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明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、中央集権の実効は乏しかった。

大隈重信
【大隈重信】

国立国会図書館デジタルコレクションに大正元年に出版された『木戸孝允言行録』があり、その中に廃藩置県が遅れた事情について大隈重信が語った内容が紹介されている。

「木戸・大久保等の薩長に至るや、封建廃滅を断行せんとするの意あるを告ぐるに由なく、而して島津久光の如きは封建廃滅を望まず。嘗(かつ)て西郷が急激と言わんより寧ろ破壊と称すべき藩政改革を断行したることありしを以て、その藩兵を率いて東上せんとするや、またまた封建廃滅と言えるが如き急激の挙動に出でんことを憂い、西郷を招きて問うところありしに、西郷は決してかかる意なきを告げ、且つ東上の上は要路に立ち重局に当たる者を交迭黜退(ちゅったい)して、大に中央政府に改革を加える所あらんことを期して漸く上京することとなれり。かかる次第なりしを以て、人心頗(すこぶ)る恟々として政府に対する反抗の気焔はますます激進し、ややもすれば如何なる椿事を惹き起こすやも測られざる情勢となり、封建廃滅の如きは容易に決行すべからざる模様にして、せっかく遣賢を招き、藩兵を集めても何の効果もなく、言わばかえって不首尾を来たせしをもって、岩倉、木戸、大久保等の諸先輩も一時失望の体ありしぞ是非もなき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/49

島津久光
島津久光

このように、明治新政府による封建制度解体が遅れた大きな原因のひとつは薩摩藩の最高権力者であった島津久光*がそれを望んでいなかったからなのである。薩摩には鍛えられた軍隊と大量の最新鋭の武器があり、明治政府は薩摩藩の意向を無視できなかった。長州藩出身の木戸孝允はこの事態をどう捉えたか。前掲書にはこう記されている。
島津久光:薩摩藩11代藩主島津斉彬の異母弟で、長男島津忠義は12代藩主。

木戸孝允
木戸孝允

「(木戸が考えるには)封建の制度を仆滅するにあらざる以上は権威を中央に集めて政令を一途に出てしむる能わざるのみならず、ややもすれば強藩奸雄をしてその間に乗じて野心陰謀を逞しうするを得しむる不幸を見るに至らんと。井上馨、伊藤博文等の少壮者はこれを擁し、これを援けて、まず薩藩をはじめ諸強藩の跋扈を制御することを務め、木戸は自ら改革党の首領たる姿となれり。されど木戸とても素と勇断果決に富む人にあらず。従って薩長両藩間の軋轢に顧慮する所なく、大久保との関係を絶ち、旧藩との関係を離れても、なおかつ諸藩の改革を断行するの勇気なく、改革派の首領たる姿ありながら、ややもすれば顧疑躊躇したる言動なきにしもあらざりしなり。
大久保に対しては木戸の如きも多少その心事につきて疑うところあり。ひそかに想えらく『彼(大久保を指す)豈(あに)彼の西郷と等しくその藩の為に多少陰謀を構うるにはあらざるか、薩藩をして幕府に変わりて天下に覇たらしめんとの野望を包蔵するにはあらざるか』と
蓋し薩藩は維新革命の前後に於いてあるいは始めに公武合体の論を唱えて、終に尊王倒幕の挙に出て、あるいは前に征長の軍に加わりて、後に長藩と結託せしなど、酷にこれを評すればほとんど反復常なき挙動をなしたるのみならず、当時大久保は枢要の地にありながら、諸事に沈黙にしていわゆる改革の決行に逡巡躊躇するところありしを以て、木戸は大久保の心事に就きてすこぶる危疑するところありしなり。これ蓋し木戸の過慮杞憂と言え、木戸の神経質なるとその神経質にて当時の事情を揣摩せしとより見れば、また無理ならぬ危疑なりしなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/50

王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定したのだが、地方に権力を残したままでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。これでは、何のために命を懸けて戊辰戦争を戦ったのかと諸藩が疑問を持っても仕方がないし、力のない明治新政府を倒そうとする動きがいつ起きてもおかしくなかった。

