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会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。

新島八重
【新島八重】

前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。
Wikipediaによると会津藩の砲術師範であった山本覚馬の妹・八重は、「鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した」と書かれている。八重はこの戦いで捕虜となった夫と生き別れ、後に同志社創立者の新島襄の妻となった人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E5%85%AB%E9%87%8D

北出丸の狭間塀から撃ち出される銃弾の嵐に見舞われて土佐先鋒隊の板垣退助は薩摩二番砲隊長・大山巌に応援を求め、北出丸に砲撃を開始されたものの大山巌自身が右大腿部貫通の銃創を受けて後送されたという。

鶴ヶ城城址公園マップ

鶴ヶ城を守る兵士は少数ではあったが、会津は北出丸の新政府軍の猛攻をなんとか防ぎきり、午後二時頃には藩境を守っていた会津藩の有力部隊が鶴ヶ城の危機を聞いて相次いで帰城し、鶴ヶ城の防衛力が回復して長期籠城戦に入っていく。

しかしながら兵力で勝る新政府軍は会津城下を包囲し、大砲で鶴ヶ城を狙い撃つ作戦に出た。
『防長回天史. 第6篇中』には、二十六日に鶴ヶ城の東南にある小田山を占領し大砲を設置したことが記されている。

二十六日 薩、肥の兵小山田を奪うてこれに拠り、肥藩はアームストロング式砲を備え、かつ山麓の火薬庫を占領す。山は城の東南十余町に在りて、城内を瞰射するに最も良好の砲兵陣地たり。爾来この高地より発射する弾丸は城中の建造物を破壊し人馬を傷つけかつ屡々火災を起こさんとせり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2169815/53

会津戦争

アームストロング砲の射程距離は3kmを超えるのだが、地図で確認すると小田山の中腹にある小田山公園から鶴ヶ城の距離は1.4km程度に過ぎない。会津城下に有力部隊がいなかったから仕方がないこととはいえ、小田山を新政府軍に奪われたことは会津側にとっては痛恨の極みであったことに違いない。

『会津戊辰戦史』には、二十七日のことをこう解説している。文中の「西軍」とは「新政府軍」の事を指している。
「この日西軍東北より齊しく城を攻撃し、小田山の砲台より大砲を連射すること益々烈しく、屋瓦飛び柱壁砕け烟塵室に満ちて昼なお暗く、火屡々(しばしば)起こりしといえども幸いに消し止めることを得たり。然れども死傷相次ぎ、或いは城の支え難きを察し慷慨して自刃する者あり。謀議の士は黒金門に会し軍議に日を累ぬるも良策の施すべきものなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

続いて二十八日の記録である。
「城の東北より西北に亙(わた)りて数万の敵兵数十の塁壁に拠り、日夜銃砲を発して孤城を攻撃す、電光空に閃き萬雷地に震う。郭内外の邸宅市店は兵火または放火のために一空荒野となり、戦没したる壮士、流弾に斃れたる婦女は骸を晒し屍を横(よこた)えて収めることを得ず。流血淋漓(りんり:したたり流れるさま)腥風(せいふう:血なまぐさい風)鼻を撲(う)ちその惨状は目も当てられず。西兵の残暴なる農商の家見るところの財貨剽窃せざるなく、これを牛馬に満載して運搬し去り、あるいは鶏牛を掠奪しあるいは無辜の民を殺戮しあるいは婦女を姦し憚るところなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

会津鶴ヶ城

上の画像は鶴ヶ城の天守閣だが、大砲が命中して城壁がボコボコの状態なのになぜ城が焼け落ちなかったのだろうかと長い間疑問に思っていた。『会津戊辰戦史』を読み進んでいくと、その疑問が氷解した。女性陣も、城の中で精一杯味方の為に戦っていたのである。

近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る
【近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る】

「守城以来しばしば落下し来たりし焼弾は径六寸ばかりの円弾に孔あり。ここより火を噴出して殿屋を焼かんとし水を注ぐも消滅せず。ここにおいて衣類をもってこれを覆いて水を注げばたちまち消滅す。奥殿に仕えし老女伊東牧野以下の侍女力を尽くして綿衣あるいは布団の綿を出し毎にこれを水中に浸し、此の弾の落下するときは婦人等馳せ集まりて之を覆いて消滅せしむるを常とし危険を感ぜざるに至れり。(七年史、若松記、内田藤八筆記)
 籠城中夜に入れば榴弾の中天に交錯するもの、あたかも秋空に蜻蛉の飛翔するが如し。児童ら慣れて之を畏れず。常に屋外に出て之を望み互いに叫んで曰く。今夜は蜻蛉多しと。(海老名季昌談)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/328

