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神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗

長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。
この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近できない場合は引き返すことがあるとの条件付きで長浜港を出港したが、予定通りの時間に竹生島に到着してホッとした。

竹生島クルーズ舟

島の観光のレポートをする前に、竹生島の歴史を振り返っておこう。
宝厳寺のホームページには、聖武天皇の命により神亀元年 (724)に行基が竹生島を訪れ、弁財天を祀ったのが起源と記されているのだが、承平元年(931)に成立した『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりだと書かれているという。同縁起によれば、当初は本業寺(ほんごうじ)と称し、のちに竹生島大神宮寺と呼ばれて東大寺の支配下にあったが、平安時代前期10世紀頃から比叡山延暦寺の傘下に入り、それ以降この島は天台宗の僧の修行の場となったそうだ。
弁財天というのは仏教の守護神の一つであり、音楽・弁才・財福・知恵の徳がある女神であるが、この島が観音と弁財天信仰の島として栄えたのは平安時代末期頃からだと推定されている。

竹生島祭礼図
【竹生島祭礼図】

上の画像は東京国立博物館蔵の『竹生島祭礼図』で、室町時代に描かれた宝厳寺の蓮華会(れんげえ)という雨乞いの祭りの絵図である。

岩金山大神宮寺竹生島絵図
【岩金山大神宮寺竹生島絵図】

この絵には鳥居がないのでどこに都久夫須麻神社があるのかと誰でも思うところなのだが、江戸時代に描かれた『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には建物の名前が記されている。この絵図を見ると、現在の都久夫須麻神社の本殿は「本社」と書かれていて、調べると昔はこの建物に宝厳寺の本尊である弁天像が安置されていて「本堂」あるいは「弁天堂」とも呼ばれていたようだ。

現在は宝厳寺都久夫須麻神社の二つが併存しているのだが、このように区別されるようになったのは明治初期の神仏分離令以降のことであり、それまでは竹生島では神仏習合の信仰が行われていた。そもそも明治初期の竹生島には「都久夫須麻神社」という名の神社が存在しなかったようなのである

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』に所収されている「竹生島における神仏分離」という論文を紹介しよう。
文中の妙覚院とは宝厳寺の代表的な塔頭寺院で、覚以はその寺の住職である。当時の竹生島には妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみで、専業の神職は存在しなかった。
また権大属(ごんだいさかん)というのは年給俸禄50石程度の役人で、知藩事の1割程度の年俸であったようなのだが、明治初期にはこのクラスの役人が寺院の生殺与奪の権限を有していたことを知るべきである。

明治2年 地方の職官表
【明治二年 地方の職官表 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J069.htm 】

「明治二年某月、大津県庁より竹生島役者を召喚す。妙覚院住職覚以出頭す。
権大属田中久兵衛立会し、覚以に告げて曰く、『其の島に延喜式内都久夫須麻神社と申す神社のあるはずなり*。しかるに未だその届けもこれなく、甚だ不都合の至り。ついては、その島の縁起・古記等の写しを製し、早々差し出されるべく、なお口碑等もこれあり候わばせいぜい取り調べの上至急差出すべし。』
これにより覚以帰島のうえ、縁起二巻、儀軌一巻、並び古記集一冊を写して持参出頭の上、田中県属に面会し、之に白して曰く。『古記集内に貞永元年焼失勧進記の内に弁財天、島守大明神、小島権現の三社を書するのみにて、都久夫須麻神社と称する社殿は記さざるも、延喜式に都久夫須麻神社の社号記載あるを以て、島内に都久夫須麻神社とすべきものを考えれば、恐らくは島守大明神、小島大権現の内ならん。しかれども、現今にては確乎としてこの社なりと申し難し。』」(『明治維新 神仏分離史料 第二巻』p.544~545)
*延喜式:延長五年(927)にまとめられた『延喜式』巻九・十に、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧 (『延喜式神名帳』)があり、近江国の最後に「都久夫須麻神社」の記載があることを指している。

そしてその二年後に再び覚以が呼び出されて、次のような命令を受けている。
「明治四年二月に至り、更に呼び出して、山田権大属立会いの上、先に差出せるところの御宸翰縁起に五ヶ所の付箋を為し、之を示して曰く。『この如きの理由あるを以て、今般弁財天を浅井姫命(あざいひめのみこと)とし、弁財天社を以て、都久夫須麻神社とすべき』旨の仰せ出されなりと。
 覚似曰く、『これ一嶋の大事に関す。拙僧の独断にては御請け致し難し。かつ御口達のみを承りて引取りも、島内の僧侶は之を信ぜず。故に帰島の上、一山へ相示すべき証拠を御下付ありたし。』これにより山田属は、…左の如き達書を渡せり。

