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鳴門市とドイツとの100年を超える友好関係のきっかけを作った会津人

重たいテーマを書き続けているうちに、少し気分転換をしたくなって徳島県を旅行してきた。旅程を決めたときには認識していなかったのだが、最初に訪問した鳴門市が、前回までのテーマである東北の戊辰戦争とつながることを旅行の途中で気が付いた。今回はそのことを書こうと思う。

霊山寺 山門

最初の訪問地は四国八十八ヶ所霊場の第一番札所霊山寺(りょうぜんじ:鳴門市大麻町板東塚鼻126 ☏088-689-1111)である。

霊山寺 多宝塔

室町時代は三好氏の庇護を受けて七堂伽藍の並ぶ大寺院であったようなのだが、天正年間に長曾我部元親の兵火に焼かれ、その後徳島藩主蜂須賀光隆によって再興されたものの明治24年の出火で多くの堂宇を失ってしまった。上の画像はこの火災で焼け残った多宝塔で、応永年間(1394-1428)に建てられたものだという。

四国霊場の第一番札所にしては小規模な寺との印象を受ける人が多いと思うのだが、昔は今よりはるかに大きな寺院であった。あまり記録が残されていないようなので詳しいことは良くわからないが、霊山寺には他の寺院のような古仏が伝わっていないという。明治の大火ですべてが焼けたのかもしれないが、そうでないとすれば、明治の初期にこの寺で、徹底した廃仏毀釈が行われた可能性が高い。

霊山寺図

上の画像は元禄時代の僧・寂本が執筆した『四国徧礼霊場記』にある『霊山寺図』だが、左に描かれているのが霊山寺の奥の院である。
その書物には、奥の院についてこう記されている。
大麻彦権現今此寺乃奥院と称す。此神或ハ当国乃一の宮とせり。霊社なる事かくれなし。
寺をさる事八町許北にあり、伴社、中宮 明神、西宮あり。社乃後求聞堂あり。うしろ乃山大麻山と号す。」

明治維新の神仏分離令により『権現』を祀る神社は本地仏を廃して祭神のみを祀ることとなり、霊山寺の奥の院だった『大麻彦(おおあさひこ)権現』は『大麻比古神社』と名を改めたということのようだ。
大麻比古神社(鳴門市大麻町板東広塚13 ☏088-689-1212)は、霊山寺から1.4kmも北に位置している。そしてこの神社の背後にある大麻山もその敷地内なので、明治の神仏分離以前の霊山寺は四国霊場の第一番札所に相応しく広大な境内を持つ神仏習合の大寺院であったのである。

大麻比古神社 御神木の楠

阿波国一之宮の大麻比古神社を訪れて最初に驚くのは、樹齢千年以上とされる御神木の楠。幹回りが8.3m、高さが22mもあり、鳴門市の天然記念物に指定されている。

大麻比古神社 拝殿

神社の案内板には、明治期の神仏分離のことが一切書かれていないのでよくわからないのだが、この神社は明治6年に国幣中社に列格し、明治13年に本殿以下が国費で建てられたようだ。上の画像は拝殿で、この建物は昭和45年に再建されたものだという。

大麻比古神社 めがね橋

この神社の境内の奥に、ドイツ人が建築した橋が残されている。上の画像がめがね橋、下の画像がドイツ橋で、後者は平成16年に徳島県の県史跡に指定されている。それにしても、なぜこの場所に、ドイツ人が建てた橋があるのかと誰でも思う。ドイツ橋の案内板にはこう記されていた。

大麻比古神社 ドイツ橋

第1次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となったドイツ兵953人が、大正6年から9年までの間、大麻町桧の板東捕虜収容所に収容されていました。この間地元住民との間に”国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い水準のドイツ文化が伝えられました。バターやチーズの製法、博覧会の開催、楽団による演奏会等地元の発展に大きく貢献しました。
 帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られました。」