大久保利通
大久保利通

木戸は、薩摩藩が幕府に変わって覇権を握る野望を持っているのではないかと疑ったのだが、大久保もまた悩んでいた。
明治二年四月二六日に大久保利通が岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

昭和16年刊の『維新史 第5巻』には、この時期のわが国の状況についてこう記されている。
戊辰の戦乱が漸く鎮定せる明治2年には霖雨(りんう:長雨)が続いて、全国各地は不作を極め、物価は日に騰貴して、無告の民は巷に充満していた。殊に東京においては、失禄の旧幕臣が多く、一方京都においてもまた、御東幸*以後、その職を失えるものが決して少なくはなく、庶民は困窮を極めたのである。ここに於いて8月25日、畏くも天皇におかせられては、御躬ら節倹の範を示し給うて、救侐に充てんとの優渥なる詔書を下し給い、政府百官は聖旨を奉じ、官禄・賞典禄を減じて救侐の資に充てようとしたのであった。
 地方民情の最も動揺せるところは、戊辰の役において戦乱の巷と化した東北地方をもって第一とする。由来この地方は僻遠広漠の地で、王化に浴せざること久しく、剰(あまつさ)え戦乱の為に流民が続出し、人心は不安に戦(おのの)いて、その帰する所を知らなかった。されば戦乱鎮定の後、政府は力を東北地方の施政に注ぎ、あるいは陸奥・出羽二国を分割して、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後の7国となし、あるいは諸藩の削封地に県を置いて、新政の洽(あまね)く行き渡らんことを期したが、諸事草創の際とて、地方官も未だ充分なる実績を挙げるには至らなかった。

この頃また農民の暴動が各地に起こった。惟(おも)うに封建制度の撤廃は、数百年来領主対領民の関係を維持し来れる農民階級にとっては、生活の安定を脅かされることが大であったので、保守的傾向を有する彼らはこれを喜ばずして、所在に蜂起したのである。」
*御東幸: 明治天皇が明治2年3月東京に二度目の行幸をされ、これが実質の遷都になった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/392

『維新史 第5巻』には以下のような暴動が起きたことが記されている。

明治2年 2月  盛岡藩の領民が旧領主南部利恭の移封に反対し党を組んで反対した
明治2年10月  高崎藩の農民が岩鼻県(上野国、武蔵国内の旧幕府領・旗本領)と租法と異なるのを理由として蜂起
明治2年11月  忍藩(おしはん:武蔵国埼玉郡に存在した藩)管地の伊勢国数郡内の領民2万人が騒擾を起こした
明治2年12月  山口藩兵が藩庁の兵制改革に不満を抱き2千名が脱退
明治3年1月  上記の隊士千余名が兵器を以て山口を逆襲し山口藩庁を包囲。2月に巨魁35人が捕らえられ鎮圧した
明治3年 1月  浜田県(現在の島根県石見地方、隠岐諸島)下の士民が浮浪の徒の煽動により蜂起
明治3年3月  宇和島藩の農民が年貢の苛酷を理由に蜂起
明治3年10月  尼崎藩の農民が大阪・神戸間鉄道敷設の為に田畑を収用せられるのを不満として暴動を起こした
明治3年11月 膽澤県(いざわけん:現在の宮城県北部・岩手県南部)の農民が凶作のため租税軽減を嘆願して蜂起
明治3年11月 日田県の農民が県庁を襲い掠奪暴行を働く
明治3年12月 府内藩(豊後国大分郡府内周辺を支配した藩)の農民が雑税の廃止を求めて騒擾を起こした

大村益次郎
【大村益次郎】

また政府の大官が相次いで暗殺されている。
明治2年1月  横井小楠(徴士参与:熊本藩出身)が十津川郷士ら6人組に襲われる
明治2年9月  大村益次郎(軍務官副知事:長州藩出身)が元長州藩士8人に襲われる
明治4年1月  広沢真臣(参議:長州藩出身)犯人不明

