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西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した


岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。

南洲翁遺訓

なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。

薩摩藩邸襲撃による火災
【薩摩藩邸襲撃による火災】

薩摩藩は慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて江戸の治安を攪乱させていた。当時江戸市中の警備を担当していたのは庄内藩であったが、12月25日には薩摩藩邸の浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生したことから、老中稲葉正邦は庄内藩に命じ薩摩藩邸を襲撃させている。

この事件がきっかけとなって戊辰戦争が始まり、庄内藩は官軍と戦いの末敗れてしまった
のだが、共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済み旧庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)は明治3年に庄内藩に復帰している。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛されることとなる。

酒井忠篤
【酒井忠篤】

西郷は戊辰戦争が終了した後は東京残留を断って鹿児島に戻っていたのだが、明治3年(1870)に酒井忠篤は旧藩士らを従えて鹿児島に西郷を訪ねてその教えを請い、その後も旧庄内藩士らは鹿児島を訪れて、西郷から直接話を聞いたという。
明治22年(1889)に大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が戻されて西郷の名誉が回復されることとなり、酒井忠篤が旧庄内藩の旧藩士たちに命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。それが『南洲翁遺訓なのである。

南洲翁遺訓』は今では誰でもネットで訳文や解説文が読むことができる。
いろんなサイトがあるが、例えば『敬天愛人フォーラム21』の『西郷南洲翁遺訓集』は読みやすくてお勧めである。
https://www.keiten-aijin.com/ikun

西郷隆盛

この遺訓を読むと、西郷が、出来たばかりの新政府にかなり批判的であったことが垣間見えてくる。いくつかを紹介しよう。

「第一ケ条
【原文】
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる…
【訳文】
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申される…」

西郷は国政を担う人物は、私利私欲で動く人物であってはだめで、いかに功績があったとしても、相応しくない職を与えるなと言っている。具体的な名前を挙げてはいないが、西郷から見て不適任な人物が多数政府にいたのであろう。西郷はこう述べている。

「第二ケ条
【原文】
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
【訳文】
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。」

立派な人物がいて発言の場を与えたとしても、新政府には、わが国をどのような国にするかという基本方針がしっかり定まっていなかった。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、地方に権力を残したままとなってこれでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。
しかしながら新政府には、そのような危機感も持たずに自分の藩や自分の利益ばかりを追い求めるようなレベルの人間が少なからずいたことは第四ケ条を読めばわかる。

「第四ケ条
【原文】
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける
【訳文】
国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。」

このように西郷は、維新の事業が始まったばかりの大事な時に、新政府の中で私利私欲に目がくらんだような連中の振舞いが多いのを見て、何のために戊辰戦争を戦ったのかと涙を流したというのだが、出来たばかりの明治新政府の官吏の働きぶりは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。

横山安武
横山安武

明治3年の7月27日に薩摩藩士の横山安武という人物が、明治政府に仕える官吏の驕奢な暮らしぶりに憤慨して『時弊十箇条』を挙げた書を集議院門扉に公示して割腹自殺を遂げる事件があった。彼は初代文部大臣を務めた森有礼の実兄で、儒学者の横山安容の養子となって藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕えた人物である。
西郷は後に彼の死を惜しんで碑文を作って弔ったのだが、この横山が死を以て訴えた『時弊十箇条』は、『南洲翁遺訓』の第四ケ条の内容をもう少し詳しく、具体的に記した文書としてもっと注目されてよいと思う。

『時弊十箇条』写
【『時弊十箇条』写】

時弊十箇条』の全文は明治44年刊の河村北溟著『西郷南州翁百話』に出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755544/85
が、昭和6年刊の望月茂 著『憲政史物語』の方が解説がなされていて読み物としてわかりやすい。引用部分の『』の太字斜字部分が『時弊十箇条』の原文で、その他の部分は望月茂氏の解説で、ある。文中の『三條公』というのは三条実美、『岩倉徳大寺』は岩倉具視と徳大寺実則のことである。また『集議院』というのは、「五か条の誓文」中に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定められたことにより設置されたが公選により選ばれたものではなく、ほとんど機能しなかったという。
望月茂は『時弊十箇条』をこう解説している。

