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激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。

新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五月二十七日にようやく土佐藩からの増援が到着し、その後六月七日に薩摩藩、二十二日に長州藩、二十三日に東征大総督参謀の鷲尾隆聚と阿波藩が到着して、積極的な軍事行動に移る態勢が整うに至る。

秋田映季
【秋田映季】

板垣退助率いる新政府軍が北上して、六月二十四日に白河城の東にある棚倉城が落城すると、二十六日には三春藩は藩主の秋田映季(あきすえ)自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順したという。ところが三春藩はその重要な事実を列藩同盟の諸藩に伝えず、むしろ援軍を求めるなどしてできるだけ諸藩に感づかれないように行動したのである。
翌日には守山藩も新政府側に帰順し、新政府軍は戦線を一気に北に押し上げて、岩代国安達郡の地に十万七百石を領する二本松藩のすぐ近くに迫ってきた。

新政府軍進路


ところが、二本松藩の主力兵は予想以上に長い間白河周辺に釘付けとなっており、藩の部隊が白河から戻るよう指令したとしても帰路を新政府軍に遮断されてしまっており、二本松藩は戦力が極めて乏しい状態で藩を守らなければならない状態に陥ったのである。

二本松城
【二本松城】

そこで二本松藩は七月二十七日に、少年兵にも動員をかけたという。
この藩では危急の際には年齢を2歳加算する『入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)』という制度があり、この時に動員をかけられた最少年齢の隊士の実年齢は12歳であったという。Wikipediaによると、少年兵には全員にミニエー銃を持たせたというから、銃の性能は新政府軍のものと変わらなかった。少年隊の奮闘については後述することとして、まず『二本松の戦い』がどのような戦いであったかを振り返っておこう。

『二本松藩史』によると、三春藩の防衛のために三春藩領に応援に出ていた二本松藩兵が、三春藩の裏切りにより新政府軍に包囲されて討ち取られたことが記されている。文中の「西軍」は「新政府軍」を意味している。

七月二十六日払暁西軍四方より来り三春藩領内小野新町を攻撃す。時に我が藩兵三春藩応援として銃士隊長大谷與兵衛等率いるところの約二個小隊同地にあり。衆寡敵し難く、苦戦して三春の援軍を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を嚮導して我が隊を包囲す。我が兵錯愕、軍遂に潰ゆ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/131
三春藩の新政府軍に寝返ったことは、この時二本松藩の誰もが知らなかった。

次の場面は、二本松藩領の本宮にいた二本松藩兵が、新政府軍と戦っている糠沢の兵を援護すべく阿武隈川を渡ろうとしたときのことである。『二本松藩史』にはこう記されている。

「未だ糠沢の敗報を耳にせず、進んで之を応援せんと欲し、大谷、青山の二隊まず川を渡りて前進す。高木に達すれば一部隊の西進し来るを見る。おもえらく我が兵の背進せるなりと、近づけば即ち敵兵なり。三春兵西軍を導き、該村高木寺の要處に拠って我を射撃す。我が兵応戦奮闘すと雖も、敵は既に地の利を占め、我は隊伍未だ整わず。遂に苦戦に陥り、全体潰え走る。敵兵進撃本宮に迫る。本宮守備薄し。隊長成田助九郎、丹羽主膳、上田清左衛門等諸隊を率い川を隔てて防ぐ。高木の敗兵また来たり合し、力闘奮戦頗る敵軍を苦しむ。藩兵未だ来り援けず。列藩の援軍また到らず。午の中刻(午後一時)本宮遂に敵軍に占領せらる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/134

二本松城
【二本松城】

本宮を抑えた新政府軍は、続いて二本松城を攻め落とす方針を取った。
二本松藩では新政府軍の接近に伴って、戦うか降伏するかについての軍議が二十七日に開かれ、意見が真っ二つに割れたのだが、『二本松藩史』によると家老丹羽富穀(にわとみたけ)はこう述べたという。

