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満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。

Manchukuo_map.png

この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が(しん)である。

明代の万里の長城

清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわかるのだが、満州は万里の長城の外側にあり、漢人の国ではなかったのである。

この満州の地はもともと人口が少ないうえに清ができてから支配階層が北京に移ってしまい、その結果満州の故地はさらに人が少なくなってしまった。
そこで清朝皇帝は、満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していたという。
そのために清の時代には満州の広大な地域に人口がわずかしかいなかったのだが、清国が弱体化していくと、諸国からこの地域が狙われることになったのである。

ではわが国は、満州とどういう経緯で関わるようになったのであろうか。この点について簡単に振り返っておくことにしたい。

遼東半島
遼東半島

日清戦争で勝利したのち、明治28年(1895)に日清講和条約が結ばれて、わが国は満州の一部である遼東半島を手に入れたのだが、その後ロシアはわが国の進出を警戒し、ドイツ・フランスとともに、わが国に対して遼東半島を清国に返還することを勧告している(三国干渉)。
わが国はこの三国と戦うだけの力がなかったために、3千万両を代償としてやむなくこの勧告を受諾したのだが、その後ロシアは清に対してその見返りを求め、李鴻章に賄賂を与えて1896年に露清密約を締結
するに至った。その密約の内容についてWikipediaにはこう解説されている。

ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功した。ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国の港湾使用を認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領内に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害することができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず密約を拡大解釈して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も『鉄道附属地』としてその支配下に置いた。」
露清密約の主な内容についてはこう記されている。
・日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
 ・締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。…
 ・ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。…
 ・戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84

義和団の乱
【義和団の乱】

その後、列強諸国があいついで清国に租借地を設定し、鉄道敷設や鉱山開発などの権益を獲得していくことになるのだが、この動きに反発して1900年に清国で「扶清滅洋」を唱える義和団を中心とする外国人排斥の暴動が激化する。

龍岩浦

この義和団事件をきっかけにしてロシアは大軍を派遣して満州を占領し、事変が終了しても撤兵することはなく、さらに1903年(明治35)5月には鴨緑江河口にある龍岩浦(りゅうがんほ)を軍事占領し、その後要塞工事を開始して朝鮮半島にも進出する動きに出た

わが国はロシアの南下を食い止めるために日露戦争を戦うこととなり、なんとか勝利して終戦後に結ばれた日露講和条約で、ロシアの満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡されることとなった。
そしてこの権益の移動については同年に12月にわが国と清国の間で締結された満州善後条約で清国は了承し、加えてこの条約の付属議定書で、満鉄に併行する幹線や満鉄の利益を害する支線を建設しないことも清国は承諾したのである


かくしてわが国は国際的に何ら問題のない方法で満州の権益を取得し、それ以降満州の開発を開始することになるのだが、満州の治安が改善し経済が順調に発展していくと、その後山東省や河北省から数百万人の窮乏した農民(漢人)が仕事を求めて満州になだれ込んできた。その背景を調べると、清国が弱体化してくると「封禁の地」であった満州にロシア人が入ってくるようになってきたのだが、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して満州移住を認めてしまったことが原因だったようだ。
しかしながら、この人口移動によって満州を故地とする満州族よりも漢民族の人口が圧倒的に多くなってしまい、そのために漢人が、満州の地を自分の土地だと主張することに繋がっていくのである。
*満州の人口:日清戦争の頃の満州の人口は約5、6百万人で漢人の人口は2、3百万人であったが、1938年ごろには漢人だけで30百万人いて、全体の9割が漢人になっていたという。

清は1911年の辛亥革命で滅ぼされ、翌年成立した中華民国は清の領土や諸条約を承継したものの実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態で、満州は馬賊あがりの張作霖の軍閥が支配していた。

少年満州読本

では張作霖とその子・張学良時代の満州で、どのような政治が行われていたのであろうか。
GHQ焚書とされた長與善郎氏の『少年満州読本』が徳間文庫カレッジで復刊されているので、その文章を紹介することとしたい。

