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源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか

源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で幼名を牛若丸と呼ばれ、父の源義朝が敗死した後に鞍馬寺に預けられ、その後奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護をうける。

義経

兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で活躍し、平氏を滅ぼした最大の功労者であるのだが、その後頼朝と対立して朝敵とされ、再び義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉に赴いた。しかし、義経を匿っていた秀衡は文治3年(1187)10月29日に病没してしまう。
源頼朝は、秀衡の死後秀衡の後を継いだ藤原泰衡に義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけ、泰衡は鎌倉の圧力に屈して、文治5年(1189)閏4月30日に義経主従のいる衣河館を襲い、義経は妻・娘とともに自害したことになっている。享年は31歳、妻は24歳、娘は4歳だったという。

しかし、義経がこの時に実は生き延びていたという説がかなり古い時代から存在する。
蝦夷地から大陸に渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったという説まであるが、何になったかはともかくとして、生き延びていた可能性は多くの人が論じている。
今回は、この問題を追ってみることにしたい。

藤原秀衡

この問題に興味を感じることになったのは、義経を匿った藤原秀衡が「義経をもって主君となし、泰衡、国衡の兄弟はこれに仕えよ」との遺言を残していることを知ったからである。秀衡は、ただ単に幼少の義経を知っていたから助けたというのではなさそうだ。奥州平泉の運命を義経に託して、北条氏の支援を受けた頼朝と戦う政治的決断を下したと理解すべきだと思われるのだ。

藤原秀衡の遺言については当時の複数の記録が残っている。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の文治三年(1187)十月二十九日には、
「今日、秀衡入道、陸奥国の平泉の館において亡くなられた。最近、重病によって心細く思ったのか、前伊予守の義経を(奥州)の大将軍として、国務を執らせるように、泰衡以下に遺言していたという。」
とあり、また公家の九条兼実の日記『玉葉』の文治四年(1188)正月九日には
「ある人が言うには、去年(1186)の九月か十月頃、義経は奥州にあったが、秀衡はこれを隠して置いたという。去る十月二十九日、秀衡が死去の折り、秀衡の息子たち(兄は前妻に産ませた長男、弟は現在の妻の長男である)は、融和を計り、(秀衡は)先妻に産ませた長男に、当時の妻を娶らせたようだ。そして各自が秀衡の言いつけに逆らうつもりはありませんという起請文を書かせた。同じ起請文を義経にも書かせ、『いいか、義経殿を主君として、ふたりはこれに付き従うべし』との遺言を告げた。こうして三人は志を同じくする同士となり、頼朝の計略を襲う対抗策を練ったと言うのである。」
と書かれている。
http://www.st.rim.or.jp/~success/H_igon.html

通史では、義経は藤原泰衡に攻められて自害したことになっているのだが、通史が真実であったとすれば、泰衡が父である秀衡の遺言に背いたことになるのだ。

吾妻鏡

吾妻鏡』には、義経が自害したという第一報が鎌倉に伝えられた時のことがこのように書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118905.html

「五月二十二日 辛巳
申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔(藤原基成)の館に於いて與州(源義経)を誅す。その頸(くび)送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せらる。御消息に曰く、
去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。」

義経が自害したという第1報が鎌倉に着いたのが、事件から23日目というのはかなり遅く、義経の死を確認しようにも義経の首がない。あとで送るとは書かれているが、信用していいのかどうか。
しかも、報告の主は、秀衡の遺言により義経とともに奥州を治めよと言われた藤原泰衡本人である。藤原秀衡の遺言の内容については鎌倉の源頼朝らには周知のことであったから、この泰衡の報告を素直に受け取るとはとても思えない。

その後に、義経の首が届くことになる。その記録は『吾妻鏡』によるとこう書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118906.html

「六月十三日 辛丑
泰衡の使者新田の冠者高平、與州(源義経)の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ、清美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は、自らその獲を擔う。今高平は、人をして彼の首を荷なわしむ。観る者皆双涙を拭い両の袂を湿すと。」

文治5年六月十三日を次のURLの計算式を使って西暦に変換すると、1189年8月3日だ。
http://can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html
いくら清酒に漬けていたにせよ、夏の暑い時期に腐敗が進まないはずがないではないか。死んでから43日も経った義経の首実検が行えるような状態であったとはとても思えない。

藤原泰衡は、源義経の首を差し出せば奥州平泉の平和は保てると考えたのか、義経とは違う首を送ったのか今となっては良くわからないが、鎌倉の頼朝は藤原泰衡を信用しなかったのか、初めから奥州を征伐するつもりであったのだろう。
7月19日に鎌倉は源頼朝自らが出陣し、奥州追討に向かうことになる。
8月11日に総大将の藤原国衡が敗れ、8月21日には奥州平泉は炎上し平泉軍は敗走し、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じることになる。