浅井郡竹生島役者
竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称仰せ出されるべく候こと
明治四年辛未二月                    大津県庁印」(同上書p.545)

この命令に宝厳寺の僧侶たちは驚愕し、県庁に嘆願しても埒が明かず、本寺である総持寺とともに願書を奉呈することとなったのだが、この時の山田権大属の言葉は恫喝以外の何物でもなかった。

「今般竹生島弁財天を都久夫須麻神社として崇敬なされたく思召しにて、御達になりたるものなり。夫れを彼是と申せば、朝敵同様なり、明治初年4月阪本山王の馬場にて山王社の仏体仏器等を焼き捨てたるともあれば、万一左様の事に相成らんにも限らず、ここを能々考慮すべし。たとえ白きものを黒きと被仰出候共、朝廷よりの仰を背くとは出来ず、その方らさほどまでに仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来たりし法なれば、天竺国に帰化すべし。今県庁より達する通り御受けせざれば、如何の御処置に相成り候やも計りがたし。自然焼払などになれば、如何に致すや。」(同上書p.549)

「明治初年4月阪本山王の馬場」の件とは、日吉山王権現*の社司でもあり神祇官神祇事務局権判事でもあって神仏分離令に関与した樹下茂国が、日吉山王権現の仏像・仏具・経典などすべてを取り除いて焼き払ったことをさしている。この事件については以前このブログで記したので繰り返さないが、興味のある方は次のURLを参照願いたい。
*日吉山王権現:現在の日吉大社(滋賀県大津市坂本)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

総持寺と妙覚院は、これ以上抵抗して宝厳寺の貴重な仏像などが焼き払われてはたまらないと考え、「また時を持て上願することにして、数行の涙とともに御受する」しかなかった。

竹生島マップ

とはいいながら弁財天像は仏像であるのでこれを寺の管理とすることをその後も強く主張し、かくして弁財天社から本尊の弁財天像が取り払われて取敢えず観音堂に移されたのち妙覚院に仮安置されることとなり、弁財天社は名前を変えて都久夫須麻神社の本殿となり、そのたるに常行院覚潮は復飾して神勤することになったという。

ところで、『神仏分離史料』には「都久夫須麻神社」の名は竹生島では忘却されていたと記されているのだが、文化二年(1805)に出版された『木曽路名所図会 巻一』には、竹生島について次のように記されている。
「浅井郡湖中にあり。…長浜より六里。
 本社弁財天女 天降天女と号す。長立像七寸三分。一説に行基大士の作という。[延喜式] 都久夫須麻神社…」
と、この書物では弁財天堂を延喜式の都久夫須麻神社に比定している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/76

同様な見解は享保十九年(1734)に記された『近江国輿地志略 巻之八十七』にも出ていて、竹生島神社の項には
当社は【延喜式】の神名帳に、いわゆる近江国浅井郡都久夫須麻神社と是なり。…
 嗚呼神道は我国の道なり、神社を以て仏寺に混ずるのみにあらず、神を以て仏とす。付会の甚だこの上なかるべし
。…」
と竹生島の神仏習合を批判している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/148

総持寺と妙覚院は、弁財天堂が延喜式の都久夫須麻神社であるとする説があることぐらいは知っていた可能性が高いと思うのだが、竹生島の観光客の大半が弁財天と観音堂の参拝を目的に訪れていることや、当時の竹生島には僧侶しかいなかったことから弁財天をなんとしてでも寺側の管理下に置いて存続させようと努力したことは当然のことだと思う。

一方大津県は、弁財天を浅井姫命として都久夫須麻神社の御神体にしようとしたようなのだが、そもそも浅井姫命とはどういういわれのある神様なのだろうか。

奈良時代の初期に編纂された『近江国風土記(逸文)』に竹生島の由来について記されている部分がありそこに浅井姫がでてくる。Wikipediaに原文の読み下しがでているので引用しておこう。

「また云へらく、霜速比古命(しもはやひこのみこと)の男(こ)、多々美比古命(たたみひこのみこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳の神といふ。女(むすめ)、比佐志比女命(ひさしひめのみこと)、是は夷服の岳の神の姉(いろね)にして、久恵(くえ)峯にいましき。次は浅井比咩命(あざいひめのみこと)、是は夷服の神の姪にして、浅井の岡にいましき。ここに、夷服の岳と、浅井の岡と、長高(たかき)を相競いしに、浅井の岡、一夜に高さを増しければ、夷服の岳の神、怒りて刀剣(つるぎ)を抜きて浅井比賣(ひめ)を殺(き)りしに、比賣の頭(かしら)、江(うみ)の中に堕ちて江島(しま)と成りき。竹生島と名づくるはその頭か。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

