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厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。
明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ)藩」に改めている。

また明治三年の正月には戊辰戦争の処罰として命じられていた旧会津藩士の謹慎が解かれて、五月の版籍奉還で、藩主の容大は嬰児でありながら知藩事に任命されている。
当時旧会津藩士とその家族は当時約二万人いたのだが、その大半が斗南藩に移住することになったという。

柴五郎
柴五郎

会津藩士たちの移住先がこのような厳寒の地に決定した経緯について、会津人・柴五郎の遺書にはこう記されている。この人物のことは以前このブログで書いたが、明治三十三年(1900)の北清事変において公使館区域の籠城戦を指揮して世界から賞賛された軍人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

「(慶応四年)九月二十七日、会津藩主にたいし、祖先の祀(まつり)をなすため南部の地を割きて三万石を賜うの恩命あり。その初め猪苗代か陸奥の国かについて意向を訊ねきたれるも、猪苗代は旧領の一部にて経済的にも精神的にも受け入れること能わずとの議多く、未知の地とは申せ宏大なる陸奥に将来を託するが良からんとの議まとまりて、徳川慶喜、松平容保以下の罪を免ずとの詔勅下る。松平容保は実子慶三郎(当歳)に家名を譲り、慶三郎を改めて松平容大(かたはる)と称え、十一月四日華族に列せられる。藩士一同感泣して聖慮の変わらざることを喜べり。

会津藩は(慶応三年現在)旧領三十万石、増封五万石、第一回職封五万石、第二回職封五万五千石、これに加え二千俵、さらに月一万両を賜う。これらを石高に換算すれば、約六十七万九千石の大藩なりき。今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、この時だれ一人知る者なし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.50~51)

会津藩士たちは斗南藩という厳寒の不毛の地に流刑されたとする解説をよく見かけるのだが、これは事実とは異なる。会津藩は旧領の猪苗代という選択肢があったのだがこれを捨て、未知の地ながら面積の広大な旧南部藩の土地に将来を託すことを選んだのである。

では、なぜ旧領地の猪苗代を捨てたのであろうか。その点について、柴五郎はこう述べている。
猪苗代は旧領地なるうえ、狭小にして藩士を養うにたらず、しかも会津落城後、経済、人心ともに荒廃して、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり。権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし。このとき蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。」(同上書 p.88)
前回の記事でも書いたが、鶴ヶ城落城のあと農民たちが各地で蜂起しヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起き、会津武士たちは領民から支持されていなかったことは明らかで、旧領では藩を立て直すことは難しいと判断したのであろう。

しかしながら、移住先の下北半島の地は、恐山山地の噴火による酸性の火山灰土壌の不毛の地であった。誰もそのことを知らないままこのような土地に移住することを決めてしまったために、ここに移住した会津人たちは悲惨な生活を余儀なくされることになるのだ。

斗南藩領

明治三年四月十六日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(たなぶ:現在のむつ市東部)に到着したのは五月二日だったという。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、昭和十二年に出版された『佐井村誌』という書物に『斗南藩』のことが比較的詳しく記されている。上の画像はネットで見つけた斗南藩の地図だが、田名部と佐井の地名が出ているので参考にしてほしい。
『佐井村誌』には斗南藩へ移住した人々についてこう記されている。

『佐井村誌』

「田名部にては同夜(五月二日)戸毎に軒提灯を吊るして祝意を表した。斗南移住に際して帰農して会津に踏み止まった者、東京へ出でし者、北海道へ渡った者等、合して一千二百戸程あり、実際に斗南へ移住した者は二千八百余戸であった。この人々は五月頃より、海路または陸路を選んで新封の北地に下った。海路によった人々には新潟へ出て汽船で大湊または野辺地へ着いた者と、棚倉または仙台に出て帆船にて八戸に着いた者とがある。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/54

会津の人々は田名部の寺や町家等に分宿したのち各村々に散っていった。
彼らには一人一日三合宛の扶持米が支給されていたのだが、前年が凶作であったため内地米が払底していたので質の悪い輸入米が支給されていて、寄生虫が原因で死者が多数出たことが記されている。