あるいはこんな記録もある。文中の「照姫」は会津藩主・松平容保の義姉である。

本丸の大書院、小書院、その他金の間等はみな蒲生氏の時建築するものにして頗(すこぶ)る宏壮なり。敵の囲みを受けしよりあるいは病室となしあるいは婦人小児を収容せり。戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛(びらん)したる者、雑然として呻吟す。然れども皆切歯扼腕、敵と戦わんとするの情を為さざる者なし。而して西軍の砲撃益々激烈なるに及びては、流弾は病室または婦人室に破裂して全身を粉韲(ふんさい)せられ肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。その悲惨凄愴の光景、名状すべからず。(古河末東所聞)

八月二十九日城外進撃の時は一日に百数十人の負傷者を出し、病室最も繁劇を極め繃帯に供する所の白布一時欠乏するに至れり。照姫は奥女中をして貴重の衣帯を出しこれを解きてその白布を以て繃帯と為さしめ、あるいは傷病者の衣衾に宛てしむ。故に兵卒にして葵章の衣を着け、あるいは壮士にして婦人の美服を着くるに至り、三軍の将卒これを聞いてその殊遇に感激し士気大いに振えり。(村井弦斎筆記)

傷病者に窮する食物は奥女中以下の婦人之に任じ、照姫自ら之を監督す。本丸の西隅に炊事場を設け婦人集合して、水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して之を為す。炊事場には石竈十数個を設置し精米を炊き、これを奥女中室に遞送し、若年寄格の女中等藩士の婦人を指揮して摶米を製し、之に羹蔬魚肉鳥肉牛肉等を添い、之を盆に載せ表使女中先頭に立ち侍女二人之に従い、幾個の縦列を作り整然序を追うて病室に運ぶを常としたり。(納富氏日記巻之三、丸山幸之助、山室重明談、村井弦齋筆記)一斉攻撃の前後には飯を炊くこと昼夜を分かたず、十数個の石竈一刻も火を絶ちたることなかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/326

近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る
【近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る】

このように会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったのだが、九月十四日になると新政府軍の総攻撃が始まり、一日に約二千五百発もの弾丸が撃ち込まれたという。

既に仙台藩は自藩防衛の為に兵を引いており、唯一頼みとしていた米沢藩は九月四日をもって新政府軍に降伏した。弾薬・食糧ともに残り少なくなっており、会津藩が戦争を継続することはもはや困難な状況になっていた。

会津軍記 会津藩降伏の図
【会津軍記 会津藩降伏の図】

一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末会津藩主・松平容保は降伏を決意し、九月二十二日の朝には鶴ヶ城の北追手門に「降参」と書かれた白旗が掲げられて、会津戊辰戦争はついに幕を閉じたのである。

会津藩の立場から書かれた解説書を読むと、会津藩降伏後も新政府軍は戦死体の埋葬を許さず、会津藩将士の遺体は道端に打ち捨てられたまま腐乱にまかせて、鳥や獣についばまれたことが書かれていることが多いのだが、そのような状態がどの程度の期間続いたのだろうか。

前回記事で紹介した柴五郎の遺書によると、武士以外の者が若松に入ることを許されたのは十月末で、当時九歳の柴五郎は十一月に入ってから親族に連れられて自宅の跡を訪れ、八月二十三日に自決した家族の骨を拾ったとあるので2か月以上遺体は放置されていたことになる。柴五郎はこう書いている。

十月も末となり、武士以外の者も若松に入るを許さる。…
十一月に入りて、余は農家の子の姿なれば安全なりと思い、忠女、きさ女の両名にともなわれて二ノ邸の旧邸焼跡にいたる。赤く焼けたる瓦礫のみにて庭木もほとんど見当たらず、加勢の強かりしことを思わしむ。余焼跡に立ちて呆然たり。…
忠女、きさ女の腕に支えられてようやく起ち上れば、両女とも堪えかねて号泣す。…
『五郎さま、さあ、ご自分のお手にて皆様の骨をお拾いなされ』
用意の箸を余の手に持たしめて遺骨の細片を拾い集め、紙袋におさむ。これ、祖母、母、姉妹の変わりはてたる姿なりとは、いかにしても理解できざるも涙頬を伝いて落つ。」(中公新書『ある明治人の記録』p.39~40)

