長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて
最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。

長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)には徳川氏の支配となったのだが、天正三年(1575)に武田勝頼がこの城を奪回しようとして長篠の戦いがはじまったのである。
1万数千の武田軍に包囲された長篠城には、城主の奥平信昌以下わずか500人ほどの兵しかいなかったのだが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかしながら兵糧蔵を焼失してしまって多くの食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められてしまう。そこで城主は家臣の鳥居強右衛門(すねえもん)を密使として岡崎城に送りこみ、徳川家康に長篠城の窮状を訴えて援軍を要請させることにしたのである。
鳥居強右衛門は5月15日の午後に岡崎城にたどり着いたのだが、城にはすでに信長の3万の援軍が到着していて家康の手勢8千と長篠に出撃する態勢であることを知る。そのことを一刻も早く長篠城に伝えようとして引き返すと、運悪く5月16日の早朝に武田兵に捕らえられてしまった。

武田兵は鳥居強右衛門に、「お前を磔にして、城の前に突き出す。そこで『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命は助ける」と取引を持ちかけ、鳥居はこれを承諾したのだが、翌朝城の前に磔(はりつけ)柱に裸で縛り付けられた鳥居は、武田との打ち合わせとは逆に「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。それまで持ち堪えよ」と大声で叫んだという。鳥居はその場で武田軍に突き殺されたのだが、この言葉によって長篠城兵の士気は奮い立ち、設楽原で織田徳川連合軍が武田軍を撃破するまで城を守り通すことが出来たという。
また自らの命と引きかえに長篠城の窮地を救った鳥居強右衛門は、地元奥三河の英雄として、今もなお人々に語り継がれている。
武田軍による攻撃で長篠城が大きく損壊してしまったこともあり、城主の奥平信昌は新しい城を築いて新城(しんしろ)城と命名し、長篠城は廃城となる。

その後長篠城址は長い間放置されたようだが、大正時代に鳳来寺鉄道(現・飯田線)が建設されて敷地が南北に分断され、さらに城の北側は破壊されて畑地や宅地の開発が進んでいった。昭和4年(1929)に城跡一帯が国の史跡に指定されて、ようやく開発がストップするのだが、本丸の大規模な土塁や本丸南の野牛曲輪など、古い遺構が今も残されている。

上の画像は長篠城址史跡保存館で、長篠城の籠城戦で用いられたという血染めの陣太鼓や鳥居強右衛門に関する資料、火縄銃や甲冑等の武具が展示されている。

次に訪れたのは設楽原歴史資料館(愛知県新城市竹広字信玄塚552 ☏0536-22-0673)だが、このあたりは設楽原(したらがはら)と言い『長篠の戦い』の決戦場となった場所で、内部には火縄銃のコレクションや、長篠の戦で用いられた弾などが展示されていて、資料館の敷地内に馬防柵が復元されている。

天正3年(1575)5月18日に織田信長・徳川家康連合軍3万8千が設楽原に着陣し、21日の設楽原決戦で武田勝頼軍1万5千と戦って大勝利を収めるのだが、この戦いで織田信長は「鉄砲三千丁・三段撃ち」を行ったと、学生時代に授業で教わった記憶がある。長篠城址史跡保存館、設楽原歴史資料館のパネルなどの解説もそのように記されていたのだが、今ではこの説は疑問視されているようだ。