「彼は、わずかに28歳の一青年に過ぎなかったが、建白の十ケ条は悉く時弊をついている。
一、 輔相の大任をはじめ、侈靡驕奢、上朝廷を暗誘し、下飢餓を察せざる也。』
この時代は、明治も早や三年。維新当時の緊張しきった心持がうせて、大臣諸公がぼつぼつ贅沢をはじめ、青公卿が威張りだした。三條公などでさえ、白昼公然、流行の馬車を駆って吉原の大門を潜る始末。…
二、 大小官員も、外には虚飾を張り、内に名利を事とする少なからず』 
これは、いつの世も泰平になると免れない。
三、 朝令夕替、万民、狐疑を抱き、方向に迷う。畢竟牽強付会。心を着実に用いざる故なり。
痛いところを抉っている。全く明治初年の制度は、ああでもないこうでもないと猫の眼玉のように変わっている。それでは民衆が、疑いをさしはさむは当然である。
四、 道中人馬賃銭を上増し、五分の一献金等、すべて人情事実を察せず。人心の帰不帰を省みず。剥刻の処置なり。
五、 直を崇ばず、能者を尚び、廉恥上に立たざるがゆえに世風日に軽薄なり。』
これは、昭和の今日も同じらしい。
六、 官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。』
どうも、今聞いても耳がいたい。
七、 酒食の交厚く、道義の交薄し。
明治3年、已に然りとせば、今日の道義の交わりおとろえたるは、致し方ないことかもしれない。
八、 外交人に対し、約定(条約の意)の立法、軽率なるをもって、物議沸騰を生ずること多し。
九、 黜陟の大典立たず。多くは愛憎をもって進退す。春日某の如き廉直の士はかえって私恨を啣み、冤罪に陥る数度なり。岩倉徳大寺の意中に出づると聞く。』
ここに春日某としてあるのは、春日潜庵をさしている。彼は硬骨の陽明学者。維新後奈良県知事となったが、讒を蒙って囹圄(れいご)の人となって以来、又出でて仕えず。明治11年没するまで、一処士として終わった。南洲翁の兄事していた人物である。
十、 上下、こもごも利を征りて、国危うきこと。
この十ケ条をあげているが、これを要するに、今日の言葉で言えば綱紀粛正である。彼は、なお最後に付け足し、朝鮮から頻りに侮られるが、それくらいのことで、兵を動かすというようなことは、とんでもないことだと言っている。口に一新を唱えて、一新の実あがらざる今日、外国へ兵を構えることなどは、国事をもって遊戯視する徒輩の暴論である。朝鮮は、文禄時代の朝鮮ではない。今日、国力の充実せざる矢先血気にかられて左様なことをするのは、国を亡ぼすものだと極言している。
集議院あれども無きが如く、草莽の議論が行われぬ折柄、ただ一片の建白ぐらいでは、政府の大官の意中を動かすことが出来まいと信じた彼は、ついに死をもって諫言しようとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268721/33

横山が批判した通り、当時の政府は課題や問題が山積みで、その政情は混迷をきわめていた。明治2年(1869)5月に榎本武揚以下旧幕臣が立てこもっていた函館の五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、翌月には王政復古や戊辰戦争に功績のあった者に対し賞典禄や位階が与えられるなど論功行賞が行われたが、それら恩賞は薩摩藩、長州藩出身者に手厚いものであり、両藩に対する非難が出ていたという。また薩長両藩の間でも、政府の人事について争いが生じて、新政府は発足当初からかなり問題を抱えていた。
それだけではない。明治2年は天候不順で全国各地で農作物が不作を極めて物価が高騰し、農民の暴動が各地で起こっている。

廃仏毀釈

そんな情勢であるにもかかわらず、新政府の役人どもは仕事らしい仕事をせず、各藩の元大名屋敷を分捕って、使用人を雇い妾を囲うなど、旧大名さながらの驕奢な生活をするものが少なくなかった
。この時期に明治新政府が率先して推進したのは、廃仏毀釈という文化破壊と、東京奠都と、中途半端な版籍奉還ぐらいで、評価に値することは殆んど何もしていないのだ。

横山は「官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。(仕事の為に人材を求めるのではなく、人のためにポストを与えるために、やるべき任務が尽くされない。給料のための仕事と考える者がある)」と書いているが、西郷にとっても同じような気持ちであったと思われる。

横山安武顕彰碑
横山安武顕彰碑】

明治5年に西郷が横山安武の顕彰碑の碑文を書いているが、この全文が青空文庫で読める。西郷が個人の為に碑文を書くことは珍しく、この碑文の他に1例があるだけだ。いかに西郷が横山の死を惜しんだかがわかる。
www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/48226_32093.html

西郷の碑文で注目していただきたいのは次の部分である。
この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢(ゆうとうきょうしゃ)にして事を誤るもの多く 、時(じ)論(ろん)囂々(ごうごう)たり 。安武すなわち慨然(がいぜん)として自ら奮つて謂く 、王家(おうけ)衰弱(すいじゃく)の極ここに兆す 。」

税金泥棒のような政治家や官僚がはびこることは何も明治初期だけの現象ではなく、程度の差はあれいつの時代もよく似たものだと思うのだが、今のわが国はかなりひどい状態と言っては言い過ぎであろうか。

重大な安全保障上の問題が多々あるにもかかわらず、国会ではどうでも良いことばかりを議論して、官僚は省益ばかりを追い求める連中があまりにも多い。国益に関わる重要な問題を何一つ解決できないのなら、職を辞してもらいたいと言いたいところだ。
もし西郷隆盛や横山安武がもし今も生きていたとしたら、わが国の政治家や官僚やマスコミなどに対して決して黙ってはいないことだろう。
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【ご参考】
明治新政府が最初にどんな仕事をしていたかについて、こんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html







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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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