「ちょうど支那は清朝が亡びて、民国(支那が中華民国となったのは1912年)となり、群雄割拠の軍閥覇戦時代だった。割拠するには足場が要る。その足場には満州はお誂(あつら)え向きの地の利を占めていて、出るにも守るにも楽。のみならず軍隊を養い経済的実力を富ます上には、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通の施設が完備している。だから狡(ずる)い張作霖は自分の勢力を大きくして、その頃東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた満州の主権者になるために、初めのうちはできるだけ日本の力を利用しようと,親日家を装っていた。その彼が、だんだん目的を達して支那の中央まで勢力を持つようになると、今度は満州での日本の勢力が邪魔になって来たのは当然だ。だからうわべは日本と親しく手を握るようなことをいいながら、裏ではどんどん日本の勢力の駆逐、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益の踏みにじりと奪い返しにかかった。(その権益は、大正4年の日支二十一箇条条約で25年の期限が99年に延びた。)例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして、満鉄の営業を潰しにかかるとか、いろいろ邪魔をした。そういうやり口は、その子の張学良の時代になってますます甚だしくなった。」(『少年満州読本』p.72~73)

張学良
張学良

張学良の時代になると、「武力ずくで滅茶苦茶な政治をして、勝手にその地方だけの紙幣を乱発しては本国の正金の銀と取り換えるとか、無法な税制を布いて20年も先の税まで取り立てるとか、満州の最大産物である大豆の買い占めをして、これを一般に高く売りつけるとか」したという。
また大正4年(1915)の日華条約で、南満州での日本人が商工業・農業を営むために土地を租借する権利を認められていたにもかかわらず、中国は日本人に土地を貸した者を死刑とする条例を公布するなど、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利が相次いで中国側に侵犯されるようになっていくのである。

排日教育によって反日感情が煽られて満州の治安は乱れ、侮日行為や鉄道妨害などの事件が多発し、街のいたるところで反日スローガンのポスターが貼られるようになり、前回記事で紹介したように日本人がトラブルに巻き込まれ、殺害されるような事件も起きるようになった。

長與善郎
【長與善郎】
しかしながらわが国は満州に多大な投資を続けてきたので、この地を手放すことはできなかった。長與善郎氏は前掲書でこう解説している。

日本が貧乏な国庫の中から17億という殆んど無理な程の大資本を投じて、日露戦争以来27年間、孜々として満州の開発につくした事業。それもロシアのように1から10まで自分の国の利益と、政治的、軍事的侵略のための経営とはわけが違って、日本のためと同時に、満州それ自身の開発と福利のために計った数えきれない公共事業、衛生方面だけでも範囲は大変だが、例えば規模、設備ともに東洋一といわれる医院や保養院や、衛生研究所の設立。上水、下水の設備、大学以下、教育機関としての何百という各種の学校をはじめ、図書館、博物館、公園の建設。通信、交通のための会社や鉄道、道路の敷設。治安のための警察の仕事。地質、気象、資源の綿密な調査。歴史上の遺跡、史料、古美術の整理と保存。農作物と畜産の改良。山の植林事業——。
 そんな風に挙げていたら際限のないほどの文化事業というものは、ただ満州を日本の食い物にしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満州という所、満州に住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ
 しかしだ。それ程までに打ち込んでやった仕事がすっかり他人に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような横暴な者への貢ぎ物にすぎなくなってしまっても構わん、17億の金の掛け損になってもいいという程に日本はお目出たいお人好しではいられない。第一それでは、この満州の土と化した日清、日露の戦役の十万の護国の生霊に対しても相済まない。そうでなくてさえ猫の額ほどの狭い土地にぎゅうぎゅう詰めに人が溢れて国家の生きていく資源のなさに泣いている日本だ。どうしておめおめこれを馬賊あがりの圧政家などに手渡せよう。それももともとそこが彼ら漢民族祖先伝来の故郷だというならまだしもだ。元をただせば彼らには何の地主面をする権利もない満州民族発祥の地で、ただそこが主人のいなくなった大きな空巣も同然で、場所が場所であったために、ここが日本、支那、ロシアという三民族の生存と発展との一大争奪戦場になったというものだ。」(同上書 p.74~78)

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【満鉄シンボル 特急「あじあ」号】

わが国は満州に17億円をつぎ込んだというのだが、昭和初期の予算規模が15~19億円程度だから、かなり大きな金額であったことがわかる。では、その満州にどの程度の日本人が住んでいたのかというと、前掲書によれば日清戦争の終わった明治38年(1905)の末には日本人は5025人しかいなかったが、大正7年(1918)には124千人、満州事変前の昭和5年(1930)末には213千人に増加したにすぎなかったという。一方で漢人は1905~1930の25年間に15~16百万人増加し、その後も増え続けていって1938年には満州人口の9割が漢人となったそうだ。

横浜正金銀行大連支店と大連民政所 大正4年 満州写真帳
【横浜正金銀行大連支店と大連民政所 満州写真帳(大正4年)】

わが国の投資に対する最大の受益者は漢人であったわけなのだが、中国人は日本人に感謝するわけではなく、排日運動を仕掛けて日本人が苦労してインフラを整備し築き上げた満州の権益を奪い取ろうとしたのである。