「(昨日)三春藩信に背きて西軍を城中に引く。その所為神人ともに怒るところ。我にして今、その顰(ひそみ)に倣わ*ば、人これを何とか言わん。たとい西軍に降り、一時社稷を存せんも、東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか良く孤域を保たん。それ降るも亡び、降らざるもまた亡ぶ。亡は一のみ。むしろ死を出して信を守るに若かずと議輙(すなわ)ち決す。」
*顰に倣う:善し悪しも考えずに、人のまねをする
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/142

ここで二本松藩が三春藩と同様に同盟諸藩を裏切って生き延びようとしても、今後末永く東北諸藩を敵に回すことになる。二本松藩のような小さな藩が周囲の諸藩から怨まれてどうやって存立することが出来るのか。ここで死を賭して信義を守ることこそが、生きる道だと説き、二本松藩は新政府軍と戦うことを決意し、藩中の老幼子女たちを避難させたという。

残念ながら東北諸藩の多くは、同盟諸藩を裏切ってでも生き延びようとしたのだが、二本松藩は、兵力が不足していて勝つことが難しいことを知りながら、決死の覚悟で戦線に就いたのである。

板垣退助
板垣退助

二本松藩がいかによく戦ったかを、新政府軍を率いた板垣退助(土佐藩出身)の伝記『板垣退助君伝 第1巻』を読んでみよう。
ここで、「賊軍」と書いているのが「二本松藩兵」を意味し、「君」とあるのは「板垣退助」、「薩」「長」「土」は「薩摩」「長州」「土佐」、を意味している。

「二十九日、薩兵を先方となし、君土軍を帥いてこれに続き、彦根・大垣・忍・館林の諸兵を先鋒となし、天明進んで二本松に向かう。賊街口大壇を扼し、山に沿いて柵を結び、叢林に伏して乱射す。弾丸雨の如し。薩兵多く斃る。土軍次で進む。官賊咫尺(しせき)*の間に相撃ち、戦最も激す。」
*咫尺:距離が極めて近いこと
「既にして兵を三面に分かち、一は左方より山を踰えて城背に出で、一は正面より進み、一は右方の山に入て林中の賊を追う。諸兵斉しく進む。賊潰えて城に入る。時に長兵海軍と共に、小浜より来て城の東北に薄(せま)る。賊徒狼狽、みな必死を分とし、窃(ぬすみ)に民家に伏し、躍り出でて官兵の不意を打つ。飛蛾の火に投するが如く、多く之に死す。…
蓋し一藩挙げて身命を擲ち、鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)*斃れて而してのち已し者、二本松を以て最と為す
。その域に、家に、屠腹する者、域を出で、家を出でて討死する者、此々相接す。刀折れ矢尽き、城を枕にして倒るとは之を謂うなり。」
*鞠躬尽瘁:心身ともに捧げて全力を尽すこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/173

野津道貫
野津道貫

また、この戦いに隊長として参戦した薩摩藩の野津道貫(後の元帥陸軍大将)は、二本松藩の戦いをこのように語っている。
「薩藩兵、一個大隊、速見十郎太に引率され、奥羽街道を前進し来ると、二本松の東方約十丁許の丘陵上に、兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて、我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我軍は全く前進を沮碍された。我軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退するすることを得たが、おそらく戊辰戦争中第一の激戦であったろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/181
野津は軍を迂回させて大壇口進軍の際に、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番隊大砲方の山岡栄治、青山助之丞2名の襲撃を受け、部下9名を斃され、本人も手傷を受けたと書いている。明治三十一年、同地を訪れた野津はこの二名を称賛し、明治三十三年には二勇士戦死之碑を建立したという。

