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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。

シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。

その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。

丸山遊郭

『寄合町諸事書上控』という古文書は、長崎にあった丸山遊郭の出来事を記録したものだそうだが、その文政10年(1827)の5月7日付の文章が『長崎のおもしろい歴史』というホームページで紹介されている。当該のページのURLは次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

「恐乍口上書 引田家卯太郎抱遊女そのぎ21歳 上記の者去る未年より外科阿蘭陀人シーボルト呼入候処、懐妊仕りに付、御届申上候処 銅座跡親佐平方に於、昨夜女子出産仕り候段、抱主卯太郎申出候に付、此の段書付を以って御届申上候、 以上。」

なんとシーボルトに女児が誕生したのである。
記録では「遊女そのぎ」とあるが、上記URLでは
「シーボルトは来日草々長崎奉行の特別の計らいで、出島を出て蘭医吉雄、楢林家へ出帳し、日本人の患者を診察し治療した。
そのためオランダ商館に名医来るの評判が直ちに長崎の街中に広がった。
楠本瀧はこの時シーボルトの診察を受け、シーボルトと恋におちたと推測される。
二人は、程なくして、寄合町の引田家卯太郎宅へ赴き、何がしかの金子を支払い、瀧は遊女『そのぎ』の名義を借り、出島へ入ったのである」と解説している。

楠本瀧

遊女『そのぎ』の本名は楠本瀧だそうだが、古文書の通り遊女だったとする説と、遊女でなかったという説とがありどちらが正しいのだろうか。
いずれにせよ、シーボルトが瀧を本気で愛していたことは、シーボルトが出島に上陸した3カ月後の1823年11月15日に書いた伯父のロッツへ宛てた手紙を読めばわかる。
ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」にその手紙が引用されていて、その翻訳文が上記URLで読める。

「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」
そして同様の手紙を、母親のアポロニアにも出しているという。

そして文政10年(1827)の5月7日に二人の間に女の子が生まれてイネと名付けた。
このイネはどうやら出島で生まれたと考えるべきだろう。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に記していて(「唐人番倉田氏日記」)、その文政10年7月9日の記録では、
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/oine/index.html

出島は遊女以外に女性の出入りを禁止されていたために、乳の出る女性を遊女の振りをして入れざるを得なかったというのは面白い。こういう抜け道があるから、シーボルトが惚れた楠本瀧を妻としてではなく、遊女として出島に入れた可能性を感じさせる古文書でもある。

唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図

長崎歴史文化博物館に、当時出島に出入りしていた絵師の川原慶賀が描いた「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」という絵がある。この絵の中で緑色の帽子をかぶった男性がシーボルトで、後ろに立つ着物の女性は瀧で、抱かれている子供はイネだと言われている。
他にも川原慶賀がオランダ商館員たちの生活を描いた絵があり、長崎市立博物館に「宴会図」「玉突の図」にシーボルトと瀧が描かれているとされている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

シーボルトは、事件のあとオランダに帰国した際に、日本で採集した植物や動物の膨大な標本や絵図を持ち帰り、『日本植物誌』『日本動物誌』を著している。サクラソウ、スズキ、イセエビなど彼が命名したことにより、学名が確定したものが少なくないそうだが、彼が命名した中に妻の瀧の名前を入れた植物があるという。

Hydrangea otaksa

上の画像はシーボルトが『日本植物誌』に掲載したホンアジサイの図だが、これを彼はHydrangea otaksaと分類している。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10595694473.html

「お瀧さん(otakisan)」が”otaksa”となったのは、長崎の方言では「キ」が無声化するらしく、また最後の”n”がないのは、学名はラテン語を用いるのだが、ラテン語では語末が”a”で終わらないと、女性の名前にならないということらしい。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10596656979.html

シーボルト妻子像螺鈿合子

長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。

直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。
http://www.geidai.ac.jp/~s1306937/KautzschMAthesis.pdf

こう言う事を知ると、なぜシーボルトがオランダに帰国してからも、わが国が西洋列強に呑まれないように奔走したかがなんとなく見えてくる。
彼が日本に滞在した期間は決して長くはなかったが、瀧とイネを愛し、瀧の育った日本という国の文化や自然に魅了されたということではなかったのか。

Wikipediaによると、シーボルトが集めた植物の押し葉標本だけで12000点で、『日本植物誌』で記載されている種は2300種にも及ぶという。『日本動物誌』や大著『日本』もそうだが、日本という国を好きにならずして、そのような研究が出来るとはとても考えられないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

わが国は「オランダ風説書」により世界の情勢についての知識を入手していたことを学生時代に学んだ記憶があるが、Wikipediaによるとオランダが「阿片戦争」に限らず世界的な情報が提供されるようになったのは、1846年からだというが、このことは、オランダにシーボルトがいたのと無関係ではないような気がする。

前回の記事で、1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容を紹介したが、この文書を書いたシーボルトに日本を列強の侵略から守りたいという気持ちがあったと私は考えている。