中国地図

本題に入る前に、簡単に、ドイツ人捕虜が板東俘虜収容所に送られてきた経緯をまとめておこう。
日清戦争で勝利したわが国は明治28年(1895)の下関条約によって清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を受けたのだが、露独仏の三国干渉により遼東半島を清に返還することとなった。その後ドイツは清に圧力をかけて山東半島の膠州湾を借り受け、イギリスは山東半島の威海衛を手に入れたのだが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパで参戦したイギリスは、ドイツの東洋艦隊の攻撃から自国商船を守るため、日英同盟に基づいてわが国に協力を求めてきた。
我が国は同年にドイツに宣戦を布告し、ドイツ軍の拠点である青島(チンタオ)を包囲して3か月の戦闘で勝利
し、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名を受け入れることになる。
当初各地の公民館や寺などをドイツ人捕虜の仮の収容所としたのだが、捕虜として正当な扱いを求めてドイツ兵からの不満は増すばかりであった。またヨーロッパでの戦争が長期化したために長期収用を前提とした収容所が建設され統合が図られることとなり、四国にあった3つの収容所が1917年4月にまとめられて、1920年1月までの2年10ヶ月間、約千人のドイツ兵捕虜が板東の俘虜収容所で過ごすこととなったのである。

ドイツ村公園入口

霊山寺から西に800mほどの場所にドイツ村公園があるが、この公園にかつて板東俘虜収容所が存在した。上の画像はドイツ村公園の入り口で、左側の柱には「ベートーベン『第九』日本初演の地」と書かれている。このことは後で記すこととしよう。

板東俘虜収容所 全景

国会図書館デジタルコレクションに、大正7年に出版された『大正三四年戦役俘虜写真帖』が収められていて、そこに板東俘虜収容所の当時の写真を見ることが出来る。
上の画像は当時の収容所の全景写真だが、この写真をみると現在のドイツ公園の西側にも4つの兵舎が建てられていたことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966639/141

ドイツ公園 慰霊碑

公園には当時の建物は残されておらず、レンガの基礎遺構が残されているだけだが、公園をさらに北に進むと、ドイツ兵捕虜合同慰霊碑が建っている。この慰霊碑は板東だけでなく全国の収容所で亡くなったドイツ兵捕虜の慰霊碑であるが、その左にはこの収容所で亡くなったドイツ兵の慰霊碑があり、いずれの碑も地元の人たちによって清掃されていて、特にドイツ兵の慰霊碑には今も花が供えられているのには正直驚いた。

ドイツ公園 ドイツ兵の慰霊碑

この碑に面して大きな池があるのだが、その池の周囲を歩いていると、「鳴門市・会津若松市親善交流都市締結10周年記念」と書かれた立て札があり、その時に植えられたのであろうアカマツが生えていた。

ドイツ公園 会津若松との親善交流都市締結10周年植樹

なぜ鳴門市と会津若松市が親善交流都市となったのかというと、板東俘虜収容所の所長に就任した松江豊寿が戊辰戦争に敗れた会津藩士の子であり、捕虜の理不尽さと悲しさを真に理解し、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じて、人道に基づいた素晴らしい収容所運営を行ったからなのである。

ドイツ館
【現在の鳴門市ドイツ館】

ドイツ村公園から県道41号線に出て500m程北に進むと、美しい白亜の洋館が建っている。上の画像は鳴門市ドイツ館で、駐車場は『道の駅 第九の里』(鳴門市大麻町桧字東山田53、☏088-689-1119)と共通になっている。
このドイツ館の展示物を見れば、ドイツ兵捕虜たちが松江所長の収容所運営にいかに感謝したかがよくわかる。

『ドイツニュースダイジェスト』の1000号記念特集に『板東俘虜収容所の奇跡』というレポートを載せている。それによると、他の収容所から送られてきたドイツ兵たちに対して、松江所長はこう語りかけたという。

松江豊寿
【松江豊寿】

諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」
http://www.newsdigest.de/newsde/features/6907-kriegsgefangenenlager-bando.html

炊事場、パン焼き場、菓子製造場、ソーセージ製造場

ドイツの技術を吸収して国内に導入しようとする政府の方針もあったらしく、収容所内にもパン工場が建てられ、共同農場では地元農家に対しトマトや赤ビート、キャベツなどの栽培指導が行われ、牧場ではドイツ兵捕虜の指導により、牛乳の生産量がそれまでの5倍増しになるという成果が出たという。

花園栽培

上記レポートには、この収容所の運営についてこう記されている。

「…しかも、指導に赴くドイツ兵捕虜には見張りが付いていなかった。捕虜の待遇としては異例のことだが、ここ板東では一定の秩序の下、捕虜に生産労働や文化活動が許可されていた。日本語教室や芸術活動、各種スポーツを楽しむ捕虜の活動は町の人々の興味・関心を引き、見学者の訪問も絶えなかったそうだ。収容所が日独交流会館のような様相を呈していくにつれ、町の人々はドイツ兵捕虜を『ドイツさん』と、親しみを込めて呼ぶようになった

