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綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか

前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。

徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。

富士山噴火

例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元禄地震)が襲い、宝永元年(1704)には浅間山が噴火し、宝永4年(1707)には宝永地震が襲ったのち富士山が噴火し、宝永5年(1708)には京都で大火(宝永の大火)が起きている。
綱吉の治世の後半の評価が特に低いのは、このような大火や自然災害がたて続けに起きたことと無関係ではなさそうだ。

そもそもこのような大災害が起こる前から、幕府の財政は火の車であった。
4代将軍家綱の時代に起きた明暦3年(1657)の明暦の大火で、江戸城や大名屋敷、市街地の大半が焼失してしまいその復旧支出が大きかったこともあるが、天領は約400万石と固定化されかつ米の価格は長期低落傾向にあり、一方貨幣を鋳造するための金の産出量は減少し、オランダとの貿易決済の為に多くの金貨が流出していた。そのために国全体の通貨量が不足して、デフレーションの状態に陥っていたのである。

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
徳川綱吉

綱吉が幕吏を集めてこの問題の解決策を問うた際に、荻原重秀は「他物を和剤して貨幣と為すに如くはなし。益を原材に取るなくして而してその数倍す。故にこれを便となす。」(『三王外記』)と答え、綱吉より貨幣改鋳の実行を命じられることとなったという。
そして元禄八年(1695)に荻原重秀は、貨幣の金銀含有量を下げて通貨量を増大させる小判の改鋳を行ったのだが、この点について一般的な教科書には次のように記されている。

元禄小判

「綱吉は、勘定吟味役荻原重秀(のち勘定奉行)の意見を用いて、財政再建の方法として貨幣の改鋳にふみきった。
 重秀は、金が8割以上も含まれていた慶長小判の質を落とし、金を6割以下に減らした元禄小判を大量に発行して、その差益を幕府の収入とした。しかし、財政の危機は一時的に救われただけで、これに伴う物価の値上がりが、庶民のはげしい不満をよびおこすようになった。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.166)

前回記事では綱吉の『生類憐み政策』が見直されつつあることを書いたが、通貨改鋳についての教科書の記述は昔も今も変わらず、荻原重秀は「インフレの元凶」ということになっている。

『勘定奉行 荻原重秀の生涯』

ところが、金沢大学の村井淳志教授は著書『勘定奉行荻原重秀の生涯』のなかで、荻原重秀を高く評価しておられる。私は、村井教授の説の方が通説よりはるかに説得力があると思うので、ポイントとなる部分を引用しておこう。文中の彦次郎は荻原重秀のことである。

「少なくとも彦次郎は、『実物貨幣から名目貨幣へ』という貨幣観を自覚的にもちながら、改鋳作業を指揮していた。これが、ローマ帝国以来、幾多の国々で行われた『後ろめたい』改鋳と、元禄八年の改鋳を決定的に区別する点である。太宰春台が書いたとされる『三王外記』という本の中に、次のような叙述がある。改鋳後の貨幣の質が悪いと批判されて、彦次郎が次のように言ったというのだ。
  貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。
  今、鋳 するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。
 これはまさに名目貨幣の考え方であり、『貨幣国定説』にほかならない。
 なぜ彦次郎は、ヨーロッパの経済学会よりも二百年も早く、名目貨幣の考え方に気づくことができたのか。それは日本が鎖国をしていて、比較的早く、金鉱フロンティアの枯渇に直面したからだ。ある程度以上の規模を持つ閉鎖経済圏で、しかも日本ほど金産出量に恵まれた地域は、ほかには見いだせない。金産出量が豊富だったから自国通貨を独占発行することができたし、閉鎖経済だったからこそ政府による名目貨幣の強制通用が十分可能だった。つまり、日本列島は、地球上で初めての名目貨幣の通用実験には、まさにうってつけの場所だったのだ。」(村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』p.117~118)

村井淳志
【村井淳志】

教科書などを普通に読むと、荻原重秀による貨幣改鋳はとんでもない物価上昇を招いたとそのまま鵜呑みしてしまうところだが、実際はそうではなかったようなのだ。
村井氏によると、『三貨図彙(さんかずい)』に記録されている米価や、『吹塵録』に記録されている幕府張り紙値段の推移から元禄期の貨幣改鋳後11年間の平均の物価上昇率を推定すると、名目で3%程度とかなり小さく、この程度で庶民の生活が困窮したとは思えないという。激しい物価騰貴を招き庶民は困窮したとする通説は当時の記録と矛盾しているのである。