シーボルトは江戸幕府から国外追放処分を受けている。瀧やイネに再開したいと思っても、日本国の鎖国が続くかぎりはそれが難しいことは少し考えればわかることだ。
シーボルトが再度日本の土を踏むためには、日本が外国に門戸を開かねばならず、しかもわが国が西洋列強に呑みこまれることなくそのことが実現できなければ意味がない。
シーボルトはそのために尽力したのではなかったのか。

安政5年(1858)に日蘭通商条約が結ばれ、江戸幕府のシーボルトに対する追放令も解除される。そして翌安政6年(1859)、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たし、文久元年(1861)5月15日に江戸幕府の外交問題の顧問として雇われている。しかしながらわずか4か月後の9月16日に幕府により解雇されているのだ。いったい何があったのか。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1861.html

調べると、外交問題の顧問に就任した13日後の5月28日に水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使らを襲撃した事件(東禅寺事件)が起きている。

東禅寺事件

この事件でシーボルトは負傷した浪人を手当てし、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べたという。しかし、このシーボルトによる幕府寄りの指導が、オランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買ったためにオランダ領事館から解雇処分を受けてしまったとされている。文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国し、その翌年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったという。
そして1866年10月18日、ミュンヘンで70歳の人生の幕を閉じた。

楠本イネ

シーボルトの娘の楠本イネは後に医学を志し、日本人女性で最初に産科医として西洋医学を学んだという。そのイネには娘がいて、その写真が今も残されている。シーボルトの孫娘でもある楠本高子は、今でも美人で十分通用する女性である。

楠本高子

慶応2年(1866)にシーボルト門下の三瀬諸淵と結婚するも明治10年(1877)に夫に先立たれ、その後医師の山脇泰助と再婚し、一男二女を生むが、結婚7年目にまたもや夫に先立たれている。
彼女の身の上話が、最初に紹介した『長崎のおもしろい歴史』というホームページに掲載されている。当時は今以上に混血児として生きることは今よりもはるかに厳しい時代であったろう。イネも経験しただろうが、高子も何度も辛い思いをしたことが書かれている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html

その文章の前半に、シーボルトが2度目の来日を果たし、江戸幕府の顧問となった時に高子の夫である三瀬を連れて行ったという記述に注目したい。

「祖父が江戸に招かれました時も三瀬はついて行きました。
祖父が江戸のエライ方々とお話をいたします時に、福地源一郎さまや、福沢諭吉さまが通弁に当たられましたが、どうにもよく話が通じません。祖父もやきもきいたしましたが、そのような時に三瀬が通弁をいたしますと、忽ち話が通じまして、幕府の方々とスラスラと話が通じたということもうかがっております。
ところが、やはりそうした出過ぎたことが宜しゆうございませんでしたようで、公儀の役人を差しおいて僭越の段不都合とお思いの方もあったものと見えます。
祖父が江戸を去りますと、三瀬は町家の出でありながら身分を弁えず、宇和島藩士と称して帯刀をしたという廉で佃島(つくだじま)に永牢申しつくということに相成りました。
しかし、三瀬は獄中でも医者としての本分を忘れず、役人の病を治療したりいたしまして、それに宇和島の伊達さまのお力添えもございまして、元治元年(1864)に出獄となりました。…」

幕府の偉い役人たちがいくら外国人と話をしても通じず、三瀬が通訳すると相手に通じたということが妬まれて、些細なことで牢屋に入れられてしまった。ようやく再来日を果たしたシーボルトを追い出したのも、こういう役人連中ではなかったか。
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匿名
しばやんさんのブログを読んでたら面白いのでコメントさせて頂きます。
今でも 九州は、シーボルトから薬の作り方を習ったという 製薬会社が沢山あり 先祖代々で愛用してる人も沢山います。
私は、吉田松花堂の諸毒消丸を子供の頃から愛用してますけど 引っ越し先で進めると また愛用者が増えるという状況です。
シーボルトの作る薬は、現代医学以上のものがあったと思います。
Re: 匿名
ネットで調べると、諸毒消丸は和漢の生薬でできているようですね。
吉田松花堂の初代がシーボルトから学んだとしても、この薬の生薬の配合までシーボルトから学んだものなのでしょうか。
吉田松花堂のホームページでは、初代が生薬を配合して創製したように書かれているようです。
http://sf.kcn-tv.ne.jp/users/shokado/page4.html

P.S.できたら「匿名」ではなく、ペンネームやニックネームなどで名前蘭の記載をお願いします。
匿名
吉田松花堂は、ホームページでは、シーボルトから習ったとは、書いてませんけど現在の当主から初代は、シーボルトから薬草や薬のことを習ったと聞いてます。
吉田松花堂の建物を見るととっても薬を製造してるような様子には、見えませんけど 当主は、昔 近所の会社で仕事していて 薬を作る時は、仕事を休むそうです。
当主は、私の友人が同じ会社で仕事をしてたので 私も何度かお伺いしたこともあります。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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