彼らは開墾して農作物を生産しようとするのだが、俄百姓であるゆえ思うようにいかない。
また土地が痩せていたので、収穫は乏しかったという。

山川浩
【山川浩】

『佐井村誌』には彼らの苦労がこう記されている。
田名部、大畑移住の者は山に入って蕨や葛の根を掘り澱粉として食べ、大間、佐井移住の者は海に入って改装や貝類を拾うて食べた。昆布の根を搗き砕いて、おしめとして粥を炊いて食べた。おしめは凶年に於ける地方人の食料である。…大間、佐井移住の者にはこの困難に耐えかねて、北海道または越後方面へ脱藩するものもあった。あるいはまた、斗南移住の拙なりしを憤慨して、その責任は山川氏*にありとして、山川斬るべしとの声さえ起った。…袷綿入れを重ね着しても、なお寒さを感ずる師走月に、単衣のままの者も少なくなかったというから、衣食住ともに随分困窮したことが窺われる。」
*山川氏:会津藩家老山川重固の嫡男・山川浩のこと。明治三年に斗南藩大参事となる。廃藩置県後谷干城の推薦により陸軍に入り、西南戦争などで活躍した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/55

下北半島の冬の寒さは会津の人々にとっては想定外の厳しさであり、しかも物を買う金銭的余裕は全くなかったので、全て自分で工夫するしかなかったという。

柴五郎の遺書には、田名部に移住した頃の家族の生活についてこのように記している。

「父上は炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より夜にいたるまで授産所にて機織りして工銭を稼ぐ。薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いたるも足らず、積雪の中を探し求む。炭には焚火の消し炭を用い、行火(あんか)には炭団(たどん)を作るに苦心せり。売品を購う銭の余裕全くなし。
 用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲み上げ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中で氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家のうすにて軽く搗きたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れたる昆布、若布(わかめ)など集めて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にして臭気あり、はなはだ不味なり。…
 冬は山野の蕨の根を集めて砕き、水にさらしていくたびもすすぐうち、水の底に澱粉沈むなり。これを米糠をまぜ塩を加え団子となし、串にさし火に焙りて食う。不味なり。少しにても砂糖あらば…など語る。
 この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む。」(中公新書『ある明治人の記録』p.62~63)

柴五郎は誇張して書いている訳ではなく、栄養失調と寒さの為に餓死したり、病死した者が少なくなかったようだ。

ある明治人の記録

柴家は、春になって畠を作って菜類、豆類を植えるも、虫に食いつくされ、わずか二十歩の水田も失敗し、やせた大根と小さな馬鈴薯が獲れただけだった。しかし山に入れば芹、蕨、蕗、あさつきなどが豊富に獲れ、薪も充分に集まり、山桑を獲って背負えるだけ背負って売りに行けば二十四文の稼ぎになった。
しかしながら、二年目の冬も昨年同様の状態で過ごさなければならない状態だったという。

「秋も過ぎ、怖ろしき冬再び来りても、わが家は先年の冬と同じく満足なる戸障子なく、蓆さげたる乞食小屋なり。陸奥湾より吹きつくる寒風、容赦なく小屋を吹き抜け、凍れる月の光さしこみ、あるときはサラサラと音立てて霙舞い込みて、寒気肌を刺し、夜を徹して狐の遠吠えを聞く。終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。掌こごえて感覚を失うこと常なれば、時折火にかざして摩擦す。栄養悪きうえ、終日寒風吹き抜ける小屋にて、寝具なく蓆を被りて、みの虫のごとく、いろりの周囲を囲みて寝るほかなし。」(同上書 p.71~72)

一時は学校も通わずに農作業を手伝う日々を過ごしてきたが、六月以降は兄の友人宅に寄寓して通学し、休日に配給米を持ち帰ることになった。しかし柴五郎には草履も下駄もなく、さすがに冬になって裸足で凍結した山野を馳せ帰るのは厳しかったようだ。しかし柴家には履物すら買う金銭的余裕がなかったという。