そして満州を狙っていたのは決して中国だけではなく、ソ連はもっと大仕掛けであった。
長與善郎氏は、ロシア革命から満州事変に至るまでの流れをこう記している。

レーニン

「…『世界革命は東方から始めるべし』というのがレーニンの唱えたモットーだった。こうなると、日本にとってはロシアは二重の意味でふさがねばならない相手となったわけで、今まではただ軍事上からその侵略に備えるだけだったのが、今度は更に思想赤化という厄介千万な危険が加わって来た。これは国情の違うロシアではともあれ、日本国体の性質からいって、絶対に容れることのできない思想だから、もし満州の地が赤化、すなわち共産主義化されるとなると、それに隣る朝鮮はいうに及ばず、ひいては日本本国までが搔き廻される惧(おそ)れがある。ソ連としては出来るだけ他国を搔き廻して、内側から切り崩そうというのが思う壺だから、さしあたり支那に排日、抗日の思想を焚きつけて盛んに赤化を図ったが、その火は満州にも飛び火して、張学良もこれをいい日本勢力駆逐の手に用いた。一方、満州に巣喰う匪賊というものをソ連はまた背後から突っついて、絶えずその暴れるのを援ける。そうした事情が重なって険悪になっていく一方の空気は、いつか大爆発をしないでは到底収まらない。とうとう多勢の朝鮮人が(中国人に)殺されたあの万宝山事件、中村大尉の殺された事件と続いた挙句の昭和6年9月18日、奉天郊外柳条湖の鉄道が支那軍に爆破されたことが最後の導火線となって、ここに堪忍袋の緒を切らした日本軍の蹶起、満州事変となってしまったのだ。
 こう聴いてみると、満州事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、また国防と、満州での権益をしっかり保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった…」(同上書 p.79~80)

大連市役所
【大連市役所 満洲写真帖. 昭和4年版】

わが国は合法的に満州における権益を獲得し、この地域の人々が豊かに暮らせるように都市インフラを整備していったのだが、近代的で魅力的な都市建設が進んだからこそ他国から狙われ、中国からは大量の移民を送り込んだ上で排日が仕掛けられ、ソ連からは赤化工作が仕掛けられたいうことではなかったか。

旅順工科大学と満州医科大学
【旅順工科大学と満州医科大学 満洲写真帖. 昭和4年版】
長與善郎氏が『少年満州読本』を著したのは昭和13年(1938)のことだが、もしわが国が戦わずに満州から引っ込んでいたらどうなっていたかについてこう述べている。

それはただ暴虐な支那軍閥の暴れ狂って罪もない民百姓の血を啜るだけのところになってしまうか、看板の文句ばかり体のいい嘘八百を並べ立てて、その実人道を無視蹂躙すること、どこかの国と並んで世界の両横綱といわれるソヴィエト・ロシアの植民地に、むざむざなってしまうかするだけのことだったのは余りに眼に見えた運命だったのだ。」(同上書 p.80~81)

わが国の教科書や通史には、中国やソ連にとって都合の悪い史実が一切記されることがないために、「関東軍が満州を占領した」という記述に安易に納得してしまうところなのだが、実際はそんな単純な話ではなさそうだ。

他国の権益を奪うことは必ずしも武力を必要としない。宣伝・謀略を用いて「戦わずして勝つ」のが孫氏の兵法であるが、中国は移民を大量に送り込んで満州族の故地を実質的に奪い取った。さらに中国は排日運動を仕掛け、またソ連は赤化工作で我が国の満州の権益を侵していったのだが、このような工作員を排除し治安を守るために武力を用いたわが国は侵略行為を働いたというべきなのか、自衛のために戦ったとみるべきなのか。そのような視点から昭和初期に満州で起こったことについて考えてみることも必要だと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html






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Comment
アメリカも大きな役割をしていたと思う。
張学良、宋美齢、宋子文などはみなルーズベルトと同じフリーメイソンの息がかかっている。アメリカは張学良を支援していた。
Re: タイトルなし
ご指摘のように、アメリカの影響力は強かったと思います。

フリーメイソンは思想団体で、組織として目的をもって活動をしていた訳ではなさそうですが、会員同士はそれなりの仲間意識のようなものを持っていたかもしれませんね。
この結社のメンバーを調べていくと蒋介石や李香蘭、わが国には山本五十六も米内光政も杉原千畝などの名前があがっています。マッカーサーもそのようですね。この結社については、次のサイトで詳しくレポートされています。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html#readmore

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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