新聞集成明治編年史
【新聞集成明治編年史】

『維新史 第5巻』に挙げられている事件が全てではなく、幕末から明治期にかけての新聞記事を渉猟して編纂された『新聞集成明治編年史. 第一卷』の目次を見るだけでも、この時期に全国各地で一揆や反乱が起きていることがわかる。
明治2年 信州上田の騒擾(9月)、美濃の一揆平定(9月)、上州農民騒擾(10月)、勢州にも農民蜂起(11月)
明治3年 浜田県士民沸騰(1月)、長藩奇兵隊蜂起(1月)、徳島藩暴動始末(8月)、豊後各所に浮浪人出没(11月)、信州路土民動揺(12月)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/14

これら以外にも様々な出来事があったと思うのだが、全国各地でこれだけの事件が相次いで起こると政府の権威は失墜し、この混乱に乗じで政権の主導権を奪い取ろうとする動きが出てきてもおかしくなかったのである。

大衆明治史

菊池寛は『大衆明治史』のなかでこう解説している。
「維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった
 当時の中央勢力は、名ばかりは徴士とか貢士とかいう、今の代議士のようなものが全国各藩から集まって、盛んに政治上の議論をしているばかりで、実行はさらに挙がらない。まして肝心要の兵力というものが、中央にはまるで皆無である
 これに反して、錦旗を東北に翻して凱旋した各藩の兵隊は、各々その藩に帰ってその武功を誇り大小諸藩はみな独立状態で、中央を覘(うかが)い、来るべき変を待つ、といった有様である。容易ならざる形勢である。」(『大衆明治史』P.7)
http://tncs.world.coocan.jp/TMeijiS1.pdf

明治政府の誕生は薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの4藩がまとまっていたかというと、それぞれが主導権を奪い取るチャンスを窺っていたようなのだ。

薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

大久保利通は、一刻も早く国内を統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗するためには、薩長の力でこの難局を切り抜け、封建制度の解体に持ち込むしかないと考え、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
明治4年(1871)に、政府は鹿児島に戻っていた西郷隆盛を中央に呼び戻し、薩長土3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固めて一挙に廃藩置県を断行し、封建的割拠主義に最後の止めを刺す大改革を行い、以降明治政府は新政策に邁進することとなったのである。

版籍奉還から廃藩置県に至るまでの2年間は、このように明治新政府は極めて不安定であったのだが、わが国の一般的な教科書では、この2年間に全国各地で暴動が相次いだことは何も書かれていないのである。

山川日本史

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このような教科書を普通に読むと、明治新政府により封建制度の解体と中央集権体制の確立は比較的スムーズに進められ、政権内部のトラブルも地方の抵抗もほとんどなかったと理解するしかないのだが、他の教科書も似たり寄ったりで、相変わらず『薩長史観』で描かれている。

明治維新からもう150年も経っているのだから、せめて明治政府の良い面も悪い面もバランスよく記して欲しいものだと思う。

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Comment
先に日本陸軍の創立をしていたなら?
陸軍を創立すると発表すれば各藩士の気持ちも1つになれたかも?
廃藩置県でリストラされた奇兵隊員が謀反をおこして首を切られることもなかったはず
しかし徳川幕府を打倒してからのビジョンがなかったのは
まずかった
さらに旧幕臣を血祭りにあげたことも許されない
彼らが生きていたならもっと良い政府ができたかも?
Re: 先に日本陸軍の創立をしていたなら?
nenoさん、コメントありがとうございます。

幕府を倒してからのビジョンがなかったのはご指摘の通りでしょうね。

戊辰戦争はつまるところ私闘で、明治政府に強く反感を持つ士族が各地にかなりいました。
薩長土肥といっても各藩で主導権を奪い取ろうとする動きがあり、陸軍を創立して国がまとまったかどうかはわかりません。

明治の初期の統治は、どの勢力が主導権を取っても難しかったと思います。国が一つにまとまっていくのは、日清日露のような我が国の存亡の危機を、国民全体で共有したことが大きかったのではないでしょうか。