改鋳の被害を受けたのは、庶民ではなくこれまで大判小判を退蔵してきた商業資本や富豪層であった。彼らは改鋳による貨幣価値の下落というリスクに直面して、金銀を退蔵してもその価値が低下していくばかりである。その結果、貯蓄から投資・消費へという金の流れが生じて経済が活性化したのである。この時期に香り高い元禄文化が育まれたことは荻原重秀の貨幣改鋳と無関係ではないようなのだ。

先ほど元禄期の貨幣改鋳後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度であったことを紹介したが、その間に起こった元禄16年(1703)の地震(『元禄地震』)は相模トラフ巨大地震と考えられていて、大きな津波が発生して関東を中心に非常に大きな被害が出ている。震源地は千葉県の野島崎と推定され、マグニチュードは推定7.9-8.5で地殻変動は関東大震災よりも大きかったと考えられている。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻』に、元禄地震に関する『武江年表』の記録が引用されているので紹介したい。
「十一月二十二日。宵より震強く、夜八時地鳴ること雷の如し。大地震、戸障子たおれ、家は小舟の大浪に動くが如く、地二三寸より、所により五六尺割れ、砂をもみ上、或いは水を吹出したる所もあり。石垣壊れ家蔵潰れ、穴蔵揺りあげ、死人夥しく泣き叫ぶ声巷(ちまた)に囂(かまびす)し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ津浪ありて、房総人馬多く死す。内川一ぱい差引四度あり。此時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の物凡そ二千三百人。小田原から品川迄一万五千人、房州十万、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時両国橋にて死せるもの千七百三十九人といえり。)…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/260

元禄地震の被害や津波の規模がWikipediaにまとめられているが、後に起こった江戸の火災を含めて死者は20万人を上回っていたようなのである。この年の2月に赤穂浪士46人が切腹したことから、この地震は浪士たちの恨みで起こった地震と噂されたようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87

この地震と火災で江戸城などにも被害が出たのだが、復興に必要な資金を荻原重秀は貨幣改鋳益などにより捻出して対処し、この災害においては『三貨図彙』や、『吹塵録』を見る限り、激しい物価騰貴は生じていないようなのだ。

宝永地震

ところが、元禄地震よりもさらに大規模な地震がその4年後に起きている。
宝永4年(1707)に起きた宝永地震は南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと考えられていて、推定されているマグニチュードは8.4から9.3。記録に残る日本最大級の地震とされている。

地震の揺れによる被害は東海道、伊勢湾沿い、紀伊半島で顕著であったが、房総半島から種子島までの太平洋海岸沿いでは、下田で5~7m、紀伊半島で5~17m、阿波で5~17m、土佐で5~26mの津波が襲い、各地で甚大な被害が出たことが確実なのだが、当時の記録は断片的なものはあっても、全国レベルの損害をまとめたものは残されていない。

東京大学地震研究所図書室のホームページに宝永地震について残されている記録が掲載されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001000

たとえば、土佐国の『弘列筆記』には次のような記録がある。
「宝永四年十月四日、朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるいいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもわる。大地二三尺に割、水涌出、山崩、人家潰事、将棊倒を見るが如し。…(その後)半時計(ばかり)あつて、沖より大波押入ると声々に呼わり、上を下へとかえし、近辺の山に迯(にげ)上る。…間もなく跡より大浪うち入り…西は小高坂井口、北は萬々久萬、秦泉寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで一面の海となる。大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈*もあるべきや…」
丈(じょう):約3.03m。1丈=10尺。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/cont/01/G0000002erilib/000/002/000002822.pdf?log=true&d=1534068611084

新井白石

また翌月には富士山が噴火し、その火山灰が広い範囲で降って、江戸にも大量に灰が積もったという。
新井白石は『折りたく柴の記』でこの日のことをこう記している。
「十一月二十三日午後参るべき由を仰下さる。よべ地震い、此日の午時雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ。…やがて御前に参るに、天甚だ暗かりければ、燭を挙げて講に侍る。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.126)

Wikipediaに宝永地震の全容がまとめられているが、建物や人名が失われただけでなく、不作により米が前年の倍近くなるなど諸物価が高騰したことが解説されている。

そして宝永6年(1709)1月10日に将軍綱吉がこの世を去った。
幕府の財政は厳しい状況にあったので、荻原重秀は再び貨幣改鋳を行おうとしたのだが、次期将軍家宣側近の新井白石がこれを阻もうとする。