信長に関する記録は、信長旧臣の太田牛一が著した織田信長の一代記である『信長公記』が最も信頼性が高いと言われているが、その書物には長篠の戦いについて、以下のように記されている。
「(信長は)酒井忠次を呼び、家康の軍勢の中から弓・鉄砲の巧みな者を集め酒井忠次を大将として二千ばかり、さらに鉄砲五百挺を持った信長のお馬廻り衆を加え、金森長近・佐藤秀方・青山新七の息子・賀藤市左衛門を検使として添え、合計四千ほどの長篠城救援部隊を編成した。
部隊は、五月二十日の戌の刻*、乗本川を越えて南の山地を回り、長篠の上、鳶の巣山へ五月二十一日辰の刻**に上り、旗頭(はたがしら)を押し立て、鬨(とき)の声を上げ、数百挺の鉄砲をどっと撃ちこんだ。こうして長篠城を包囲している武田勢を追い払い、城に入り、場内の味方と合流して、敵陣の小屋小屋を焼き払ったので、籠城の兵はたちまち運を開いた。武田方七部将に率いられた攻撃部隊は、突然のことであったから混乱し、鳳来寺をめざして退却した。
信長は、家康が陣取った高松山という小高い山に登り、敵方の動きを見て、命令するまでは決して出撃しないよう前もって全軍に厳命した。鉄砲千挺ほどを選抜し、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直正を指揮者とし、ついで、敵陣近くまで足軽隊を攻めかからせて敵方を挑発した。前後から攻められて、敵も出撃してきた。」(新人物文庫『現代語訳 信長公記』p.243~244)
*戌(いぬ)の刻:午後8時の前後2時間頃
**辰の刻: 午前8時の前後2時間頃

このように、『信長公記』では鉄砲の数は、決戦に使用された千挺と鳶の巣山の別動隊の五百挺と合わせて千五百挺程度であったことが読めるのだが、この鉄砲隊を相手に武田軍はどのように戦ったのか。
一番手の山形昌景も二番手の武田信廉(のぶかど)も鉄砲隊に撃ちこまれて退却した。
三番手以降の武田軍の戦い方を見てみよう。
「三番手には、西上野の小幡の一党。赤色の具足を揃えて、入れ替わって攻め掛かって来た。関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなしたから、小幡一党もまた騎馬で突撃する戦術で、攻め太鼓を打って突進してきた。味方は鉄砲の兵を揃え、楯に身を隠して待ち受け、撃たせたので、小幡隊も過半数が撃ち倒されて、兵力少数になって退却した。
四番手は、武田信豊の部隊が黒の具足を揃えて攻め掛かって来たが、こちらからは軍勢は一隊も出撃させず、鉄砲だけを増強して足軽であしらった。敵方は撃ち倒され、兵力を削がれて退却した。
五番手は馬場信春、攻め太鼓を打ち鳴らして攻め寄せたが、味方は鉄砲隊を揃えて撃ち払い、敵は前と同じく大勢が討たれて退いた。
五月二十一日の明け方から、東北東の方角に向かって未(ひつじ)の刻*まで、鉄砲隊を入れ替わり立ち替わらせて戦った。武田方は多くの兵が討たれ、しだいに兵力が少なくなって、諸隊とも武田勝頼の本陣に逃げ戻り、かなわないと悟ったのか、鳳来寺めざしてどっと退却した。」(同上書 p.244~245)
*未の刻:午後2時の前後2時間
その後、織田・徳川連合軍は武田軍を追撃し、この設楽原の決戦で武田軍の約1万の兵士を討ち取ったことが書かれているのだが、『信長公記』を読んで鉄砲隊が大活躍したことはよくわかるものの、「鉄砲三千丁・三段撃ち」というのはどこにも描かれていないのである。
では誰がこのような説を唱えるようになったのだろうか。
調べると、小瀬甫庵が元和八年(1622)に著した軍記物の『信長記』が初出で、この書物がこの戦いに関するイメージを変えてしまったようだ。

