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仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。

罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)

「朝敵」の認定を受けた藩は西日本が多かったのだが、これらの藩を含め佐幕派の諸藩は早々と抵抗を諦めて赦免を求めることとなり、鳥羽伏見の戦いの後は西日本ではほとんど戦闘行為に至っていない。

しかしながら、いくら藩主が謹慎し恭順の意を示しても許されなかった藩があった。それが会津藩なのだが、なぜ会津藩は戊辰戦争で戦うことを余儀なくされたのだろうか。幕末の動きを少し振り返っておこう。

松平容保
松平容保

文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなった。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、蛤御門の変では長州藩兵と戦い、二度にわたる長州征伐にも関与した
。職務上やむを得なかったとはいえ、新政府からすれば新選組や会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨みがあったことだろう。
慶応3年(1867)の大政奉還のあと王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生し、今度は会津藩が京都から追放されて大阪城に退くこととなった
新政府は大阪城にいた徳川慶喜に上京を命じ、会津・桑名兵に対しては本国への帰還を命じている。そこで将軍の上京のために会津兵・桑名兵が守護することとなったのだが、慶応4年(1868)1月2日にその隊列の上洛を待ち伏せていた新政府軍が大砲を打ち込んで徳川方に挑戦したのが鳥羽伏見の戦いである。以前このブログで書いたように、会津藩も桑名藩も徳川慶喜も鳥羽伏見では戦う準備はしておらず、戦う意思は持ち合わせてはいなかったところに一方的に戦いを挑まれたのだが、1月17日に新政府は仙台藩に会津藩の追討命令を出している。原文は明治44年刊の『仙台戊辰史』に出ているが現代語に訳すと次のようなものであろう。
「会津藩松平容保はこのたび徳川慶喜の反謀に与(くみ)し、錦旗に発砲し、大逆無道の行いであったので征伐軍を発することとなった。貴藩が一藩の力で (会津藩の)本城を襲撃したいとの出願をしたことは、武道を失わない憤發の心がけ、神妙の至りであり、主上も御満足に思し召しである。よって(貴藩の)願いの通り、(会津征伐を)仰せ付けるので、すみやかに追討の功をあげるよう御沙汰する。 戊辰正月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/146
しかしながら仙台藩は会津藩を討伐することを出願したこともないのに、このような命令が届いたのは何かの間違いであろうとしてすぐには動かなかった。

一方、会津藩は必死に和平の道を模索していた。
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎
して、朝廷の命を待った。

会津藩首脳も朝廷ほか尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出し和平の周旋を懇願したが、良い返事をもらえなかった。こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、朝廷との周旋を決意した。
また、別ルートで仙台藩から米沢藩に使者が使わされ、新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して奥羽での戦乱を避けることで合意していた。

九条道孝
【九条道孝】

3月22日、新政府に敵対姿勢を続けていた会津藩、庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督および新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じている

しかし奥羽鎮撫使のメンバーはとんでもない連中であったことが記録されている。
『仙台戊辰史』に、仙台到着数日前からの彼らの行動が詳細に記されている。文中の大山格之助は参謀の大山綱吉で、三好監物は仙台藩の重臣、慶邦公は陸奥仙台藩藩主の伊達慶邦、伹木土佐は仙台藩の奉行である。

大山綱吉(格之助)
【大山綱吉(格之助】

「東名浜に上り総督の一行は山本久米蔵の家に宿す。この日東名浜に江戸の商賈某の貨物を満載せし商船の碇泊しあるを見て、薩の参謀大山格之助は商人を尋問したる末、これ敵地のものなり、宜しく分捕りすべしと、貨物及び船を奪い、商人を追放して数千金を得、大白を挙げて之を祝せしかば、仙台藩は勿論、各藩より来れる者および付近の人民は大いに驚きたり。19日夜半三好監物東名浜に出迎えしが、総督一行は21日松嶋を遊覧し観瀾亭に宿陣せしかば翌23日払暁慶邦公は伹木土佐らを従え儀を整えて松嶋に至り総督に謁せしに左の命あり