このように敵将である板垣退助も、野津道貫も二本松藩の勇敢な戦いぶりを高く評価したことに注目しておきたい。

では列藩同盟のリーダーであった会津藩や仙台藩は、どう動いたのであろうか。
実は両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまい、城内にいた仙台藩兵も会津藩兵も途中で城を脱出し、最後は二本松藩兵のみが残って戦ったのが真実である。特に仙台藩は、弾薬欠乏を理由に数千もいた兵を二本松藩から引いたのだが、要するに自藩の防衛を優先しただけのことであろう。

Wikipediaは、この戦いの最後をこう解説している。
「29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場をさ迷ううちに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく

この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

二本松少年隊
【箕輪門の近くの『二本松少年隊群像』】

この戦いで少年兵の一員として14歳で参加した水野好之氏が大正六年に記した『二本松戊辰少年隊記』の全文が、次のURLで紹介されている。新政府軍が接近してくるところに少年隊が大砲を発射する場面からの引用である。文中の『隊長』は木村銃太郎という当時二十二歳の青年で、藩命で江戸の江川太郎左衛門に弟子入りして西洋式砲術を究めて帰藩し、戊辰戦争では門下生を率いて二本松城の南にある大壇口へ出陣していた。
http://nihonsi.web.fc2.com/warfare/nihonmatu/nihonmatu.htm

木村銃太郎
【木村銃太郎】

「大砲の位置を換へ集團見掛けて發射せしに、見事に其頭上に而も三發迄も爆發す。
敵は俄(にわか)に散乱して左右の山林に駆け入り、巧みに所在を暗ますかと見る間に、大砲小銃を雨霰と打出しぬ。大砲の髙きものは附近の松林に命中し、凄(すさま)じき勢いもて松の木を中断し、低きものは眼前の畑地道路に落ちて土砂を巻き揚ぐ。小銃の遠きものは『クーン』、夫より近きものは『シウー』、最も近きものは音無くして耳邊を掠め去る。敵の動作は敏活なり、巧みに正法寺町の民家に隠れて射擊最も勉む。
之を見下せる吾等は、『悪(にく)むべき仕業かな、目に物見せて呉れんす』と大砲にて其民家を射擊すれば見ん事命中し、其五軒を打貫く(今尚壁に貫通の跡あり)。敵の狼狽して四散する様(さま)手に取る如し、一同之に力を得ドット鯨波の聲を揚げつつ益(ますます)奮闘す。
今迄暁霧に眠れる霞城の天地は忽ち叫喚(きょうかん)大叫喚修羅の街とぞ化しにける。血を迸らして倒るるあり負傷して呻くあり、鬨の聲と銃砲の聲と相和して山野に轟(とどろ)く。互の眼は血走り、口は噤(つぐ)みて物云う事も意の如くならず、火藥に汚れし両の手は墨もて染めたらんが如く、其の手もて顔に流るる汗を拂うにより少年隊の面々の顔は目ばかり光る海坊主に異らず。古書に見えたる『流血杵(しょ)を漂わす』*も目のあたり。
余等の命と頼みたる彈丸除けの疊も今は敵彈の爲に四分五裂して用をなさず、已を得ず、畑中に全身を露わして應戰(おうせん)最も勉めたり。然れども砲彈の雨注には堪え難く、傍(かたわら)の竹藪に驅け入る。竹藪に一彈入るや、竹幹に當りて所謂外れ丸となり、カラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て、危険更に増さりぬ。
余鐵砲を取直して打たんとすればこは如何に、曩に竹藪に駈け入りし時敵彈に引金を打貫かれて用をなさず、如何せんとためらうに、不圖(ふと)見附けたるは、砲車の側に横たわれる一大木材なり、一抱(かかえ)もありて長さは四、五間に余れり。是れ屈竟の物なりと、直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いさ戰況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云う聲あり、周章驅け行きて見るに彈丸は左の二の腕を貫通して働をなさず、豫(かね)て用意の白木綿にて傷口を巻きまいらす、今は是までなりと、退却の用意に大砲の火門に釘を打込み、隊長自ら小高き所に上りて合圖の太鼓を打ち鳴らせり。
之を聞き傳へし少年隊は我後れじと集合すれば、敵は愈々肉薄し來りて危險云ふべからす。少年隊の集れるもの何人にして、死傷せるもの何人なるかは、咄嵯(とっさ)の場合とて知るに由なし。味方の陣地如何にと一瞥すれは、何時の間に退却せしにや、吾等少年隊數人の外には人影を認め得す。隊長悠々迫らす、余等に何事をか訓示せんとせしに、狙擊に遭ひて、腰部を貫かれ、尻へにとうと倒れたり。」
*流血杵を漂わす:血で血を洗う争いによって多くの血が流されること