ドイツ兵捕虜たちもまた、松江所長への信頼と板東の人々に対する親愛の情を深め、1918年6月1日には、収容所で結成されたヘルマン・ハイゼン楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が合唱付きで全曲演奏された。女性がいないため、ソプラノパートを男性用に編曲し、収容所にない楽器はオルガンでカバーするなど、苦労と工夫の末の演奏だった。今では年末の恒例となっている『第九』の演奏だが、日本で最初に全曲演奏されたのは、ここ板東俘虜収容所の小さな一室での不完全な、しかし心からの『歓喜の歌』だったのだ。」

酒保

このような活動を通じてドイツ兵たちは人口約500人の板東の人々に溶け込んでいったのだが、一方で彼らの母国の戦況は次第に悪化の一途をたどり、1919年6月28日にヴェルサイユ条約が調印されてドイツは第一次大戦の敗戦国となるに至る。

下士卒全部の集合

その時の松江所長の言葉を紹介したい。子供の頃に戊辰戦争の敗戦の苦しみを味わった人物ならではの心のこもった素晴らしい演説だ。

「諸君。私はまず、今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。…いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(捕虜)ではなくなった。……さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。……どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。……本日ただ今より、諸君の外出は全く自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!

地元民との交流

ドイツ兵たちに拍手と歓声が沸き起こり、同時に町の人とのつながりがさらに深まったという。
帰国するまでの間ドイツ兵たちは感謝を込めて、地元の人々に恩返しをしようとしたのである。大麻比古神社のドイツ橋やめがね橋はそのような経緯で作られたもので、決して日本兵が捕虜を働かせて造られたものではないのだ。

そしていよいよドイツ兵たちが帰国することが決まり、収容所の最後の日となった12月25日には、行進しながら収容所を出ていく彼らの姿を町の人たちが総出で見送り、中には目に涙を浮かべる者もあったという。

初代鳴門市ドイツ館
【初代鳴門市ドイツ館】

この収容所での生活はその後もドイツ人の心に残り、1972年にドイツ館がオープンすると知った元捕虜たちから、当時の写真や手紙が鳴門市に多数寄せられたという。

今の鳴門市ドイツ館は平成5年に新しく建てられたものだが、そこにはドイツ兵捕虜たちが制作した陶芸品や新聞や、風景画や楽譜や写真アルバムなど様々な遺品が展示されている。

鳴門市ドイツ館「板東俘虜収容所」資料Webにドイツ兵たちの遺品の画像が多数紹介されているので、興味のある方は次のURLで覗いていただきたい。ドイツ兵と地元との方との交流写真を何枚も見つけることが出来るし、絵や工芸品にも素晴らしいものがいくつもある。
http://bando-doitsu.com/ja/

前掲の『ドイツニュースダイジェスト』に、板東での収容所生活を体験したポールクーリー氏の手紙が出ているので紹介したい。

「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」

またエドアルド・ライポルト氏の手紙にはこう書かれている。
「バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます

政治家や外交官によって築くことのできる外国との関係は、所詮は打算に満ちた薄っぺらなものだと思うのだが、100年前の板東俘虜収容所で育まれた日本とドイツとの友好関係は紛れもなく本物であり、鳴門の地でこういう歴史があったということを、会津人の松江豊寿所長の名とともに、多くの日本人に知ってもらいたいと思う。

第9の里に移築されたバラッケ

ドイツ館で買い物を済ませた後、『道の駅 第九の里』に向かう。この施設の物産館は板東俘虜収容所にあった建物を鳴門市が買い取り2006年にこの場所に移築したもので、現在国登録有形文化財になっている。

道の駅のランチメニュー

中に軽食コーナーがあり、ドイツにちなんだメニューがいくつかある。読者の皆さんがここを訪れる機会があれば、是非ドイツハンバーガーやソーセージの味を楽しんで頂きたいと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。四国の有名な寺社は霊山寺に限らず廃仏毀釈でかなり破壊され、讃岐のこんぴらさんについては多くの記録が残されています。く興味のある方は覗いてみてください。

祖谷のかずら橋
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-67.html

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html

箸蔵寺から高知県唯一の国宝建造物・豊楽寺薬師堂などを訪ねて~~高知方面旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-169.html

板東俘虜収容所で第9が演奏された話は映画化され、2006年に公開されました。
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関連記事
Comment
ドイツ人と会津
こんにちは。いつもお世話になっております。

おお、しばやん様、とうとうこちらへお出掛けになったのですね!嬉しいです!

