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兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。

白河城
【白河城】

奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。

白河地図

白河は、古くは「白河の関」が置かれた奥州の玄関口で、猪苗代湖の南から会津若松を攻略するための要地であり、白河藩は慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩に移封されたのち幕領とされ、城郭は二本松藩丹羽氏の預かりとなっていて、当時は二本松藩のほか仙台、棚倉、三春などの諸藩兵が新政府から駐屯を命じられていた。
仙台藩家老の坂英力が会津藩家老梶原平馬に、宇都宮方面からの新政府軍が白河城に入城する前に白河を奪うべきだとの書状を送り、閏四月十九日には城に駐屯していた仙台藩兵を須賀川まで後退させわずかの兵しか残っていない状態にして、会津藩は閏四月二十日に急襲して白河城を占領し、また同じ日に仙台藩は奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵を斬首し、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを軟禁している。

当時新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたのだが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令でそのまま白河へと前進し、二十五日に新政府軍の先遣隊が城に奇襲をかけたのだが、無理な強行軍の疲労と弾薬不足もあり、会津軍に撃退されている。

西郷頼母
【西郷頼母】

この間、閏四月二十二日に仙台で奥羽列藩同盟が結成され、二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母(たのも)が、副総督として同若年寄横山主税(ちから)が千余人と砲二門を率いて白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着し、白河城の奥羽同盟軍は総勢二千五百~三千人、砲十門の大部隊となった

一方、新政府軍は二十八日に白河南方の白坂に結集し、その兵力は薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍(おし)藩による七百人、砲八門であったという。

五月一日の朝から戦闘が始まった。
単純に兵力を比較すると圧倒的に同盟軍が優勢であったのだが、白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』にはこう記されているという。

「五月朔日卯の上刻(午前六時)、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣(子)を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。」(星亮一『奥羽越列藩同盟』p.112)

と、新政府軍が圧勝したのだが、この戦いを会津藩側の立場から記されている『会津戊辰戦史』で読んでみよう。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本だとされている。

会津戊辰戦史

卯の上刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危うし。
「西兵返戦して三面より猛撃す。仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う。大炊逢隈川を渡りて西に進む。弾丸その頭を貫きて斃る。仙将瀬上主膳衆を励して戦う。日向茂太郎之に死す。東軍支うること能わず。米村の堤防に拠って戦いしも、忽ち砲兵十余人皆斃(たお)れ頗(すこぶ)る苦戦の状あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/183

横山主税
【横山主税】

副総裁横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中(あた)りて斃る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず。…諸将殊死して戦うと雖も遂に利あらず。仙兵は根田、小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/184

ライフリング

東北軍が大敗を喫した理由は兵器の差が大きかった。
以前このブログで書いたとおり、長州藩や薩摩藩は幕末の早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していた。ミニエー銃には銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっているので、銃弾が発射されると鋭い回転が与えられ、銃身に螺旋状の溝がなく球形の弾を用いる従来の銃(マスケット銃)よりも飛距離と命中精度に格段の差があったのである。
辰戦争で新政府軍の主力小銃はイギリス製のエンフィールド銃(ミニエー銃の一種)であったのだが、会津藩など東北諸藩はマスケット銃で新政府軍と戦ったのである

Wikipediaにミニエー銃の発明が世界の戦争を変えたことがわかりやすく記されている。

高い命中率と1,000ヤード*まで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。
エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。
しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士が即死した。」
*ヤード:1ヤード=3フィート=91.4cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

上記記事には、戊辰戦争に於ける会津藩に、新政府と比べて武器の性能が劣っているとの認識があり、新式装備の調達を目指していたが、新政府軍(特に長州藩兵)が会津殲滅を目指している事をいち早く知った外国商人達から積極的な協力が得られないまま新式銃器の入手が大幅に遅れ、何も届かないうちに開戦したことが脚注で記されている。東北諸藩で最新兵器が届いたのは、新政府軍が通過した後の事だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#cite_note-9

戊辰戦争

かくして政府軍は奥羽侵攻の要である白河城を一日で占拠したものの、それ以上の追撃戦に移ることは出来なかった。その理由について佐々木克氏の『戊辰戦争』にはこう解説されている。