小瀬甫庵の『信長記』は国会図書館デジタルライブラリーで公開されており、問題となる部分はこう記されている。
「敵馬を入れ来たらば、間一町までも鉄砲打たすな。間近く引き受け、千挺づつ放ちかけ、一弾づつ立ち替わり立ち替わり打たすべし。敵なお強く馬を入れ来たらばちっと引退き、敵引かば引き付けて打たせよと下知し給いて…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771443/204
一町というのは109.1mで、当時の火縄銃は甲冑をつけていても50m圏内では弾が貫通し、生身の人間の場合は150~200m程度が殺傷距離であったという。弓の殺傷距離は80m程度なので、敵が1町(109.1m)の距離まで近づいてから撃つというのは、敵の弓が届かない安全な場所から攻撃するという合理的な考えのように思えるのだが、火縄銃は次の弾を撃つのに時間がかかるという欠点があった。
一発撃ったあとで銃身内の火薬残滓を洗い、水で湿らせた布で拭い、銃身を冷やしてから次の弾丸を装填し、火皿に火薬を入れるという作業が必要で、熟練兵士でも15~20秒程度かかってしまう。そんなに時間がかかっていたら、敵との距離が1町程度ならば、鉄砲隊が弾をこめている間に敵は弓や槍の殺傷距離内に到達することが可能となってしまう。
そこで小瀬甫庵は、織田・徳川連合軍が三千挺の鉄砲隊を三つに分けて、千挺ずつ交代で撃つことで銃の発射間隔を短縮して武田軍を圧倒したと描いたのだが、この戦いは『信長公記』によると6時間も続いている。連合軍がそのような戦法で臨んでいたならそんなに長く戦いが続いたことがむしろ不自然ではないか。

武田軍側の記録である『甲陽軍鑑』には、武田軍は徳川の陣に攻めかけて、柵の前に出て部隊を展開していた徳川軍が何度も柵の中に逃げ込んだことが記されている。武田軍が攻め込んだことも何度かあったものと思われる。
しかしながら、設楽原において鉄砲の数では圧倒的に織田・徳川連合軍が勝っていた。
『長篠合戦図屏風』を観ると、武田軍にも鉄砲は描かれているものの、数ではほとんど比較にならない。
また連合軍の鉄砲隊は直立して鉄砲を構えている絵が描かれているが、この姿勢は敵方の鉄砲や弓矢に対して無防備であることは誰でもわかる。ネットで馬防柵の構造を調べると、柵の前に空堀や土塁が作られていて、鉄砲隊の兵士たちは、このような堀や土塁に身を隠して弾を込めながら、敵を狙撃していたようなのである。
太田牛一の『信長公記』には、設楽原に到着したばかりの織田軍が、鉄砲戦に有利なように陣地に工夫をしたことが記されている。
「十八日、陣を進め、信長は志多羅(設楽)の郷極楽寺山に、信忠は新御堂山に陣を構えた。志多羅の郷は地形が一段窪んだところである。敵方に見えないように窪地に散らばして、軍勢三万ほどを配置した。先陣にはその地方の軍勢を充てるのが慣例であったから、徳川家康がころみつ坂の上、高松山に陣を布(し)いた。滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三人は揃って有海原に上り、武田勝頼勢に向かって東向きに布陣した。家康・滝川の陣の前に、騎馬隊の侵入を防ぐための柵を作らせた。」(同上書 p.242)
このような防御設備を準備した織田徳川連合軍と何も準備しなかった武田軍とが戦えば、どちらが有利かは言うまでもないだろう。

資料館には、すぐ近くの信玄塚の前で毎年盛大に行われている『火おんどり』(愛知県指定無形民俗文化財)に関する展示もあった。
長篠の合戦のあと地元の人々は両軍の戦死者を手厚く葬り塚を作ったのだが、そこに蜂が大発生して村人や近くを通る人馬に大きな被害が出て、村人たちは蜂の大軍を戦没者の亡霊と考えて、その霊を慰めるために松明をともして毎年供養することになったのだという。
資料館の奥から右に折れる道があり、しばらく進むと信玄塚がある。大きい塚が武田方、小さい塚が織田・徳川方の兵士を葬ったものだという。そして二つの信玄塚の間にある広場で、毎年8月15日の午後9時から『火おんどり』が行われるのだそうだ。
下の動画は5年前の火おんどりの映像であるが、戦国時代の長篠の戦の戦没者の慰霊の行事が、戦いから443年も経過した今もなお、地元の人々により継承されていることはすごいことである。
https://www.youtube.com/watch?v=I8P_jmyUIng
松明は大きなもので長さ2~3m、直径80cm程にもなるという。このような松明が70本近く、鉦や太鼓の囃子にのって8の字を描くように振り回されるのだそうだが、この迫力のある伝統行事を、一度この目で見たいものだと思う。
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【ご参考】
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織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した戦略を考える
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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