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満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人口540万人の北海道に数千万の移民を送り込んだ国があったとした場合に、北海道の主権を大量の移民を送り込んだ側に認めるとするのがリットン報告書の考え方なのである。

眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来

そもそもその当時の満州地区の民族別の人口構成はどのようなものであったのだろうか。
昭和7年に出版されて戦後GHQ焚書とされた『眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来』という本があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。そこには満州国の版図と民族別人口構成についてこう記されている。

満州

満州国は普通われらが満蒙と呼ぶ土地の総称である。即ち奉天、吉林、黒竜江、熱河省の四省を含み、その面積は…日本の内地面積の約三倍にあたる。しかも人口は三千四百万、日本人口の半ばにも達しない。
 しかしこれを民族別的に観るときは、満州人の起こった所でありその郷土でありながら、現実には漢人によって大勢力を支配されその比率は漢人九十五に対し純満州人は五ないし十の割合にしか過ぎない。即ち新国家の旗のもとに生活する純満蒙人は二百万ないし三百万人で、他の多部分は漢人である。また新国家に参加する蒙古人は四~五十万人、日本人は昭和五年末の調査によると二十二万二百九十五人、同朝鮮人五万五千十一人である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442250/76

紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)
紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)】

1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した清(しん)は、満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であるが、清朝皇帝は満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していて、昔の人口は数百万程度にすぎなかったという。
ところが阿片戦争以降ロシアの南下の脅威が増大し、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して、次第に漢人の満州移住を認めていき、日清戦争以降は移住を全面解禁したのである。その結果三千万もの漢人が満州に流入してきて、住民の大多数が漢人となってしまったという。リットン報告書』では、満州人と漢人との関係についてこう述べている。

リットン報告書

満州人は漢人とほとんど完全に同化されている。もっとも吉林と黒龍江においては、なお少数、政治上重要ではない満州人の植民地があって、二か国語を話す満州人が残存している。中華民国の成立以来、満州民族はその特権的地位を失った。
 …満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ、彼ら・満州人の提議は容れられることがないため失望を感じつつあるという。満州人の血が流れているもののあいだには先帝(宣統帝・溥儀)に対する精神的な忠誠の念がまだ残っているといっても、顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない。」(ビジネス社『リットン報告書』p.268)

リットン調査団は漢人からの証言をそのまま鵜呑みにして、満州人は漢人と同化したと述べているのだが、そんなことは絶対にありえない。満州人による独立運動はかなり以前から存在していたことは少し当時の記録を調べれば誰でもわかる

故宮入りする前の幼い溥儀
【故宮入りする前の幼い溥儀

満州人の独立運動のことを書く前に、清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(ふぎ)のことを補足しておこう。溥儀は1906年に北京に生まれ1908年にわずか2歳10か月で第12代清朝皇帝(宣統帝)となった。
1911年に辛亥革命が起こり、翌年に溥儀は退位させられしばらく紫禁城で監視されながら生活していたのだが、1924年の北京政変で紫禁城から退去させられることとなる。

紫禁城の黄昏

清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』に、満州人による独立運動のことが書かれた新聞記事がいくつか紹介されている。

【1919年6月23日付 ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙】
増税したことと管理が腐敗したことにより、国民は満州皇帝の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満州王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満州朝廷の再建の望みはまだあるという声を耳にする。」(『紫禁城の黄昏(下)』祥伝社 p.58)

【1919年9月9日付 ノース・チャイナ・デイリー・メール紙】
シナで共和主義を試みたものの、蓋を開けてみれば能なしだと分かったということだ。シナの国土の屋台骨である商人階級や中流上層階級は、内輪争いにうんざりしている。どのような形にせよ、十八省に平和を保障する政府なら、人々は諸手を挙げて支持すると断じて疑わない。

前皇帝の復辟を望み、密かに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ。つまり、いかに荒療治であっても、共和制主義者を片付けて、かつての平和と繁栄を取り戻さなければならないのである
。」(同上書 p.70~71)

【1921年5月21日付 ノース・チャイナ・スタンダード紙(北京)】
「シナ当局が掴んでいる確かな報道によると粛親王(しゅくしんのう)*と前総督の升允(しょういん)が掲げた政策の目的は、シナで満州王朝を復古することである。しかし、もしこれができなければ、満州の君主制主義者たちは『満州人のための満州を』と叫びながら、まず手始めに奉天で、衰退に向かっている満州王国を再建することに望みを託すだろう、とその報道は付け加えている。これにはシナの官吏たちもびっくり仰天している。というのも、アタマン・セミョノフ**と粛親王が共同で推進する運動が、現在の外蒙古の深刻な情勢と絡み合うことを怖れているからだ。」(同上書 p.74)
*粛親王:愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)。清の皇族で、太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継いだ。
**アタマン・セミョノフ:白系ロシアの反革命派のコサック首長。


