HOME   »  明治時代   »  自由民権運動  »  大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすのであるが、1つの県が大きく3つの県に分かれた事例が1つだけある。それが石川県である。

廃藩置県 石川 富山福井

石川県廃藩置県は複雑で、Wikipediaには、以下のように解説されている。
「1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺(だいしょうじ)藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧・金沢県より射水(いみず)郡以外の越中国新川郡、婦負(ねい)郡、礪波(となみ)郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾(ななお)県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北(れいほく)*地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。」
*嶺北:福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C

なぜ明治政府はこの県について何度も県域や名前を変え、県庁の所在地を田舎に移し、県名も「石川県」というローカル色の強い名前にしたのだろうか。その理由を考えていくと、石川は金沢を中心に不平士族の勢力が強かったために、明治政府が彼らの影響力を弱めようとして実行したとしか考えられないのである。

金沢城
【金沢城】

江戸時代の加賀藩は「加賀百万石」と称され、前田家は外様大名でありながら御三家に準ずる待遇を受けてきたのだが、大政奉還時は徳川慶喜を支持し慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵している。ところが、途中で幕府軍敗走の情報が入り、加賀藩は兵を呼び戻して、以後朝廷方に尽くすことを表明したという。
4月になって加賀藩にも出兵命令が下り、彼らは官軍として長岡城攻撃など、新潟県、山形県など各地を転戦した。この戦いで加賀藩は7千人を超える兵を動員し、280人もの死傷者を出している。戦後になって明治政府が加賀藩主に対し1万5千石の戦功賞典を与えている事実はあるが、政府にとっては彼らが戊辰戦争でどのような戦果を挙げようとも、29千人もいた加賀藩の士族の勢力を弱めることの方が重要であったようだ。

前回まで鳥取藩の事を書いたが、同藩の場合は戊辰戦争で当初から官軍につき、政府は戦後3万石の戦功賞典を藩主の池田慶徳に与えている。にもかかわらず9千人いた鳥取藩の士族はひどい目に遭ったことは何度かこのブログで書いてきたので繰り返さない。
官軍方についた鳥取藩ですら餓死者が出たほどなのだから他の藩も推して知るべしで、士族の人数が多かった大藩では明治政府に対する不満が強かったところが少なくない。

当時の藩別の人口や士族の人口は早稲田大学の大隈重信関係資料『府藩県石高人員表』に出ていて、Wikipediaに他の資料とともにまとめられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
この表を見ると、明治10年(1877)に西南戦争の起こった薩摩藩の士族人口は245千人で最も多く、次いで多いのが熊本藩の99千人で明治9年(1876)にこの藩で神風連の乱が起きている。続いて士族人口が多いのは、静岡藩(67千人)、高知藩(31千人)、仙台藩(29千人)、金沢藩(29千人)の順番となるのだが、大量の幕臣が移住した静岡藩を除くと金沢藩は5番目に士族が多かった県ということになる。

前回記事で紹介させていただいた宮武外骨の文章を再び引用させていただく。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

この頃の石川県の不平士族がどのような動きをしていたか、『石川県史. 第4編』に詳しく記されているので引用させていただく。

金沢藩治の施かれし後、幾(いくば)くもなく壮年の志士等、当局の為す所を快とせざるものあり。杉村寛正・坪内金吾・陸義猶・長谷川準也等は即ちこの徒にして、安井顕比・内藤誠に対して厳しく論難攻撃し、遂に坪内金吾は抜刀して顕比を脅迫せしことあり。内藤誠もまた東京において、或る者のために鉄棒を以て頭部を乱撃せられしことありき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/139

島田一良
【島田一良】

このように、藩の統治に携わる者は、不平士族からいつ命を奪われてもおかしくないような危険に晒されていたのだが、『石川県史. 第4編』を読み進んでいくと、内藤誠を鉄棒で頭を殴った「或る者」とは、島田一良という人物であったことがわかる。島田一良は明治11年(1878)に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺したグループのリーダーとなった男である。