仙台中将
右早々人数差出し、会津へ討ち入るべき事
策略等の儀は、参謀に申談すべき候事

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/175

これを読めば、彼らにとっては「朝敵」会津を討伐するよりも商人の荷物を奪うことや、松島を観光することの方が優先であったことになる。新政府が東北に送り込んだのはこの程度の人物であったのか。

世良修蔵
世良修蔵

『仙台戊辰史』には、奥羽鎮撫使がほかにもひどいことをしたことが書かれている。
「薩長兵の入国以来、公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗謡を謡いつつ、街衢を横行し酒を被りて、士人を凌辱し、隊を組みて市井に乱暴するも、天朝の軍人たりというの故を以て、有司も之を咎むるを得ず。甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて、終身拭うべからざる辱めを与え、之を誇りとするさえありしをや。しかもこれ等のこと、啻に無頼走卒のみならず、大山、世良及び隊長と称する者またこれを敢えてして顧みざるに至りては、大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得るところに非ず。朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も、天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目に於いてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは、勢いの已むべからざるに属す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/177

上杉斉憲
【上杉斉憲】

こういうわけで奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者が仙台藩の若手藩士を中心に増加していったのだが、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)が奥羽鎮撫使に使者を送り和平の斡旋を申し述べた際には奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が激怒し、「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅したという。

伊達慶邦
伊達慶邦

同じ頃仙台藩主伊達慶邦(よしくに)も会津藩謝罪の周旋をしたいと告げ、会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに世良修蔵がまた激怒し、「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示している。もしここで会津追討をためらえば仙台藩も朝敵にされるおそれがあった。
そこで仙台藩主の伊達慶邦は会津藩境に大軍を送って世良の顔を立て、同時に会津藩に早期降伏を進めて和平の道を探ろうとし、家老級3名の切腹と領地削減を条件に会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出したのだが、世良修蔵はそれをも拒絶し、仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命したのである。

なぜ世良はここまで執拗に会津討伐を要求するのか不審に思い、仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると、世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた閏4月19日付けの密書が手に入った。そこには驚くべきことが書かれてあった。全文は次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/243

ポイントになる部分は「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」で、要するに世良は奥羽を全面的に武力制圧することを主張していたのである。

日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、いつか仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、仙台藩軍事局はこの世良修蔵を捕らえて糾問することとした。
閏4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛し、部屋にあった閏4月15日付の大山参謀からの密書を持ち帰った。その全文も『仙台戊辰史』に収録されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/246

その密書には「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、両三年の間差し留め候」などと書かれている。
仙台藩は、奥羽鎮撫使は仙台藩も米沢藩もいずれ追討する考えであることを悟り、口封じのため世良を斬首したのだが、このあとで奥羽人の怒りが爆発することになる。

奥羽諸藩は薩長を糾弾し、奥羽鎮撫使総督ではなく直接京都の太政官に宛てて建白書を呈出して、会津藩寛典処分を願い出ることとした

奥羽越列藩同盟

閏4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による奥羽列藩同盟*が結成され、同盟の建白書が起草された。そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことは王政復古の妨害になることなどが主張されている。
*奥羽列藩同盟:5月4日に越後長岡藩、6日には新発田藩などの北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/258

この建白書の主張は正論なのだが、正論であったがゆえに、薩長と奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなったのである。

仙台戊辰史

『仙台戊辰史』は仙台藩の立場から書かれているので誇張部分もあるだろうが、前々回の記事で紹介した奥羽鎮撫総督府の戸田主水の内部告発文書においても、大山・世良の両参謀は強く批難されている。
寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。」
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。」

「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが本来の仕事であるはずなのだが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、二人とも会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことは重要なポイントである。
一般的な教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)とあるのだが、この文章を普通に読めば、会津藩も東北諸藩もずっと新政府に抵抗し続けたと理解するしかない。
しかし、この教科書のような説明では、会津藩も新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという真実を読み取ることは不可能だ。