また同上書で、辛亥革命後に急進的な政治思想を持つ指導者たちが出版した『曙光』という雑誌に、1921年に発表された記事の一部が紹介されている。
「農民たちは自由が何を意味するかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。彼らが知っているのは、地税を払わねばならぬことと、日々の生活の糧を得る術だけである。村の市場へ行けば、次のようなことを尋ねてくる村人に出くわすはずだ。『宣統帝陛下はお達者か』とか『今は何方が宮廷を治めていらっしゃるのか』。そして何度も何度もこのような願いやら不平やらを聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちはどうなるのか。俺たちには、いいことなんぞ、ひとつも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』。」(同上書 p.60)

このように辛亥革命後の中国は混乱が続き、商人階級や中流上層階級のほか地方の農民の多くは満州人の王朝である清の復活を望んでいたのだが、この記事の出た1921年の時点の溥儀の年齢はまだ15歳と若く、監視されている紫禁城では外部の勢力と接触することは困難であった。

大正11年3月30日 大阪朝日新聞 粛親王遂に起たず

当時旅順にいた皇族の粛親王が、清朝の遺臣とともに清の復活のための活動をしていたのだが、志半ばにして大正11年(1922)3月に逝去されてしまっている。

その後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年の北京政変で馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳が北京を支配することとなり、紫禁城に軍隊を送りこんで溥儀とその側近らを紫禁城から強制退去させている。

レジナルド・ジョンストン
【レジナルド・ジョンストン】

溥儀は醇親王の王宮である北府に一時的に身を寄せたがその場所も安全ではなく、どこかの国の公使館に庇護してもらおうと動き出す。まず知人のいるドイツ病院に向かい、側近のジョンストンがイギリス、オランダ、日本の公館に対して庇護の依頼をしている間に、溥儀はジョンストンとは別に、自らの意思で日本公使館を訪れていたのである。

溥儀は約3か月間日本公使館に滞在した後、1925年2月から1931年の11月まで天津の日本租界で逗留生活をしたが、わが国はは決して歓待しなかったのである。ジョンストンの同上書にはこう記されている。
「1925年から1931年までのいつでも良い。万が一でも日本政府が、日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら、皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て、美しい京都の近郊か、天下無双の富士山の見える田園の別荘で、自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。だが日本政府は、皇帝にそのようなそぶりを見せなかったのだ。それどころか、日本や、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては、日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。」(同上書 p.367~368)

昭和6年10月1日 大阪朝日新聞 満洲独立を叫ぶ諸団体側面観

昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を機に、悪政を続けてきた張学良政権打倒を旗印として満州各地で独立運動が起きている。上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞だが、このような運動に関しては多くの新聞が報じており、注目すべきは日本軍がまだ進出していない地域でも発生しているという点である。
リットン報告書には「顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない」と記されているのだが、明らかな誤りであると指摘するしかない。

昭和6年9月30日 大阪毎日新聞 満蒙独立運動に絶対に干渉せぬ

上の画像は9月30日付の大阪毎日新聞の記事だが、このような満州の独立運動に関してわが国は、列国の誤解を招来することがなきよう、何人たりとも関与させないことを29日の閣議で決定したことを伝えている。

昭和6年11月4日 大阪朝日新聞 有力な人を得れば満蒙独立は可能

その後、各地でばらばらで動いてきた独立運動が、宣統帝溥儀を擁立することでまとまっていくのであるが、11月4日付の大阪朝日新聞で、地方維持委員会の袁金鎧(えんきんがい)は「信望のある有力者をして東北を統一せしむる」と答えている。溥儀が天津から動くのはその9日後の11月13日のことである。

昭和6年11月14日 大阪毎日新聞 宣統廃帝を擁立し満蒙独立国建設

そして11月14日付の大阪毎日新聞はこう伝えている。
「張学良政権倒壊後の東北には事実上これに代るべき実力者なく、一方満洲民族の名門たる清朝の末裔を擁立することは満洲のみならず蒙古を併合して独立国を建設するに容易なる事由があるので遂に宣統廃帝を擁立するに最後的決定を見、従来排擠的関係にあった袁金鎧、閻朝璽、于沖漢ら巨頭もこれに賛意を表するに至った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164248&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