「上野の山にたてこもる彰義隊はまだ掃討されず(上野戦争は五月十五日)、北関東の旧幕兵ゲリラも、まだ完全に制圧していなかったから、戦力の増強が出来なかったのである。戦線が伸びれば、会津藩を拠点に、三斗小屋から黒磯、あるいは五十里湖から日光、今市に進出しようとする大鳥圭介をはじめとする旧幕兵らに退路を遮断される危険があった。しかも北越では、五月二日、河合継之助と岩村精一郎の慈眼寺会談が決裂して、長岡戦争が始まった。政府軍全体が苦境におかされていた時期であった。」(『戊辰戦争』p.138-139)

新政府軍に銃弾などの補給がほとんど行われていなかったので、同盟軍は白河城から南下して旧幕府勢力に加勢し白河城の新政府軍を孤立させるなど、戦い方がいろいろあったと思うのだが、同盟軍の全軍をコントロールするような指揮官がおらず、新政府軍の銃器と戦う戦術も拙かった。

細谷十太夫
【細谷十太夫】

『会津戊辰戦史』に仙台藩衝撃隊長であった細谷十太夫の戦いぶりが記されているので引用させていただく。

「五月二十一日…仙台藩衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む。西兵已に七曲の山上にあり、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜き一斉に突進して西兵を衝かしむ。西兵辟易して退く。…十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、一刀を佩び皆黒装なり。十太夫常に部下に謂って曰く、敵は銃隊なれば遠きに利あり。我が隊は之に反して近きに利あり。故に一、二人斃るる者ありとも顧(かえりみ)ることなく進んで敵を衝(つ)けと。毎度此の如くなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向う所前なく、人その勇武を称して烏(カラス)組と云う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/188
夜襲が中心だったとはいえ、このように敵の射程圏内に集団で突入するような戦い方を繰り返していたら、たとえ兵の数が優位であっても勝てるとは思えないのだが、細谷十太夫本人はこのやり方で生き残り、日清戦争では陸軍少尉となり、後に竜雲院という寺の住職となって戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔ったという。

列藩同盟を結んだ諸藩の白河方面への軍隊結集が遅れていたのでこのような小競り合いがしばらく続いたようだが、ようやく諸藩の兵が集まって列藩同盟軍は五月二十六日に約二千の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけている。しかしこの日も城を攻略できず、さらに二十七日、二十八日と連続して攻撃をかけたのだが新政府軍に撃退されてしまう。

一方新政府軍は五月十五日の上野戦争の勝利ののち、ようやく板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城増援に向かい、白河城の政府軍勢力は一挙に千五百~千六百名に増強されている。
同盟軍はその後も何度か白河城を攻撃するのだが、戦果はなかった。これまで多くの犠牲者を出してきても、同盟軍の戦い方は相変わらずだったようだ。

例えば佐々木克氏は前掲書でこう述べている。
「六月十二日、同盟軍は四たび白河城政府軍を攻撃した。だが今回も戦果はなかった。とくに仙台藩兵の拙戦がめだった。100メートルほどしか飛ばない和銃や丸玉のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては政府軍のエムピール銃やミニエー銃の300メートルはある射程の中に入って打撃を受けた。この日の戦闘で仙兵死60、不肖25、二本松死8、負傷18、棚倉死15、負傷14、相馬死1と多くの死傷者を出して、貴重な戦力を消耗した。(会津藩の死傷者は不明)」(同上書 p.140)

新政府軍進路

同盟軍がこのような戦い方を繰り返す一方、六月十六日には平潟に新政府軍千五百名が上陸し、その後も続々と派兵されて七月中旬には新政府軍は三千の兵を擁するようになり、戦線が磐城から北方向へと拡大していく。
戦況が新政府に傾いていき、同盟軍は自藩の自衛の為にいつまでも白河に兵を出せなくなって、秋田藩や新庄藩などが列藩同盟から離反していくこととなる。そして七月十四日を最後に列藩同盟軍は白河周辺から撤退し、百日以上続いた白河口の戦いは終結した

この戦いで同盟軍は幹部多数を失い大量の死者を出したというが、新政府軍の死傷者は少なかったという。
列藩同盟軍はこの戦いの敗北をきっかけに雲散霧消し、勝機を逸してしまうことになるのである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
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関連記事
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Re: 白河口の戦い(落城秘話)
******masa****さん、大平八郎の情報ありがとうございます。

googleで検索すると、面白い記事が見つかりました。
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu07.html

このサイトの、「幕末とうほく余話」は、東北の人以外はあまり知られていないような情報がありそうですね。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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