こんな厳しい生活を余儀なくされながら、柴家はなぜこの地域から離れようとしなかったのだろうか。
離れたくても家族が移住するのに必要な資金がなかったことも理由の一つだろうが、この問いのヒントになる言葉が柴五郎の遺書に残されている。柴五郎は一年目の冬に、不味い犬の肉を食べようとしなかった時に、父から次のような叱責を受けたことを書き残している。

「『やれやれ会津の乞食藩士ども、下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ。生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ。ここはまだ戦場なるぞ。』と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込みたること忘れず。『死ぬな、死んではならぬぞ。堪えてあれば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに一矢を報いるまでは』と自らを叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」(同上書 p.75)
柴家に限らず、斗南藩に移住した多くの会津藩士にとっては、この厳寒の地は『戦場』であり、会津武士がこんなところで死ぬわけにはいかない。なんとかここで生き抜いて、いつか薩長の連中を見返してやるという心意気だったようだ。

しかしながら、明治四年の年の七月に廃藩置県があり、斗南藩は斗南県となったと思いきや、九月には斗南県は他の諸県とともに弘前県に合併され、さらに同月に青森県に改称されてしまった。また廃藩置県によって全国一斉に旧藩主に対し知藩事の職を免じられ、斗南藩主の松平容大は旧藩主松平容保ともども東京に去ることとなった。
藩士たちにとっては、すでに藩は消滅し、お家復興の夢もなくなり、支えるべき藩主も去ってしまい、藩役員も身分を失ってしまった。

『佐井村誌』には、廃藩置県以降の斗南藩についてこう記している。
「(廃藩置県)の時に、旧藩士に一日男一人四合、女子供一人三合の割合にて、引き続き扶持米を交付した。六年三月に至りて、扶持米を廃止することになり、特別を以て手当米並びに転業資金を給与された
一、他管下へ送籍望之者は一人につき二俵金二円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金十円宛差遣候こと。
一、管内自立望之者へは、一人につき米五俵金五円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金五円宛差遣候こと。
 廃藩後、他府県へ転去る者少なからずあったが、愈々扶持米を廃されたので、右の手当金を貰って続々として他府県へ去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/56

松平容大
【陸軍大尉時代の松平容大】

『佐井村誌』を読むと、殆んどの会津人が旧斗南藩から去ったような印象を受けるのだが、現地に残ったものも少なくなかったようだ。
Wikipediaによると「明治5年(1872年)に広沢(安任)らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9

柴五郎は藩政府の選抜により青森に派遣され明治六年(1873)に陸軍幼年学校に入校。明治十年(1877)には陸軍士官学校に進んでいる。そしてその年に西南戦争が起きたのだが、この内乱の勃発に会津人の血が騒いだようだ。

そもそも会津戊辰戦争が起きたのは、柴五郎が九歳の時であった。
慶応四年(1868)八月二十三日の朝に新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打され、会津藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだのだが、この時に柴五郎の母、祖母、姉妹も自決したのである。

会津藩は新政府に対して恭順の意を示していたにもかかわらず、新政府がそれを受け入れずに戦いを仕掛けてきて、そのために多くの会津人の命が失われ、その後も悲惨な境遇に追いやられた。そのため、西南戦争が起きた時は薩摩に一矢を報いるチャンスと考える会津人が少なからずいたことは間違いがない。

柴五郎は遺書にこう記している。文中の山川大蔵は、前述した斗南藩の大参事であった人物である。
はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く。まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」(同上書 p.118)

西郷隆盛

そして西南戦争で西郷がこの世を去り、さらに翌年には大久保利通が暗殺された。

この二人の死について柴五郎は遺書にこう記している。
「余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事ならず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」(同上書 p.120~121)

柴五郎に限らず、西郷と大久保の死に留飲を下げた者は他にも多数いたはずである。少なくとも会津の多くの人々にとっては、戊辰戦争が決着した後も、薩長との争いは、心の中で綿々と続いていたと言っても良いのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで柴五郎について、こんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-554.html

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-555.html






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