会津藩は「朝敵」とされていたが、東北諸藩は「朝敵」とされていたわけでもないのに、自らが「朝敵」の汚名を受けるリスクを覚悟で会津藩を助けようとしたのは何故なのか。
この理由は、奥羽鎮撫使が東北で信頼を失う行為を繰り返したことも大きな理由の一つではあるが、これだけでは東北諸藩が連盟を組むことはつながらない。ただ会津藩を援けるというだけではなく、自藩の存亡にかかわる危機感を共有していなければ連盟を組むということはありえないと思うのだ。

仙台藩や米沢藩が会津藩を援けようと動いても、奥羽鎮撫使参謀は拒絶し、仙台藩や米沢藩に会津討伐を命じるばかりだったのだが、それがあまりに執拗であった。しかも奥羽鎮撫総督府の兵は動かず、ただ命令があるだけだ。
明治政府からすれば、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時は、江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍は江戸に存在していたために新政府が東北地方に兵力を割ける状態ではなかった。そのために奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかに570名程度で、奥羽諸藩の鎮撫は、奥羽諸藩の兵力でもって行う方針で臨まざるを得なかったという事情があったようなのだが、こんな少ない兵力で奥羽を統一するという新政府の方針に無理があったと言わざるを得ず、奥羽諸藩からすれば新政府の援軍なしで会津と戦えというのはさぞ不愉快なことであったろう。

罪のない会津藩が朝敵にされるようでは、自藩もいつ朝敵にされてもおかしくない。もしかすると新政府は奥羽諸藩同志を戦わせて疲弊させてから、いずれ奥羽全体を武力討伐する魂胆があるのではないかと疑いつつ、世良の密書でそれが明らかになって一気に爆発したということということではなかったか。

会津藩も、「朝敵」と名指しされた他藩と同様に新政府に対し恭順謹慎していたのだから、新政府が会津藩が降伏することを許していれば戊辰戦争で東北地方が戦禍に巻き込まれることはなかったはずである。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは新政府の方針であったのかもしれないが、そうだとすると奥羽鎮撫使の両参謀とその部下が仙台藩で信頼を失う行為を繰り返してはいけなかったはずである。
明治政府は会津藩に対する戦略を誤ったのか、奥羽鎮撫使参謀の人選を誤ったのか、その両方なのかのいずれかなのだろうが、いずれにせよ、私怨で住民を争いに巻き込むべきではなかったと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html






関連記事
Comment
ちょっとお知らせ
明治新政府の目安箱が見つかっています。
https://www.asahi.com/articles/ASK6952X7K69PLZB010.html

内容が公表されれば、使えそうですね。
Re: ちょっとお知らせ
たつやさん、いつも貴重な情報ありがとうございます。

写真の指先に示されている部分には「大酒乱行女色に耽る癖ありの者は取り除き」とあります。そういう事をする連中が初期の明治政府に少なからずいたことが窺えますね。

どこの国でもクーデターが起これば、行政経験のほとんどない者が権力の中枢に多数居座って権力を振りかざすものですから、中にはどうしようもない連中がいてもおかしくありません。

是非目安箱の原文を読んでみたいところです。
ご無沙汰しております。
毎日寒い日が続いておりますが、
しばやんさん、お元気でいらっしゃいますか?

なかなかお邪魔出来ずにおりましたが、大河の「せごどん」も始まりましたので
しばやんさんの記事で、また勉強させていただきます。

東北に関わる記事を載せていただきありがとうございます。
福島は、祖父の故郷でもあるので色々と感慨深いです。
Re: ご無沙汰しております。
稲穂耳さん、お久しぶりです。

稲穂耳さんは弘前でしたね。東北は東京勤務の時に、会社の旅行で中尊寺や毛越寺に行ったくらいですが、青森県には行ったことがありません。いずれ会社をリタイアしたら東北のいろんな場所をレンタカーを使って巡ってみたいです。

次回も東北の事を書きますが、東北地方の人しか知らされていないような歴史が色々あるのかもしれません。私の知らない話をいろいろ教えて頂くとありがたいです。



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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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