>戊辰戦争はつまるところ私闘
これをきちんと取り上げないと、反薩長は浮かばれませんね。
薩長史観の見直しのキモじゃないでしょうか。

榊山潤(1900-1980)「田舎武士の目」(昭和43年9月1日「日本の歴史」明治維新の巻より)
文中の「この人」とは、妻の父・佐倉強哉(1850-1939)始めの30年は二本松藩士、次の30年は司法官、残りの30年は弁護士、公証人。以下、部分的に引用。
奥羽の戦で徹底的に打ち砕かれたのは会津である。それにはそれだけの理由があった。新勢力の代表者である薩長二藩と会津の対立は根本的なもので、会津は彼らを官賊と呼び、とことんまで仇敵の感情を燃やし続けた。しかし二本松藩には、薩長との間にそれほどの対立はなかった。第一、対立するほど有名な大名でもなかった。
 にもかかわらず、敵対の意欲において会津に劣らなかったのは、一種の正義感からであった。この人は晩年に至っても、明治維新は革命でなく、単に雄藩と徳川幕府の争覇であったという見解を崩していなかった。薩長二藩は、巧みに不平不満の貧乏公家を利用にして皇室を抱き込み、皇室を表看板にして幕府を倒そうとした。つまり、関ヶ原の怨みを晴らそうとしたというのである。この人は孝明天皇の崩御が、正常なものでないことを信じていた。こういう薩長の陰謀に対して、徳川幕府が対決の意志を失ってしまったことを、奇怪と考えていた。
 当時奥州の諸藩には、こういう思想が瀰漫していたにちがいない。勝安芳は薩長のスパイであり、もろくもそのワナに落ちて腰くだけになった15代将軍慶喜は、卑怯者の代表者であった。腰抜け将軍に代わって、薩長とその後にしたがう小野心家どもにひと泡吹かせてやろうというのが、奥羽諸藩の偽りのない心情であったろう。

明治政府の食をはんで、苦労のない晩年を送ったこの人が、頑としてこういう見解を捨てなかったのは、この人の生きて来た道筋が、どんなに険しかったかを物語るものであろう。「おれが賊藩の徒でなかったら、大臣ぐらいにはなっていたろう」と、一杯飲むとこの人は言った。負け惜しみとはいえない人柄であった。
国民国家
明治5(1872)年 学制発布
明治23(1890)年 国会開設
         教育勅語、各学校に配布
明治24(1891)年 初等教育の就学率50%を越す
明治27(1894)年 日清戦争開戦
明治28(1895)年 日清戦争勝利
         三国干渉で、国民に「臥薪嘗胆」が広まる
明治33(1900)年 初等教育の就学率80%を越す
         北清事変
明治35(1902)年 日英同盟
明治37(1904)年 日露戦争開戦
明治38(1905)年 日露戦争勝利

明治日本が国民国家として成功し始めたのは、
「臥薪嘗胆」辺りからかも知れません。

明治政府は、御用学者を使って戊辰戦争から美化してますね。
「鞍馬天狗」も「杉作よ、日本の夜明けは近い」と名セリフを言います。
薩長史観でないと、小説は売れなかったんですかねえ・・。
Re: >戊辰戦争はつまるところ私闘
たつやさん、コメントありがとうございます。

榊山潤さんの本は読んだことがないですが、このような視点で描かれた小説に興味があります。早速取り寄せて読ませていただきます。情報ありがとうございました。

蜷川新氏が『維新前後の政争と小栗上野の死』で、大政奉還により徳川幕府は消滅し、慶喜は率先して権力を朝廷に返還し王政復古を実現させようとしたのであって、薩長には徳川と戦う大義はなく、戊辰戦争の初めは私闘であったと書いていますがその通りだと思います。
しかも官軍は、東北で略奪行為や強姦を繰り返したのですから、奥羽諸藩が立ち上がったのは充分に納得できる話です。


Re: 国民国家
職業として幕末から明治の歴史を研究する学者は、圧倒的に薩長史観ですね。
戦前は昭和初期まで藩閥政治が続き、書きたいことが書ける環境ではなかったのでしょう。
戦後は学者の怠慢ですね。この時代に関しては、本業の学者でない方の方が鋭い考察をしておられる印象があります。
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Author:しばやん
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    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







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