『紫禁城の黄昏(下)』を読むと、溥儀はギリギリまで天津の日本租界にいて11月13日に自分の意思で満州に向かったとある。

ジョンストンはこう書いている。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。…皇帝は本人の自由意思で天津を去り満州に向かったのであり、その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。」(同上書 p.393~394)

満州国が正式に建国されたのはその翌年(1932)の3月1日で、元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いている。溥儀は満州族の皇帝として、満州族の故地に戻ることを決意したのである

満州国政府組織系統及重要職員表
満州国政府組織系統及重要職員表】

またリットン報告書には「満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ」とあるのだが、昭和7年(1932)版の『現代中華民国満洲国人名鑑』を確認しても、重要職のリストに22人中5人の日本人名を見つけることが出来るだけだ。しかも「長」という名の付くポストに就いたのは法制局長の三宅福馬ただ一人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238338/333

日本植民地の真実

わが国では満州国を日本や関東軍の傀儡国家とみなす歴史叙述が多いのだが、この点について黄文雄氏は『日本植民地の真実』でこう解説している。

満州国を『傀儡国家』と見なし、長城以北の諸民族の協和を目指す新国家の再建を否定するのは、明らかに『天に二日なく、地に二王なし』とする中華帝国史観の国家観に他ならない。現在、中国におけるかつての満州国の『正式呼称』は『偽満州国傀儡政権』である。満州国を呼ぶに際し、必ず『偽満州国』との言い換えにこだわるのも、中華絶対主義に基づく心理の表れだ。それに従う日本の学者は少なくないが、『偽満州国』論など鵜呑みにしては、歴史的事実は直視できなくなる。」(『日本植民地の真実』p.280)

確かにわが国は満州国の建国にあたり支援的役割を果たし、建国後も支援したことは事実である。しかし、出来たばかりの満州国が生き残るために、どこか強い国の支援を受けようとすることは当たり前のことではないのか
わが国が満州国を支援することは、無政府状態にあった満州の治安を回復させ居留民を守ると同時に、これまで多額の投資をしてきた満州における我が国の権益を守る目的から都合が良かったのであろうが、満州国もまた関東軍の軍事力により治安が回復し、満州が日本の支援により経済発展することを期待したことは間違いないところだろう。
このような互恵関係をわが国と結んだことで満州国が『傀儡国家』などと呼ばれるのであれば、世界中の小国のほとんどがどこかの国の『傀儡国家』になってしまうことにならないか。

このように満州国の成立に至るわが国の歴史記述はおかしなことだらけなのだが、なぜこのようなことになるのであろうか。このことは、もし満州人が独立国家をつくる動きがあった真実を歴史叙述の中で描いた場合にどうなるのかを考えればある程度察しがつく。
このブログで何度か書いてきたことだが、わが国民は戦後の長きにわたり『戦勝国にとって都合の良い歴史=自虐史観』を押し付けられ、学校やマスコミなどで繰り返し擦り込まれてきた。
よくよく考えればわかることなのだが、『自虐史観』というものは、関東軍なりわが国がよほど悪者でなければ成り立たない。もし関東軍が、治安が悪化していた満州におけるわが国の権益を守るために満州を平定した経緯や、満州国の成立が満州族の自発的な独立運動があったという史実がキチンと描かれていたならば、『自虐史観』は説得力を失うことは確実なのだ。

当時の記録などで事実と認定できる内容を大量に無視することで成り立っているような歴史観は、ネットなどで歴史の真実が国民に知られるようになるにつれていずれ消えていく運命にあると考えるのは私ばかりではないだろう。
中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html








関連記事
Comment
「中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。」

私もそれを願う一人でありまして、しばやんさんが、更新される記事は何時も興味深く、そして参考に為るものばかりです。ネット界隈にて、自虐史観を声高に主張する者に反論する際には、しばやんしんの記事を参考にさせて頂くこと、しばしばでございます。

これからもしばやんさんの記事を楽しく拝読させて頂きたいと存じます。
有り難うございます。
ありがとうございます
憂國トラッカーさん、嬉しいコメントありがとうございます。とても励みになります。

