HOME   »  鎌倉時代  »  謎に包まれた源頼朝の死を考える

謎に包まれた源頼朝の死を考える

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の目次を見ると、建久七年(1196)から建久九年(1198)年の記録がないことがわかる。厳密にいうと建久六年(1195)の十二月二三日から建久十年(1199)の二月五日までの3年以上の長きにわたり、『吾妻鏡』には何も記録がないのである。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma00-00mokuji.html

吾妻鏡』に記録のない年は他にもあるのだが、これだけ長い間にわたり記録がないのは、この期間だけである。
上記URLでは「欠落」という言葉を用いているが、『吾妻鏡』の第十五巻は建久六年で終わっており、第十六巻は建久十年から始まっており、編集段階からこの期間に記録が残されていないことになる。
この間に鎌倉幕府にとって特筆すべき事項が何もないのであれば問題はないが、実際にはこの期間に鎌倉幕府にとってかなり重要なことが起こっているはずなのである。

源頼朝

その重要なことというのは、この間に鎌倉幕府を開いた源頼朝の死につながる何らかの出来事なのだが、そのことが鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にほとんど記述されていないことは極めて不自然であると思うのだ。
今回は源頼朝の死をテーマに書くことにしたい。

源頼朝は建久十年(1199)の一月一三日に頼朝が病死したとされているが、その根拠となる史料はいくつか残されている。
まず、建久九年(1198)の十二月二七日に関して、このような記録が残されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119800.html

承久記

【承久記】(作者不明。承久三年(1221)の承久の乱を記した合戦記)
「相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。」

【保暦間記】(作者不明。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を記した歴史書)
「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義  廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」

【神皇正統録】 (作者不明。後鳥羽天皇に至る間の諸事件を神国思想に基づき編年記 風に略記した史書。)
「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する  所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」

「歴史書」と呼ばれる史料に書かれていることが必ずしも史実であるとは限らない。
『保暦間記』には、頼朝が滅ぼした義経や安徳天皇の亡霊までが登場しているが、これは作り話としか思えない。
しかし、3つの史料で建久九年の12月27日の記録に共通している次の2点については概ね真実と考えて良いのだと思う。
・御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席した。
・その後ひどく体調を崩した。

また、頼朝が翌年の一月一三日に亡くなったことについては、『北條九代記』『承久記』『愚管抄』『明月記』に記録されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119901.html

吾妻鏡

『吾妻鏡』にも頼朝の死について書かれているが、頼朝が死んで13年もたった後の延暦二年二月二八日に、申し訳なさそうにこう記しているだけだ。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma20-02.htm
「相摸國 相摸河橋 數ケ間朽損す。…去る建久九年、重成法師之を新造す。供養を遂げる之日、之と結縁の爲、故將軍家渡御す。還路に及び御落馬有りて、幾程を經不(いくほどをへず)薨り給ひ畢(こうむりたまいおわんぬ)。」
と、内容は『神皇正統録』と同様に、落馬されてそれからほどなく亡くなった旨のことを簡単に書いている。

頼朝の死因についてはこの『吾妻鏡』や『神皇正統録』を論拠として、落馬が原因とする説が多いようだが、私には落馬による怪我が原因で死亡するというのは、勇猛な武将の死に方としてはどうもピンとこない。わが国の在来種の馬は決して大きくないし、落馬が原因で死ぬとは考えにくい。落馬はしたかも知れないが、落馬が直接の死因ではなかったのではないか。

往路は問題なく馬に乗って相模川まで来たにもかかわらず、帰りは馬にも乗れない状況に陥ってしまった…。もしかすると、相模川の橋の落成式に参加した頼朝に、毒でも盛られたのか、余程体調が悪かったなかで病状が急変した、と考える方がより説得力がありそうだ。

稲毛重成

ところで、橋の落成式で名前の出ている「稲毛重成」はどんな人物なのだろう。

Wikipediaによると、
「桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。武蔵国稲毛荘を領した。父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。」

「治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、 隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し御家人となる。その後頼朝の正室政子の妹を妻に迎え」と書かれている。もともとは頼朝と敵対する平家の武将であったが、治承4年10月には頼朝側につき、頼朝の妻である北条政子の妹を妻とした、ということは、稲毛重成にとって源頼朝は義兄であり、初代執権北条時政は義父ということになる。このような関係であれば、北条時政も娘の供養のために出席していたであろうし、時政がその気になれば、頼朝に毒を盛ることくらいは容易なことではなかったか。

実際に頼朝亡きあとに鎌倉幕府の実権を握ったのは、言うまでもなく北条氏である。
また頼朝が死ぬ前後に、頼朝に近い人物の多くが相次いで死んでいる。時系列で書くとこのようになる。
建久八年(1197)七月十四日 頼朝の長女・大姫死亡(20歳)
建久十年(1199)一月十三日 頼朝死亡 
正治元年(1199)六月三十日 頼朝の次女・三幡(さんまん:14歳)死亡
正治二年(1200)一月二十日 鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時一族滅亡
建仁三年(1203)九月二日  鎌倉幕府の有力御家人・比企能員一族滅亡
元久元年(1204)七月十八日 頼朝の嫡男で第二代将軍であった源頼家暗殺される(23歳)
元久二年(1205)六月二二日 鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠一族滅亡
元久二年(1205)六月二三日 鎌倉幕府の有力御家人・稲毛重成殺害される。
建暦三年(1213)五月三日 鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛一族滅亡
建保七年(1219)一月二七日 頼朝の次男で第三代将軍であった源実朝が暗殺される。実朝を暗殺した源頼家の子・公暁は、同日北条氏により暗殺される。