折りたく柴の記

新井白石の自伝『折りたく柴の記』に、荻原重秀と議論した場面が描かれているので紹介しよう。白石が「貨幣改鋳は私の心にはない」と発言した後、荻原はこう反論している。

「初め金銀の製改(あらため)造(つく)られしよりこのかた、世の人私(ひそか)に議し申す事どもありといへども、もし此事によらずむば、十三年がほど、なにをもてか国用をばつがれ候べき。殊にはまた癸羊*の冬のごとき、此事によらずむば、いかむぞ其急難をば救はせ給ふべき。されば、まづ此事を以て当時の用を足され、これより後、年穀も豊かに国財も余りある時に及び、金銀の製むかしに復されんことは、いとやすき御事にこそあるべけれ。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.145-146)
*癸羊(みずのとひつじ):元禄16年(1703)11月22日の元禄地震と、29日の江戸の大火のこと

荻原は元禄地震や江戸大火のあとは、改鋳という方法によらなければ急場を救うことは出来なかったと主張したのち、今回も改鋳することによって当座の必要資金を確保するべきであることを述べたのだが、それに対して新井白石は次のように答えたと書いている。文中の近江守は荻原重秀のことである。

「近江守が申す所も、其いはれあるに似たれども、はじめ金銀の製を改造らるるごときの事なからむには、天地の災も並び至る事なからむもしるべからず。」(同上書p.146)

白石は、金銀貨幣の改鋳がなければ災害も起こらなかったかも知れないと述べたのだが、おそらく白石は綱吉の治世に大災害が相次ぐ理由は、徳川将軍家の祖法を守らず生類憐み政策や貨幣改鋳という悪政を行ってきた天罰であると本気で考えていたのだろう。

新井白石は第6代将軍家宣に3度に渡る罷免要求を繰り返し、正徳2年(1712)に荻原重秀を失脚させたのち、正徳4年(1714)に慶長金銀と同等な良質の貨幣(正徳金銀)を発行したのだが、そのために経済は縮小してデフレに逆戻りしてしまったという。

後世に荻原重秀の考え方が伝わらなかったことが影響してか、幕末になって通貨の大問題が起こっている。Wikipediaにはこう解説されている。

「実物貨幣から信用貨幣へのシフトという政策を支える経済理論が後世に伝わらなかったため、改鋳により金地金より高い価値を持つようになった金貨および南鐐二朱銀以降秤量貨幣から計数貨幣へ切り替わるとともに銀地金の数倍の価値を持つようになった銀貨の仕組みについて、幕府は金本位制が主流の欧米諸国を納得させる説明ができず、地金の価値に基づく為替レートを承認させられた。諸外国では金銀比価が金1:銀15に対し、日本では金1:銀5であった。その結果、金が国外に大量に流出し、流出防止のために金貨の価値を銀貨の価値に対し相対的に引き上げる必要が生じ、金貨の量目を低下させたので、インフレーションが発生し、日本経済は混乱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E9%87%8D%E7%A7%80

両替による利益獲得

幕末の外国人商人は、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替したのち国外に持ち出し地金として売却すれば、簡単に当初の3倍の銀貨を手にすることが出来たのである。結果としてどれだけの金貨が海外に流出したかについては諸説があるが、わが国は短期間に大量の国富を失ったことは確実だ。
幕府は量目を天保小判の3割以下とする万延小判を発行した
のだが、そのことがさらに経済の混乱を招いたという。Wikipediaは、こう解説している。

「新小判の発行に先立ち、1860年2月11日(万延元年1月20日)に、2月22日(2月1日)より既存の小判は含有金量に応じて増歩通用とする触書が出され、天保小判一枚は三両一分二朱、安政小判一枚は二両二分三朱通用となった。このため江戸では三倍もの額面の新小判に交換される旧貨幣を所持する者が群衆となって両替商へ殺到し大混乱に陥る騒ぎとなった。
これは激しいインフレーションを意味し、物価は乱高下しながらも、激しい上昇に見舞われた
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

幕末に萩原重秀のような人物がいたら、幕府は通貨発行益を得ることによって巨額の財政赤字で悩むことはなかったであろうし、開国後に欧米諸国が両替で荒稼ぎし大量の金貨が国外に流出するようなこともなかったと思われる。

田沼意次
【田沼意次】

荻原重秀と新井白石の関係は、以前このブログで書いた田沼意次と松平定信との関係に似ている。
荻原も田沼もある意味で近代日本の先駆者的な人物であったのだが、荻原は元禄地震や宝永地震に襲われ、田沼も明和の大火や天明の大飢饉に遭遇し、相次ぐ大災害にかこつけて妄言をまき散らす政敵に失脚させられ、正史の中で政敵により悪しざまに描かれたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-416.html

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html







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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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