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聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。

たとえば『もういちど読む山川日本史』の本文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については本文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。
仁徳天皇陵
その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日本史』による解説によると
「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは、地方の首長がしだいにヤマト王権の身分秩序に編入され、服属するようになったことを物語るものであろう。」(p.14)
と記述されている

しかしよくよく考えると、文化が伝播することと特定勢力が領土を拡げることがイコールであるはずがなく、また古墳などの遺跡調査だけで大和朝廷の統一時期を4世紀前半と推定できるものでもないだろう。
昔の教科書にどこまで書かれていたかは記憶していないが、4世紀前半に大和朝廷による統一がなされたとする論拠として『日本書紀』における記述が挙げられていたと思う。ポイントになるのは崇神天皇と景行天皇だ。

第10代崇神天皇は3世紀に実在したと考えられている天皇で、『日本書紀』の記述によると、天皇は四人の皇族を将軍に任命し、北陸・東海・西道(にしのみち:山陽)・丹波(山陰)に派遣した。この4人のことを「四道将軍」と呼ぶが、「四道将軍」は敵対する勢力を討ち破り、天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の称号を得たという。
この称号の「御肇国」の意味は「はじめて整った国を治める」という意味で、ちなみに初代の神武天皇も「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれ、この意味は「はじめて天下を治める」という意味なのだそうだ。

また第12代景行天皇は4世紀前半に活躍したとされる天皇で、『日本書紀』の記述によると、皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を遣わして、九州の熊襲と東国の蝦夷を征討したことが書かれている。

今の教科書では、神話や伝承を表に出さず、一見科学的な考古学の成果を強調して、4世紀後半以降に皇室の祖先を中心とする勢力がわが国を統治した、という結論だけが承継されている印象があるのだが、そもそもこの結論は信用するに足るものなのだろうか。
隋書倭国伝

中国の正史である『隋書倭国伝』に、倭国が隋に2度使者を派遣し、隋も倭国に1度使者を派遣した記録がある。それをよく読むと、わが国の通説となっている歴史解釈と矛盾することが書かれていることに気が付く。

一度このブログで聖徳太子のことを書いたときにこの部分を引用したことがあるが、再度引用させていただく。

1回目の記録は、
隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している
。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)
煬帝

2回目の記録は、
隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…
倭国王は小徳阿輩台(しょうとくあほたい)を数百人の供揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして隋使裴世清を迎えさせた。倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで
…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と、隋の使者は倭国王に面談しているのだが、『隋書倭国伝』に書かれている「倭王」とはいったい誰のことなのか。
普通に考えれば天皇という事になると思うのだが、その頃在位していた天皇は推古天皇(在位592-628年)であり女帝である。しかし第1回目の使節派遣(600年)の記録では倭国王の妻の名前が記されている。『隋書』の記述だと、当時の倭国王は男性でなければならないのだ。しかも『隋書』には倭国王の太子の名前まで記されている。
日本書紀下
これらの『隋書』の記述に対応する『日本書紀』の文章を探すと、第1回目の使節派遣の記録がない。第2回目の使節派遣については確かに推古天皇15年(607)に記事はあるのだが、極めて短いものである。
「秋7月3日、大礼小野臣妹子(だいらいおののおみいもこ)を大唐(もろこし)に遣わされた。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.99)

有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」という国書のことは、『日本書紀』にはどこにも書かれていない。
聖徳太子
学生時代に聖徳太子が遣隋使を派遣したと学んだ記憶があるのだが、『日本書紀』の遣隋使に関わる記述には聖徳太子のことが全く書かれていないことは意外だった。
聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に19歳で皇太子となり、摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で、聖徳太子の事績が記録されているのに、なぜか遣隋使に関しては、翌年に小野妹子が帰朝し隋の使者裴世清を饗応した記事も含めて、どこにも「皇太子」という字が出てこないのである。
このことは次のURLの『日本書紀』の全文テキストファイルを全文検索することで、誰でも確認することが出来る。
http://www.j-texts.com/jodai/shokiall.html

今までの常識にこだわらずに、『隋書』と『日本書紀』の遣隋使に関する記述を読み比べてほしい。普通の人が普通に読めばどちらかの記述がおかしいことになるのだが、『隋書』には嘘を書く動機は考えにくいので、以前このブログで聖徳太子のことを書いたときには『日本書紀』の記述には重大な嘘があるとしか考えられないと書いた。
その時は、それ以上深くは考えなかったが、最近読者の方から別の見方があることを教えて頂いた。その見方というのは、わが国はその時点では統一国家ではなかったというものなのだが、紹介いただいた論文にすごく説得力があるのだ。

その詳しい内容は次回以降に書くことにするが、その情報を知ってから好奇心に火がついて、もう一度『隋書』を読み直してみた。
隋の煬帝が608年に裴世清を使者として倭国に派遣したときに、どのようなルートで倭国に着いたかが書かれている。その部分を紹介したい。

「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に?羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、?羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

最後の文章は筑紫国と倭国とは別の国であったと読むのが普通ではないのか。そもそもこの時に隋と交渉していたのは、大和朝廷と関係のない国家であったという解釈もありうるのではないか。そう考えれば、先ほどの『隋書倭国伝』の記述も理解できるものとなる。

いろいろ調べていくと、この当時わが国が統一国家でなかったことの証拠になる記録が、別の中国の正史に明確に書かれていることがわかった。
そのことを書き出すとまた長くなるので、次回はその中国の正史の内容を紹介することから書き始めることとしたい。
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Comment
720年 日本紀 日本書紀ではない
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。
Re: 720年 日本紀 日本書紀ではない
情報ありがとうございます。
その本はまだ読んでいませんが、いずれ読みたいと思っています。
No title
古墳には地方によって独自色が有ります。例えば、畿内の古墳には埴輪や土偶が有りますが九州の古墳には石人や石馬が有ります。またこの地域では豪奢な副葬品を伴った装飾古墳が多数存在しています。ちなみに中国南朝の皇帝廟には石人・石馬が有るそうです。中国南朝に臣従していた倭の五王というのは九州の勢力でしょうね。やはり倭国というのは九州のことでしょう。古田説は伊達じゃない。ずっと前から疑問に思っていたことが有ります。あの大型古墳を多数建設しながら、朝鮮半島での継続的な外征を行うことは可能だったのかという問題です。戦国時代以前の兵士というのは兵農分離されておらず、兵力の八割~九割が農民兵であり、毎年必ず農繁期には農業生産を行わなければならなかったはずです。戦争も土木工事も農耕も人の手作業が当たり前で働く人手が割かれるのに賄いきれるほどの食料生産量を維持できるものではないはずです。戦争や土木工事に従事している人々は食料を生産できるわけではないです。さらに彼らの分まで食料を余分に生産できるほど生産効率が良かったとは思えない。それに、戦争が続けば国内は物資不足に陥ります。全てにおいてお金や労力をつぎ込むことは不可能だと思うんですよ。
Re: No title
中国南朝の皇帝廟の副葬品に石人・石馬があり、九州の古墳の副葬品にも石人・石馬があるということは知りませんでした。中国の勢力が日本に来ていたと考えるのが自然なところですね。
残念ながら後半の疑問に答える知識はありませんが、古代史に限らず歴史学者が作り上げた通説は、普通の人の素朴な疑問にも充分に答えられないレベルのもののようです。いずれ古代史も大きく書きかえられる時が来ると思います。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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