島田は嘉永元年(1848)に加賀藩の足軽の子として生まれ、戊辰戦争の活躍が認められて以降、軍人として順調に昇進していったのだが、征韓論に端を発した明治6年(1873)政変で西郷隆盛以下大量の軍人・官僚が職を辞した際に、西郷を強く支持していた島田は故郷に戻って国事に奔走する道を選択し、後に金沢の三光寺を拠点にして政治結社・「三光寺派」を結成している。

明治10年(1877)に西南戦争が起こり、島田は西郷らに呼応して挙兵しようと動き出したのだが、1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は戦況を傍観する態度で動かなかった。島田はそれでもこの機に挙兵を行おうと躍起になったのだが、『石川県史. 第4編』に島田らが挙兵にこだわった理由と彼の戦略が記されている。

「彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/165

島田にとっては、御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が、日和見藩として世間から軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が九州に出征して軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、石川藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまう。

歌川房種『六凶集合之図』

島田はそれ以降、要人の暗殺に方針を転換することとなる。島田は当初木戸孝允と大久保利通に狙いを定めていたのだが、しばらくして木戸孝允が病死したため、島田の標的は大久保利通一人に絞られた
彼らは、毎月4・9のつく日に参議らが参朝することを確認し、大久保が参朝する日は自宅を午前8時に出発し、いつも紀尾井町を馬車で通過することを確認していたという。かくして明治11年(1878)5月14日を決行日とすることが決定した。
この日に集まったのは、石川県士族5名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤であった。
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。

大久保利通
大久保利通

『石川県史. 第4編』に当日の場面がこう描かれている。
「5月14日払暁、同志悉く島田一良の旅宿に集合し、午前7時30分ここを出でたるが、一良は長連豪(ちょう つらひで)とともにその首謀たるをもって、最も途上の状況に注目するところあり。8時紀尾井町の清水谷に至りしに、あたかも大久保利通が霞ヶ関の邸を出で、二頭立の馬車に乗じて赤坂の皇居に至らんとするに会せり。連豪すなわち直ちに突進して馬脚を斬りしも、馬は尚疾行せしを以て、杉本乙菊はまた他の馬脚を斬れり。時に利通は車内にありて書類を閲したりしが、兇徒のために襲撃せられたるを知り、大声『待て』と叱咤し、徐(おもむろ)にその書類を袱紗(ふくさ)に包まんとせり。ここに於いて一良は車窓を開きて利通の手を捉え、胸部と咽喉を刺すことこと三たび、同志また集まり来たり、車上より利通を引下して之を殺し、鞭を挙げて抵抗したる馭者中村太郎もまた脇田巧一の為に斬られてその主に殉ぜり。一良等既に素志を達したるを以て、刀を路傍の草間に棄て、馳せて宮門に赴き、警衛の兵士に就きて自首す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/627

斬奸状

刺客の島田一良はこの日の為に斬奸状を用意していた。この全文は『石川県史. 第4編』で読むことができる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/628

長い文章なのでポイントだけ書くと、彼らにとって大久保には5つの罪があるという。
 その一、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する
(国会や選挙を行うことなく、民権を抑圧し政治を私物化している。)
 その二、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る
(法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やしている。)
 その三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。)
 その四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥し、憂国の士を疑い、内乱を引き起こした。)
 その五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤りにより、国威を貶めている。)

その二で、大久保が公金を私財の肥やしにしたとの指摘があるが、その点については事実と異なると思われる。実際の大久保は金銭に対して潔白な政治家で、公共事業などに私財を投じていたために死後は8千円もの借金が残っていたという。

民選議院設立建白書

とは言いながら、彼らの主張に理がないわけではなかった。
五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ」と宣言していたにもかかわらず国会開設の動きは一向に進まず、また明治7年(1874)には板垣退助や後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した動きに対し、明治政府は新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、反政府の言論活動の取締り強化を図るばかりであった。