8月26日に源頼朝の宿所に泰衡の書状が投げ込まれている。『吾妻鏡』には、この書状がどのような内容であったかが記されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118908.html
「伊豫国司(源義経)の事は、父入道(藤原秀衡)扶持し奉りをはんぬ。泰衡全く濫觴を知らず。父亡ぶの後、貴命を請け誅し奉りをはんぬ。これ勲功と謂うべきか。而るに今罪無くして忽ち征伐有り。何故ぞや。これに依って累代の在所を去り山林に交ゆ。尤も以て不便なり。両国はすでに御沙汰たるべきの上は、泰衡に於いては免除を蒙り、御家人に列せんと欲す。然らずんば、死罪を減ぜられ遠流に処せらるべし。もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。」

要するに、義経のことは父秀衡が保護したものであり、自分はあずかり知らぬことである。父が亡くなったのちに、貴命に従い私が義経を討ち取ったことは勲功と呼ぶべきであり、なぜ私を征伐されるのか。自分を許して、御家人に加えてほしいと、命乞いをしている文書である。これを頼朝は受け入れず、泰衡は味方に殺害されて首を頼朝に届けられたとある。

しかし源氏方は、奥州藤原氏は片づけたものの、義経については死んでいることの確信がなかったのではないのか。

吾妻鏡』には、源義経らが兵を率いて鎌倉に向かうとの噂が立っている旨の記録がある。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118912.html
「12月23日 戊申
奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州 (源義経) 並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと。仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す。 」
そして、その翌日は早速奥州に兵を送り込んでいることが書かれている。
「12月24日 己酉
工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり。 」
これらの経緯を読めば、源頼朝がいかに義経を怖れていたかが見えてくるし、義経が生きているとの可能性を否定できなかったということではないだろうか。

『吾妻鏡』を読み進むと、年が明けて文治六年(1190)正月六日には、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119001.html
「奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北  郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。…」とある。

この時点で義経が生きているかどうかは分からないが、義経と名乗る人物や木曽義仲の嫡男の朝日冠者と称する人物が、反頼朝で決起したことが書かれているのだ。

反頼朝勢力からすれば、義経が生きているにせよ死んでいるにせよ、生きていると思わせることが、戦略上都合の良い事であったことは誰でもわかる。作り話でいくらでも相手を攪乱することができるし、自らを「義経」と名乗れば、相手はそれだけで警戒することになるし勢力を分散させることも可能だ。
だから、東北には義経が生き延びて逃避行を続けたという伝説があちこちに残ることになったと考えることはできないか。

また江戸時代になると、いろいろな書物で義経が蝦夷地に渡ったことが書かれるようになる。次のURLが良く調べておられて非常に参考になる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yositune.html

林羅山・鵞峯父子が徳川幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(1670年)の義経の条に、異説と断った上で「衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス」と記されているそうだ。

徳川光圀

また徳川光圀が著した『大日本史』の義経列伝の中で「世に伝う、義経、衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至る。」と書き、さらに「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」と、『吾妻鏡』の記述を批判している。

さらに新井白石も『蝦夷記』の中で、「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミといい、飲食する毎にいのりをささげている。」また「蝦夷地の西部の地名に弁慶崎というのがある。一説によると義経はここから北海を越えて去った…」と記しているそうだ。

チンギスハン

子供の頃に、源義経が成吉思汗になったという説を読んだことがある。この説は今では完全に否定されているが、最初に唱えたのは、幕末に日本に来たドイツ人医師のシーボルトだそうだ。彼の著書の『日本』(1832年)には、こう書かれているのだそうだ。

シーボルト

「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には「豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン河のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」
この説は江戸時代ではあまり広がらなかったが、大正から昭和初期にかけて急速に広がることになるのが面白い。

上記URLに非常に鋭い指摘がなされている。
「そもそも、義経の蝦夷脱走説自体が、徳川幕府のアイヌ統治政策に利用されてきた経緯がある。1799年に北海道の平取に義経神社ができているが、その創建者は幕府の蝦夷地御用係近藤重蔵であった。」
「1932年は満州国建国の年である。日本が南下を狙うロシアとの長年にわたる抗争の末、何万人もの犠牲の上にようやく手に入れた領土である。しかし、五族協和の謳い文句とは裏腹に、中国における排日運動、国際的な孤立を生む。義経=成吉思汗の伝説が、大陸侵略を正当化するために利用されたのである。」
「義経伝説は「判官贔屓」の日本人の心情をうまく利用しながら、その裏側で常に北方国策の影を引き摺りながら成長していったのである。」

要するに、江戸時代にはアイヌ統治のためには義経が蝦夷を統治したという話が広められ、昭和初期に満州統治の為に義経=成吉思汗説が広められ、このようにして、義経北行伝説がどんどん大きな話になっていったということのようなのだ。

歴史にロマンを感じるのはいいが、時代によっては権力者は、権力にとって都合の良いようにそのロマンを利用することがある。
単純に面白い説をただ鵜呑みにするのではなく、真実なのか偽史なのかを史料などを確認しながら見抜く力を持つことが、重要なのだと思う。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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