私も松江の人となりに感銘を受けました。と同時に、薩長への様々な思いが込み上げて、記事にするときに私心を抑えるのがたいへんでした。

松江の言葉。

「降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない。

『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』
とは、あのみぎり大人たちがよく口にしていた言葉であった。

これも、今もなお私の耳底に残って忘れることのできぬものである。

さて、明日は第1次俘虜が当所にやって来る。そこで諸官へ、所長としての私の俘虜に対する方針を述べておきたい。

『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。
わかってくれるかね。」

この一文を読んだときの衝撃、しばやん様ならお分かりいただけますよね。貴記事中の引用部の続きかと存じます。

私はここを初めて訪問して以降、徳島旅の折りには必ず慰霊碑を再訪するようになりました。
Re: ドイツ人と会津
つねまるさん、コメントありがとうございます。

12年前に映画『バルトの楽園』が公開された時に観に行きましたが、この映画を見るまでは板東俘虜収容所のことは知りませんでした。一度行ってみたいとは思いながらなかなか近くに行く機会がなかったのですが、久しぶりに徳島方面に行く旅程を立てて、板東俘虜収容所の跡地を組み入れました。

つねまるさんは私よりもずっとよく調べておられますね。紹介いただいた松江所長の言葉は、私の調べたサイトには全文はなくて、「『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい」という言葉だけが引用されていました。全文の紹介をいただき、感謝です。この記事を書く前につねまるさんの記事を読んでおけばよかったです。
http://rekitabi4.blog.fc2.com/blog-entry-315.html

この旅行をしてから、もう一度『バルトの楽園』が観たくなってネットで取り寄せて昨日観賞しましたが、初めて観た時以上に感激して何度も泣いてしまいました。こういう良い話は、多くの人に知ってもらいたいですね。


バルトの楽園はとても好きな映画です。
すでにご存知かも知れませんが、徳島の板東俘虜収容所が新設される以前、ドイツ兵はいくつかの県にわけて収容されており、そのひとつに香川県丸亀市の本願寺塩屋別院があります。
当時の建造物が今も残っており、何度か訪れましたが広々とした開放感のある寺院なのでおすすめです。
詳細は浄土真宗塩屋別院のサイトに載っておりますが、一部抜粋しますと

” ハーグ条約に則る扱い「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」が徹底され、毎日午前と午後に1時間の散歩が許され、週に2度は海辺にある中津公園へ3時間の遠出が許可された。また、周囲の村にも自由に立ち寄るこどができ、酒保(売店)が開かれ菓子、果物、たばこ、麦酒が買えるようになっていた。
収容所には2つの男性合唱団があり、到着後とりわけ力を注いだのはクリスマス祭用の歌の練習だった。ささやかにクリスマス祝うことが許されたらしい。「異教の寺院でのこのクリスマス祭は我々の人生において恐らく2度と忘れることのない印象を我々の心に残した」
この頃、パウロ・エンゲルを中心に俘虜たちの寺院楽団が結成され、翌1月10日初めての演奏会が開かれた。楽団はその後丸亀保養楽団となり閉所までの2年半に26回の演奏会を開いた。
丸亀保養楽団は当初バイオリン4人、フルート2人、オルガン奏者で構成されたがピアノ、ビオラ、チェロ、シンバルと次々に楽器を増やした。楽団の練習は週に2回別院の共同浴場で行われた。”(抜粋終)

現在残されている当時の写真や資料からもWW1当時は徹底した捕虜への人道的配慮がなされていた様子がわかります。
もしかすると丸亀でもベートーヴェンなどが演奏されていたのかも知れませんね。

現在、日独の歴史的な関係性が語られるときはプロイセンやナチスドイツなど過去の国と国、政治的関連付けをもって語られることが多いような気がしますが、
こういった決して教科書には載らないような草の根の交流にこそ真の人間同士の絆が見いだせるのではないかとも思います。
Re: タイトルなし
さくやさん、コメントありがとうございます。

本願寺塩屋別院のことは全く知りませんでした。丸亀でも演奏会が開かれたのですね。情報に感謝します。

丸亀は仕事で一度行ったきりですが、仕事の後うどんを食べて帰っただけでした。
四国は知らないところだらけなので、いずれ会社をリタイアしたら、いろいろ行ってみたいです。さくやさんの最後のコメントの通りで、一般の人々同志の暖かい交流なくして、国同士の友好関係は根付かないのだと思います。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史