伊吹山と浅井岡の二つの山が高さを競い合って、浅井岡が一夜にして急に高くなったので、伊吹山の神が怒って剣で浅井岡の神(浅井姫)の首を切り落とした。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったという伝承が存在するのである。

このような伝承に基づいて、かなり以前から浅井姫命が竹生島の神として祀られていたようだ。
冒頭で紹介した宝厳寺のホームページでは、行基がこの寺を開基したころから弁財天が祀られていたと記されているのだが、竹生島に関する記述で文献上最初に『弁財天』という文字が現れるのはもっとあとの事である。

竹生島弁才天信仰と名宝

佐々木孝正氏の『竹生島における神仏分離について』という論文にはこう解説されている。
「竹生島弁財天は、応永二十二年撰述の『竹生島縁起』に、延暦七年(788)、最澄が比叡山の仏教守護のため祀ったのにはじまると伝えるが、確かな文献上の諸県は、『江談抄』*に『島主弁財天』とみえるのがそれである。十二世紀初頭には、浅井姫命にかわり弁財天が島主であると語られるに至るのであり、両者の習合がすすんでいたことを示している。おそらく十一世紀までには、竹生島の住僧により、弁財天が浅井姫命の本地として唱え出されたものであろう。」
*『江談抄』:平安時代(院政期)の説話集。長治から嘉承にかけて(1104~1108年)成立したと考えられている。
http://jairo.nii.ac.jp/0541/00002211

竹生島 宝厳寺 鳥居

竹生島の港に着いて船から降りて入島料400円を払って島に入ると、二つの鳥居をくぐることになる。一つ目の鳥居の扁額には都久夫須麻神社の別名である「竹生島神社」と書かれていて、二つ目の鳥居には「厳金山(がんこんざん)」と書かれているが、これは「宝厳寺」の山号である。寺に鳥居があることはたまに見かけることがあるが、扁額に寺院の山号が書かれていることはあまり事例がないのではないか。

竹生島 宝厳寺本堂

急な165段の階段を登りきると、すぐ左に宝厳寺本堂(弁財天堂)がある。寺内最大の建物で、昭和十七年(1942)に平安時代様式で新築されたものであるが、この建物が完成することで明治四年(1871)以来仮安置されていた本尊弁財天像をようやくしかるべき場所に安置することができたのである。
我が国の三大弁財天は竹生島弁財天と宮島弁財天、江ノ島弁財天なのだが、江ノ島は明治初期に完全に神社に変質してしまい、竹生島は宮島と同様に大きな影響を受けながらも、寺院としての法灯を守ったということになる。

竹生島 宝厳寺 三重塔

弁財天堂の向かいに三重塔が建っている。冒頭で紹介した『竹生島祭礼図』には三重塔が描かれているが、この塔は江戸時代初期に焼失してしまい現在の三重塔は平成十二年(2000)に約350年ぶりに再興されたものである。


三重塔の近くにある宝物館を見学した後、階段を下りて宝厳寺の唐門に向かう。
唐門は宝厳寺の本尊の千手観音立像を祀る観音堂(国重文)の入り口にあり、檜皮葺で前後に唐破風をもち、随所に極彩色の彫刻や飾り金具が施された建造物で国宝に指定されているのだが、残念ながら唐門も観音堂も現在保存修理が行われており、覆屋の中で一部を観ることが出来るだけだ。工事が完了するのは来年末になる予定だが、完成したら豪華絢爛な桃山様式の建物を是非見に行きたいものであるし、秘仏の千手観音立像も、チャンスがあればいちど鑑賞したいものである。

竹生島 宝厳寺 舟廊下

観音堂を抜けると舟廊下がある。この廊下の終点までが宝厳寺の建物で、唐門・観音堂・舟廊下ともに慶長八年(1603)に豊臣秀頼が豊国廟から移築したものと言われている。
舟廊下屋根の梁には「国宝」と書かれているが、現在は国の重要文化財指定となっている。
昭和二十五年(1950)に文化財保存法が施行された以前は国宝と重要文化財の区別はなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」であったのだが、その頃の表示が今もそのまま残されている。