二本松藩は戦う前に降伏する選択肢もあったのだがそれを拒絶し、少年兵から老人部隊まで動員して全藩をあげて新政府側の大軍と戦い抜いたのである。仙台藩も会津藩もほとんど二本松藩を支援できなかったことから奥羽越列藩同盟が頼りにならないものであることが明白となり、この戦いののちに、新政府軍に降伏する藩が相次ぐことになる。

相馬藩は八月六日に新政府軍に降伏したのだが、藩の人々はその後地獄のような生活を余儀なくされるようになり、安易に降伏したことを後悔したのではないだろうか。
藩主の相馬誠胤(ともたね)はただの人に転落し、領地の南半分は新政府軍の直轄地となり、新政府軍が仙台を攻撃する間の糧食その他一切を引き受けさせられている。ちなみに相馬藩の表高は六万石であったが、官軍の仙台出兵に関わる五十四日間の食糧だけで一万三千石を消費し、藩兵の仙台出兵応援では延べ三十万三千人を動員し、さらに二千石の米を消費し、藩の米の備蓄は底をついたという。

吉田屋覚日記

そればかりではない。相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代の日記『吉田屋覚日記』にはこんな記録が残されている。
「八月十四日
 官軍方の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」
このように、官軍の分捕りは正当とされていて、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のように分捕っては換金して収入を得る連中が少なくなかったようなのだ。吉田屋の商売になくてはならない船も二隻が分捕られ、これを取り戻すのに六百両かかるとの日記の記録もある。

星亮一氏は、さらにこう解説しておられる。
酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りが出来なくなった。
 治安の悪化にもおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手だった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた。

相馬藩はじっと耐えた。
官軍の心証を悪くしては、領地もすべて取り上げられるかもしれない。
絶対服従の態度を見せ、この領地を相馬藩に安堵してもらうことが大事だった。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.145)

戊辰戦争ののち奥羽各藩は国替えの処分が行われ、相馬藩はその処分が免れてはいるが、それは商人たちがこぞって新政府に献金したことによるという。その金額は二万両を超え、その結果相馬商人は一文無しになり、町は寂れて相馬地方の中心が隣の原町に奪われたという。
相馬藩の武士たちが、もし二本松藩のように新政府軍と戦っていたとしたら、領民をここまで苦しめることはなかったであろう。

榊山潤
【榊山 潤】

話は三春藩の裏切りに戻るが、戦後「三春キツネに騙された」という俗謡が流行ったという。三春地方は戊辰戦争後長いあいだ嫌われて、榊山潤氏著『田舎武士の目』には、
「いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った」と書かれている。
この怨みは今も完全には消えていないようで、平成の大合併の頃に、二本松市と三春町の合併話が成立しなかったのも歴史的な経緯と無関係ではないのだろう。

もっとも列藩同盟の盟主であり、兵力もありながら小藩を十分に支援してこなかった仙台藩が、自藩を責められることがないように三春藩を悪者に仕立てたという解釈も成り立つのだが、三春藩が常に悪者にされてしまうのは、列藩同盟に参加していながら自藩領を護ってくれていた同盟軍を欺いて新政府方につき、二本松藩ほか列藩同盟の多くの兵士を死に至らしめた事実が重たいようだ。