これだけ多くの人物が、短期間に死ぬことはどう考えても異常な事であり、これらの事件の多くは北条氏が絡んでいるようなのだ。

このようなことになった背景を調べると、頼朝が朝廷の関係をどうしようとしていたかという問題にたどり着く。

つまるところ、頼朝は平清盛と同じことをやろうとした。
頼朝は朝廷に近づき、朝廷への影響力を得るために、長女の大姫を入内させ、外戚としての地位を得ようとした。そのために多くの富を費やしたのだが、そのことが朝廷内に反幕府派の台頭を招き、多くの御家人の支持を失う結果となったと言われている。

九条兼実

頼朝は長く続いた院政に批判的な関白・九条兼実(くじょうかねざね:上画像)の協力を得て建久三年(1192)に征夷大将軍の地位を得るのだが、その頃の朝廷は九条兼実らの親幕派と、土御門通親(つちみかどみちちか)らの院政を支持する反幕派とに分かれていた。
  ところが、後鳥羽上皇の中宮に入っていた土御門通親の娘が男子を生んで、皇子の祖父となると力を持ち始めて、親幕派の九条兼実が建久7年(1196年)11月に関白の地位を追われて失脚してしまう。(「建久七年の政変」)

また、入内させようと準備していた頼朝の長女・大姫が、建久八年七月に病死してしまう。
愚管抄』の七月一四日の記録はこう書かれている。
「京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と  云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。
能保(よしやす)が子高能(たかやす)と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。」
頼朝は大姫の入内を、反幕府派の土御門通親から仕掛けられていたらしいのだが、『愚管抄』によると、大姫は京から送られてきた修験者に祈り殺されたと書かれている。
能保とその子高能というのは、頼朝と朝廷内の親幕派をつなぐ役割をしていた一条能保とその子の高能だが、この二人も建久八年十月に能保が、建久九年九月に高能が、相次いで亡くなっている。

土御門通親

実は建久九年(1198)の正月に重要な出来事が起こっている。
後鳥羽天皇は土御門通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、土御門通親(上画像)は天皇の外戚としてさらに権勢を強めたのだ。

頼朝はさらに次女・三幡姫の入内を企て、女御の宣旨を受けたのだが、既述したようにその年の十二月二七日に、相模川の橋供養帰路で倒れてしまう。

頼朝は翌建久十年(1199)一月十三日に亡くなり、頼朝が入内させた次女の三幡姫は、三月五日に発病し、六月十二日には目の上が腫れるようになり、六月三十日に亡くなっているという。おそらく毒を盛られていたのだろう。

頼朝についてはもともと病気であったという説もあるが、こういう経緯を知れば知るほど、頼朝も頼朝につながる人々も、ほとんど全員が殺されたのではないかとも思えてくる。ほとんどクーデターとよぶべきことがこの時期に起こったと考えた方がずっとスッキリするのだが、このようなことがらについてはどこにも公式な記録が残らないので歴史には叙述されることがない。

暗殺をはかった勢力は、武士の国を作るために頑張って来たにもかかわらず頼朝が朝廷に近づこうとするのを快く思わなかった反頼朝の御家人グループ(北条時政ら)か、頼朝が外戚としての地位を得ることを許さなかった朝廷の反幕府グループ(土御門通親ら)のいずれかか、その双方であろう。

このブログで何度か書いているのだが、つまるところ「正史」というものは、時の権力者にとって都合の良いように書きかえられた綺麗ごとの歴史にすぎない。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の空白の3年間は、源頼朝にとっての綺麗ごとの歴史が、北条家にとっての綺麗ごとの歴史にとってかわるときに、北条家に近い人物が北条家にとって都合の悪い部分を抜き取ったと考えるべきではないか。
だとすれば、鎌倉時代の第一級史料と呼ばれる『吾妻鏡』を読んで、表面的な事実は知り得ても、その背景にある歴史の真実は一部しか見えて来ないことになる。
この時代で、頼朝が悪役にされ、義経が英雄に祭り上げられることが多いのは、北条家にとって都合の良い公式史料が残され、それに基づいて多くの物語が作られたことと無関係ではないのだろう。

いつの時代でもどこの国でも、権力闘争は醜くドロドロとしたものであるのが当たり前だと思うのだが、ドロドロした醜い部分は公式的な史料にはほとんど残らないものである。
歴史の真実は、同じ時代に立場の違う人々が何を書いているかを読み比べることによってようやく垣間見えてくるものであり、「正史」だけではほとんど見えて来ないものではないだろうか。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル