待つという姿勢で臨もうとしたのではなかったか。

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いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期は多くの問題を抱えていました。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
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明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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廃藩置県に係わる、ある歴史ブログの記事の中に郷土史的に非常に意味のある記述があった。 廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-540.html 教科書の記述の間違いを指摘した箇所もある。 ////////////////////////////////...
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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