斬奸状にはこう記されている。
「…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。」
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/630

彼らがとった手段は感心できないが、この文章を読むと彼らが最終の目的としていたのは国会の開設であったことは明らかである。

明治の三傑

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去ったのだが、それまでは「薩長」藩閥とは言いながら圧倒的に「薩摩」が強かった。しかしながら、西郷と大久保を失ったあとは伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになり、「薩長」の勢力関係が逆転することとなる。

伊藤、山形、井上

また大久保暗殺事件(紀尾井坂の変)の影響の中でさらに重要な点は、この事件以降自由民権運動が強まっていったことにある。西南戦争によって武力で明治政府をと対抗しても勝つことが叶わないことがわかり、以後は言論で合法的に戦う以外に行くべき道がなくなったということであろう。

自由民権運動

この事件の4か月後の9月に大阪で開かれた愛国社再興会議で石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり、翌明治12年11月の愛国社第3回大会で国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定され、明治13年(1880年)3月第4回大会では、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。
明治政府は集会条例を制定するなど民権派の急進的な活動を取り締まる一方で、政府の主導による立憲政治の実現に取りかかることになるのである。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-256.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-492.html

西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-160.html

征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-161.html

西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-162.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html







関連記事
Comment
初めまして。
初めまして。ブログを拝見しましたが、私は、幕末及び明治の歴史の中で、大久保利通が暗殺された事件に強い興味があります。なぜなら、加害者である、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族が、時代の変革の波に乗れなかった被害者だと思ったからです。一郎らとしては、利通だけでなく、岩倉具視らに対して、どうしても我慢できないほどの怒りと憎しみと政治への不満を、激しく募らせたことでしょう。一郎らを批判したり罵ったりするのは簡単でしょう。しかし、単なる加害者とは言いきれない悲哀を感じずにはいられませんでした。


 
Re: 初めまして。
トトさん、はじめまして。コメント頂きありがとうございました。

当時は今日のような言論の自由はありませんので、やり方はともかくとして、彼らは命がけで政治を正そうとしたのです。

生まれたばかりの明治政府は失政が多く、士族だけでなく農民も各地で暴動を起こしています。決して明治維新がスムーズに推進されたわけではありません。
追記。
紀尾井坂の変のことで、新たに追記したいことがあるのですが、大久保利通を暗殺したことは、暴力行為なので、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族の行動は、道徳的な面では、決して許されないものだと思います。ただし、一郎らが、どうしても我慢できないほどの怒りと憎しみと政治への不満が、渦を巻いていた上に、一郎が、西郷隆盛に対して、異常なほど尊敬していたことは、否定できないのではないでしょうか。あと、利通が死んだからといって、明治政府が滅んだり、弱体化したり、屋台骨が揺らいだりすることがありませんでしたが、それでも、利通の死によって、薩摩閥の弱体化や自由民権運動の活発化に繋がったとすれば、一郎らは、自分たちの命と引き換えにした上で、その後の未来を変えたのかもしれません。
Re: 追記。
トトさん、コメントありがとうございます。

要人の暗殺は決して許されるものではありませんが、士族達の収入が激減して少なからずの餓死者が出たような政府の施策に対し、士族達が強い不平・不満を持ったことは当然です。

このブログで何度か書きましたが、特に明治時代の初期は政府は決して盤石ではなく、いつ倒れてもおかしくないような時期が続きました。政府に対して武力で抵抗するような動きが収まっていくのは西南戦争、紀尾井坂の変あたりからで、それ以降は言論で政府と戦う動きが強まっていきます。
島田一郎らがどこまで意図して行動したかはよくわかりませんが、この事件をきっかけにして自由民権運動が高まり、政府も立憲政治の実現に取り組まざるを得なくなりました。
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
Kindleストア
旅行・出張






グルメ
よく使っています


旅館・ホテル

スピードクーラー
楽パック 航空券×宿
レンタカー

ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    おすすめ商品
    楽天Kobo電子書籍
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史















    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。