マスコミと歴史学会と教育界が戦後長らく『自虐史観』を支えてきましたが、マスコミの信頼度が地に落ちてきた今は、ネットなどで真実を広めていく絶好のチャンスなのだと思います。

また米中対立の高まりから、戦勝国にとって都合の良い歴史観が多様化する可能性が出てきました。これからは『中国や共産主義勢力にとって都合の悪い真実』が広められて、中国の弱体化を図る動きが世界で加速するのではないでしょうか。最近のアメリカの近現代史の見直しは、それを暗示しているように思います。
紫禁城の黄昏
画像が載っている「紫禁城の黄昏」祥伝社版、
日本の古本屋のサイトでは全て岩波文庫本のみ。
地元図書館には両方ありましたが、汚れていたのは岩波文庫本。
岩波文庫本には祥伝社版の第1~10章と16章は削除されている。
此の事を次回にでも記載して頂きたい。東京裁判で何故証拠として
「紫禁城の黄昏」が採用されなかったのかが理解出来ると思うが。
岩波書店本だから全文記載してある、と云う見方は捨てないと危険でしょう。
現在この本を読み始めたばかり。
序に「リットン報告書」も、「中央公論社版」「朝日新聞社版」「外務省版」の三冊を近代デジタルライブラリーからpdfとしてダウンロードし、簡易製本して併せて読み比べている最中。
Re: 紫禁城の黄昏
一色正人さん、コメントありがとうございます。

ご指摘の通りで、岩波文庫版は原著の第1~10章と16章が削除されています。

ではこの部分に何が書かれているかというと、第1~10章には満州族が清を建国した以降の歴史が滅亡後宣統帝が復辟した1917年までの歴史が書かれていて、16章には満州族が支那から独立する動きが書かれています。

『自虐史観』を広めようとする学者にとって都合の悪い部分を削除したことが明らかですね。
しかも、岩波文庫版では序章も歯抜けになっていて、抜けている部分は溥儀に忠実な清朝の人物の名前が出てくる部分だと言います。さらに、原文とは真逆のことを書いている部分があるそうです。
渡部昇一氏によると、岩波文庫のp.437は「皇帝がだれかに庇護を求めるとすれば、世界中で一番最後に残る人物が蒋介石と張学良であることは、あらためていうまでもない。」となっているそうですが、祥伝社版では「どう転んでも、皇帝は蒋介石や張学良のような連中に避難所をもとめるはずがない。」となっていて、原著の英文を見れば後者が正しいことが分かります。というより、文脈をたどればだれでもそう理解するところを、岩波文庫はの翻訳者は意図的かどうかはわかりませんが明らかに誤訳しています。
岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、読んでも意味がなさそうですね。次回の記事で書けるかどうかはわかりませんが、機会があればその点について触れておきます。

それにしても、三冊のリットン報告書を読み比べるというのはすごいですね。もしかすると日本語訳文は出版社によって、意図的に歪められている部分があるかもしれませんね。面白いことが判明したらご教示ください。






紫禁城の黄昏
「紫禁城の黄昏」の十中八九意図的な誤訳に章の欠落。連合国側に不利になり得る物は全てこの様な事が行われていたのでしょうか?
かなり闇は深そうですね。
Re: 紫禁城の黄昏
岩波文庫版を読まないと何とも言えませんが、この誤訳は文脈を追っていればありえないと思うので、翻訳者のただの英語力不足なのかもしれません。
渡部昇一氏の解説によると、この部分は原著ではこう書かれているとのことです。

I need hardly say that the last persons in the world to whom the emperor would have appealed sanctuary were Chiang Kai-shek and Chang Hsueh-liang;


章の欠落は、『自虐史観』論者にとっては都合が悪い内容だと考えたのでしょう。
学生時代には『岩波書店』の高いブランド価値を感じて、同社が主催する講演会などにも行きましたが、今は『岩波文化人』といわれている人々を殆んど信用していません。
中国のことを知りたいのなら石平さんの本をおすすめします
特に「なぜ私は中国を捨てたのか」はベストセラーなのでおすすめします!

他にも石平さんはたくさん本を出しているので是非、全部読んでみてくださいね!

石平さんは中国で一番賢い人です
Re: タイトルなし
芽衣子さん、情報ありがとうございます。

ご紹介いただいた本は未読ですが、石平さんの本は何冊か買って読んでいます。日本人の書いた本よりもずっと説得力があってわかりやすいですね。Youtubeやツイッターの発言も面白くて参考になります。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史