新政府軍が一か月以上にわたり会津若松に立ち入り禁止にしたことは事実のようなのだが例外もあるようだ。Wikipediaには戦死した藩士らが埋葬された史料が紹介されている。この史料が発見されたのは昨年の秋のことである。

会津藩士埋葬の史料発見

「『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。 このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

会津戊辰戦争で戦死した藩士の数は約二千四百人とされていて、埋葬された遺体はその二割強に過ぎないのだが、新政府により会津藩士の遺体埋葬の命令が出ているという重要なことが、どうして今まで伝えられて来なかったのだろうかと不思議に思う。
河北新報の記事によると、山本八重の父山本権八の遺体や、西郷頼母の家族の遺骨、白虎隊士と思われる遺骨もこの記録にあるのだという。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171003_63036.html

ついでに、会津戊辰戦争の戦後処理についても記しておこう。
藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄となった。

会津藩を失った松平家は、元盛岡藩領に設置された旧三戸県五万二千三百三十九石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に三万石を与えられて、旧会津藩士とその家族約二万人のうち約一万七千人が明治三年閏十月までにこの「三戸藩」に移住し、約二千人が会津若松に残って帰農したという。

斗南藩地図

「三戸藩」という名前は明治三年六月に「斗南藩」に改められたのだそうだが、この地は火山灰地質の厳寒不毛の地で、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった。また、また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたという。

さきほど、会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったと書いたが、実際に戦ったのは士族だけで、農民は武士に対して冷ややかであったという。その点が二本松藩とは大いに異なる。

鶴ヶ城が落城すると農民たちが各地で蜂起し、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きたのだが、Wikipediaによると「会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかった」とあり、その理由は「藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれ」たことが大きかったようなのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

この一揆は会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず勃発し、以後領内各地に波及して、年貢の免除や小作料の廃止などを要求して約2か月間にわたって各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てたという。

板垣退助
板垣退助

会津の農民たちが、会津藩を支持していなかったことは、土佐藩の板垣退助の記録にも出ている。板垣は、一般庶民が難を避けようとして爭いの始まる前に逃散してしまい、藩が敗れても無関心でいる農民を見て次のような感想を述べている。

かくの如く一般人民に愛国心なき所以のものは、畢竟上下離隔し、士族の階級が、その楽を独占して、平素にありて人民と之を分かたざりし結果にほかならず。それ楽を共にせざる者は、またその憂をともにする能わざるは、理の常に然るところ、天下の雄藩たる会津にして、すでに然り。いわんや他の諸藩においておや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139576/196

会津の立場で描かれる戊辰戦争の歴史にはこのような史実を書かず、もっぱら会津武士の視点から描かれることがほとんどで新政府側は常に悪者にされるのだが、会津の人々がこのような歴史理解について再考することも必要ではないだろうか。

Wikipediaに重要なことが書かれているので引用したい。
会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。
とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、…司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%B2%E5%AD%A6

会津の人々が長州藩に対して抱く怨念は、小説やマスメディアなどで誤った情報が広がって焚きつけられたものであるならば、真実を広めることによって鎮めていくしかないだろう。

昨年11月4日の『時事ドットコムニュース』によると、前述した『戦死屍取仕末金銭入用帳』の発見を機に会津若松市と山口県萩市との和解を実現させようとする動きがあるのだそうだ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110400176&g=soc

会津藩も新政府に恭順の意思を示したにもかかわらず、長州藩出身で奥羽鎮撫使参謀であった世良修蔵に拒絶されて戦うことを余儀なくされ、会津戊辰戦争で会津側に多くの犠牲者が出たことから、会津の人々が長州を怨む気持ちは理解できる。
しかしながら、会津の人々が今も長州藩を怨む根拠の中には、少なからずの誤解があることもまた事実である。
今までの「怨讐(えんしゅう)を乗り越え」、「共に犠牲者を追悼」するという姿勢で双方が歩み寄り、明治維新150年という記念すべき今年に、両市の和解が実現することを祈りたいところである。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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