竹生島 都久夫須麻神社本殿

舟廊下を通り抜けると国宝の都久夫須麻神社本殿である。
神社のホームページには「今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもの」とあるが、慶長七年(1602)に豊臣秀頼が豊国廟の遺構を移築して改修したという説もあり、どちらが正しいかはよくわからない。
内部の拝観は中止されているが、内部の柱や長押は総漆塗りで、ところどころに飾金具が施され、襖絵や天井画は狩野光信が描いたものと伝えられている。長浜市のホームページに内部の写真が掲載されている。
http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000208.html

竹生島 都久夫須麻神社 竜神拝所

拝殿には琵琶湖に面し突き出たところに竜神拝所があり、琵琶湖の絶景を楽しむことが出来る。また、ここでは「かわらけ投げ」が有名で、2枚の土器(かわらけ)を300円で購入し、名前と願い事を書いて、湖面に突き出た宮崎鳥居に向けて投げて、かわらけが鳥居をくぐれば竜神様により願いが成就するというので挑戦してみたのだが、風に煽られて2枚とも失敗してしまった。地表がなんとなく白っぽく見えるのはすべてかわらけで、随分多くの観光客がチャレンジして失敗したことがよくわかる。

竹生島 小島

竹生島に入ってから75分で竹生島港に戻らなければならないので探索することは出来なかったが、竹生島の東北に小島という島がある。かつてはこの島を拝する拝殿が存在したという。明治の神仏分離を申し渡された際に、総持寺と妙覚院はこの小島が延喜式に記された都久夫須麻神社であると反論したのだが、その可能性はかなり高いと思う。

小島明神

いくら立派な建物であるとしても、都久夫須麻神社本殿は豊国廟の遺構を移築したものであり、神社の本殿を建てるのに古木を用いて、極彩色に装飾することは考えにくい。一方、永禄十年に建築されたという小島権現の棟札には清浄なる白木が用いられていることが明らかだという。『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には小島が描かれ、その島に『小島明神』とかかれた社殿があり、竹生島側に拝殿があることが確認できる。

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』にはこう記されている。
明治初年大津懸の達書等も、皆この弁財天の隆盛なるに眼眩み、当時流行せし唯一神道主義に心惑はされ、厳然たる神社在るにも拘はらず、弁財天の古堂を以て、恐れ多くも都久夫須麻神社の神霊を祭るに至れりなり」(同上書 P.578)

竹生島にどのような道があるのかわからないが、今度来たときは小島の見えるあたりを散策してみたいものだ。

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【ご参考】
このブログで明治初期の廃仏毀釈について多くの記事を書いてきました。一部の記事を紹介しますので興味のある方は覗いてみてください。

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html






関連記事
Comment
竹生島♪
こんにちは。いつもお世話になっております。先日はありがとうございました。竹生島の風景を思い浮かべつつ、拝読致しました。やはりわかりやすくて面白いです!

竹生島といえば、学生の頃に能楽部で能「竹生島」を致しました。後ツレが弁財天なのですが、「弁財天は女体にて。その神徳もあらたなる…」と、謡で語っており、てっきり神様だと思っておりました。
また、他の曲ではございますが、僧の読経に成仏して神となって姿を消した云々という詞章もございます。言葉を覚えるのに必死で気付きませんでしたが、これもよくよく考えると、今の時代では不思議なことなのかもしれませんね。

しばやん様とゆっくり語り合いたいものです。

ネットでは竹生島の詞章が出ております。琵琶湖を北上する際の風景などとてもきれいなのでオススメです。http://nohgakubu.maiougi.com/tan3-zenbun.html

古典模様の波ウサギも、竹生島の詞章からきたと聞きます。謡は往時の言葉を残しているので、ぜひ一度…。

Re: 竹生島♪
こんばんは。先日はありがとうございました。

竹生島は祖父と祖母が新婚旅行で行ったと話していたので、一度行ってみたいと思って、海津大崎の桜と長浜曳山祭りを楽しめる日程を組みましたが、残念ながら海津大崎の桜は早く散ってしまっていましたし、宝厳寺の国宝の唐門や、重要文化財の観音堂が工事中で、いずれまた観に行くことになりそうです。

能楽「竹生島」の紹介ありがとうございます。ネットではいろんな情報が収集できるのですね。現代語訳までついているのでド素人の私には助かります。

湖北は何度か来ていますが、なかなかいいところですね。古いものが昔のままで残されているのが好きです。

つねまるさんは随分いろんな地方の神社に詳しいですね。いろいろ教えて頂きたいのですが、今月中は会社が忙しそうです。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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