少年隊の丘
【少年隊の丘】

二本松藩は「二本松の戦い」で218名の死者を出したのだが、武士や少年隊たちの犠牲によって領土と領民の生活はほぼ守られたのである。また藩主は養嗣子の丹羽長裕が後を継ぐことを許されている点も、戦わずして新政府に屈した相馬藩とは大いに異なる。
二本松藩の武士や少年兵は武士道精神を発揮して名誉ある最期を遂げ、そして地域の人々から、彼らは今もなお敬愛され顕彰されているのである

二本松少年隊顕彰碑
【二本松少年隊顕彰碑】

二本松城は明治5年(1872)に破却されたが、昭和57年に箕輪門と附櫓が復元され、箕輪門の近くには『二本松少年隊群像』が建てられ、霞ヶ城公園の頂上付近の平坦地は砲術道場で学ぶ少年たちが稽古をした場所だと伝えられていて、昭和15年、このゆかりの地に立派な『二本松少年隊顕彰碑』が地元の人々によって建立され、碑には出陣した少年隊士62名全員の名が刻まれている。そして明治百年にあたる昭和43年(1968)になるとさらに副碑が建立され、この場所を『少年隊の丘』と名付けられたという。

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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
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Comment
こんにちは
初めてコメントさせてもらいます。今年は戊辰戦争150年ですね。
貴ブログを見て長州史観にとらわれていない記述がとてもいいと思いました。
福島県内では明治150年より戊辰戦争150年の記念行事の方が多いような気がします。
守山藩は水戸の支藩なので戦わずして降参したようです。
当時の2,3の日記を見ますと板垣退助なんかを豪勢にもてなしているようです。
守山藩の出費はすごかったと思います。
守山史談会も今年は戊辰戦争150年の企画をする予定です。
Re: こんにちは
イングリッシュガーデンさん、コメントありがとうございます。

いつの時代もどこの国でも、正史というものは時の為政者が編集し、為政者にとって都合よく描かれることがほとんどです。したがってその内容は必ずしも真実ではなく多くの史実が封印されているのですが、封印された史実の多くは敗者側の記録に残されることが多いようです。もちろん、敗者側の記録は敗者にとって都合の良いように描かれる傾向にありますが、真実を追究するためには為政者側と敗者側の両方の記録を読まなければいけないのだと思います。

守山藩が板垣退助を豪勢にもてなした話は知りませんでした。情報ありがとうございました。東北の各地方で戊辰戦争150年の企画があるとのこと、大いに盛り上がってほしいものですね。
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
Re: こんばんわ~
maririn5225さん、こんばんは。

gooブログのhttps化で「おきてがみ」が使えなくなったようですね。
「おきてがみ」に限らず、私の使っているいくつかのブログパーツもhttps非対応のようなので、fc2ブログがhttps化されているにもかかわらず、まだ変更しないでいます。

いずれはあきらめて変更することになると思いますが、httpsが良いことばかりではなさそうですね。
相馬藩は六万石の小藩ですからねぇ…やれるだけのことはやったと思いますよ。主戦力たる幕府軍があの状態ですから奥羽諸藩はいかんともしがたかったでしょうね。
Re: タイトルなし
あさん、コメントありがとうございます。

武士は有事に領民の命と生活を守るという無言の約束のために平時に特権階級でありえた存在です。
相馬藩の武士が戦わなかったことで多くの領民が犠牲になったことをどう考えるかは難しい問題ですね。負けると分かっていても精一杯戦うことで領民が救われることがありえますし、新政府軍に降伏してからも、理不尽な要求を断固はねつけていれば、あれほどカモにされることはなかったかもしれません。

ところで相馬藩は早期に列藩同盟を脱退しましたが、東北諸藩からは三春藩ほどは悪く言われてはいませんね。
『会津戊辰戦史』では「相馬の降伏は、攻守同盟の精神に背いて、各藩兵が兵を引き、相馬を孤立させたことによる。三春の例とは異なる」と書かれています。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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